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2017. 10. 13  
「主の祈り」の学び、今日は「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。

この祈りを理解するためには、「御心」ということを理解する必要がありますね。

「御心」とは「神様の意志、決意、願い、思い、ご計画・・・」。本当に広い意味をもっています。神様のお心の中にあることのすべてです。

クリスチャンの方は「御心ならば、この願いを叶えてください」とか、「私のこの願いが、あなたの御心にかないますように」なんて祈ります。

この祈りのポイントは、「私の願い」ではなく「神様の願い」が実現しますように、という慎み深さです。



近代は神を失ったと言われるがそうではない、「自分」を絶対化、神化しただけなのだと、よく言われるところです。

しかし、「主の祈り」に教えられるのは、それとは正反対のありかたです。

常に優先されるべきは、「私の心」ではなく「神様の御心」なのです。



そういえば、昨日の朝日新聞の「折々のことば」に「imitatio Christi(イミタチオ・クリスティ)」という言葉が紹介されていましたね。

これはラテン語で、「キリストに倣う(ならう)」ということです。

私たちは、キリストにならって生活するものです。「イエス様なら、こんな時どうなさるだろうか・・・」との黙想こそが、私たちの生活の基本です。

そして何より思い出されるべきは、イエス様こそが、「自分の心」ではなく「神様の御心」にぴったり忠実に歩まれた方であったということです。



十字架にかけられる前の夜の、あのゲツセマネの祈りに示された祈りの方向性こそが、イエス様が教えて下さった「主の祈り」のこころです。

「父よ、できることなら、この杯(※十字架の苦しみのこと)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに・・・。(マタイ26:39)」



共に祈りましょう。

主よ、私たちの貧しく小さな思いを超えて、すべてを知り、すべてを備えて下さるあなたの大いなる全能の御手にすべてをおゆだねします。あなたのもとに、私たちすべてのものの、今日の幸いがあります。主よ、あなたの御心がなりますように。
2017. 10. 12  
「御国を来らせたまえ」とは、「神の王国を完成させてください」という祈りです。

それは、「わたしたちの周囲に、Kingdom Change を起こしてくださって、神の国の建設を前進させてください」という祈りでもあります。

そのために、私自身を用いて下さい、という祈りでもあります。

そういう意味では、この祈りが成就される時には、まず最初に私たち自身にChangeが与えられることでしょう。

神の愛と義と平和に生きる、新しい人間が、私たちのうちに始まるのです。これは偉大な Kingdom Change です。


そして、そういう私たちの存在が用いられ、私たちの周囲が変えられていきます。家族が、友人たちが変えられていきます。

さらには、地域社会が、学校が、会社が、変えられていきます。

Kingdom Change ということを考える時には、私たちの周囲半径5メートル以内の幸せだけを考えるような、狭い了見ではいきません。

神の王国は、宇宙のすべてに至るのです。だから、日本や世界の政治のことも当然考えないといけないし、貧困、差別、戦災等で苦しんでいるすべての人々のことが視野に入ってきます。

その悲しみの場所に、神の国が建設され、神の愛と義と平和と祝福が広がっていきますように、と祈るのです。


この祈りは、神に聴かれています。

そして大いなる神の手の中で、私たちの思いを超えて、すべてのことが相働いて益とされながら神の国は建設され、やがて必ず完成がもたらされます。

その完成へと至る工程の中で、無力に思えるような私の祈りと行動も、用いられていくのです。



共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの世界に、Kingdom Changeを与えて下さい。そのために、私にできること、また、なすべきことをなさせてください。今、私たちの国では衆議院選挙も近づいていますが、神の国が前進するために、最善の判断を導いて下さい。
2017. 10. 11  
「御国を来たらせたまえ」とは、「神様の王国を完成させてください」という祈りです。

やがて世の終わりの時、キリストが再び来てくださって、「義の宿る新しい天と地(Ⅱペトロ3:13)」がもたらされるときに、この祈りは成就します。

そこに、私たちの最終的な究極の希望があります。

でも私たちは、ただ終わりの時の完成を待ち望んで、ぼーっと待ってるわけではありません。

「神様の王国」は、現在に生きる私たちひとりひとりの働きを用いて、主が建設していってくださるものです。

私が馴染んでいる指導者訓練会では、「Kingdom Change(神の国のための変化目標)」ということを考えます。

Kingdomの建設のために、今日からの日々の中で、私の生活にどんなChangeが必要とされているだろうか・・・、と考えるのです。

そして、そういうKingdom Changeを考える時には、自分の仕事、人間関係など、とても具体的な日常的な範囲で、神の愛と義と平和と祝福が広がるようにと祈り、そのために私にできることはなにかと考えます。

