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2017. 07. 29  
7月も最後の配信となりました。申し訳ありませんが、毎年同様、来週から一か月間配信をお休みさせていただきます。

2012年9月に配信を開始してから5年目のシーズンでしたが、病気の時も、時間のない時も、できるだけ休むことなく継続できました。

ただただ主の憐れみによります。また、牧師のために祈り、楽しみに待っていてくださる方々の声が励みでした。本当にありがとうございます。

夏のキャンプ三昧の日々に霊的な充電をし、また9月から日々の祈りを共にさせていただきたいと願います。主のご栄光のために、豊かに用いられれば幸いです。


土曜日は、カルヴァンの祈りを紹介しています。28回目です。

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ああ、全能の神さま、まったき賜物はことごとくあなたからまいります。

知恵と才能とにおいて、ある者はある者に抜きんでているとしても、一つとして彼自身のものというものはございません。

みんな、あなたの恵み深いみこころによって、よしとされる分だけを、人に分け与えてくださったのです。

ですから、あなたがどのような知恵を私たちにお与えなさいましても、どうか、それをあなたの御名の栄えのために用いることを得させてください。

また、あなたが私たちの管理におまかせなさいましたものを、あなた御自身のものであると、謙虚に認めることを得させてください。

節度の手綱をかけてくださり、余分なものを願わず、真の純粋な知識を腐敗させないようにしてください。

あなたが私たちを召し給うた、その単純さのうちに留まることを得させてください。

おわりに、これらの地上的なものに安らわず、私たちの心を真の知恵にむかって挙げることをさせてください。

あなたが真の神であり給うことを認め、あなたの義の従順にひたすらに励むことを得させてください。

私たちの主イエス・キリストにより、あなたの御名の栄光に、終世、専念し献身することを得させてください。

アーメン。
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2017. 07. 28  
「神のかたち」として特別な愛情をもって創造されたところに、人間の尊厳があると、昨日申しました。

しかし、残念ながら人間は、罪への堕落によって、その「神のかたち」を決定的にゆがめてしまっていることも、忘れてはいけません。

聖書の人間観は、近代以降の「人間万歳!!」という楽観的なものとは異なり、どこまでも「罪人」の暗さを見つめるのです。



「神のかたち」だけどゆがんでいる。同時に、ゆがんではいるけど「神のかたち」。これが人間の現在の状況です。

このような人間が、その本来の尊厳を思い出し、すこやかな姿に回復されていくためには、創造主のもとに帰ることが必要です。

例えばオルガンが、製作者自身に奏でられることで、見違えるような音色をあらわすように、私たちもまた自分を創造してくださった方のもとで、はじめて命が輝きだします。

だから神様の呼びかけはいつの時も、「どこにいるのか、帰って来なさい」なのです。



「主なる神はアダムを呼ばれた。どこにいるのか。(創世記3:9)」

堕落し、ゆがみ、神の前から隠れようとした「アダム=人間」に対する、神の呼びかけです。この根源的な呼びかけが、今もずっと響いています。

この神の呼びかけの声こそ、イエス・キリストです。

この神の探し求める足こそ、イエス・キリストです。

この神の差し伸べられた手こそ、イエス・キリストです。

ゆがんでしまって、汚れてしまって、父に会わす顔がなくて・・、でもそんな私たちの身代わりに、父の怒りを引き受けてくださって、創造主のもとに帰る道を開いてくださったのがイエス・キリストです。



共に祈りましょう。

主よ、私たちの本来の姿を思い出させてください。キリストの血を代価としていただいたほどの、高貴な私たちの魂を、その価にふさわしく整えてください。イエス様のように、義と愛と平和に生きる者にならせてください。
2017. 07. 27  
「神にわずかに劣るもの」として造られたという、人間創造の神秘について詩編8篇から学びました。

このことを、創世記1章の記事においては、「神にかたどって」創造されたと伝えます。

「神のかたち(似像)」としての人間という、人間理解がここにあります。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:26-27)」


