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2017. 07. 15  
明日はウェルカムチャーチデーですね。すでに5人ほどの方が新しく、また久々にいらっしゃると聞いています。

それぞれのご家族・ご友人にも、神と共に生きる喜びが伝わるといいですね。

今回、主が招いてくださる方もいれば、まだ機が熟していない方もいらっしゃいます。

皆さんの中にも、ご家族・ご友人の救いを願う気持ちの強い方もいれば、まだお招きする勇気の出ない人も、あるいは、私はそのようには願っていない、自分一人の信仰で十分という方もいらっしゃるかもしれません。

それぞれの様々な複雑な事情があるでしょう。招きたいのはやまやまだけど・・・という方が一番多いのだと思います。


私に分かるのは、家族がみんな信仰において一致できるのは、特別な祝福であって、本当にすばらしいことだということだけです。

そして、私たちがどうあれ、神は、わたしたちの周囲の人々の救いを望んでおられるということです。

Ⅰテモテ2:4-6の御言葉を聴いて、共に祈りましょう。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人のあがないとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。」



主よ、それぞれの家族・友人の救いを願うひとりひとりの祈りをかえりみてくださり、憐れんで下さり、それぞれにふさわしい導きがありますように。どうかウェルカムチャーチデーの機会が、あなたによって豊かに用いられますように。


2017. 07. 14  
ウェルカムチャーチデーでは、あまり細かく解説することをしませんが、イザヤ43:4の御言葉の背景を覚えておきましょう。

神の語りかけを無視し、背いたイスラエルの民に、バビロン捕囚という破滅が与えられました。

それは、悔い改めのための、愛のこらしめでした。

しかし今や、神は自らの大事な宝であるイスラエルの民を捨て置けず、そこから救い出そうとされます。

「イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(43:1)」


「贖う」それは、要するに「買い取る」ということです。

バビロンの手に渡ったイスラエルの民を、もう一度買い取って、ご自分の所有とされるのです。「あなたはわたしのもの!!」。

そのための代価として、エジプトや、クシュ、セバといった諸国の民を身代わりとすると言われてます(43:3)。

これは、バビロンを滅ぼすために遣わされるペルシアの王キュロスが、そのままの勢いでアフリカ大陸にまで攻め入って、エジプトなどを征服してしまうことを言ってます。


「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(43:2)」

この力強い言葉からは、出エジプトのときの海を渡った思い出や、カナンに入るときにヨルダン川を渡った記憶がよみがえります。

かつてそのように民を導かれた神が、今、再び「あなたの神、あなたの救い主(43:3)」として、助け導いてくださるのです。


今日も神は「恐れるな、わたしはあなたと共にいる(43:5)」という呼びかけていてくださいます。

主なる神とともに歩む神の民は、この神の約束に、いつも勇気づけられて歩んできた者たちです。

わたしたちも、そういう神の民として、共に祈りましょう。


かつて民をエジプトから導き出し、バビロンから助け出してくださいました、救い主なる神よ。今日もわたしたち一人一人と共にいてくださって、助け励ましてください。信仰の弱っている者のため、身体の弱っている者のため、力をふりしぼって職場に向かう者のため・・主よ、何度でも「恐れるな」と語ってください。その声を、わたしたちに「聞こえる」ようにしてください。



2017. 07. 13  
ウェルカムチャーチデーに分かち合う、イザヤ43:4の御言葉の背景には、神の民イスラエルの背きと破滅の悲劇がありました。

43:4を理解するために、ちょっと前の42:20を分ち合っておきましょう。

「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない。(イザヤ42:20)」

これが、神の民とされたイスラエルの人々の現状だと、示されています。

これは、実に悩ましいことなのです・・・。

「見えない」とか「聞こえない」と言われているのは、霊的な真理や神の啓示が「見えない」「聞こえない」ということです。

要するに、神が生きておられるということが見えない、信じられない、従えない、ということです。

悩ましいのは、「さっぱり何も見えない」のではないのです。

「多くのことが目に映って」いるにもかかわらず、見えないのです。いや、もっと言えば、見ようとしないのです。

「耳が開いている」にもかかわらず、聞こえない。聞きたくない。無視している、というのです。


・・・わたしも今、そうかもしれない・・・、と思った方も、いるかもしれません。

わたしたちが、この試み多い地上世界で、信仰と希望と愛をもって生き続けるというのは、神の恵みによる奇跡以外にはありえません。

いつの時代も信仰者たちは、「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに何も聞こえない」という悲しい状態に、やすやすと陥ってしまってきたのです。


