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2017. 06. 30  
昨日は東京基督教大学に出かけ、友人である大嶋裕香さんの「キリスト者の結婚」についての講義を、聴講させていただきました。

勝田台教会にも来てくださった、大嶋重徳先生のご夫人です。

いくつかの印象深い言葉をいただきました。

「愛する」とは、「好き」とは違って、沸き起こる感情ではない。覚悟をともなう意志である。

男性と女性は、違う言葉を話す外国人のようなもの。ぜんぜん違う。

でも、違うからこそ、互いが分かりあおうとし、互いに変えられていくことで、私たちは豊かになる。自分の幅が大きくなる。

クリスチャンのすばらしさは、私たちは変わっていくことができるという希望を持つことができること。

自分は変わっていくことができる。相手も変えられていくと信じることができる。それは、神様が与えて下さる変化。

もっともいけないのは、「あきらめ」と「開き直り」。

あきらめず、開き直らず、神様を信頼し、御心に自分を沿わせていこうとするなら、豊かな祝福の世界が広がる。そのために、まずはあなたから、小さな勇気とやさしさを差し出してみてください。


・・・これらの言葉は、結婚関係だけにとどまらない、信仰生活のすべてに関わる本質的なものですね。



神は「嘆きを踊りに」変えてくださる方です(詩編30:12)。

「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」してくださる方です。「わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない」と言ってくださる方です(イザヤ42:16)。


この主に信頼し、共に祈りましょう。

主よ、私たちによき変化をもたらしてくださる、あなたの大いなる御業をあがめます。どうぞあなたの栄光のために、わたしたちを作り変え、わたしたちの周りの世界に、愛と正義と祝福と喜びを広げてください。
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2017. 06. 29  
聖書の言葉遣いにおいては、「夜が明ける」というのはよいことです。神様の救いを表します。

でも、実際の私たちの経験においては、心がとてもつらい時というのは、朝がくるのが苦しいですね。

また今日も一日、生きて行かねばならない・・。心が重くて、体も重い・・。動けない・・。


旧約聖書のヨブ記には、そのような私たちの苦悩を代弁するような、ヨブの叫びが記されています。

こんな言葉もあります。「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください。わたしの一生は空しいのです。(ヨブ7:15,16)」

・・・私たちは、ヨブほど苦しんでもいないのに、同じように考えてしまう時があるかもしれません。

罪深いことですね。死を望むだなんて・・、神様の思いと反対に向かってしまう。

でも、十字架の主イエスは、そんな私たちを見つめていてくださって、共に苦しんでくださり、赦しを与えるために死んでくださいました。

動けない朝には、十字架の主を、近くに覚えます。


ヨブ記には、こんな御言葉もあります。

「今、光は見えないが、それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。

・・・神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。・・(ヨブ37:21,22)」

今、光は見えない。でも、光が消えたわけではありません。

今、神の恵みや祝福が見えない。でも、神が私を愛しておられないわけではないと、十字架の主が教えてくださいます。

十字架の悲しみが、復活の朝の光に吹き払われたように、私の雲が払われて、神の輝きに満たされる時がきます。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、あなたの愛で、今日の一日を支え励ましてください。今、光が見えずに苦悩する者を、支え励ましてください。
2017. 06. 28  
日曜日の説教の中で紹介した、「いま、この心を」という讃美歌の歌詞です。

「楽しく笑う真昼の花 寂しく笑う夜の花 心をのぞく夜のすきま その時見える心のすきま 

楽しく笑う真昼のぼく 寂しく笑う夜のぼく 本当のぼくどんな顔 人の知らないぼくの顔 

おそれ、虚ろ、悩み、不安 あなただけが知っている 

痛み、怒り、ねたみ、孤独 あなたが知っているぼくのすべて

ああ今、この心を静めて おだやかに

ああ今、この心をあなたに 向かわせて

ああ今、この心にその声 響かせて

愛が 今ぼくの心に 触れる時を ください」


自分の心を沿わせることができる歌として、高校生たちに愛されている讃美歌です。私にとっても同様です。

詩編130篇をもって、共に祈りましょう。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞きとってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。

見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かなあがないも主のもとに。主は、イスラエルを、すべての罪からあがなってくださる。」

・・・アーメン、主イエスよ、たすけてください。
2017. 06. 27  
日曜日に分ち合った御言葉が、頭を離れません。主よ、来てください。朝をもたらしてくださいと、繰り返し祈っています。祈らざるを得ない思いをしています。

