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2017. 09. 16  
今週は、「元に戻ってはならない」との主の言葉が、ずっと心に響いているような思いで一週間を過ごしてきました。

せっかく主イエスと深く知りあうことがゆるされたのに。

むなしい生活の日々から、生きる意味を知る喜びの日々に変えていただいたのに・・。

世の汚れに打ち負かされて、元に戻ってはいけないよ、わたしから離れないようにと、主が教えてくださいます。


みなさんのことも思って祈り続けてきました。特に、まだキリストを知らないご家族といっしょに暮らす方々のこと。職場において、この世の価値観を強いられて過ごす方々のことを思っておりました。

牧師というのは楽です。ずっとキリストのことを考えていればいい。考えていることがゆるされる。

私は牧師になりたいと考えた時、そう思いました。どうせキリストに従って生きるなら、そのほうが楽でいいと。今もそう思っています。

夏休みなどで、実家に帰り、キリスト者でない家族とともに数日過ごします。それだけで、様々なむずかしさを覚えます。無理解にいらだちますし、霊的な安定感を確保するのも難しい。そして、すぐに悪い習慣に流れてしまって、昔の自分に戻ってしまう・・。

本当に情けないかぎりです。だから、毎日毎週、そのような環境で過ごしておられる仲間たちのことを思うと、胸がつまります。


熊本にいた頃、近くの教会の老牧師がこんなことを言っておられました。「牧師も、信徒なみに信仰を持たなきゃダメですよ」と。

裏返せば、牧師よりも一般信徒の方々のほうが、はるかに豊かな信仰をもって、信仰の戦いを最前線で戦っているということです。

冗談交じりの一言でしたが、ずっと胸に残っています。


わたしたちの一週間をここまで守り導いてくださった主に感謝します。

今日、休暇が与えられている方には、心身両面において十分な休息が与えられますように。

今日も労働に従事する方、あるいは家族のために家事労働に従事するお一人お一人が、労働の喜びに満たされ、主のご栄光をあらわすことができますように。

それぞれの、今日一日に直面する信仰の戦いを、誘惑や試練との戦いを、主が支え励ましてくださいますように。

そして、願わくは、明日みんなで、主の慈しみのもとに集って、安息をいただくことができますように。

主を信じていてよかったと、心から喜ぶことができますように。賛美が、この体から沸き起こりますように。
2017. 09. 15  
昨日の配信で、「どんなに悪い行いを重ねても、キリストを信じれば救われる」とあったことに、ひっかかりを覚えた方がいらっしゃったようです。

少し大雑把すぎる書き方でしたね。でも「信仰義認」という教理を、極端に原理的につめていくと、そういうことになるのです。

例えば、悪行の限りを重ねた人が、死の直前に悔い改めてキリストにすがるなら、救われるでしょうか。

救われるのですね。人間的には納得いかないことですが、私たちは自分が人生において積み重ねてきたものによって受け入れていただくわけではありません。

絶対不合格なのにイエス様の名前でパスさせていただくのであり、無罪と宣言され、神の子どもとしてあたたかい家に迎え入れられるのです。



だからといって、悪いことをし続けても大丈夫ですよと、お伝えしたいわけではありません。

そうではなくて、「良い子でいなければ・・」という重圧でいつも苦しんでいる必要はないのですよと、お伝えしたいと思います。

神様は「良い子になりなさい!!」と言っておられるわけではありません。

そうではなく、「わたしの子どもであり続けなさい」と言っていてくださるのです。「わたしから離れるな」と。この違いは大切です。



先の日曜日に与えられた御言葉も、そういう理解のもとに読んでいただけば、また響きが変わってくると思います。

こういう御言葉でした。「わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。(Ⅱペトロ2:20)」

厳しい御言葉です。警告でもあります。しかし、神様が言っておられるのは「良い子でいなさい!!」ではありません。

「愛する子よ、わたしから離れないようにしていなさい」と、激しい逆風の中で、抱きしめていてくださるのです。



共に祈りましょう。

主よ、あなたに背く世にあって、義の道をつらぬくのは本当に難しいです。ダメな私をゆるしてください。でも、あなたの子どもとしていただいたから、私なりに精一杯、今日も戦ってこようと思います。主よ、わが父よ、私を離さずに守っていてください。
2017. 09. 14  
昨日から、聖書の教える「自由」ということについて考えています。