しかし、神はそのわたしたちのことを、「わたしの目にあなたは高価で尊い」と、寸分変わらぬ愛で愛し続けてきてくださったというのが、聖書の教えなのです。


共に祈りましょう。

主よ、ウェルカムチャーチデーに、家族や友人をお招きしたいと願います。しかし、他の誰でもなく、まずこのわたしに、あなたの栄光を「見える」ようにしてください。あなたの語りかけを「聞こえる」ようにしてください。
2017. 07. 12  
昔、私が洗礼を受ける前、「神様を知っている人は、自分自身の大切さを、本当に知っているのだなあ・・」と思ったという話をしました。

もちろんそれまでにも、自分自身を大切にしてこなかったわけではありません。

むしろ、自己愛の強い方でした。ただそれは、自己中心(セルフィッシュネス)と言った方がよいような、ガラス細工のものでした。

自分はオンリーワンの特別な存在で、周囲から尊重されるべきだという、愚かなうぬぼれの強い若者だったと思います。

教会に通うようになって、私が覚えさせられたのは、そういうものとは違いました。

自分は取るに足らない者だけど、神に愛されている。神にとって大切な存在としていただいているのだという、揺るぎない確信でした。


イザヤ41:14にはこんな御言葉があります。

「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」

ここには、「虫けらのような」という衝撃的な言葉があります。

そうです、わたしたち罪人は、神の目に「虫けら」のように卑小なものに過ぎません。

しかし、そのわたしたちに、神は「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と言われます。

なぜなら、「高価で尊い(イザヤ43:4)」からです。

「虫けら」に過ぎないけれど、その「虫けら」に過ぎない者が、また同じ神の目に、高価で尊いとも評価されているのです。


共に祈りましょう。

主よ、ウェルカムチャーチデーにたくさんの人が招かれ、あなたのもとで、砕かれ、また高められ、本当に自分自身の大切さに目覚めることができますように。あなたと共に生きる喜びを知ることができますように。

2017. 07. 11  
今週は、7月16日のウェルカムチャーチデーに向けて、祈りを合わせていきましょう。

今年は、「あなたは高価で尊い」というテーマです。

イザヤ書43:4に由来します。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」

これが新改訳になると、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは、人をあなたの代わりにし・・」となるわけです。

この御言葉は、私自身が、洗礼を受ける前に伝道集会でいただいて、印象深く覚えている御言葉です。

「ああそうか、神様を知っている人というのは、自分自身の大切さということを、本当によく知っている人たちなのだな・・」と感じたことを、よく覚えています。


たくさんの方が、主のもとに招かれますように、共に祈りましょう。

主よ、暑い日が続きます。幼子からご高齢の方々まで、心身の健康が支えられて、今日の日を喜び生きることができますように。

あなたによって、心を込めて生み出され、今日まで本当にていねいに守り導かれてきたことを感謝します。

見えない神よ、わたしたちにはあなたは見えませんが、あなたはわたしたちを今日も見ていてくださいますから、ありがとうございます。

あなたを知る者だけでなく、まだあなたを知らない者をも、どうか主よ、あなたの恵みと祝福によって、支え励まし、自身の存在の尊さに気付かせてください。

命の価値が見積もられるような時代です。あなたのかたちに創造されたわたしたちが、互いの尊厳をおとしめあっている、この時代の罪をゆるしてください。

そして主よ、どうか私たちが本当にあなたを知り、自分を大切にし、互いに大切にしあうことができますように。

まだキリストを知らない方々にも、主の愛との出会いへとお招きください。
2017. 07. 08  
明日の主日礼拝は、千城台教会の市川康則先生が説教してくださいます。