また同時に、Kingdom Changeということを考える時には、もっと広い視野で、社会や政治のことも考える必要があるのですが・・・長くなるので、それはまた明日にしましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの王国を広げてください。そのために私たちを用いてください。まず私たちの体と心と魂を、あなたの愛と義と平和と祝福に満たしてください。そして私たちの周りの人々にもあふれ出していきますように。
2017. 10. 10  
主の祈りの解説、今日は「御国を来らせたまえ」です。

これは、「神様の王国の完成を、早くもたらしてください」という祈りです。

私たちが住んでいる千葉県には東京ディズニーランドがあって、「夢と希望の王国」なんて言っちゃってますね。

それはもちろん、つくりものに過ぎませんが、私たちの内にはだれも「夢と希望の王国」への永遠の憧れがあるはずです。

なぜなら、アダムとエバが堕落する以前の、「エデンの園」での満たされた日々の原記憶が、どんな人間にも残っているからです。

創造主の慈しみのもとで、傷つけあうことも殺し合うこともなく、与えられた働きを喜び、すなおに愛し合うことができた、そういう日々です。

そして人間は、「エデンの園」をよく耕し、発展させて、愛と平和と希望に満ちた「神の王国」を完成させることに努めるはずでした。

今は、人は堕落によって罪人となり、楽園を追われ、神のもとでの平安を失ってしまいました。

イエス・キリストの救いとは、そのわたしたち罪人を再び創造主の慈しみのもとに連れ戻し、今度こそ「神の王国」を実現しようとするものです。


また、明日、違う角度からお伝えします。

ついでに、「神の国」とはどういうことか、それが完成するとはどういうことかについて、坂井牧師の理解がよくまとまっている説教がありました。2013年4月14日の「御国が来ますように」という説教です。こちらのサイトに原稿をすべて読めるようにしておきましたので、参考になさってください。

http://kttdchurch.blog.fc2.com/blog-entry-1026.html



共に祈りましょう。

主よ、あなたの愛と平和と正義に満ちた、神の王国が早く完成しますようにと願います。悲しみと憎しみと不条理に満ちた世界から、涙をことごとくぬぐってください。そして、王国の発展と完成のために、わたしたちの働きを用いて下さい。
2017. 10. 10  
イエス様が教えて下さった祈りのお手本としての「主の祈り」を1節ずつ読み進めています。今日は「御国が来ますように」。御国が来るとはどういうことかということが、今日の説教のポイントになるわけです。御国、違う言葉で言えば、天の国、神の国と言われます。
 これは、日本語で一般的に言われるところの天国というものとは違います。日本では、仏教で言う極楽浄土という考えになんとなく影響されて、だれもがなんとなく天国というものをイメージしています。だれかが死んだら、だれだれは天国に行ったんだ、天国から見守っていてくれるよ、などと言います。クリスチャンであっても、それに近い感覚を持っておられる方がいますが、少し注意が必要です。聖書が示している天の国というのは、そういう死後の世界というものではなく、この世の終わりに際して訪れる新天新地です。神がすべてにおいてすべてとなる、愛と平和と安息に満ちた世界の到来です。私たちはその時が来たら、復活します。キリストの復活の体と同じような栄光の体へとよみがえらせていただいて、その天の国の住人として永遠の喜びの中で生きるのです。それが私たちに与えられている天の国の希望です。

  もちろん死んだ後の慰めということも教えられています。クリスチャンにとって死ぬというのは、卒業式のようなもので、地上の試練多い旅路の終わりでありまして、死後ただちにその魂はイエス様のもとで安らぐことができる。でもそれで終わりじゃないのですね、それはあくまで途中経過です。私たちにとっての最終的な希望と慰めの完成は、終わりの時に神がもたらしてくださる天の国の到来です。先に死んだ者たちも、天の教会で私たちと共に礼拝しながら、その時の到来を待ち望んでいるのです。そして終わりの時の復活に備えているのです。
  ですから私たちにとって天の国の希望というのは、単に死後の世界のふわふわした慰めというのではなくて、神がこの世界に完全な希望と慰めを満たしてくださる終わりの時の新天新地到来の希望です。こういう慰めを豊かに覚えるために、改革派教会の60周年記念宣言として出された「終末の希望についての信仰の宣言」をぜひ読んでほしい。きっと皆さんは読んでくださることと思います。読んでくださると期待して、今日は少しくだいた話をしますが、皆さんはそういう新天新地を具体的にイメージしたことがあるでしょうか。黙示録などを読んでいてもあまりに幻想的で、なにかふわふわと夢物語のように感じられて具体的なイメージがもてないという方が多いのではなかろうか。