イエス・キリストは、この世界に与えられた「輝く明けの明星」です(黙示録22:16)。

夜明けを告げる星です。どんな絶望の夜にも、神は夜明けをもたらしてくださる・・それが聖書の示す信仰です。

キリストがおられるから、夜は明ける。すでに、明けの明星はさやかに輝いている。

空を見上げてごらんなさい。すでに、夜明けははじまっている。朝は来る・・。

そして主イエスは、「然り、わたしはすぐに来る」と約束してくださいました(黙示録22:20)。

「わたしは来る」とは、終わりの時に、天から再び来てくださって、神の国の完成をもたらしてくださる、という約束です。

その時、永遠の朝がもたらされます。

「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。(黙示録22:5)」

その時には、もう悲しみの夜はすべてぬぐいさられ、永遠の朝がもたらされます。

私は、その時を待ち望みます。「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈ります。


共に祈りましょう。

主イエスの恵みが、すべての者と共にありますように。主よ、すべての悲しみをぬぐってください。心にきざす空しさを払ってください。苦悩する時代に朝をもたらしてください。

2017. 06. 24  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。26回目です。

********
全能の神さま。私どもはみな、獅子のただ中に投げ込まれるにふさわしいばかりでなく、あなたの被造者のうちに数えられる値打ちもないほどに、生まれながら全く堕落せるものでございます。

どうか、あなたの御手を伸ばし、あなたの奇すしき御力をあらわして、私どもを作り変えてください。

どうか、私たちが日毎に真の敬虔と義しきとにおいてますます進歩し、ついにすべての肉の腐敗をのぞかれますように。

あなたの御独り子が、私たちのために獲得してくださいました、あの栄光にあずかることを得しめられるまで、あなたの像を私たちのうちに更新してください。

アーメン。
2017. 06. 23  
創世記12章のアブラムの旅立ちの記事からいろいろ思い巡らしてきました。

改めて考えてみますと、彼は75歳なのですね。いわゆる後期高齢者なのですね。

すでにこの時のアブラムより年上になられた方も、勝田台教会にはたくさんいらっしゃいますね。

70歳の時はまだ全然元気だった。でも、75歳がやっぱり節目ですね、途端にくたびれてしまった・・、なんて教えていただいたこともあります。

そのようなご年齢で、新しい場所に旅立つというのは、どういうことなのでしょうね。

新しい家で暮らし始めるだけでも、難儀なことでしょう。

アブラムのような信仰をもって、いつまでも若々しく!!・・なんて、私にはとても言えません。

そして、実際にはアブラムも、そんなに意気揚々と出発したのだろうかな、と疑問に思います。

そんなことを考えていましたら、四国の山田教会の牧田吉和牧師が、今度の日曜日を最後に引退なさるとうかがいました。

引退なさって、その後は、さらに南にくだって、高知県の最果てである宿毛教会に移って、小さな小さな群れと共に歩まれます。

先生は、まだ75歳にはなっておられませんが、73歳くらいであったかと思います。

決して意気揚々という感じではありません。人間的な見通しなど何もないけど、主のなさることに委ねて忠実に奉仕するのみ、ということだそうです。


「アブラムは、主の言葉に従って旅立った(創世記12:4)」

ただ主の言葉に忠実に従う・・・、そういう信仰者を、神は決して悪いようにはなさらない。

75歳のアブラムからはじまった4000年の信仰者の歴史が、そのことをわたしたちに教えてくれています。


共に祈りましょう。

主よ、ただあなたに忠実に従うことができますように。子どもたちも、若い方も、75歳以上の方も、あなたに従う人生のすばらしさを味わい、祝福から祝福へと進んでいくことができますように。
2017. 06. 22  
創世記12章に記された、アブラムの旅立ちについて考えています。

おもしろいのは、この旅立ちは、目的地が示されないままのスタートだったということです。

新約聖書のヘブライ人への手紙12:8に、そのことが明確にされています。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。(ヘブライ12:8)」