神学校の校長先生でいらした方です。「信仰に向いている人・向いていない人?」という題で、求道の方に向けて語ってくださるようです。

*******
今日は、勝田台教会では、みんなでバスに乗って教会墓地に向かい、墓前礼拝をします。

これは、いわゆるお墓参りではありません。全然まったく違うものです。クリスチャンには、死者の供養は必要ありませんから、お墓参りということはしません。

お墓という場は、わたしたちにとって、復活の時まで身体を大切に保管しておく場、という以上の意味はないのです。

その意味では、どうしてもお墓の前で礼拝しなければいけない理由というのは、特にないのです。

では、なぜわざわざお墓の前で礼拝するのか・・。

①それは、墓という場が、私たちに「死」を覚えさせてくれる場だからです。人間は誰でも必ず死ぬのだという現実に、向き合うことに導かれる場です。

②でも、その死を超える希望があるのだということを、改めて確認する。その希望に生かしていただいた人々の生涯を、思い出しながら・・。

こういう意義があると、私は思っています。

今日は、改革派教会60周年記念宣言「終末の希望についての信仰の宣言」から、死とその意味を確認しましょう。

「・・・信者であるわたしたちは、体も魂も、生きている時も死ぬ時も、キリストのものであり、罪の刑罰としての死と呪いから解放されています。

キリストを死者の中から復活させた方は、わたしたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。

わたしたち信者にとって肉体の死は、罪と悲惨、この世の労苦と涙からの完全な解放、キリストのみもとに召してくださる神の愛のしるし、永遠の命のより豊かな祝福への入り口です。」


共に祈りましょう。

主よ、明日をも知れぬ私たちの人生ですが、いつも永遠の希望の光に照らされて、よく生き、よく死んでいくことができますように。あなたが与えて下さった、永遠の慰めに感謝をします。
2017. 07. 07  
聖書の言葉に、違和感を感じたり、抵抗を覚えたり・・・。それが私たちの罪の本質といえると、昨日お話しました。

かたくなな自我と言ってもいいと思います。

神様が、このように信じなさい、このように生きていきなさいと示されることに素直に従えず、抵抗する。そして自分に都合のよいように解釈していく。私などもそうでした。

教会に通い始めた頃、聖書の神様というのは色々と口うるさいものだと、私は感じていました。

神棚のある家で生まれ、小さい頃から宗教ということに親しんできましたが、うちの家の「神様」は楽でした。何もしゃべらないからです。

だから、悪いことをしていても、良心の呵責を覚えさせられることもない。

自分で願いごとがある時だけ、神棚の前にちょこんと座ってお祈りして、その他の時は特に用事はありませんからほったらかしです。

とにかく、何も語りかけてこないから楽なのです。でも聖書の神様は違います。とにかく口うるさいと思いました。

あれも罪、これも罪と言われます。人を殺すのは当然として、口でバカというのも、心でバカと思うのもダメ、永遠の滅びに価する。

自分自身の中にある闇を見つめなさい、歪んだ心を見つめなさいと言われます。

でもそれは・・・、神が私の存在に責任をもって、関わり続けてくださるからなのだと、今は分かります。

なんにも語って来ない神様は楽です。でも、そこにはなんの温度もありません。心が通い合うことがありません。無責任な関係です。

聖書の神はそうじゃない。私たちを創造し、最後まで見守ってくださる方。私はそのようにお前を愛する、愛し続けると約束してくださる方。

だから、私が汚れているのを、ほったらかしにはなさいません。たとえば、こんな風に・・・。

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。(エゼキエル18:31)」

聖書というのは、こういう神からの語りかけを記録した書物です。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちの一日に、聖書を読む時間を確保させてください。そして、理解できるようにしてください。必要な悔い改めをも導いてください。御言葉によって、生きる勇気を、慰めを与えて下さい。




2017. 07. 06  
先の日曜日には、Ⅱペトロ1:20-21にある、聖書の読み方にまつわる教えを聴きました。

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は決して人間の意志に基いて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

特に心にとまるのは、「自分勝手に解釈すべきではない」との教えです。

自分に都合のよいように読むのでなく、拾い読みではなく、神が伝えようとしておられることをそのままに受け取るようにと、教えられています。

しかしこれは、言うのは簡単ですが、実に難しいことですね。人間には不可能とも言える。

神さまの語りかけに、まったく抵抗感や違和感を感じることなく、聖書を読むことは不可能です。なぜなら、私たちは罪人だからです。

神さまの言葉に、「いや、そうおっしゃいますけど、実際は・・」と、いちゃもんをつけてしまう。

このかたくなさ。神の言葉を拒むかたくなさ・・。ここにこそ、罪ということの本質があります。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり・・わたしの思いは、あなたたちの思いを高く超えている」とも言われています(イザヤ55:8-9)。

