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2017. 10. 31  
「主の祈り」を分ち合っています。「我らの日用の糧を今日も与え給え」との祈りは、考えるべきことの多い祈りです。

今日注目したいのは「我ら」という視点です。

「私に必要な糧」ではなくて「私たちに必要な糧」を求めなさいと、主は教えてくださいました。

「私たち」という以上、私ではない他者の存在が視野に入ります。

私の家族、友人は当然でしょう。特に今、現実的経済的に困窮している兄弟姉妹がいれば、その方々のことを覚えながら、その方々と共に祈るという思いを持つことは大切です。

もっと視野を広くすれば、十分な食糧を得ることができない、世界中のすべての飢える人々とともに祈ることへと私たちは招かれているのだと思います。

神の憐れみを受けるべき、世界中のすべての飢える者と共に、「私たちに必要な糧を今日与えてください」と祈るのです。

私だけの必要だけを考えるならば、むしろダイエットのために今日の糧を少なくしてくださいとさえ願いかねない・・・。

そうではなく「私たち」の必要が満たされるように・・・。


共に祈りましょう。

主よ、先の日曜日にはこひつじカフェを行うこともでき、カンボジアの兄弟たちへの献金をささげることがゆるされ、ありがとうございます。今日のごはんを食べることのできない方々が、私たちの国にもたくさん存在しています。どうか、我らの日用の糧を与えてください。
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2017. 10. 28  
昨日の朝、Y姉が天に召されました。安らかな最後でした。主の憐れみでした。

今日はそのことを心に覚えながら、「その時の祈り」より「臨終のときに」という祈りを共に祈りましょう。
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主よ、すべての人は、いつか必ず死を迎えます。

いま私たちは愛する者を失いました。

ついこの間まで元気であった者が、急に息をとめ、なきがらとなって、私たちの目の前にあります。

事柄の不思議さにおどろき、その意味するところの深さに、なすすべもありません。

たえがたい悲しみが私たちを包みます。

主の御旨がどこにあるのか、それすらさだかではありません。

しかし主よ、私たちは主に召された者が、生前、主の御救いに入れられ、

感謝してみまえに歩いていた日々のことを思い出します。

その生涯は、苦しみと悲しみだけではありませんでした。

多くの人に敬愛され、親しまれ、尊敬を受けていました。

それを思い出して慰めにみたされます。

力いっぱい生き抜いた愛する者の生きかたに習い、私たちもまた死を迎える日まで、

与えられた日々を大切に生きることができますように。

御栄光をあらわす生涯を、私たちにも送らせてください。
2017. 10. 27  
「主の祈り」の続きです。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」。

箴言の中にこんな言葉があります。

「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」箴言30:7~9

貧しくもせず、金持ちにもしないでください。

たくさんあると傲慢になり、神をかえりみようとしなくなる。

お金に縛られ、欲望の赴くままに振舞ってしまって、神の道を踏み外してしまいかねない。

かといって、少なければ、悪しき心の奴隷となってしまう。

罪の赴くままに、ひがんでしまう。ねたんでしまう。そして隣人のものを欲しがり、盗みを働いてしまう。
 
神が私のために、ちょうどいい分だけ定めてくださっているものを、感謝して受け取らせていただきたい・・・。


魂の自由のために、多すぎても少なすぎても駄目なんですね。ちょうどいいだけ与えてもらうのがいい。

そんな風に、今日必要な分を、今日ふさわしく与えてください。それが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りの含蓄です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も必要なすべてを備えてください。そして、すべてを感謝し、喜ぶことのできる心を備えてください。あなたの独り子の命によってあがなわれたこの魂を、豊かに、すこやかに保つことができますように。
2017. 10. 26  
「主の祈り」の学びの途中ですが、今日はちょっと中断をおゆるしください。

昨日、ある本を読んでいる中で、とても心打たれ、どうしても書き留めて、皆さんとも分かち合いたいと思いました。

そこには、「改革派の信仰というのは、逆境の中でこそ力を持つ信仰なのです」とありました。

わたしの言葉で言い換えるなら、それは教会に、また世界に、「踏ん張る力」を与える信仰なのです。



世の中が平和で、物事が順調に進んでいる時には、むしろ改革派の信仰は、問題を生じやすいかもしれません。

システムばかりが大事にされて、形骸化したり世俗化したり、あるいは、互いに裁き合うようなきびしい教会になったり・・・。

しかし、世の中がどんどん混乱していく逆境の時こそ、わたしたちの大切にしてきたことが真価を発揮するのです。

それは、シンプルに、聖書に書かれていることをそのままに受け取ろうとする信仰です。

まことの神ではないものを、決して神とはしないという神中心主義です。

山椒は小粒でもぴりりと辛い。

わたしは、この日本のキリスト教界全体の中で、「日本キリスト改革派教会」という極めてユニークな教会に与えられている役割は、まさにそんな山椒の役割だと思っています。


これだけでは、何のことか分からないかと思います。でも、それぞれで心にとどめて、考えてほしいと思います。

「改革派の信仰というのは、逆境の中でこそ力を持つ信仰なのです」



共に祈りましょう。

主よ、この時代に生んでくださったことを感謝します。この時代でしか、考えることのできなかったことを考えさせてくださって感謝します。この時代に生まれたからこそ、あなたの言葉を大切に受け止めることができました。主よ、感謝します。
2017. 10. 25  
「主の祈り」の学びも後半に入ります。今週は「我らの日用の糧を我らに与えたまえ」という祈りに深まりましょう。

