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2017. 09. 30  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介してきました。まだまだあるのですが、30回で一区切り。

最近、辻宣道という牧師の業績を学び、その著作のすばらしさに目を開かれました。

「その時の祈り」という小さな本があって、すばらしい祈りの手本が示されていますので、これからしばらく土曜日ごとに紹介させていただきます。

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「土曜の朝に」

天地のつくりぬしなる神さま
礼拝をもって始めた一週間を、お守りのうちに過ごさせてくださいましたことを感謝いたします。

志をたてては崩し、信仰に生きることを誓いながら、思わざる方向に歩んでしまったことを悔い改めます。

あなたの忍耐と寛容のゆえに、ここまでゆるされて歩んでくることができました。

お礼を申し上げます。

不信仰な日もありました。しかし、澄んだまなざしをもって、御言葉をくいいるように見つめた日もありました。

一週間の終わりの日に、時の過ぎゆくことがあまりに早いことに驚きます。

しかし、あなたは私たちに朝を与え、夕べを与えて下さいました。

恵みの中に一日目があり、二日目がありました。

いま、神さまがおつけになるけじめの中で、週の最後の日を迎えています。

一つ一つの経過を検討しながら、あすに備える日とさせてください。

そして希望に満たされて、あすの日曜を迎えることができますように。

キリストによって。
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2017. 09. 29  
昨日読んでいた文書に、こんな御言葉が紹介されていました。

旧約聖書コヘレトの言葉5:7「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら、身分の高い者が、身分の高い者をかばい、さらに身分の高い者が両者をかばうのだから。」

古代から今に至るまで、人の世は同じなのですね。

今、2017年9月29日、唐突な衆議院の解散がなされ、様々な思惑がうごめいている様子を、私たちは眺めさせられています。

国民無視の、ただ政治家たちの野心による茶番だと、批判もされているようです。

残念なことに、政治的な腐敗や危機的状況というのは、今に始まったことではありません。

だから「この国にあるのを見ても、驚くな」と、古の信仰の賢者が教えてくれます。

いちいち怒ったり、嘆いたりしても仕方ありません。そうではなく、私たちは信じることができます。

この世の為政者がどのように振る舞おうと、真の王であるイエス・キリストが、いつもその上におられると、信じることができます。

そして、やがてその平和の王が、この地に完全な支配をもたらしてくださって、おごる者を低め、砕かれた者を高めてくださると。

「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものにされる。(イザヤ40:23)」


それゆえ、キリストの教会は、目前の社会不安や不正・腐敗に対して“真剣”に取り組まねばならないが、“深刻”になる必要はないと、その文書には書かれていました。

私の個人的政治観からすれば、どっちに転んでもうまくないなあと思っている現状ですが、王の王なるキリストを希望として過ごしていきたいと思っています。


共に祈りましょう。

主よ、いつも変わることなく罪深い人の世が、滅びを望まぬあなたの忍耐によって愛され、支えられていることを覚えています。主よ、あなたの王国を来らせてください。私たちの心が、あなたの御心に沿うように、作り変えられていきますように。
2017. 09. 28  
先の日曜日の御言葉では、「神は忍耐して待っておられる」という教えが印象的でした。

「ある人たちは、(再臨の時・終わりの時の到来が)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(Ⅱペトロ3:9)」

主は、わたしたちの悔改めを待っておられる。それゆえに、最後の裁きの手をふるうのを、忍耐しておられる、というのです。

手紙の著者であるペトロは、わたしたちに対して「このことだけは忘れないでほしい」と強く訴えかけています(3:8)。

神様を知らない人々が、「このこと」を全く考えないで生きているとしても、あなたたちはそうであってはいけない。

神は、人類の滅びではなく、救いを望んでおられる。

わたしたちが、このままではいけないのだと気付いて、歩みの向きを変えるのを待っておられる。忍耐しておられる。

「このこと」を真剣に考える者として、この世界を見るのです。

社会を、時代を見つめるのです。そして、自分自身を見つめるのです。



そうすれば、祈りはおのずと変わります。

祈りが変われば、すべては変わります。



共に祈りましょう。

憐れみ深い主よ、あなたがどんな思いで私たちの愚かさを見つめておられるのか・・。あなたの忍耐をも無にするように、あなたへと向かおうとしない私たちの傲慢を赦してください。人類の愚かさを赦してください。そして、向きを変えさせてください。
2017. 09. 27  
昨日、友人の牧師夫妻と食事をして、祈りあい、励まし合うことがゆるされました。

