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2017. 05. 31  
今日はちょっと閑話休題で、昨日出会った印象深い言葉を紹介します。

古賀茂明さんの「日本中枢の狂謀」という本がまもなく出版されますが、その本の紹介の中で古賀さんがこんなことを言っていました。

「性善説でも性悪説でもなく、私は『性弱説』にのっとって物事を考えています。たいていの人は悪い人ではなくて良い人だし、ほとんどの場合、良いことをしているのです。でも、いざ自分の損得が関わってくるとなったら、『(悪いことだけど)やっちゃってもいいかな・・』となってしまう。つまり、弱いのです。」

これは、見事な人間理解だなとうならされました。弱さゆえに、悪へ流されていく。のみこまれていく。


古賀さんは、1万円札が落ちていた場合というたとえもしていました。

だれも見ていなかったら、自分のものにしてしまおうかと思ってしまう、私たちの弱さ。

だって、1万円はうれしいし、なにより、届けに行くのはめんどくさい。良いことって、正しいことって、だいたいいつもめんどくさいのですよね。

イエス様は、人の目を意識して善行をなす「弱さ」を、「偽善者」だと徹底的に批判されました。

だれも見ていなくても、神が見ておられる。または、見ていてくださる。

ここに、信仰が問われる思いがするのです。


あるいは古賀さんは、こんなガンジーの言葉を紹介していました。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」

世界によって、自分が変えられないようにするために・・。流されず、のみこまれないようにするために・・。

私が毎日聖書に向き合うことも、こうして配信することも、自分が変えられないようにするためかもしれません。そして、変えられないようにと願う方々を、サポートするためかもしれません。

ヘブライ書の御言葉を思い出していました。

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。(ヘブライ3:13,14)」


共に祈りましょう。

主よ、悪へと流されていく私たちの「弱さ」という罪深さを覚えます。どうか、強くあらせてください。イエス・キリストの強さにあずかることができますように。そして、互いに励まし合い、主の御心をねばりづよく追い求めていくことができますように。
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2017. 05. 30  
創世記を読み進めていきましょう。今日は11章1-9節。バベルの塔の記事です。

8,9節「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」


互いに理解しあえないという悲しみ・・。

たとえ同じ言葉を使っていても、バラバラな主義・主張がぶつかるばかりで、話が通じない。

この21世紀という時代は、そういう「分断」の悲しさを、ことのほか強く思わされます。

そういう争いと混乱は、このバベルの塔の出来事以前にはなかったのでしょうか。それ以前は、人間はひとつの言葉(=思想・精神)において一致を保っていたようです。古き善き時代に思えます。

しかし、「神などもはや必要ない」という自信と傲慢においてひとつになった人間の一致団結は、どれだけ高い塔を作ることができても、やがては必ず滅びにいたります。

高ぶった者同士は、互いに覇を競ってつぶしあいます。全体主義の愚かさということも思い出してください。


人間のあるべき一致は、神の御心における一致です。

おごり高ぶったバベルの人々とは対照的に、主イエスは、へりくだりの道を歩まれました。この主に従い、主にならうのです。

神の御前で真に砕かれ、悔い改めた者たちだけが、互いを尊敬することができます。

真の一致と平和は、そこからしか生まれません。


共に祈りましょう。

主よ、これほどまでに分断が深まってしまった時代を、どうか憐れんでください。私と、私の隣人とのあいだの分断を埋めてください。そのために、わたしたちに悔い改めを与えて下さい。なによりまず、私のおごり高ぶりを砕いてください。平和を作り出す者となることができますように。
2017. 05. 27  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介します。23回目です。

************
全能の神よ、あなたはあなたの愛と配慮とを、間断なく私たちに示しておやめになりません。

ですから、どうか私たちが、無頓着・冷淡になって、あなたの御教えに対して、かたくなに耳を閉ざす事のないようにしてください。

いつも私たちの安全を見守っていてくださるあなたに対し、私たちもまた、変わることのない信仰と従順とで、あなたにお応えできるようにしてください。

私たちがあなたの御言葉を慎んで受け取り、御言葉によって素直に支配されますように。

あなたが私たちの前に置いてくださった道をすなおにたどり、ついに私たちのまったき救いに達し、あなたが私たちの主キリストによって、私たちのために天にお備えくださいました祝福の嗣業を、受け取ることができるようにしてください。