 例えば、今、新天新地が到来し、天の国が完成したとしたらどうなるのでしょうか。この教会はどうなるのでしょうか。皆さんの家はどうなるのか。学校は、会社は・・。そんなことを、神学生時代にみんなで話しておりました。私はその当時まだ入学したばかりの1年生で、新天新地の具体的なイメージなどと考えたこともない。でも一人の先輩がこういう風に言っていたのが印象的なのです。「ぼくは、もしかすると、外面的には何も変わらないのじゃないかと思う・・。」例えばですね、まだこの教会は新しいですが、古くて壊れそうな会堂があるとします。そういう会堂が天の国が到来したからといって、ぴかっと新しいデザインの建物に変わるわけではないのではないか。そうではなく、外面的には古ぼけたまま、その会堂の刻んできた歴史がそのまま大切に保存されたまま、でも内からは、これまでに考えたこともなかった輝きを放ち始めるのではないか。それはどのようにしてそうなるのかは分からないけど、聖書が示す新天新地の希望というのはそういうものではないか・・。そんな風に、彼がその時点で持っている神学的確信を語ってくださったのです。
  この考えを応用しますと、例えばこの坂井孝宏という一人のクリスチャンも、外面的には何も変化がないのかもしれません。私は自分の顔や体があまり好きではありませんが、これもそのまま。だってそれは神様が私にあたえてくださった大切な顔や体ですから、本来何一つ悪いものではないはずです。それを嫌だと思うのは、私の罪がそう思わせているのです。あるいは人間世界全体の罪から生まれた悪いモノサシではかるから、私はだれだれに比べて鼻が低いとか、頭が悪いとか、そんなことが異常に気になってしまう。でも、それは全部、私を創ってくださった神様が、私に与えてくださったオリジナルな特別な賜物であるはずです。だから、新天新地が到来しても外面的には何も変わらないかもしれません。もしかすると、ご年配の方々であれば、そのお年を召された姿のままかもしれない。だって、皆さんが刻んでこられた歴史は、神様が皆さんに与えてくださった大切な宝だから。老いるということは本来何も悪いことではないはず。だから、年齢を重ねたそのお体はそのままかもしれない。

  変わるのは、中身です。その神から与えられた賜物のすべてが、本来与えられていたはずの輝きを取り戻して、キラキラと輝きだすのです。罪の支配から完全に解き放たれるからです。この疲れた体に、想像もしたことがないような命の輝きが宿るのです。そして、私の罪の心が作りかえられます。劣等感にしばられた心が解き放たれます。神を愛せない自分、隣人を愛せない自分、自分を愛せない自分が完全に変えられます。だからもう、自分を嫌いになるなどということはありえません。この美しくない自分の顔が、体が、この存在のすべてが愛しくて仕方なくなる。私に与えられた出会いのすべてが愛しくて仕方なくなる。神が創ってくださったこの世界が愛しくて仕方なくなる。それが、罪のない世界です。

  今、私がお話していることは、聖書にはっきりこうだと示されていることではありません。もちろん聖書に基いて考えていることですが、神学的イマジネーションに満ちているものです。ただ、はっきりと聖書に書かれていることがあります。それは、終わりの時に新天新地が到来する時には、地上にのさばるサタンの支配が完全に打ち破られて、私たちは完全に罪から自由にされた命を生きるようになるということです。