その会話の中で、最近見た映画の話でも盛り上がりました。「三度目の殺人」という映画です。

この映画は、鑑賞後に深い余韻が残るすばらしい映画ですが、よく分からない・・と言われる映画かもしれません。

監督自身が、あえて「真実が分からない」ままに、ドキュメントを撮るようにして、私たちに提供してくれます。

受け取った方は、余白がいっぱいですから、そこからそれぞれの物語がはじまります。

4人で語らっても、みんな受け取り方が違うのがおもしろい。

私は、よい映画というのは、簡単には自分の中で消化できないような、「違和感」をたくさん与えてくれるものだと思っています。

自分の小さくせまい視野の中で、余裕で受け取ることのできるものもいいですが、たくさん見ても仕方ないです。

よい映画は、自分の中にはなかったものを見せてくれて、自分の人間理解や世界観を砕いて、また深め、あるいは高めてくれます。

だから、よく分からない時には、自分の分かる範囲でやすやすと理解しようとしないで、分からないままで心にとどめておくということも大切だと思っています。


今日は、余計な話をたくさんしました。なんでこんな話をしたかというと、神様の御言葉というのも、本質的にそういうところがあると思っているからです。

そんなにやすやすと分かるはずもないし、分かった気になるべきでもないのでしょう。

だって、神様の御言葉なのですから。

「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:9)」


共に祈りましょう。

私たちの思いではなく、主よ、私たちの思いではなく、あなたの思いがなりますように。大いなるあなたの御前に口をつぐんだヨブのように、私たちもおそれをもって、あなたの御心を尋ね求めます。どうぞ主よ、聖書と聖霊をもって、今日もわたしたちに、歩むべき道を示してください。







2017. 09. 26  
日曜日に分かち合ったⅡペトロ3:8に「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようです」との御言葉がありました。

これは、詩編90:4の御言葉に由来するものです。

詩編90篇は、モーセの祈りとして伝えられている唯一の詩編です。

永遠の神の、悠久の時間感覚を前にして「ため息のように尽きる」人間の生涯のはかなさが強調されています。

私訳でお届けします。

わが主よ、あなたは、逃れの家となってくださった。われらのために、代々にわたって。
山々が生まれるより前に、
地と世界が生み出されるより先に、
とこしえからとこしえまで、あなたこそ神。

あなたは人間を塵にまで帰して、「帰れ、人の子らよ」と言われます。
まことに、あなたの目には千年も、過ぎ去った昨日のひと日のよう。そして一夜のひと時のよう。
あなたは人を押し流し、彼らは眠りに落ちます。
朝には草のように、人は生え変わる。
朝には花を咲かせ、また生え変わる。
夕べにはしおれ、枯れていく。

・・・・・・
まことに、われらの日々はすべて、あなたの憤りによって傾きます。
われらは滅び果て、生涯はため息のように尽きるのです。
そのあいだ、われらの齢の日数は七十年、強きにある者でも八十年。
その誇れるところは、労苦と咎ばかり、
まことに、瞬く間に過ぎ行きて、われらは飛び立つのです。

・・・・・・
生涯の日を正しく数えることを、ですから教えてください。
知恵の心を、われらが得ることができるように。



地上の人生の残りの日々がいかばかりかを正しく数え、知恵深く生きることができる人は幸いです。

そして私たちが求めるべき知恵とは、「主を畏れること」にはじまるものです(箴言1:7)。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの目にまばたきのような私たちの短い生涯ですが、その日々が、あなたの慈しみの目に見守られ、永遠に覚えられているということに、今日も畏れを覚えます。今日与えられた生命を、よく用いることができますように。
2017. 09. 23  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。30回目になりました。

