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2017. 11. 30  
「主の祈り」を長く学んできました。あと2回で終わりにしましょう。

「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」と締めくくられます。

「国」とあるのは、英語ではKingdom。そこに含意されているのは、「私たちを支配しているのは、地上の王様ではない。国家権力でもない。天におられるわれらの父だ!!」という信仰告白です。

国も力も栄光も、「神様あなたは、すべてを持っておられる」と、信仰を表しているのです。

神は、すべてを持っておられる。そしてその神が、わたしのお父さんでいてくださり、必要なすべてを与えてくださいます。

だからこそ、私たちは、この「天にまします我らの父」に祈るのです。祈っていいのです。祈りが無駄にならないのです。

つまり、この締めくくりの言葉が教えているのは、神への信頼ということなのです。


共に祈りましょう。

愛する父よ、あなたを信頼いたします。私の胸の内にある思い煩いなど、あなたはすべてご存知なのですね。すべてを知っておられ、すべてを持っておられるあなたが、私が心配しているすべての愛する者たちのことも、守り導いてください。

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2017. 11. 29  
先週末からの風邪がなおりきっておらず、今朝は頭痛がひどくて、頭が回りません。すみません。お祈りいただければありがたいです。

ここのところ、M姉とメールのやりとりをしながら、「恵まれ様でした」という言葉を使って、遊んでいます。

「お疲れ様でした」という代わりに、「恵まれ様でした」と言うのです。

福音派の牧師さんから教えてもらった言葉です。

毎日大変なこともあるけど、その全部が神様が与えてくださった「恵み」だから。

どんなにつらい涙を流す時も、すべては神様の「恵み」の手の中にあるから。

一日の終わりに、一週間の終わりに、「恵まれ様でした」とお互いに言い合えたら、うれしいことですね。


今日もみなさんに、信仰と希望と愛がゆたかに与えられますように。
2017. 11. 28  
勝田台教会では、先の日曜日、会員総会が行われ、長老・執事候補者が選挙によって選出されました。

祈りに満ちたすばらしい総会だったと思います。新任の方も、再任の方も、選出された方々のことを覚えて、ずっと祈っております。

神様からの「召し=コーリング」は、いつでも、自分の計画を超えた次元で与えられます。

自分では「ありえない」と思うような展開が与えられる時・・・、真の信仰の開眼は、そういう時から始まるのかもしれません。

預言者イザヤの召命の記事(イザヤ書6章)を思い出していました。

私たちの教会で親しんでいる賛美歌の「御民に仕えます」の元になる聖句です。



イザヤはそれまで神殿にお仕えする普通の祭司でした。しかし、ある時、圧倒的な主の臨在を体験しました。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と、み使いたちが呼び交わす声によって、神殿が揺れ動き、煙に満たされました。

イザヤは、おそれを覚えました。聖なる神の前で、自分に絶望したのです。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ6:5)」


だめだ、わたしは滅びるよりないと、自分に絶望したのです。

汚れた唇の者・・・、この唇からは、神への賛美も、真摯な祈りも生み出さず、罪深い人間の言葉ばかりを語っている・・・。



しかし、そのようにしておびえ、ひるんでいるイザヤに、み使いは近寄り、その口を火できよめて、言いました。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。(6:7)」


神の真実な「召し」を前にしては、誰もがイザヤのようにならざるをえません。

しかし、この「汚れた唇の者」が、赦され、きよめられ、主の器として用いられるのです。

自分では、どれほどにふさわしくないと思っても。

そしてイザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と、新しい人生に踏み出しました(6:8)。



共に祈りましょう。

主よ、わたしを遣わし、御業をなしてください。心をつくして、御民に仕えます。主よ、今日もあなたの教会につらなる一人一人を用いて、御業をなしてください。



2017. 11. 25  
明日の会員総会を前に、使徒言行録20章から聞いて備えましょう。

使徒言行録20:17からに、エフェソの教会の長老たちに別れを告げるパウロの言葉が記されています。

パウロは、わずか3年ですが、エフェソの町で全力で奉仕し、「役に立つことは一つ残らず(20節)」、人々に伝え、教えてきました。

いま、「神の恵みの福音を力強く証しするという任務(24節)」を果たすため、主に示されてエルサレムに旅立とうとしています。

パウロは伝道者として、去らねばなりませんでした。でも、主は教会に長老たちを与え、群れを守ってくださいました。

パウロは最後に長老たちを集めて、こう伝えたのでした。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(28節)」