  皆さんも経験があることと思います。日曜日の礼拝などで受け取った御言葉の慰めが、本当に体のすみずみにしみてきて、霊的な力がみなぎってくる。これまでと同じ景色なのに、すべてが新しくキラキラして見える。そして、今まで心を支配していたイライラした思い、オロオロした不安がどこかに行ってしまって、その日出会ったすべての人が愛しくて仕方ない、イエス様のように愛そうと、すごく自然に思える・・・。でも、そんなキラキラした時間が、一週間ももたずに元に戻ってしまう。まるで魔法が解けたみたいに。昨日はかっこよく思えたご主人の顔も、嫌で仕方ない。この仕事が与えられているのは感謝だなとしみじみ思えたのに、しんどい、こんな毎日つらくて仕方ない・・。年老いて病み衰えていく自分のことが、惨めで仕方なく思えてくる・・。残念ながら私たちは、この古い世界に生きるあいだ、そんなことを繰り返すのです。それは、私たちが依然として罪に縛られているからです。サタンの攻撃にさらされているからです。
  でも、終わりの時に、神が新しい天と地をもたらしてくださるその時には、罪のない世界が始まるのです。あのキラキラした日々が、まるで天の国の喜びを垣間見たような、神の愛に満たされたあの日々が永遠に続くのです。それは私だけではありません。私たちみんながそのようにされるのです。この世界のすべてが、そのように輝きだすのです。そこではもう、互いに傷つけあう必要もありません、奪い合い、貶めあう必要もありません。すべての人が、神の愛に心満たされているからです。争いもない、貧困もない、病もない、死の恐怖もない、すべての涙がぬぐわれて、みなで心を一つにしてイエス・キリストの父なる神を賛美して生きるのです。そんな新しい天と地を、神は必ずもたらしてくださる。イエスを信じる者は、栄光の体へとよみがえって、そういう世界の一員として招き入れられて、永遠の喜びと安息に生きることになるのです。それが、私たちに与えられている、天の国の希望です。
  
  皆さんには、どうかこのようにして、天の国の希望を、できるだけ具体的にイメージしてほしいのです。それが、今の私たちを支えるからです。今お話ししたような「天の国」の希望、また「永遠の命」の希望、それはキリストを信じる者に与えられると約束されていることです。私たちが最後どういうものになるとされているか、この世界がどういうものになるとされているか。それは約束であって、まだ実現しておりません。でも必ず実現すると言う神の約束であり、その約束に向かって世界の再創造はすでにはじまっているのだと、イエス様は教えてくださるのです。私たちはその今に生きているのです。約束の栄光の未来にむかって変わりつつある今を生きているのです。
  私たちはそういう完成に向かっている、というよりも、完成の方から引っ張られているような存在です。終わりの時の希望にひっぱられながら、イエス様の約束にひっぱられながら生きているのが、今を生きる私たちです。そういう意味で、神様から見ると、私たちは常に右肩上がりを続けて、希望へ希望へと向かっているのです。皆さんにぜひ覚えていただきたいのは、そのようにして、神が用意してくださるゴールのすばらしさから、今の世界を見るということです。未来の完成の姿から、今の自分を見るということです。

  今の自分自身を見つめる時に、希望などどこにも見出すことはできないという方がいらっしゃるでしょう。いつまで続くのか分からない苦しみの日々に、疲れ切っておられる方がいらっしゃると思います。こんなに苦しい日々が続くのなら、いっそ死なせてほしい、楽になりたいと思っておられる方もいるかもしれません。私は小さいころから、生きていくということがつらいものに思えて仕方ありませんでした。以前にもお話したと思いますが、幼稚園の時に、これから小学校、中学校と成長していって、やがて大人になって、お父さんのようにがんばって働かなきゃいけないのは、本当につらいなと考えていたことを、はっきりと記憶しています。
 生きるのはつらいことです。日本のことや世界全体を視野に入れて考えても、とても良い方向に向かっているとは思えない、実際今はそういう時代です。放射能、戦争の気配、資源の枯渇も近づいている。もうだめだと言いたくなるのです。でも、この世界を罪から完全に自由にするという、神の再創造は、すでにイエス・キリストの十字架と復活において決定的な仕方ではじまっているのです。必ず、約束された完成が訪れます。私たちの世界は、その希望のゴールへと向かっています。だからどれだけ今の私がダメであろうと、今の世界がダメであろうと、神の大いなるご計画と御配剤の中で、すべては終わりの時の完成に向かって用いられます。そういう自分たちのすべてが、内側から輝きだす時が必ず来るのです。神がその時を来たらせてくださるのです。そう言う意味で、どんな時も右肩上がりの線を描いているのが私たちです。そう信じることができるから、今日もふんばろうって思えるのです。だってハッピーエンドが約束されているからです。どんなにへこんでいる時だって、私たちの物語は、最後は必ずハッピーエンドで終わるって決まっているんだから、だからどんな時も希望を失わないで、耐え忍ぶことができるのです。