****************
全能の神さま、わたしたちはこの世の旅を続けております間、華やかでまた恐ろしい不敬虔な者の力に、やすやすと心惹きつけられて、判断を暗くされてしまいます。

ですから神様、どうか私たちが目を高く上げて、あなたが御子にどれほど偉大な力を与えておられるのかを、まず考えることができるようにしてください。

また、御子キリストが、その御霊の力によって私たちをまったく支配し、その真実によって私たちを守ってくださいますように。

そして全世界を従わせて、私たちの救いを助成するものとならせてください。

そのようにして私たちが、御子の御保護のもとに静かに安らい、ついに、あなたが約束してくださいました天の御国に備えられた勝利の果実を受け取るその時まで、御子が命じられたあの大胆さと忍耐深さをもって、戦うことを得させてください。

アーメン。
2017. 09. 22  
「もうすぐキリストが再び来てくださる」、このような期待は、まだキリストを知らない人々には馬鹿げたものに思えるでしょうか。

信仰告白をした方でも、・・・正直言って、よく分からない・・という方もいるかもしれません。

しかし、「世の終わりが近いかもしれない」という感覚は、多くの方が共有しているのではないでしょうか。

今は、未来に魅了されつつも、しかし深くおびえている時代でしょうか。

核の炎が燃え広がるイメージ。気象の異常。人心の荒廃・・・。もう、人類はこれ以上もたないのではないか・・。

みんながなんとなくそう考えている。

しかし・・・、そのような終末感覚と、来りつつある審判者を待つという感覚は、似ているようで全然違うものです。

イエス様が教えて下さったのは、そういうことじゃない。

そういうことだけ考えているうちは、人間は、真におそれるべきことを知らないままだし、同時に、真に希望であり慰めであることを見失ったままです。

本当の「終わりの時」は、わたしたちの想像力をはるかに超えて、主イエスによる完全な勝利の時として到来します。



見よ、主は火とともに来られる。
主の戦車はつむじ風のように来る。
怒りと共に憤りを、叱咤とともに火と炎を送られる。
主は必ず火をもって裁きに臨まれ
剣をもって、すべて肉なる者を裁かれる。(イザヤ66:15-16)



その時主イエスは、神の国を完成し、神の栄光を汚すすべてのものを焼き払われます。

それは私たちにとって、恐るべき裁きであると同時に、救いの時です。

主は、罪を焼き払われます。この世界をこわし、人間を腐らせていく、すべての罪を焼き払われます。

死を、悪を、病を、憎しみを、悲しみを、差別を、貪欲を、そして戦争を・・・、すべての敵を、怒りの炎をもって燃やし尽くされるのです。

真のおそれと、希望と慰めをもって、その時をひたすら待ち望む者は幸いです。


共に祈りましょう。

主よ、この時代を憐れんでください。私たちが、あなたをおそれ、大地を愛し、互いの尊厳を大切にしあうことができますように、聖霊の導きを与えて下さい。そしてどんな時も、主を待ち望んで、希望に生きることができますように。
2017. 09. 21  
先週からずっと、Ⅱペトロ3章の御言葉を思い巡らしながら、毎日を過ごしています。

Ⅱペトロ3章は、聖書の中でも、「終わりの時」についての独特な教えが与えられる大切な御言葉です。(くわしくは説教をお楽しみに!!)


「世の終わりの時が近い」ということを意識する。そうすると、生き方は自ずと変わります。

個人の終末ということを考えると分かりやすいですね。つまり、死ということです。

病気や災害、戦争などで、「自分は死ぬ」と意識しはじめた時から、時間の流れは変わります。

そのように、「この時間世界には終わりがくる」と意識する。ペトロやパウロたち、最初のキリスト者たちには明確にその意識がありました。


そう意識したら、生き方は自ずと変わらざるを得ません。問題は、どう変わるかです。

もうすぐ終わるのだからどうでもいいやと、やけくそになったように、生き方を乱していく人もいます。

あるいは、急に恐怖にとりつかれる人もいる。これまでは無視して済ませてきた「最後の審判」ということを、恐れはじめるからです。

キリストを信じる者は、そうではないはずです。



Ⅱテモテ4章には、パウロ先生からテモテに対する熱い語りかけがあります。

「・・世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(Ⅱテモテ4:6-8)」

パウロ先生のように堂々と、「わたしは戦い抜いた!!」と言い切れる人生は幸いですね。なかなかそうはいかないでしょう。

でも、「主が来られるのをひたすら待ち望む人」であれば、パウロのようにはなれずとも、「だれにでも」授けていただけると教えられています。

おもしろいのですが、「ひたすら待ち望む」とは「愛する」という言葉です。

再び来てくださる主イエスを、愛し、切望する。「わたしは来る」という主の約束を、自分の人生において大切にする・・。

そういう者に、義の栄冠は授けていただける。これは、福音です。



共に祈りましょう。

主よ、もしも今日あなたが終わりをもたらしたもうならば、その時にどうか、よく備えられた平安な心をもって主をお迎えすることができますように。終わりの時を過ごすにふさわしい信仰と生活を、私たちの内に形作ってください。