神のかたち=イメージとは、身体的形象のことをいうのではなく、神と心を通わせあうことのできる霊的存在としてつくられたということです。

神に呼びかけられ、神を呼ぶ。神に祈り、神を礼拝し、神を愛し愛される・・・。

そんな風に神と向き合うことができるのは人間だけなのです。

我が家の長女が話ができるようになった時に、「話が通じるのがうれしい」と妻が言っていたことを思い出します。

母親にただ依存するだけだった赤ん坊が、自分の意志で母を呼び、喜びを伝え、求め、そして反抗をはじめる。

それは今思えば、大変な大変な毎日のはじまりでした。でも、それがうれしい・・。それが親の思いなのでしょう。

神様も、わたしたちに対してそのように思っていてくださるのではないでしょうか。

神様は、ご自分の意のままの赤ん坊として、人間をお造りにはなりませんでした。

背き、文句ばかり言い、御心がわからずに右往左往しているような者たちですが、でもそんな私たちと心をぶつけあうことを神は望まれたのです。

私たちはそんな風に神に向き合う「神の子」として、大いなる喜びの中で創造されました。

ここに人間の尊厳があるのです。


共に祈りましょう。

御心から外れてばかりのダメな子で、ごめんなさい。でも、そんなわたしたちの存在を喜んでいてくださる、あなたの慈しみに胸がつまります。父よ、あなたの御心に、わたしの心を沿わせていくことができますように。
2017. 07. 26  
日曜学校のお泊り会、神様の愛とたくさんの方の奉仕に支えられて、昨日無事に終わりました。

子どもたちは本当に仲が良く、帰りたくないと泣いていました。お祈りに感謝します。

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日曜日には、詩編8篇から「人間の尊厳」について教えられました。

「神にわずかに劣るものとして人を造り(詩編8:6)」というのがポイントでした。

私たちの知っている神は、全宇宙の創造者である大いなる方です。

その神から「わずかだけ低く」造られたということ。これはすごいことが言われています。

一方で、この「わずか」は、決定的な差であって、決して埋めることのできない「わずか」です。

人間は、塵からつくられ塵にかえるに過ぎない、はかない被造物に過ぎません。神とは決定的に異なります。

他方で、でもやはり「わずかだけ」というのは特別であって、他の動物にはない、人間だけにゆるされた神との近しさです。

この聖書が示すユニークな人間理解。

どこまでも、小さく、弱く、卑しく、貧しく、みじめで、むなしく、愚かな人間。

しかし、その人間存在をなお包みこむような神の慈しみ深い愛情によって、無限に高められる人間の尊厳。

神にわずかだけ劣るという、高貴さ、豊かさ、存在の力強さ。

この基本理解を、いつも押さえていたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる創造主よ、そのあなたが今日も御心にとめていてくださるだなんて、わたしたちはどれほど高貴な者なのでしょう・・。あなたに与えていただいた尊厳を、私たち自身が大切にすることができますように。
2017. 07. 25  
昨日から日曜学校のお泊り会で、楽しく過ごしています。

晩御飯の前に、詩編23篇をいっしょに読みました。

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」と歌われています(詩編23:6)。

今、「主の家」である教会の会堂に布団をしいて、主のふところに抱かれて眠るように、すやすやと子どもたちが眠っています。

ここが、彼らの帰ってくるところなのだと思います。

これから、どんな人生の旅路が彼らに用意されているのか分かりません。でも、どんな歩みになろうとも、主はいつも、必ず共にいてくださって、そして主の家をあたたかく整えて、帰ってくるのを迎えてくださいます。

先の日曜日、K姉の現住陪餐会員としての復帰をみんなで祝い、感謝したことを思い出します。

ずいぶんと長い間、礼拝生活から離れてしまっていた姉妹でした。

しかし、主の恵みと慈しみは彼女をどこまでも追いかけて、とらえて離さないで、また主の家に帰ってくる喜びを満たしてくださいました。

わたしは失われていた一匹の羊だったのです・・、主が探してくださった・・、彼女の感謝の証しは、わたしたちみんなの証しでもありますね。

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。」


共に祈りましょう。

恵み深いあなたのふところに抱かれて、わたしたちは安らぎます。主よ、今週もあなたと共に歩ませてください。幼き祈りの日々から、枯れて朽ちていく人生の最終局面まで、わたしたちの生涯のすべてを、主よ、あなたにおゆだねします。
2017. 07. 22  
久しぶりにカルヴァンの祈りを紹介します。27回目です。

