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2017. 11. 16  
今日は19時より、御茶ノ水クリスチャンセンターで、吉田隆先生による「終わりの時を希望に生きる」という講演会がなされます。ぜひご来場ください。

私が関わるOCC神学研究会の主催によるもので、吉田先生が出版された「カルヴァンの終末論」という本をもとにお話していただきます。

吉田先生という牧師は、ご存知の方は分かると思いますが、カルヴァンの肖像画に顔がそっくりです。

私はいつも、きっとカルヴァンはこういう人だったのだろうと思いながら、吉田先生のお話を聞いています。この人にはすべてが見透かされていると感じるおそろしさと、でもまた、すべてが受け入れられていると感じるあたたかさを覚えさせられながら。


さて、その「カルヴァンの終末論」という本のあとがきに、こうあります。

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≪終末(エスカトン)≫ということが「究極」を意味するとすれば、あの時、被災地にいた私たちは様々な≪終末≫を垣間見たように思います。

人はみな一瞬にして死ぬのだという事実。幸か不幸か生き残った自分もどれほど被曝しているかわからない。

生きるとは死に向かって、死を抱えて歩むことなのだと、あの時ほど実感したことはありません。

そしてまた、その死を超えた世界に自分がつながっているということの不思議、

否、むしろ「死の陰の谷」へと降りて来られた神の御子と結ばれていることの深い慰めをも。・・・・・・・


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この≪終末≫の慰めが、はっきりと分かるなら、今日を生きることはどれほどに勇気に満ちることでしょう。

今日、死が与えられることもあるのです。しかし、それはすべて、神の御子と結ばれている完全な慰めと希望の中で起こることです。

「彼らは、もはや飢えることもなく渇くこともなく、太陽もどのような暑さも、彼らを襲うことはない。

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。(黙示録7:16-17)」


共に祈りましょう。

主よ、今日の講演会に祝福が豊かにありますように。講演をとおして、多くの方が、終わりの時の希望に生きることができますように。主よ、私たちの目を開いてください。究極の希望と慰めをはっきりと悟らせてください。

2017. 11. 15  
「主の祈り」の「我らの罪を赦してください。我らも自分に罪を犯した者を赦します」という祈りに、考えさせられています。

思い出す聖句があります。ルカ6:37から「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」

「裁くな」、また「罪人だと決めるな」と言われています。

これは、あいつには永遠の滅びが値するなどと、あなたが決めようとするなということであろうと私は解釈します。

最終的な判断を下そうとするな、ということです。

それは一方では、そんなことまでする資格はあなたにはないという、お叱りの言葉でありましょう。

でも他方でそれは、あなたがそんなことまで背負わなくてよいのだ、考えなくてよいのだという、主のもっとも深いところでの憐れみを覚えさせられます。

あなたは、復讐の炎に飲み込まれてはならない、と。

私たちは、だれかを滅ぼそうとするならば、自分もまた滅びの道を行くよりないものです。

神の道をはずれ、御心から遠く離れて、醜い化け物のように、顔も心も変わっていってしまう。

イエス様は、それを望んでおられません。


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちに、悪しき力が臨み、傷つけられることのないように、どうかお守りください。私たちが、誰かを憎むことなく暮らせるように、どうか平和をお与えください。もしもそのようなことが今日与えられても、その時に、どうか、憎しみの炎を制御することができる強さを、私たちに与えてください。
2017. 11. 14  
おはようございます。今日はちょっと寝坊してしまいました・・。