「日用」というのは、日常用いるということですね。「糧」とは、朝昼晩の食事、のみならず生活に必要な一切です。

ルーテル教会などでは「日ごとの糧」として、その日その日と一日ごとに必要な今日の糧、と理解します。

違いを厳密に考えるのもおもしろいですが、私はむしろ、総合的に考えればいいと思っています。

大事なことは、この祈りは「今日わたしたちに必要な分を、今日必要なだけ与えてください」という祈りだということです。


出エジプト記にはイスラエルの荒れ野の40年の旅路が記されていますが、その旅路においてはマナという不思議な食べ物がいつも与えられて、飢えをしのぐことができたというのが印象的です。

そのマナは、いつも今日必要な分だけ与えられるのですね(出エジプト16章)。

それは翌朝まで残しておくことはできない。欲を出してたくさんとってきたとしても、残しておくと虫がついてくさくなってしまう。

主は毎日、ちょうどいいだけ与えてくださるということが、象徴的に示されている故事です。

今日も、主に信頼して生きていきたいですね。きっと今日も、わたしたちに必要な分だけ、必ず備えていてくださいます。


共に祈りましょう。

愛する主よ、おいしいごはんも、衣服も、あたたかい布団も、今日も豊かな糧を与えてくださり、本当に感謝します。しかし、今、わたしに与えられているものが与えられていない方々のことを覚えます。どうぞ主よ、彼らに必要なものを備えてください。
2017. 10. 24  
「主の祈り」の学びを再開しましょう。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」、この祈りは実は、その前の「御国を来らせたまえ」と同じです。

「天」は、神のおられるところです。その「天」においては、神がその「御心のままに」、つまり神がお考えになったとおりにすべてのことが進められていきます。

そして、それと同じことが、この私たちの地上の現実においても起こるならば、この「地=被造世界」が「天」になるわけです。そしてそれはそのまま、「天の国(神の国)」の完成ということになるわけです。

「天の国の完成」、それは、一切の罪のない世界の実現です。

罪がないということは、もはや神の御心を邪魔するものがないということです。



私たちはいまや、とらえがたく病んでしまっている罪人であって、神の「御心のままに」生きることができません。

私たちは神様に作られたものですから、創造者である神が一番私たちのことを知っておられます。人間の尊厳がもっとも輝きだすためのマニュアルをもっておられるのです。

でも、私たちは決定的なところで故障してしまっていて、神が「こう動かしたい」と思うとおりには動かない、という状態なわけですね。

私たちがそういう状態ですから、この「地=被造世界」も歪んでしまい、その本来の輝きを100パーセント発揮することができなくなりました。

神の「御心がこの地に完全になされる」というのは、そういう私たちの罪が引き起こすあらゆる障害・抵抗がなくなって、神の願っているとおりに世界が動き出すということです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御心がこの世界に実現しますように。あなたの愛と義を邪魔している私たちの罪深さについて、私たち一人一人が、気付くことができますように。そして、戦い始めることができますように。
2017. 10. 21  
土曜日は、辻宣道牧師の「その時の祈り」という本から紹介しています。

様々なシチュエーションに応じた祈りのモデルが示されています。「夫婦喧嘩」という祈りもありました。

でも、これは、すべての者にとっての悔改めの祈りのモデルにもなっていますね。
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神さま、感情に走った罪をおゆるしください。

それをいわなければ、生活のすべてが崩れてしまうと思いこみ、前後のわきまえなく口走ってしまいました。

あとで順々にいえばいいことを、この機会をのがすまいと焦り、急ぎ、あわててしまいました。

思い返して恥ずかしく思います。

小さな部分しか見えず、物事を大きくとらえようとしていなかった狭さにいま気がついています。

相手がつかれているのに、無理やり口を開かせようとしました。

答えがないといってなじりました。

限りなく疑うことはしても、心から信じることはしませんでした。

醜態を子どもに見せてしまったことを悲しみます。

それよりも、神さまの前に、暴露されてしまった正体を悲しい思いで見つめます。

もし、あなたが私の罪を包んでくださらないなら、

私はその恥を、これからも引きずって歩くことになります。

包んでください・・・。あわれみにすがります。

主にあって。
2017. 10. 20  
昨日、無事に大会会議が終わりました。お祈りを感謝します。くたびれてしまって寝坊してしまいました。

大会の時に、朝の祈りを導きましたが、その際にⅡペトロ3:11-13の御言葉を分かち合いました。

すでに、勝田台教会の皆さんと分かち合ったものです。

「神の国の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。・・・わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束にしたがって待ち望んでいるのです。」