共に祈りましょう。

主よ、私たちの教会に、ふさわしい長老、執事を与えてください。あなたから召しを受けた方々が、その召しを誠実に受け止めることができますように。また教会のおひとりおひとりが、自分自身の魂と、自らの群れのことをよく祈り覚え、ふさわしく選挙に臨むことができますように。あなたに栄光がありますように。
2017. 11. 24  
次の日曜日26日は、勝田台教会の会員総会があります。特に、長老・執事の候補者を立てる、とても大切な選挙があります。

長老・執事は、神様の召し(コーリング)によって「職務(つとめ)」に任じられた方々です。

その意味で、教会員を代表するのでなく、神様を代表させていただき、群れを養うために神に用いられる神の器です。

PTAや自治会などの「役員」さんとは、本質的に意味が異なります。


Ⅰテモテ3章に、「監督(≒長老)」「奉仕者(≒執事)」の資格について教える御言葉もあります。

「非のうちどころがなく」「品位のある人」などとありますと、自分などとても無理だと、だれもがしり込みなさるでしょう。

私は個人的には、「あらゆる点で忠実な人でなければなりません(Ⅰテモテ3:11)」という教えが、大切だと思っています。

神様に対して「忠実」でありたいと、そのことをひたすらに祈り求めている人。それがすべてだとも思います。

そういう人が、神様から用いられる器なのだと思います。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの教会に長老・執事を与えてくださって、本当にありがとうございます。おひとりおひとりが、自分の大きな欠けを覚えながら、懸命に職務に励み、あなたに忠実でありたいと願っています。主よ、どうか豊かに用いてください。そして、同じように忠実な方々を、また私たちの教会にお与えください。
2017. 11. 23  
今日は東関東中会の定期会議が行われます。12の教会から牧師と長老が集まって、会議をいたします。

勝田台教会からも坂井牧師と吉田長老が出席します。覚えてお祈りください。

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昨日、説教の歴史について学ぶ中で、4世紀末の偉大な教父アウグスティヌスの言葉が、心に残りました。

「・・したがって、誰でも聖書全体もしくはその一部を理解したと自認しながら、神とわれわれの隣人への二重の愛を造ることができていないならば、そのひとは全く聖書を理解していないことになるのである。」

説教学の最初の教科書ともいわれる「キリスト教の教え」という著作にある言葉です。

神様への愛、そして隣人への愛。この二重の愛が造られないなら、聖書をわかったとは言えない、ということです。

神を本当に愛するならば、隣人は当然大切にする。なぜなら、隣人は、神が私に与えてくださるものだから。

自分のために隣人を利用しようとする「自己主義」から、どんな人間でも自由ではありません。それを「罪」と言います。

どこまでも隣人本位で、ただ隣人のためにと自分を差し出す、それを「愛」と呼ぶならば、そういう「愛」は、ただ神のためにという献身を知っている人にしか、持てないものかもしれません。

そして、ただ私のためにと命を与えてくださった、イエス・キリストという神の「愛」を知っている人しか、分からないことかもしれません。

そういう「愛」が私たちのうちに造りだされる・・・、それが聖書が分かる時の、限りなく大きな喜びです。恵みです。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント13:13-14:1)」


共に祈りましょう。

主よ、自分のことだけ考えているときは、私はいつも強気でした。はっきりと生きていました。しかし、「愛」について教えられてから、行きたくないところへも行かねばならないと、知りました。今でもまだ、それを面倒に思ってしまう私を赦してください。「愛」を知ってから、私には面倒なことが増えました。でも、「愛」を知ることができたから、私はとても自由になりました。主よ、感謝します。まだまだ何もわかっていないものです。どうか今日も、聖書を本当の意味で分からせてください。
2017. 11. 22  
「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」を解説するハイデルベルク信仰問答の127問がよいです。

「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんのひととき立っていることさえできません。

その上わたしたちの恐ろしい敵である、悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります。

ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください。」


こういう具合に、「霊の戦い」という視点を明確にして解説をしてくれています。

「悪」というのが、「悪魔やこの世、また自分自身の肉」という風に解説されています。

恐るべき「悪魔」からの攻撃。そして悪魔によってひきいられた、「この世」の様々な力。また同時に、その悪魔と響きあう自分自身の内なる「肉=罪深い性質」。

これらに対して、わたしたちは「あまりに弱い」・・・。

この「弱さ」をしっかり見つめるのです。ほんのひととき立っていることさえできない。そういう自分を、よく気を付けてケアしてあげてください。

そして、弱いからこそ、祈るのです。


共に祈りましょう。

主よ、私は自分がこんなに弱いと、あなたに出会うまでは知りませんでした。キリストの道を知り、あこがれるほどに、おそれの弱さを覚えさせられています。主よ、今日も助けてください。信仰と希望と愛を失うことのないように。あなたの力によって、今日一日、すがすがしい信仰の歩みをなさせてください。
2017. 11. 21  
「主の祈り」の学びも終わりが近づいてきました。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」。