「主の祈り」の「我らの罪をゆるしてください。我らも、他者の罪を赦します」という祈りについて考えています。

この祈りは、祈るたびに、「赦す」ということと向き合わされる祈りだと、確認してきました。

罪の赦しということを考える時に、いつも思い出すのは、ウエストミンスター信仰告白第15章4節の言葉です。

「永久刑罰に価しないほど小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」


つまり、どんな小さな罪も、神の正義の前では永久刑罰に価する。

でも同時に、どんな大きな罪でも、真に悔い改める者は赦される・・・、ということです。


それは、神様のなさる人知を超えた御業です。どんな大きな罪も・・・、私たちには到底赦しがたい犯罪者もです。

そして、だれが「真に悔い改める者」となるかは、私たちには分かりません。

主なる神が、本気を出されるときは、驚くべきことが起こります。人の心が変えられます。

だからこそ私たちは、人間の判断で、「あの人は永遠の滅びに価する」などと、勝手に決めることはできません。

「大きな罪」は決して赦されないけど、私たちは「小さな罪」だから赦される、ということではないのです。



共に祈りましょう。

主よ、私たちもまた、いつでも大きな罪を犯してしまう、悪魔を内に宿しているような存在であることを覚えます。どうか今日、私たちが罪を犯すことから守って下さい。分かっていながらもなお、小さな罪を繰り返し続ける者ですが、どうか主よ、赦してください。そして、今日もきよめてください。

2017. 11. 11  
土曜日は「その時の祈り」から、祈りの言葉を紹介しています。

今日は「苦痛に耐えて」という祈りを紹介します。この祈りに自分の心が重なる方もいらっしゃることでしょう。私は、その方のためにも祈っています。

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神さま

いま私は苦痛に襲われています。

苦しみの意味がもう一つわからないまま、きょうまで来てしまいました。

できれば今すぐに、この苦しみがとれることを願います。

もし苦しみに意味があるのでしたら、それを教えてください。

たしかに主イエスは「あなたがたには、この世ではなやみがある」といわれました。

なやみと痛みと苦しみに向き合いながら、「勇気を出しなさい」といってくださる主イエスのお言葉に励まされる思いでいます。

この苦しみを通して、傲慢におちいろうとした罪から、救いだされますように。

いささかの苦しみに襲われただけで、あなたの愛から離れたいとか、

信仰することに距離をおくようなまえを、することがありませんように。

いま、自分の弱さを見つめます。

弱さを見守っている神さまの、強さをわからせてください。

そしてなによりもあつく「祈る者」とさせてください。

祈りをただ一つの慰めとさせてください。
2017. 11. 10  
「主の祈り」の、「我らの罪を赦してください。我らも、我らに罪を犯した者を赦します」との祈りを考えています。

この祈りは、やはりただごとではない祈りです。主が教えてくださった、おそるべき祈り。

私たちの心にかかるのは、「私たちも赦します」とあることです。あるいは、「赦すことができるようにしてください」という祈りだと考えてもいいでしょう。

いずれにしろ、「赦される」だけではなく、「赦す」ということを考えざるを得ない。

イエス様は、いつでも私たちに「赦す」ということを覚えさせ、また「赦せるように」と祈らせるために、この祈りを教えてくださいました。


私たちには、赦されることも、赦すことも、両方ともが絶対に必要であることを主は知っておられます。

そこに私たちの魂の救いがあるのです。

だから、「赦されて赦す」という一つの救いの流れの中に、自分も入ることができるように、祈りなさいと主は言われます。この祈りから逃げてはいけない、と。

もちろん、このような祈りを教えてくださったのは、私たちにとって「赦す」ということが本当に難しいことであると、主はよく知っていてくださるからです。

また来週、そのことを考えていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、この罪の悲惨の世界にあって、私たちはどうしても傷つけあってしまうし、人間がこわくなります。もう二度と会いたくない人が私にもいます・・。今日も、誰かへの憎しみに身を焦がす人がいるかもしれません。どうか、その人を憐れんでくださり、その困難な人間関係に助けを与えてください。そして主よ、私たちが健やかな心で過ごせますように。
2017. 11. 09  
「主の祈り」を考えています。「私たちの罪を赦してください。私たちもまた、私たちに罪を犯した者を赦します」と、このように祈りなさいと教えられています。