Ⅰコリント6:12の言葉が、よい方向に導いてくれるでしょう。

コリントの教会は、買娼などのみだらな行いもあれば、酒におぼれる者、強欲、泥棒、偶像礼拝・・などなど、問題だらけの教会だったようです。

大都会コリントの乱れきった空気に流されていたのです。そういう教会に対してパウロは教えます。

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(Ⅰコリント6:12)」


私たちは、よい行いを積み重ねることで救われるわけではありません。

どんなに悪い行いを重ねても、キリストを信じれば救われる。そういう意味で、もう掟には縛られていません。

これをしなくてはダメ、あれをしてはダメという発想で考えているわけではないのです。「すべてのことが許されている」が基本なのです。

でも、それに甘えて、罪に流されるに任せていては、いつのまにか罪深い思いに「支配」されてしまいます。

それはいけません。せっかくその「支配」から解き放っていただいたのに、また戻ってはいけません。


どれだけダメだと分かっていても、異性に対してみだらな感情を抱いてしまうこともあるでしょう。

金銭の欲はすべての悪の根だと示されても(Ⅰテモテ6:10)、やっぱりお金がほしい、ぜいたくな暮らしをしたいという求めも残ると思います。

大事なのは、そういう思いに「支配」されないことです。むしろ、その思いを「支配・コントロール」するのです。

そういう力を、イエス様は、聖霊によって与えて下さいます。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの心があなたの御心とぴったりと重なるようになるまで、私を完全に支配なさってください。あなたの愛と義で満たしてください。自らの罪と戦い、世の悪を悲しむことができますように。
2017. 09. 13  
先の日曜日の説教で、偽教師たちは「自由」ということを間違って教えていたと、申しました。

どうやら偽教師たちは、霊魂の救いだけが大事であって、それが確保されたのなら、あとはどのように生きてもかまわない。

いうなれば、本能のおもむくままに自由に生きればいいのだと、大雑把に言えばそういう教えだったようです。

でも、イエス様が教えて下さったのは、その「人間の本能」や「ありのままの心」というのが、罪によって腐りきっているということでした。


「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(創世記8:21)」

「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくる。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。(マルコ7:21-23)」


あまりに悲観的な人間観ですが、これが聖書が示している「罪人としての人間」の見方です。

その病んだ心の中からは、悪いものばかりが出て来て、自分自身を汚していく。

だから、ありのままの心でやりたい放題やっていいとは、とても言えません。それでは必ず、その人自身が汚れていくからです。


しかし、人間というのは本来そういうものではなかったのです。

本来は、特別なはからいをもって「神のかたち」に創造された、神の栄光をあらわす存在です。

イエス様は、そういう私たちの本来の姿を回復させてくださる方です。それが「救い」ということです。

そのために、罪に染まったこの病んだ心を、ゆるして、癒して、善い心につくりなおしていってくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはそんなに悪いものでしょうか。自分の心が病んでいることにさえ、なかなか気づけないものです。でもきっとそれが、罪に支配されているということなのでしょう。主よ、どうかこの病んだ心を、ゆるして、いやしてください。
2017. 09. 12  
勝田台教会の礼拝では、ペトロの手紙第2を少しずつ読み進めていますが、先週今週と「偽教師」の悪行に対する大変厳しい言葉が並んでいます。

「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。・・・・その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。(Ⅱペトロ2:13-14)」



聖書においては、やさしい言葉ばかりでなく、このようにして、心を突き刺すような激しい裁きの言葉も記されています。

覚えていただきたいのは、こういう言葉はいつも、「偽教師」などの、人を惑わす者に対するものであるということです。

神は、命の道を歩もうとする者たちを、必死で守ろうとされます。子犬を守ろうと牙を抜く母犬のように・・。

そうであればこそ、そこから迷い出させようとする誘惑者に対しては、容赦なく糾弾されるのです。

(ちなみに、サタンという語も、原意は「惑わす者、道を外れさせる者」でしたね。)



もちろんこのような偽教師への糾弾は、同時に、すべての信者に向けた警告です。誘惑に気をつけなさい、という。

そこまで言われないといい加減な気持ちで考えてしまう私たちの、目を覚まさせるための言葉です。

人はいつも、自分に都合のいいほうへと流れていってしまう弱さがあります。それも「人間の罪性」の一側面です。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。(Ⅱテモテ4:3)」

人は、こういう弱さを持っています。

だからこそ、教師=牧師である者は、「折が良くても悪くても」御言葉を正確に伝えなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです・・、と教えられています。

私は、そういう教師でありたい。皆さんにも、私がそういう教師であれるように祈っていただきたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、どうか坂井孝宏牧師が偽教師になってしまうことのないように、誘惑からお守りください。あなたの厳しい言葉をも、私たちに都合の悪い言葉をも、大胆に、しかし真の慰めをもって、励ましをもって取り次ぐことができますように。そして私たちが、そういう牧師の説教を、心から喜び聞くことができますように。わたしたちの耳を開いてください。