行き先も知らずに出発するというのはどういうことでしょう。

行き先がないわけじゃないのです。あてのない、さすらいの旅を始めたわけじゃない。

行き先はある。約束の地がある。しかし、それがどこにあるのかは、自分には分からないのです。

それは、とても心もとないものです。何の計算も立たないのです。でも、主なる神がその目的地を知っていてくださいます。

そして、毎日、ふさわしい導きを与えて下さるのです。それを、ただ信じるから、旅を続けることができます。

信仰の生涯というものは、そういうものなのでしょう。

例えば、祈りということを考えました。

私は、祈りはかなえられるという証しをたくさん持っています。でも同時に、まだかなえられていない祈り、かなえられなかった祈りもたくさんあります。

その祈りに対するゴールがどこにあるのか、わたしには分かりません。

あるいは、自分でゴールだと思っていたところと、全然違うところがゴールであったと悟らされたこともしばしばです。

自分で定めた目的に向かってどれだけ努力しても、そこに届かない時もある。

でも、自分の思いを超えて御手が働かれ、考えてもいなかった場所へ導かれることもある。

そういう意味では、祈りとは計算が立つ行為ではありません。

しかし、主なる神が、必ずその祈りを聞いていてくださるということだけは、私たちには分かります。これは揺るぎない確信です。

だから、自分のすべてをひっさげて、彼にお任せして、毎日新しく旅立つ思いで祈るのです。


共に祈りましょう。

主よ、私の人生を導き、世界の歴史を導き、宇宙の運行を導かれる、大いなるあなたに信頼します。人生のゴールがどこにあるのか、永遠の御国がいつ訪れるのか、私たちには分かりませんが、あなたが今日示してくださる旅路を一歩一歩丁寧に歩みたいと願います。どうぞ約束の地へ導いてください。


2017. 06. 21  
創世記をいっしょに読んでいきましょう。12章のアブラムの召命の場面は、何回でも分かち合うことができそうです。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。(創世記12:1-2)」

これが、主なる神からアブラムに与えられた約束でした。

アブラムはこの約束を信じて、75歳にして旅立つわけですが、改めて考えるとこれはとんでもない冒険ですね。


私は留学経験はありませんが、経験者に聞きますと、それは生活体験としての意義がとても強いようですね。

まさに「生まれ故郷」を離れるという冒険を、地で味わうわけです。言葉は通じない。差別を受ける。お金はない。・・・そういう中で、神を全面的に信頼するということを、生活をとおして学んでいくそうです。

神様を信頼してなきゃ旅立てませんし、旅立ってみないと信頼関係は深まりません。

「生まれ故郷、父の家を離れる」とは、慣れ親しんだ自分の世界から、一歩踏み出してみることですね。

その一歩は、たったの一歩ではあっても、まるで崖に向かって踏み出すような困難な一歩に思えるかもしれない。

でも、皆さんそれぞれに、神様からのコーリングを受けて、「踏み出してごらん」と示される時があるのだと思います。

神様を信頼してなきゃ旅立てませんし、旅立ってみないと信頼関係は深まらないものなのでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、今日もそれぞれに必要な信仰の冒険をなさせてください。小さなわたしたちの世界を砕いてくださって、祝福から祝福へと進んでいくことができるように導いてください。





2017. 06. 20  
日々の御言葉を再開します。

今、勝田台教会の礼拝ではⅡペトロ書を連続講解しています。

先の日曜日には、「自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます」との、ペトロの決意を分かち合いました(1:15)

自分自身の死を間近に覚えながら、地上の命を最後の一滴までしぼりつくすようにして、ペトロは信者たちを励まそうとしました。

イエス・キリストを正しく「知る」ことができるように、と。

「知る」というのは、Ⅱペトロの鍵語です。

それは、正しい知識を持つことです。そうしてイエス様についての知識を得るほどに、イエス様との友情が深められます。深いお付き合いへと招かれます。

「知る」ということは、そのように人格的に「知り合う」ということを含みます。

そのようにして、イエス・キリストを正しく「知る」ことのすばらしさ!!

それを、ペトロは伝えたいのですね。なんとしても。

自分のことなど全部忘れてもかまわないから、わたしが世を去った後も、イエス様を「知る」喜びがいつまでもあなたがたにとどまるように。

そのために、わたしは努める。命が尽きるその時まで。イエス様を知ってほしい。もっと深く知ってほしい。そうでなきゃ、本当にもったいないから・・。

私も、ひとりの牧師として、同じ思いです。だから、この配信をはじめとして、できるかぎりのことをしようと思います。

みなさんも、ぜひもっと「知る」ことができるように努めてみてください。聖書を熟読し、教理を学び、イエス様についての正しい知識を持ってください。



共に祈りましょう。

主よ、あなたの愛の高さ、広さ、深さ、大きさを、まだ私たちはほとんど何も知りません。どうか、もっと知ることができますように。そして、信仰生活の喜びをもっともっと開いてください。自分で小さくストップをかけてしまう私たちを砕いてくださって、あなたと共に生きる喜びに満たしてください。
2017. 06. 12  
出張のため、今週は配信をお休みします。また20日火曜日から再開の予定にしています。ご了承ください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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