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全能の神さま。私たちはいま多くの敵にとり囲まれ、悪魔は新しい罠で私たちを悩ましてやまず、そのために全世界が私たちに敵対しています。

ですから、どうか私たちに、悪魔自身でさえもがあなたの手綱によって拘束されているということを、いつも見抜いていることができる目をください。

願わくは、すべての不敬虔な者たちをあなたに従わせ、あなたが欲したもうところに、彼らをひきたてて行ってください。

私たちがあなたの御手のまもりのもとにあって、どんなに安全で確かであるかを、経験によって教えられますように、彼らの心情を支配なさってください。

そして、私たちの主キリストによって、私たちのために天に用意されているあの幸福な憩いに達するまで、あなたの御約束にしたがって、私たちの召命の道を進みいくことができますようにしてください。

アーメン。
2017. 07. 21  
日曜日に与えられた「あなたは高価で尊い」という御言葉と共に過ごしてきました。

日曜日の礼拝説教の後で、「自分はこういう言葉で子育てをしてこなかった・・」という反省を伝えて下さった方もいました。

そのような反応があることは想像してませんでしたが、神様は本当にそれぞれの方に、それぞれに語りかけられ、心を耕していかれるのですね。

神様から愛していただく喜びを知ることで、わたしたちは自分自身の大切さを知り、隣人の大切さを知ります。

そして、どのように愛すればいいのかということも、学ぶのですね。子どもへの向き合い方も、そうやって学ぶものなのだと思います。


考えてみれば、人類というのは常に神様に対して、反抗期のすね者なのですね。

しかしそのような者たちを、神は忍耐をもって待ち、捜し、そしてすべてを赦し、「あなたは高価で尊い」と、尊厳を回復させようとしてくださいます。

そのために、独り子キリストの尊い命を犠牲に差し出してくださったのです。

こういう神の愛を知ったからこそ、自分もまた同じように誰かを愛してみようと、愛は動き始めます。

しかし、そうして愛されたように愛してみようと思えば、その難しさもまたすぐに分かります。相手のあることですから、こちらのシナリオ通りにはいかないのです。

自分の内には愛が足りないと、がっかりもします。子どもたちに苛立ってばかりで、自分にがっかりしているお母さんもいらっしゃることでしょう。

でも、がっかりすればするほどに、主が与えて下さった愛の深さ・広さ・大きさ・高さに気付かされ、もう一度わたしも愛してみようと励まされる。そんなことの繰り返しなのだと思います。

Ⅰヨハネ4:10の御言葉を思い出さずにいられませんね。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」


共に祈りましょう。

主よ、愛するということはどういうことなのか、あなたから教えていただいたことを感謝いたします。わたしの内に、確かに愛された記憶があって、愛したいと願う思いが与えられたこと・・、この小さくて、でも奇跡でしかない変化をあなたが与えて下さったことに、心から感謝します。






2017. 07. 20  
神様は、ご自分が生み出されたひとつひとつの魂を、人間存在を、愛してやむことなく「あなたは高価で尊い」と伝えて下さいます。

このようなメッセージは、旧約の時代にはまだあまり明確ではありませんでした。

旧約の時代は、神様は、神の民イスラエルとあまりに近くにいてくださって、メッセージのほとんどは彼らとの狭い関係性の中で与えられました。

イザヤ書43:4の「あなたは高価で尊い」も、元来の文脈では、「イスラエルの民よ、あなたたちは私の宝物だ、尊いものだ」ということでした。

しかし、新約の、特にパウロ以降の時代に至って、神様が、地域限定ではなく、世界全体に対してメッセージを発しておられるということが明らかになってくるのです。


使徒言行録17:16からの、古代世界の文化の中心であったアテネにおけるパウロの伝道説教を読むとよく分かります。

「アテネの皆さん。あなたがたが、今までは知らないままに拝んできた神について、私がお知らせしましょう」とパウロは言います。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。・・・すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、この神だからです。(使徒17:24-25)」