  これは、とっても大事なことです。熊本にいた時、ある求道者の方とこんな話をしましたら、そういう考え方ははじめて聞いたと言われました。すでに約束されている栄光に規定されて、勝利に規定されて現在を生きる。必ず希望に向かう、最後はハッピーエンドで終わると強く確信して現在を生きる、それが終末の希望に支えられるということです。そして、これは世の人々が聞いたことのない福音です。プラス思考という言葉をあえて使うならば、究極のプラス思考です。それは強がりではない。夢物語でもない。神の約束に支えられたプラス思考です。

  そういう確信を得ながら、伸びやかに生きる。そして確信の中で祈って待つのです。神の定められた時を待つ、神が新しい天と地をもたらしてくださる時を辛抱強く祈り続け、サタンとの戦いを戦い続ける。この世の罪と自分の罪と戦い続ける。祈って祈って祈って戦い続ける。それが「御国が来ますように」という祈りの姿勢です。
  ある先生は言いました。ここに一つの家があると考えてください。家を包む世界には、実はもう朝が来ています。朝の光がもうすでに家を照らしています。でも家に住む人の大半は、まだ朝が来ていることを知らずにまだ闇が続いていると思って、眠っています。この夜はいつまで続くのかと、もう時計を確認することにも疲れてしまって、このまま眠り続けていようと思っています。それは厚いカーテンが光をさえぎっているからです。でも、その家の中に、たった一人だけ、朝がもう来たことを知っている者がいます。この長い長い夜は、もう終わろうとしています。この分厚いカーテンが開きさえすれば、光という光が輝いて、すべてを新しくするのです。だから、圧倒的な闇の中にあっても、彼は目覚めて待っています。必ず、このカーテンが開けられる時が来るのを信じて、祈って待っています。その人こそ、私たちであるべきです。

 「御国が来ますように」とは、そうして目覚めている者たちのために与えられた祈りの言葉です。決して希望を失わず、祈って御国を待ちなさいとイエス様は招いておられます。だから、懸命に祈りましょう。そして、カーテンを開けようと努めましょう。この分厚いカーテンは、決して私たちの力では開くことはできません。でも、その私たちの闇との戦いの向こうに、新しい朝が空け染めます。神が、私たちの祈りを通して、御国を来たらせてくださいます。
2017. 10. 07  
先週に続いて、土曜日は、辻宣道牧師の「その時の祈り」から紹介させていただきます。

今日は、「初めて祈るとき」という祈りです。

***************

神さま
どのように祈ったらよいかわかりませんでしたが
「求めなさい。そうすれば、与えられる」
という御言に励まされて、いま祈ります。

祈りの言葉も充分にはでてきません。
しかし、人の心の深いところを
知っておられる神さまは、
私の戸惑いや
狼狽もまた知ってくださる方です。

私は安心していま、神さまに祈ります。

私が初めて教会にきたとき
見当がつかずにあわてました。
ほかの人が祈っているとき
その中にひとりだけ入れず
場違いな感じがしました。

しかし聖書の解き明かしを聞くうちに
いつか神さまの存在がわかるようになりました。

わかるだけでなく信じられるようになりました。

いま心を定めて「神さま」、と
呼びかけることができますことを感謝します。

これからは神さまを信じて
「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえ」として
献げていくことができますように