神さまが聖書を通して私たちを導こうとしておられるところは、私たちの小さく狭い心で考えているところよりも、はるかに豊かで高いものです。

だからこそ、思います。わたしたちが本当に聖書をちゃんと読み、正しく解釈し、神の語りかけを素直に受け取ることができれば、どれほど豊かな祝福の世界が広がることだろうか・・。

まずは、祈ることから始めましょう。

主よ、聖書を読むことができるようにしてください。正しく理解させてください。私の小さくかたくなな心を砕いてください。そして、もっと深く、広く、高く、大きく、まだ私の知らない、御言葉の恵みの世界へと連れて行ってください。
2017. 07. 05  
この「日々の御言葉」で、創世記を順番に読み進めて行こうと考えていましたが、やはり予定変更します。ごめんなさい。

*********
最近、実にいろんな方々から、聖書が示している「忍耐」ということの希望が、心に深く響いているとのレスポンスをいただきます。

これは、田中剛二という先生の説教を研究することで、私の中ではっきりと確立されてきた信仰です。



聖書において「忍耐」というのは、つらいことも理不尽なことも、じっと我慢して耐えるということじゃありません。

そうではなく、どんな時も、希望を持ち続けるということです。

どんな時も神の約束に信頼し、希望を失わないで、待ち望むということです。

私たちは、すぐにがっかりしてしまう弱さを持っています。

神の御心に背き続けるこの世界の病の深さに苛立ちます。いつまでも成長のない自分にがっかりします。周囲にがっかりします。

でも、神を信頼するのです。最後は、神の義と愛が勝利すると。

恵みと祝福をもって追いかけてくださる神。すべてを備えてくださる神。私が弱っても、また立たせてくださる神。死から命を造り出される神。私や、私の愛する人を変えてくださる神。

神を信じて、希望を失わない。投げ出さない、見捨てない。あきらめない。それが「忍耐」です。


ヤコブの手紙5:7-8を読み、共に祈りましょう。

「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。

あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」


愛する主よ、あなたが近くにおられることを私たちは知っています。主よ、あなたの義と愛が勝利するその時を待ち望みます。主よ、今日もこの信仰を与えて下さってありがとうございます。
2017. 07. 04  
おはようございます。今日も暑い一日になりそうですね。特に、ご高齢の方々や子どもたちの健康のために祈るものです。

何人かの方々から声をかけていただきましたが、先週はとても心配をかけてしまっていたみたいで、申し訳ありませんでした。

先週の配信を読み返してみると、確かに暗い感じがしますね。

数か月に一度、自律神経がおかしくなって心身ともに低調になる時があります。そういう時でありました。

特別な何かがあったわけではないのですが、小さながっかりが積み重なったり、色んな課題や悲しみを背負って祈り続ける中で、疲れてしまうという時もあります。

まことに弱い牧師です。でも私は、その弱さを恥だとは思っていません。

元気を失っている時には、今苦悩している人たちと、より深く、祈りを重ねることができます。そして、十字架の主がそこにおられることが、よく分かります。


ローマ8章18節からの御言葉を思い出しています。

終わりの時の栄光が到来するその時まで、この被造世界全体は虚無に服し、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているのだと、パウロは言います。

わたしたちは、見えない希望を忍耐して待ち望む一方で、うめき続けるのです。待つときには、苦しいうめきが伴います。

でも、そのわたしたちと共に、キリストの“霊”なる聖霊が、「言葉に表せないうめき」をもって、苦悩してくださっているのだと教えられています。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8:26)」


共に祈りましょう。

命の与え主である聖霊よ、今日も我らのうめきを聞いてくださり、大いなるあなたの導きの中で、万事を益としてください。今、苦悩している者を、憐れんでください。疲れてしまって、憐れんでくださいとしか言えない者たちを、どうか憐れんでください。

信仰弱き我らに、希望を待ち望む力を与えて下さい。あなたの祈りのもとで、互いに祈り合うことができますように。やがて大いなる解放の時に、あなたの前で、みんなで笑い合う時を望み見ます。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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