アーメン。
2017. 05. 26  
昨日は予定どおり、N姉を訪問することができ、共に礼拝をささげることがゆるされました。

主イエスの慈愛に満ちた、静かな時間を過ごしました。手で触れることができるような、聖霊の臨在を覚え、一同深く満たされました。

これから、ご高齢によって外出が難しい方々が多くなる中で、このような機会も増えていくと思います。

話は全然違いますが、昨日、こんなエピソードを知って感動しました。

ヘンリー・ビーチャーという有名な説教者に対して、「すばらしい説教でした。準備にどれだけの時間がかかったのですか」と尋ねた人がいました。

ビーチャー先生は、「40年かかりました」と答えたそうです。彼がその時40歳だったからです。

つまり、生まれ落ちてから、今日までのすべてのことが、説教の準備となっているということです。

「真の説教は、生命に関するものです。その人の成長の度合いにしたがって説教もすぐれたものとなります」と、バウンズという人も言います。

襟を正される思いです。

パウロは、若いテモテに対して言いました。「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(Ⅰテモテ4:16)」

「自分自身」に気を配れ・・・、忘れてはならないことです。説教者自身、まず自らを救うことが必要なのです。

今日から明日の朝にかけての説教準備が豊かに祝福されますように、どうぞお祈りください。

新しくペトロの手紙第二の解き明かしがはじまります。次の日曜日の礼拝説教が、集う人々を「救う」ものとなりますように。

昨日味わったような、あの豊かな礼拝体験。神への畏れと親しさに満ちた、礼拝をささげる喜びが、わたしたちに与えられますように。

みなさんもまた、「自分自身と教え」とに気を配り、自分の魂のケアと、説教者の準備のためにお祈りください。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、また新しく、より深く、あなたのことを知らせてください。どうか、昨日よりもわずかでも、わたしを成長させてください。そうしてわたしに「救い」を与えて下さい。どれだけ時代がゆがんでいこうとも、人々の心が荒んでいこうとも、あなたのもとにある恵みと真理に、堅く立ち続けることができますように。
2017. 05. 25  
今日は、N姉がお住まいの施設を訪問し、小さな礼拝を行い、聖餐を味わう予定にしています。

聖餐は、「見える御言葉」とも言われます。

イエス様が教えて下さった、豊かな豊かな喜びの福音が、あの食事に象徴されています。

様々な角度から、聖餐の意味を語ることができますが、今日特に覚えたいのは、それは「永遠の神の国での祝宴の先取り」だということです。

少しふざけすぎの表現になるかもしれませんが、「お味見」であり、「前祝い」とも言えるかもしれません。

イエス様は、神の国が完成し、「あなたがたと共に新たに飲むその日」まで、二度とぶどう酒を口にしないと言われました(マタイ26:29)。

それは、希望の言葉でした。やがて共に飲もう、共に飲む時が来るのだという約束の言葉でした。

やがて救いのすべてが完成し、涙がことごとくぬぐわれる終わりの日に、私たちはキリストの祝宴に招かれます。

「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。(黙示録19:7)」


だから私たちは、いつでもこの希望のゆえに、落胆することはないのです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(Ⅱコリント4:16)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。主よ、今日も霊の目を開いてくださって、ほがらかに、強く雄々しく歩ませてください。
2017. 05. 24  
今、千葉地区の学生たちに、聖書と共に歩む習慣を身に着けてほしくて、ネットを通じて指導しています。

昨日から、コヘレトの言葉をいっしょに読んでいます。お当番の女の子が、とてもよい黙想をしてくれましたので、少し分ち合わせていただきます。
*********

「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。(コヘレト1:2)」

この箇所のインパクトは大きい。そして共感します。

「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。(1:8)」

ここで言われている「空しさ」って、すべては繰り返し巡る終わりのないもので、満たされることはない、ということみたい。

人間の空しさ。神様を知らなければ、生きる理由だってわからず、ただ満たされずにあがくしかない。

神様を知っていても、離れて、ひとりで空っぽの心が渇いていくことがある。

結構ネガティブな1章だけど、わたしはそういう風に言葉にしてくれていることで、読んで安心します。よくわからずに抱えているモヤモヤに名前が付く感じがして良いのかな?