2017. 09. 20  
昨日は、長老とともにご高齢の方々を訪問し、主の慰めに満たされた時間を過ごすことがゆるされました。

詩編131篇を、行く先々でともに味わいました。

短い詩編です。信仰ということの、ひとつの極まったかたちを示してくれているような祈りの言葉です。

「主よ、わたしの心はおごっていません。わたしの目は高くを見ていません。大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。

イスラエルよ(神の民よ、主にある兄弟姉妹たちよ)、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。(詩編131:1-3)」


詩人は、自分の小ささを認めています。

あらゆることを知りたい、その手につかみたい・・・、神の奥義さえもすべてとらえたい・・・、そんな野心に満ちた傲慢は砕かれました。

それは、老いのゆえかもしれません。挫折のゆえかもしれません。病のゆえかもしれません。

わたしたちにはそれぞれに、傲慢を砕かれる時があります。それは、主が与えて下さる恵みの導きです。

砕かれて、砕かれて、はじめて見えてくる、神へのまったき信頼の世界があるはずです。

そこに至ることのゆるされる人は幸いです。

主イエスも言われました。「心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちの者である!!」

そうして、自分の小ささを素直に認めることへと導かれた人が、大きな神様の手にいだかれて、おだやかに安息を味わいます。

すべてをゆだねて、抱かれることしか知らない「幼子」のように・・・。



共に祈りましょう。

主よ、大いなる御腕をもって、この小さな者を守り導いてください。今、力を誇る者たちは、傲慢が砕かれて、幼子のような信頼を学ぶことができますように。今、自分の弱さを受け入れられぬ者たちもまた、その隠れた傲慢が砕かれて、幼子のようにあなたにお任せすることができますように。
2017. 09. 19  
先の日曜日、Ⅱペトロ3:1-7の御言葉を分かち合いました。そこには「火による裁き」という言葉があります。

この地上世界、時間空間に、神が終わりを来らせたまう時がきます。それは、今日かもしれない。

その時は、主イエス・キリストが「燃え盛る火の中」を来られて、「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになる」時でもあると、示されています(Ⅱテサロニケ1:8)。



こういう御言葉は、あまり好んで読みたくないものですし、キリスト教信仰に対するつまずきを与えてしまうかもしれません。

私自身、よく分からなかった頃は、非常に抵抗感や違和感を感じていて、「見なかったことにしておこう・・」というような気持ちで接していました。

でも、こういう言葉というのは元来、まだ神を知らない人たちに向けて告げられた裁きの宣告ではなくて、「あらゆる迫害と苦難の中で(Ⅱテサ1:4)」信仰の戦いを戦い続けている信仰者に向けて与えられた、励ましの言葉です。

そうやって誠実にあゆもうと努めるキリスト者たちに、「主が必ず勝利される」と告げているのです。

必ず、悪しき者を裁かれる。あなたがたを苦しめる、すべての罪の勢力が火で滅ぼされる。

そういう勝利の約束です。だから、「火による裁き」の預言は、福音なのです。



聖書の言葉はいつもそのようにして、キリストと共に歩んで、神の国の実現のために働くすべての者たちを、励まし、導くために与えられています。

やがて、終わりの時が本当に到来した時、わたしたちにはすべてが明らかにされ、「ああ、主と共に歩んできてよかった・・」と永遠の喜びに包まれるでしょう。

「かの日、主が来られるとき、主はご自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。(Ⅱテサ1:10)」



共に祈りましょう。

主よ、すべてのものに始まりを与え、終わりを与えられるあなたの大いなる御名を賛美します。あなたが約束してくださった、主イエスの最終的な勝利の福音によって、今日、それぞれの信仰の戦いに向かう私たちひとりひとりを励ましてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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