「神はわたしたち一人一人から遠く離れていません。・・わたしたちは神の子孫なのです・・(同17:27-29)」


このように、まだ神を知らない「異邦人」に対して、あなたがたもまた、神によって生み出された神の子どもたちであり、それゆえに愛されていると、パウロは伝えました。

あなたたちも神の子である。だから、神のもとに回復される必要がある。あなたたちが悔い改めて帰ってくるのを、神は待っておられると伝えたのです。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる創造主よ、あなたの手によってこの日本に住む私たちひとりひとりも生み出され、見守られていることに、おそれつつ、感謝をいたします。どうか主よ、迷える罪深い私たち人類ですが、あなたの愛において憐れんでくださり、ふさわしく悔い改めに導いてください。

2017. 07. 19  
「魂」こそ人間存在の中核にあるもので、霊的な喜びを感じるところであると、昨日話しました。

この「霊的」ということの意味は、「神との関係における」と考えるといいかもしれない。

大いなる全能の創造者。わたしを生み出してくださった方。わたしのことを、わたし以上に知っておられる救い主。わたしの存在を、だれよりも大切にしてくださっている方・・。

その、三位一体の神様とつながっているところが、「魂」です。

そういえば、牧師という仕事は「魂の医者」とも呼ばれます。

身体の病、また心の病についてお医者さんがいるように、「魂の病」にも医者がいるのです。

本当の宗教は「魂」の問題を扱います。いわゆるご利益宗教の意識にとどまっていると、残念ながらそこに届かないですね。

物質面の幸い、あるいは、心の問題における解決を求めて、神に祈る。それ自体は良いことですが、それがすべてではないのです。

身体的癒しが与えられずとも、あるいは心の病が十分に癒えないままでも、「魂」が深く深く神様とむすびついているがゆえに、「いつも喜んでいる」ということが起こり得るのです。


「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。(詩編62:2-3)」


共に祈りましょう。

主よ、今日の日、わたしたち一人一人の魂をとらえてくださり、深く結びついていてください。あなたの平安の中で歩ませてください。特に、夏の暑さに体をむしばまれている者たちに、不安と心配で心を騒がせている者たちに、主よ、その絶望的状況の中でこそ、あなたとの真実の関係を始めさせてください。




2017. 07. 18  
日曜日の礼拝は、新しい方々の出席もあり祝福されました。

説教において、神様はわたしたちの生みの親として、わたしたちの存在そのもの、魂そのものを愛してくださるとお話しました。

「魂」とは何でしょう。

聖書において、例えば、このような祈りの言葉に用いられています。

詩編42:2-3「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」

神をあえぎ求める切なる祈りの生まれるところ、それが「魂」と言う事ができるでしょうか。


(以下は、古川第一郎先生の説教から学んだことです)

聖書によると、人間というものは「体」と「心」、それに「魂(あるいは霊とも)」の3つからできています。

「体」は物質的・身体的な喜びを感じるところで、「心」は精神的な喜びを感じるところです。

その「心」よりもさらに深いところ、人間の一番中核に、「魂」があるのです。

そして、この「魂」は、霊的な喜びを感じるところです。

その喜びを知る人は、幸いです。

たとえ、物質的な喜びが何もなくとも、さらには精神的にも苦痛を味わおうとも、霊的な喜びを知るゆえに、「いつも喜んでいる」ことができる人です。そういう人が、教会の歴史の中にたくさんいるのです。

続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、わが魂の創造者よ、わが存在を愛して愛し抜いてくださる、あなたの憐れみと恵みに満たされて、今日の日を喜び生きたいと願います。主よ、願います。わが魂を、喜びで満たしてください。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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