2017. 09. 09  
日々の御言葉を再開して一週間、なんとかペースが守られました。やはり、この営みは私たちにとって大切ですね。

土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。29回目です。

*********
全能の神よ、あなたは私たちが獣と異なるものとなることを欲してくださり、そのために私たちの心に知性の光を刻印してくださいました。

ですから神よ、この格別なご愛顧について、私たちがよく自覚し、それはさらに広げていくことができるように、学ばせてください。

また私たちに、あなたの主権を知らしめ、あがめさせる事物についての知識を、練磨することを得させてください。

なおまた、私たちが信仰によってあなたの御子の体に接がれることによって、ただあなたのみがあがめられますように。

そのために、あなたが私たちに与えて下さった常識と、御霊の啓明と、信仰の賜物とをよく区別して用いることができますように。

また、あなたがついに私たちに、光を十分に明示してくださるまで、その信仰をさらに進歩させ、また増大させてくださるように、懇願いたします。

その時私たちは、あなたに似る者となって、あなたのご栄光をまのあたりに拝し、また私たちの主キリストにあるご栄光を喜びます。

アーメン。
2017. 09. 08  
日曜日に与えられたⅡペトロ2:1-10の御言葉を改めて思い返しています。真理の道から迷い出させる偽教師たちに気をつけなさいとの警告でした。

この偽教師たちは「自分を贖ってくださった主を拒否しました(1節)」と言われていました。

「贖う」とは、「買い取る」ということで、キリスト教において大事な言葉です。

聖書の時代にあっては、こういう言葉が日常的に、奴隷の売買で用いられていました。戦争によって敗れた民族が奴隷となって、奴隷市場に並ぶのです。

そんな風に私たち人間は、奴隷の状態にあると聖書は教えます。「罪」という主人に縛られた奴隷であると。

この「罪」の家にいるあいだは、罪の家の習わしに従って生きる。しかし、そこから神によって買い取られ、神の家の奴隷となる。いや、神の家の子とされる。これが救いということです。

Ⅰペトロ1:18には「あなたがたは先祖伝来のむなしい生活から贖われた」ともあります。

罪の家の奴隷として生きるのは、「むなしい生活」です。

どこまで行っても満たされない、何かが足りない、さみしいと思いながら、どうしたらいいか分からないで、心の隙間を埋めるようにして目の前にある快楽に飛びついていく。

でもやればやるほど、ますますむなしさが募っていく。行き着くところは永遠の滅び・・。そういう生活です。

でも神は、私たちがそういう風に生きているのを御覧になって、いてもたってもいられずに、買い取ろうとしてくださったのです。

君はそんな風に生きていていい存在ではない。そんなに安い存在ではない。

私の家の子として、命に通じる真理の道を歩みなさい、と。

善き生活、それは魂が喜ぶ生活です。神の家には、そういう生活を送る文化がある。

あなたにはそういう生活をしてほしい・・そう願ってくださって、買い取ってくださる。これが「贖い」ということです。


共に祈りましょう。

主よ、イエス・キリストの尊い命と引き換えに、あなたによって買い取っていただいたこの魂・・。あなたによって与えていただいた私自身の値打ちを、私が、本当に私のものとすることができますように。聖化の導きを与えて下さい。
2017. 09. 07  
昨日から夜の祈り会も再開しました。十戒の最後の戒め「あなたは、むさぼってはならない」を分かち合いました。

「むさぼる」すなわち、「人のものを欲しがる、貪欲」。その心が、盗みや姦淫、嘘、争い・・、あらゆる悪の根っこにあると教えられました。

このような貪欲の恐ろしさに鈍感で、「むさぼる」ことに歯止めを持たないのが、今日の日本の価値観のようです。

会社社会の真っただ中で、葛藤しながら歩んでおられる兄弟から、現状をうかがうこともゆるされました。


私は、この「むさぼることなかれ」という戒めをものにできるかどうかは、神様への信頼にかかっていると思っています。

神様が、私に必要なすべてのものを、いつも必ず備えて下さる。この単純素朴な信頼こそが、要です。

この信頼をもてない時、「もっとほしい」「もっと強く、大きく、賢くなりたい」という心が、制御不能になって暴れ出します。

この信頼をもてない時、わたしたちは劣等感に苦しみ、人をねたみはじめます。

アダムとエバの堕落の時からずっと、人間のあやまちは、そういうところから始まっているのです。


二つの聖句を見ましょう。

旧約聖書の箴言28:25「貪欲な者はいさかいを引き起こす。主に依り頼む人は潤される。」

ここでも、「貪欲な者」の対義語として「主に依り頼む人」となってます。

「貪欲な者」の反対は「清貧な者」ではないのですね。神様に深く信頼する「主に依り頼む人」なのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙13:5「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神ご自身、『わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」