イエス・キリストの御名を通して祈ります。
2017. 10. 06  
「天におられる、わたしたちの父なる神様。あなたの尊いお名前があがめられますように。」

この主の祈りのはじまりは、詩編115篇にとてもよく似ています。

「115:1 わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。」

わたしたちがほめたたえられ、名誉を受けることなど望みません。

神様のことをみんなが知り、おそれ敬うようになり、大いなる方として神様がほめたたえられますように。

そのために、あなたの偉大な御力を、わたしたちにお示しください、という祈りです。



お手元に聖書のある方は、詩編の115篇を全部読んでみてください。

この祈り手は、「人間の手が造ったもの」に過ぎない偶像をあがめる人々に囲まれて生きているようです。

わたしたち日本のクリスチャンと同じですね。みんな神様を知らずに、自分に都合よく偶像をつくりだしている。

でも、生きておられるまことの神さまが、たしかに天におられます。


その「天の父なる神」を、みんなが本当に知り、おそれ、傲慢をくだかれたなら、私たちの社会はどれほど大きく変わることでしょう。

みんなの口から、ののしり合う言葉や、馬鹿にする言葉ではなく、愚痴や文句ばかりでなく、神をほめたたえる賛美の声があふれだすなら・・・。

そういうことを、具体的に想像しながら、強く望みながら、祈っていきたいと思います。



主よ、大いなる神よ、そのあなたがわたしたちの父となってくださったことを感謝します。

天におられる、わたしの父よ。あなたの偉大な御存在を、多くの者が知って、尊いお名前が、ほめたたえられますように。

すべての人間の傲慢が打ち砕かれて、あなたへのおそれと賛美が沸き起こりますように。

そのために、今日も、あなたの偉大な御力をあらわしてください。

2017. 10. 05  
教会員の方のリクエストによって、今日からしばらく「主の祈り」を解説します。

キリストの教えにまったく不慣れな求道の友を、できるだけ意識して書きます。

ひとつ、良い本を紹介いたします。今年6月に出版された「朝夕に祈る 主の祈り ‐30日間のリトリート‐」という本です。

友人の大嶋重徳牧師が書かれました。いのちのことば社から、1080円でお求めやすくなっています。

30日をかけて、朝と夕ごとに、「主の祈り」を祈っていくという生活を導くガイドブックになっています。

キリスト教とはこういうものかと、神様とはこういう方かと、祈りということを手掛かりにして理解していただくこともできると思います。

そういうわけで、ぜひご購入下さい。Amazonでは残り7点みたいです。www.amazon.co.jp/o/ASIN/4264036003/inthebath-22


今日は、日本聖公会とカトリック教会で2000年から用いている、共通口語訳の「主の祈り」をともに祈りましょう。

文語調に比べると、子どもたちにも理解しやすくなっていますね。


 天におられるわたしたちの父よ、

 み名が聖とされますように。

 み国が来ますように。

 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

 わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。

 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

 アーメン

2017. 10. 04  
「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。(Ⅱペトロ3:13)」

これは希望の言葉です。

やがて終わりの時に、イエス・キリストが再び来てくださって、罪の力に完全な勝利をおさめ、義の宿る新しい天と新しい地をもたらしてくださる。わたしたちをそこへ迎え入れて下さる。

代々のクリスチャンは、この信仰によって励まされて、強く雄々しく歩んできました。

この宇宙に起こりくることのすべては、必ずそこに向かって行くと信じる。神の約束を信じる。

いつも、その希望のゴールを見つめている。そこから物事を考える。だから、決して落胆しない。絶望しない。


昔、熊本で、聖書に関心のある方と個人的な学びを続けていましたが、その方にとっては、このような「終末の希望の信仰」は、実に驚きだったようです。

学識豊かで、聡明な方でしたが、「このような考えは、聞いたことがありません。すごいですね。これがクリスチャンの根源的な勇気なのですね・・」と、深く考え込んでおられたのを覚えています。

わたしたちは、そのような「尊くすばらしい約束」を与えられているのです(Ⅱペトロ1:4)。



共に祈りましょう。

主よ、私たちを希望の人として、新しく生まれさせてください。終わりの時を待ち望む、この信仰を確かにしてください。そして、勇気ある生を可能としてください。
2017. 10. 03  

先の日曜日には、「義の宿る新しい天と新しい地」の到来の希望を、分かち合いました。

その時、人知を超えた宇宙的規模での、古い世界の更新があります。

私たちの罪ゆえに歪んでしまい、悲惨と苦悩に満ちたこの被造世界が更新され、罪からの完全な解放がなされるのです。

それは、あの「主の祈り」が成就される時なのですと、私は申し上げました。

「・・・御国が来ますように。あなたの御心がこの世界に成就しますように・・・」との、あの「主の祈り」。

王の王なるキリストが支配する、神の愛と平和と正義の王国が実現しますように。

わたしたちの社会が、教会が、家族が、そして私自身の心が、神様の御心とぴったり沿うものとなりますように。

そうして、悪がまったく滅ぼされ、死も病も滅ぼされ、すべての悲しみが癒されますように。

差別も、貧困も、戦争も・・・、すべての罪の悲惨が取り除かれますように。

そして私たちの魂が、まったくきよく整えられて、ただ主を賛美する歌声が世界中にあふれますように・・・。



そのような思いを込めて、「主の祈り」が今日も世界中で祈られています。

世界の兄弟姉妹と声を合わせ、また、私たちにバトンをつないでくれた数えきれないほどの信仰の先人たちとひとつになって、主の祈りを祈りましょう。

天にまします、我らの神よ。
御名をあがめさせたまえ。
御国を来らせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、我らに与え給え。
我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力とさかえとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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