これは、「わたしたちを誘惑にあわせず、悪い者から救ってください」という祈りです。

「誘惑」と聞きますと、お金の誘惑、美女の誘惑、甘いケーキの誘惑・・・そういう具合に、わたしたちを堕落へと誘い込む甘い罠というイメージがあると思います。

ここで使われているギリシャ語は、ペイラスモスという言葉で、ほかのギリシャ文学ではほとんど用いられない聖書の専門用語であると言われます。

それはすなわち、ギリシア思想と比較したキリスト教信仰の特徴的な思想がここに見出せるとも言えるわけです。

そういうペイラスモスという言葉は、新共同訳では「誘惑」と同時に「試練」とも訳されています。

その場合、私たちの魂を動揺させるような災いや苦難、迫害のことをも含みます。

例えば、ルカ8:13、有名な種まきのたとえ、「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練にあうと身を引いてしまう人たちのことである。」

また、Ⅰペトロ4:12「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」

こんな具合に、ペイラスモスという言葉は、甘い誘惑であると同時に、厳しい試練でもあります。

そのようなペイラスモスによって、悪魔に揺さぶられてしまうことがありませんようにと祈るのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの信仰は実にガラスのようにもろいものです。自分でも、この弱さがいやになります。主よ、私たちが耐えられないペイラスモスにあわせず、それに打ち勝つ力を今日も与えてください。
2017. 11. 18  
土曜日は、「その時の祈り」から紹介しています。

今日は、「土曜の朝に」という祈りを紹介します。すでに9月30日にも一度紹介していますが、繰り返し思い出すのもいいでしょう。

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「土曜の朝に」

天地のつくりぬしなる神さま
礼拝をもって始めた一週間を、お守りのうちに過ごさせてくださいましたことを感謝いたします。

志をたてては崩し、信仰に生きることを誓いながら、思わざる方向に歩んでしまったことを悔い改めます。

あなたの忍耐と寛容のゆえに、ここまでゆるされて歩んでくることができました。

お礼を申し上げます。

不信仰な日もありました。しかし、澄んだまなざしをもって、御言葉をくいいるように見つめた日もありました。

一週間の終わりの日に、時の過ぎゆくことがあまりに早いことに驚きます。

しかし、あなたは私たちに朝を与え、夕べを与えて下さいました。

恵みの中に一日目があり、二日目がありました。

いま、神さまがおつけになるけじめの中で、週の最後の日を迎えています。

一つ一つの経過を検討しながら、あすに備える日とさせてください。

そして希望に満たされて、あすの日曜を迎えることができますように。

キリストによって。
2017. 11. 17  
昨日はほぼ丸一日、仲間たちと吉田隆先生を囲んで、カルヴァンから学ばせていただく充実の時でした。

夜の公開講演会でも、大切なことをいくつも教えていただきましたが、ひとつ印象的なことを紹介します。

「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしは今日、りんごの木を植える」

これは、ルターの言葉として伝えられるところの多いものですが、本当にそうであるかは歴史的に疑問符です。おそらく違うというのが研究者の一致するところ。

吉田先生は、ルターならばきっとこういう風に言ったかもと想像されました。

「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしは今日、妻が作ったアップルパイを楽しむ」

ルターは、どんな時にも「喜ぶ」ことを徹底的に教えた人でした。それこそ福音に生きる者の義務だと。

さて、では「りんごの木を植える」はだれの言葉?

これを言いそうなのは、そう、カルヴァンなのです。世界が明日滅びる・・・人間的には絶望の状況かもしれない。何をしてもむなしいと、コヘレトのように思うかもしれない。

でも、私たちは、たとえこの地上世界が滅びるとしても、神は生きておられると信じる者たちです。

そして、この地上の歴史は、破滅をくぐるとしても、最後は必ず神の栄光の勝利へといたる。キリストの王国が完成するとの、希望に生きるものです。

そうであればこそ、どんな時も前を向いて、りんごの木を植える・・・、これは、実にカルヴァンが言いそうなことです。

ただ残念なことに、フランスではりんごは不従順の象徴ですから、カルヴァンならそんなこと言わないでしょう。

誰の言葉なのか・・、そんなことは、本当はどっちでもいいでしょう。

これはわたしたちの言葉です。「今日、りんごの木を植える。たとえ明日世界が滅びても。」

そんな風に生きていくのが、キリストを信じる者の歩みなのです。


共に祈りましょう。

主よ、たとえ明日世界が滅びるとしても、たとえ今日、命が奪われるとしても、今、私がなすべきことを、ただ忠実に、忠実になして、神の国と教会を地上に建てあげることに努めさせてください。それぞれの一日を通して、あなたのご栄光があらわされますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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