ここでも、「満足しなさい」という教えと、必ずあなたと共にいると約束してくださった神様への信頼がセットになっています。


共に祈りましょう。

すべてを与えてくださる愛なる主よ、今日私たちが、あなたから注がれる様々な恵みに目が開かれ、満たされた一日を過ごすことができますように。ねたみや劣等感から解放してください。向上を求める心を、上手にコントロールできるようにしてください。
2017. 09. 06  
今、説教の学びとしてウィリモンというアメリカの有名な神学者の本を読んでいます。

彼が言うには、アメリカにおける最近の流行の説教は、「幸福な人生を過ごすための知恵を与えるもの」です。

それが、人々の聞きたいことだからです。そういう教会には人が集まります。

しかし、そうしたアドバイスのほとんどは、キリストの教会じゃなくても与えられるものだと、彼は嘆いています。

どうしてそこに、わざわざ主イエスの名前を持ち出す必要があるのか・・。

聖書を読む限り、主イエスは、私たちがこの地上でハッピーに過ごせるかどうかには、ほとんど関心がないように思えるのだが・・と。


アメリカは、すでにキリスト教国という内実を備えてはいません。忠実にイエス・キリストに聞き従おうとする人は、ごく少数です。

しかしウィリモンという人はおもしろい。彼の説教は「他の人と違ったことをしよう。主イエスに従う、へんてこで特殊な存在になろう」というものです。

ほかの人と同じことをしていてもおもしろくない。主イエスに従おう。ほかの人のことなんかどうだっていいじゃないか。

だって主イエスは、「狭い道を行こう」と招いてくださったからです。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ7:13)」


私自身、ややひねくれた若者でしたが、キリスト者として歩もうと決めた時に、「この道こそ、一番の変わり者の道だろう」と考えていたことを思い出しました。


ともに祈りましょう。

主よ、あなたの御名があがめられますように。御国が来ますように。あなたの御心が、この地上になりますように。わたしたちの心が、あなたの御心に沿うものとなりますように。どうか私たちが、イエス・キリストという真理の道を、歩んでいくことができますように。
2017. 09. 05  
一か月ぶりに再開いたします。6年目のシーズンに入ります。

「日々の御言葉」というよりは、「日々の祈り」というほうがふさわしいかと、思うようになりました。

牧師として、御言葉に導かれつつ、主の栄光のために祈り、みなさんのためにとりなす。その営みを、文章にとどめているものです。

そのような牧師の祈りと、心を合わせていただけたら幸いです。



さて、そのような思いで今、みなで真剣に祈りたいのは、平和の祈りです。

北朝鮮を巡って軍事的緊張が高まっています。先のJアラートが鳴った際、わたしは茨城でキャンプ中で、学生たちとともに飛び起きて、一時避難を模索したものでした。

危機感をあおろうとしている政府の策謀ではないかとも言われます。

でもそんなことはどうでもよくて、大げさであろうとも、いや大げさなまでに、私たちキリスト者はいつでも真剣に、世の闇と人間の罪の深刻さを見つめ、そして、神の御心である「平和」を求めて祈るという義務があります。


主の祈りを思い出しています。

「だから、こう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも・・・。(マタイ6:9)」

主は、祈りに向かうときに、わたしたちの身近な必要からはじめないで、生ける神と、その要求に直面することから出発するように教えてくださいました。

神の愛と平和に満ちた神の国=神の御支配がすすむのを、必死になって邪魔するような人間の罪深さがあります。

ひとりの為政者の圧倒的な悪意があります。ゆるされるべきではないものです。また、その暴発がないようにと祈るものです。彼の存在が、たくさんの貧しい人々を苦しめていることにも怒りを覚えます。

同時に、これはひとりの人間の問題ではない。わたしたちすべての罪はつながっています。


「神の御名があがめられますように。御国がきますように。あなたの御心が、この地上になりますように。」

私たちが願い求めるのは、せいぜい自分たちの安全であり、世界の破滅からの救いでしょう。

しかしもっと深く、すべての人が、生ける神の前で悔い砕かれ、真に、神の御心がなるようにと・・。わたしたちではなく、神の御心がなるようにと求めることへと、主の祈りは導いてくれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、このような状況を生み出してしまったわたしたち人類の罪をゆるしてください。どうか、あわれんでください。今、それぞれの国の安全のために、為政者たちも必死に努力していることと思います。どうすればこの状況を打破できるのか、わたしたちは手詰まりです。主よ、あなたの御心がなりますように。

プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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