「神様から赦される」ということと、「私たちが誰かを赦す」ということは、分かちがたく一つに結びついています。

マタイ18:21からの仲間をゆるさない家来のたとえを思い出しましょう。

「兄弟が私に対して罪を犯したのなら、何回赦すべきでしょうか」というペトロに問いが最初にありました。

その答えとして「七の七十倍までゆるしなさい」とイエス様は言われ、その補足解説として、たとえ話がされています。

1万タラントンという多大な借金(日本円で数千億円くらい、とても返せない金額)をしていた家来がいました。

しかし彼は、王様のまったくの憐れみで借金をチャラにしてもらう。まさに「罪=負い目を赦してください」との願いが聞かれたわけです。

でもそうして赦された人が、仲間を赦さないのですね。

自分に対して百デナリオンというわずかな負債のある仲間を、赦さないで牢屋に入れてしまう。

それを耳にした王が心を痛められて、あれだけの大きな負債を赦されたのに、そんなわずかなことを赦さないとは何事だと怒ってしまう。

ここに示されているのが、赦されることと赦すことの一体的関係です。

本当に赦された者ならば、赦された喜びをよく知っている者ならば、必ず赦すことへと向かうのだ。

これがイエス様の確信であり、また私たちに対する願いです。

またそれがきっと、私たちの魂にとって、自由で幸いな道なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに出会って、はじめて「赦し」ということを考えさせられています。どうか私たちに、「罪の赦し」の喜びを、もっと深く、ゆたかに教えてください。きっとまだ私たちは、赦されるということの意味を、まだ十分に知らないのです。
2017. 11. 08  
「主の祈り」の続き、今日からは「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」を分かち合いましょう。

マタイ福音書6:12では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。

これが、この祈りの原型といえます。

今日は、「負い目」という言葉を考えておきましょう。これは元来、「負債、借金」ということです。

神様に対する私たちの「罪」ということは、このようにして「負い目、負債、借金」という言葉で表すと、また理解が深まるかもしれない。


さらにおもしろい表現として、「神様に貸しをつくる」という言葉があるのはご存知ですか。

旧約聖書の箴言19:17 「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」

神の御心にかなう善行は、主に貸しを作る行為だとの大胆な言葉です。でも、確かにそうやって貸しを作ることもできるのかもしれないが、残念ながら私たちは、神様に対して借金ばかりなのだというのが、聖書の示す人間観ですね。

少しくらいの貸しよりも、圧倒的な負債です。しかもそれは、雪だるま式に膨れていく。

年とともに、人間としての経験をつめばつむほどに。悪に悪をかさね、どんどんかたくなになっていく。

そういう私たちの膨れ上がった負債を、すべて無しにしていただく、それが神による「罪の赦し」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、思い返せば、本当にたくさんの人生の負い目があります。あの時に戻れたら、ちゃんとやりなおしたい、謝りたい・・・、そんな風に思います。そして私たちは今日も、間違いだらけの一日を生きていきます。主よ、どうか私たちの罪を赦してください。正しく導いて下さい。
2017. 11. 07  
自分でもよくまとまらないままに、言葉をつむいでみます。一つの、言葉にならぬ祈りのようなものとして、お付き合いください。