とことん空しさを見ることで、顔が神様にあがっていく。そのことにも意味があると思いました。

*********
すなおで、とてもいいなあと思いました。

自分の抱えているモヤモヤに名前がついていく・・・、とことん空しさを見ることで、顔が神様にあがっていく・・。

本当にその通りだと思います。ため息も、嘆きも、反発も、苦しさも、全部ちゃんとその感情に向き合ってみて、言葉にしていくことが必要なのですね。

なぜなら、わたしたちにとって、言葉にするということが、祈りだからです。

わたしたちには、ひとりごとというのは無いのですね。自分自身の心に向き合い、それをつぶやいていくなら、それがそのまま神様とのおしゃべりになります。

言葉にするのですね。それが、いつでも祈りになる。


共に祈りましょう。

主よ、今日も一日、わたしたちにお付き合いください。あなたと語らいながら、自分の存在の意味を確かめながら、歩んでいきたいと願います。どうか今日、わたしが空しさにのみこまれてしまわないように、あなたがこの貧しい魂を守っていてください。
2017. 05. 23  
詩編119:130にこうあります。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」

御言葉が開かれる、その時のまぶしい喜びが、今日もみなさんに豊かにありますように。


先の日曜日の礼拝の後、女性会で説教の恵みの分かち合いがなされたと伺っています。主が祝福してくださったことと思います。

まぶしいほどの御言葉体験を与えられた方もいれば、「よくわからなかった・・」という方もいたでしょう。

ある方からは、説教においてまさに「御言葉が開かれた」と言うべき恵みの体験をしたと、感謝の報告をいただきましたが、そういう方ばかりでもないでしょう。

皆さんやさしいですから、悪い感想は牧師に言わないものですよね。

説教を真剣に聴き、その恵みを自分の言葉で語りなおそうとするならば、自分の中にいろんな感情が生じていることに気付きます。

あるいは、何も生じていないことに気付く方もいるでしょう。それは、まだ「わがこと」として、御言葉を受け取れていないということです。その気付きも大事なのです。

大切なのは、そのようにして、ちゃんと自分の言葉で語りなおしていく経験を重ねることです。

疑問や迷いも、戸惑いも反発も・・・、ちゃんと神に問い直すために、まず自分と向き合うのです。

しかも、ひとりでするのではなく、同じ主を信じる仲間とそれをするのですね。

なぜならわたしたちは、自分ひとりだけ神様に選ばれたわけではないからです。

そして、神の民、神の家族のまじわりというのは、「御言葉を共に受け取る」ということに尽きます。

信仰の先輩から、恵みの受け取り方を学ぶということもあると思います。

そういう真摯な営みをとおして、聖霊はわたしたちの魂に働きかけてくださって、だんだんと、受け取り上手にしていってくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが投げてくださるたくさんの恵みを、ぽろぽろと取りこぼしては、ちょっとしか喜べていない自分であるかもしれません。もっと豊かに、御言葉の恵みを味わわせてください。あなたと共に生きる喜びを味わわせてください。この困難な時代に、いつも喜んでいることができますように、主よ、御言葉を開いてくださって、まぶしいほどの光で照らしてください。




2017. 05. 20  
今日はよく晴れた朝で気持ちいいですね。週末の休息と、明日の礼拝への備えがよく与えられますように。

明日は、Ⅰペトロの連続講解説教の最後になります。

ぜひ、時間をとりわけて、最初から5章まで読んでみてください。難しければ、1,2章だけでもいいですから。

この手紙をみなさんと共に読みたいと思ったのは、2:9の御言葉を分かち合いたかったからでした。改めて、それを思い起こして、明日への備えとしましょう。

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」


共に祈りましょう。

主よ、あなたに選ばれたおひとりひとりが、今日も平安でありますように。この一週間の、すべての悲しみも、笑いも、あなたは私たちにすべてを備え、見守ってくださったことを感謝します。願わくは明日、あなたに選ばれた者たちが、一同に会して、あなたを礼拝し、永遠の喜びに満たされることができますように。
2017. 05. 19  
昨日の続きです。創世記10章の民族表を見ています。

ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤフェトの子孫が世界に広がり、古代オリエントの民族を形成していくことになります。

聖書において関心の中心となっているのは、セムの子孫です。ここから、神の民イスラエルが生まれてきます。

しかし、最初に書かれるのはヤフェトのグループからです。中心から話し始めるのではなく、一番遠いほうから話し始めるのです。


ヤフェトのグループは、2-5節に書かれています。

古代オリエント世界の東、北、西の周辺に位置するカスピ海、コーカサス、小アジア、ギリシャ、イタリアの各地に居住し、主として、現在インド・ヨーロッパ語族と呼ばれている人々です。

よく知られているところでは、ヤワンというのは、今でいうギリシア人の総称でした。


ハムのグループは、6-21節に書かれています。

ここには、古代世界でよく知られていた大きな国の名があります。

クシュとはエチオピアです。古代の強国です。そこから勇士ニムロドが生まれ、シンアルの地、すなわちメソポタミアにあって、いわゆるシュメール文明の祖となって、バベル(バビロン)やニネベといった巨大都市を建てていきます。

ハムのグループは、イスラエルから見て、総じて宿敵です。

その代表格は、古代の超大国エジプトです。やがてイスラエルの人々を奴隷として用いて苦しめることになります。

また、宿敵カナンやペリシテ人(14節)も、ハムの子孫として名を連ねています。

ペリシテ人というのは、世界史を学んだ方はごぞんじでしょうが、「海の民」と呼ばれた海洋民族の中の一派です。

彼らは、現在「パレスチナ人」と呼ばれている人々です。「パレスチナ」とは「ペリシテ人の土地=フィリスティア」がなまったもので、ローマ時代からずっとそのように呼ばれていたのです。


今日は、世界史の授業みたいで、難しいなあと感じられたかもしれません。でも、神様はこういうリアルな世界史を導いておられるのだということを、改めて覚えていただければうれしいです。

共に祈りましょう。

主よ、私たち日本人は、この民族表に記録されていないような辺境の者でしたが、そこから選び出され、あなたを知る者としていただいたことの不思議を覚えています。歴史を導かれるあなたが、私たちの小さな思いをこえて、あなたの平和を実現してくださいますように。
2017. 05. 18  
今日は創世記10章を読みましょう。今日はちょっとマニアックな、カタカナの人名ばかりの章ですね。

1節「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。洪水の後、彼らに息子が生まれた」と、始まっています。

箱舟から出たノアの息子は三人で、この三人の子孫が世界中に広がり、世界各地の民族や氏族を形成していくことになります。

これは、「生めよ、増えよ(創世記9:7)」という主の祝福に対する応答です。

「洪水の後、彼らに息子が生まれた」とあるのは、新しい時代が洪水後に始まったということを示しています。

「系図」とあるのは、「トーレドート」という言葉で、「系譜、歴史、物語」とも理解されます。

この10章も、確かに系図のような形をとっていますが、実際には、世界の諸民族の相関関係を説明した民族表になっています。

しかも民族表といっても、現代の地理学的・言語学的・民族学的分類に沿って記されているわけではありません。

そういう正確な資料を記録して保存しようとしたわけではないのです。神様は、そういうことを教えようとしてくださっているのではないのです。

この系図は、11:10からのセムの「系図」に続きます。そしてそのセムの系図から、神の民イスラエルの祖としてのアブラハムが登場するのです。

神様はそこにスポットライトを当てておられます。そのアブラハムの登場へと至るプレストーリーとしての、人類の悠久の歴史の流れを、大いなる神が憐れみをもって見守り、導かれたのです。それが、この10章が教えていることです。

せっかくなので、また明日、もうちょっとだけ細かく、「系図」を読み解いてみましょう。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、歴史の導き主よ、全人類を憐れみ、恵みの手をもって導かれるあなたの御前に、今おそれと信頼をもってぬかずき祈ります。主よ、あなたを知る者にも、まだ知らぬ者にも、全人類の上に、今日も最善の導きがありますように。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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