「義の宿る新しい天と新しい地」を待ち望む、この信仰が、この希望が、教会の歩みを尊厳あるものへと高めてくれます。

神の正義(それは社会正義として弱者への愛でもある)が、どっしりと腰をすえて動かないという、完全な慰めの世界の到来。

その時が来るのを、わたしたちは祈り、待ち望みます。

それは、あの「主の祈り」によって教えられている祈りです。「御国を来たらせたまえ、御心を地になさせたまえ」という祈りは、そういう祈りです。

私はしばしば「主の祈り」を祈りながら、こんなことを考えます。

この祈りが、これまでのキリスト教会2000年の歴史の中で、どれほどに積み重ねられてきたことか。

私たちの教派の先輩たちが祈ってきました。カルヴァンが、アウグスティヌスが祈ってきました。

そして今日も、わたしたちと共に、世界中の教会が、同じ祈りをしています。韓国で、アメリカで、南アフリカで、カンボジアで・・・。

この祈りが必ず応えられる、わたしたちはこの信仰に生きるのです。だからわたしたちは、落胆しません。

そして、その終わりの希望から考えるならば、一切はむなしくありません。

この小さな教会がささげる貧しい今日の会議も、神の国の実現を待ち望み、そしてその到来を早めようと懸命に努めた、ひとつの祈りの歴史として、主の大いなる手に受け入れていただけることでしょう。

そしてこの祈りは、必ず応えられるのです。


そのように申し上げてから、200人でともに「主の祈り」を祈ったのでした。

今日も主の御名の栄光があらわされますように。御国が今日にも完成しますように。神の義と愛がこの地上世界を満たしますように。そのために主よ、貧しいわたしたちを用いてください。
2017. 10. 17  
おはようございます。寒くなってきましたね。身体の健康とともに、魂の健康が守られますように。

今日から三日間、日本キリスト改革派教会全体の大会議が行われます。ちょっと配信をしている時間がないのでお休みさせていただきます。

毎日のよりどころとしてくださっている方がいますので、申し訳ありません。金曜の朝に、またともに祈りましょう。


今は、「主の祈り」を学んでいます。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」の続きでしたね。

先の日曜日から、勝田台教会の礼拝説教では「十戒」のシリーズが始まりました。

「十戒」、「主の祈り」、これらはいずれも、「神の御心」すなわち、神様の望んでおられることを私たちに教えてくれる、要の教えです。


今日は、ハイデルベルク信仰問答の問124を覚えましょう。

問124 第三の願いは何ですか。

答 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。
   すなわち、
  わたしたちやすべての人々が、
    自分自身の思いを捨て去り、
    唯一正しいあなたの御心に、
    何一つ言い逆らうことなく
    聞き従えるようにしてください、
  そして、一人一人が自分の務めと召命とを、
    天の御使いのように
    喜んで忠実に果たせるようにしてください、
    ということです。


「自分自身の思いを捨て去り」とあるのが急所ですね。そんな風に、できる人はいません。・・・だからこそ、毎日、「主の祈り」を祈るのです。・・・心をこめて。


共に祈りましょう。

主よ、今日から始まる大会において、よき会議が導かれ、私たちの教会があなたの御心に忠実に、教会を形成していくことができますように。今週のわたしたち一人一人の歩みを導いてくださり、あなたの御心にしたがって歩むことの喜びを、豊かに教えてくださいますように。
2017. 10. 14  
土曜日は、辻宣道牧師の「その時の祈り」という本から紹介しています。

今日は、「同信の友のために」という祈りです。
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神さま
毎週日曜日に、必ず会える友を与えてくださり感謝いたします。

私は、親とも、きょうだいとも、こんなにひんぱんには会いません。
もう何年も会っていない友人もいます。
それなのに、教会に来ると親しい友がいて、共に祈り、共に主を讃美できます。

このような人間関係は、かけがえなく尊く貴重です。

心がふさいでものをいいたくない時も
同信の友には打ち明けてものがいえます。

このような交わりが与えられていることを、心から感謝します。

この交わりは、趣味や同好の集いとはちがう、
信仰の交わりです。
ともに生命を継ぐ者たちの交わりです。

来たりたもう主を信じ
共に御国を望みつつ、歩みつづけるものとしてください。

与えられたら与え、助けられたら自らも助け
惜しみなく生命を与えられた主イエスにならって
さらによい交わりを築くことができますように

私もそのひとりとしてお加えください。

主にあって。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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