昨日、会議の休憩時間に、「北朝鮮の拉致被害者の横田めぐみさんのお父さんが、洗礼をお受けになったそうだ」と、先輩牧師から聞きました。

お母さんの横田早起江さんがクリスチャンであることはよく知られていますが、お父さんも信仰を起こされたということでしょう。

神に対する深い畏れ(恐れ)を、覚えさせられました。

この世の不条理ということに、一番苦しんでこられた人たちの一人でありましょう。散々に神をうらんでこられたことでしょう。

どのような心の動きがあったのか、知る由もありませんし、想像するのは失礼です。分かるのは、主なる神が、横田さんの魂を大切にお取扱いくださったということだけです。

私たちの社会の深い暗闇について考えさせられる、この数日でもあります。

座間で起きていた異常な連続殺人と、その背景にあった自殺願望者たちのネットワークに、やりきれないむなしさを覚えさせられます。

アメリカでは、キリスト教会の礼拝中に銃が乱射され、27人が死亡したとされます。

こんなことばかりが起きています。怒りを覚えます。ため息ばかりが出ます。

不条理です。あまりにも不条理。地上のすべてが不条理です・・。

当事者ではない自分が、こんな遠いところから、偉そうに事件をながめて、不条理だなどと話しているのも、申し訳ないし、むなしくなります。

どのように言えばいいのか分かりませんが、「神も仏もいやしない」と言いたくなる気持ちはよく分かる。

もし自分が被害者やその家族であるならば・・・、加害者の罪を「赦す」などということを、考えることができるだろうか。

・・・そんなことをあれこれと考えながら、「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りを祈っていました。

少なくとも私は、「我らの罪をも赦したまえ」という祈りが、自分の祈りとしてぴったりくるように、今、思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、わが神よ、「わたしはある」と言ってくださったあなたが、今日も生きておられることを信じます。主よ、今日も、私たちの罪を赦してください。この悲惨に満ちた罪の世界を、赦してください。なおしてください。助けてください。私が祈りに覚えるすべての人たちを、大切にお取扱いください。
2017. 11. 04  
今週ももう土曜日です。たくさんの働きがゆるされました。皆さんの祈りに支えられて、説教準備も祝福されました。感謝します。

「その時の祈り」から今日も紹介しますが、今日は「死を想う」にしましょう。

あわただしく過ぎていく日々ですが、先週のY姉の召天を想い起して、私たち自身も立ち止まらせていただきましょう。

******************
神さま

人間は早い遅いの違いはありますが、いずれは死を迎える存在です。

私に信仰がなかったとき、死は不安であり恐怖でしかありませんでした。

死と向きあったときどうなるか

それを考えただけで、棒立ちになってしまうような者でした。

しかし、信仰を与えられたいま、それは昔のような恐れではなくなりました。

いまの私にとって死は「永遠の生命」の入り口です。

私のからだはやがて地上から消え去ります。

愛する人々とも別れなければなりません。

それは悲しみであり耐えがたい苦痛です。

しかし、私には信仰があります。

終わりの日に、主イエスさまの栄光のからだと同じからだに、化せられる約束を信じ、

この悲しみを乗り越えます。

やがて住むところは別々になりますが、再び会える日を信じて

静かに死を迎えることができますように。

今こそ信仰のあるなしが問われていることを知って

落ち着いた日々を過ごさせてください。

主によって。
2017. 11. 03  
今日は10時30分から、千城台教会で、東関東中会のすべての教会の執事が集まり、合同執事会がなされます。

執事としての学びのために講演を聞き、グループになって情報交換したり、励まし合ったりします。

執事の職務は、「聖書によれば、主イエス・キリストの模範にならって、愛と奉仕の業を行い、聖徒の交わりを特に相互の助け合いにおいて具現するものである」とされています(教会規程)。

たじろいでしまうような思いになりますね。主の憐れみと恵みがなければ、とても職務をまっとうすることはできません。

このような重い職務を引き受けて、そのための研鑽を積もうとしている執事のお一人お一人に、ふさわしい尊敬を帰し、祈って支えたいと思います。

勝田台教会にも、すばらしい5人の執事が与えられています。これは、主にどれほど感謝してもしつくせないほど、すばらしいことなのです。

そのおひとりおひとりが、「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持つ人」として整えられ、ふさわしい「品位」を身に着けることができますように(Ⅰテモテ3:8,9)。


共に祈りましょう。

主よ、今日の合同執事会の例会に、祝福を豊かに注いでくださいますように。執事たちを通して、あなたが教会に注いでくださるたくさんの恵みと慰めに、心から感謝を申し上げます。

だれも見ていないところで、病める者を気遣い、財産をよく管理し、あらゆる不満を引き受けながら、主と教会のために忠実に奉仕をしておられる執事たちが、どうか疲れすぎませんように、いつも守りのうちにおいてください。そして、どうかその奉仕を通して、たくさんの喜びを得ることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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