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2017. 12. 15  
すみません、今日は寝坊してしまいました。

強い指導者を求めて、王政を導入したイスラエルでしたが、最終的には、王は権力におぼれ、国を滅ぼすことになりました。

エゼキエル書34章には、そういう腐敗した王様のことが、「ダメな牧者」にたとえられています。

こういう箇所を読むと、私たちの時代の政治的指導者のこと、あるいはもっと狭く、だらしない私のような教会の牧師のことなど、さまざまに考えさせられることがあります。

みなさんそれぞれで思いめぐらしてみてください。

「・・・災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。・・・お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

・・・まことに、わたしの群れは、略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきになろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。

それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。

・・・見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」


イスラエルは、このようにして神自らが、「よき牧者=王」として君臨してくださるのを待ち望みました。

そして、思い出してください。主イエスが、ザアカイを救ってくださった時の言葉を。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちは羊の群れ、それぞれの方角に向かって、勝手に歩み、破滅へと向かってしまう愚かな羊たち・・。主よ、よき羊飼いイエス・キリストのもとにとどまらせてください。

2017. 12. 14  
先の衆議院選挙に際して、自民党の小泉進次郎議員がこのように言っていました。

「トランプ、習近平、プーチン、キムジョンウン・・・、こういう世界で、きれいごとだけで通用するはずないでしょう。」

それが、多くの人の思いかもしれません。そして、この乱世を生き延びるためにと、強い指導者を求めます。


古代イスラエルも同じでした。外敵の脅威から国を守るために、私たちにも強い王がほしいと、預言者サムエルに求めました(サムエル記上8章)。

それまでは、イスラエル共同体には、王はいませんでした。

イスラエルは、主なる神への忠誠の上に成り立つ信仰共同体で、神こそが彼らの王・支配者だったからです。

そして王の代わりに、神の意志を取り次ぐ祭司や預言者が、リーダーシップを発揮しました。


そうでありましたから、預言者サムエルは、自分たちの王がほしいとの民の要求を拒みました。

なぜなら、王が権力におぼれ、まわりの国々と同様に独裁的に君臨し、正義と憐れみがないがしろにされることを、洞察していたからです。

そして人々に、王というのは、あなたたちの息子や娘を徴用したり、オリーブ畑や羊を徴収したりする存在だと知らせます。

「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主なる神はその日、あなたたちに答えてはくださらない。(サムエル記上8:17)」


しかし、人々は聞く耳をもたず、強い王が必要なのだと言い張ります。そして、イスラエル共同体は王を持つようになります。

その結果は・・・。サムエルの心配したとおりになり、国も滅びました。

その挫折と絶望の中から人々は、神の正義と憐れみに生きるメシア王を待ち望みはじめたのです。


共に祈りましょう。

主よ、きれいごとだけでは生きていけないのでしょうか。確かに私もそう思います。この罪の世界を生き抜く知恵を、私たちは必要としています。しかし主よ、それ以上に私たちは、あなたの正義と憐れみを必要としています。まことの王なるイエス・キリストよ、あなたの王国を来たらせたまえ。
2017. 12. 13  
旧約聖書には、「主人公のいない言葉」と言われている言葉があります。

これは一体だれのことを言っているのか・・・と、旧約の時代においては、よく分からないままになっていた預言のことです。

イザヤ7:14もそのような言葉でした。

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)」


この預言は、ユダ王国(※南北に分裂したイスラエル王国の南の王朝)の王であるアハズに与えられたものでした。

ここにもまた、アッシリアの大王ティグラト・ピレセルがからんできます。

紀元前733年、アッシリアに対抗する同盟軍にお前も入れと迫って、周辺諸国がアハズ王に攻撃をしかけます。

アハズは、むしろアッシリアと安全保障条約を結ぶことで、そのピンチを逃れます。

しかしその代償として、アッシリアの国家神の崇拝を強要されることになりました。


預言者イザヤは、そのようになることを見越していましたから、その政策に反対していました。

そして、政治の力ばかりに頼らずに、神に信頼して「静かにしていなさい(イザヤ7:4)」とアハズに忠告していました。

でもアハズは、それを聞きませんでした。

イザヤは、神様に祈って「しるし」を求めなさいとも言いました。

しかしアハズは「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と答えました(イザヤ7:12)。

これは、とても敬虔な畏れ深い人の言葉のように思います。でも、イザヤの鋭い目は、そこに隠されている不信仰を見抜きます。


そして、あなたが求めようとしないのなら、今や神のほうから、ご自身の「しるし」を与えてくださると言って、あの預言を語るのです。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ばれる。」

インマヌエルとは、「神は我らと共におられる」という意味です。

このようにして生まれてくる「男の子」とは誰のことなのか・・・謎は解けないまま、時は過ぎました。

やがて、700年後に、イエス・キリストが誕生したときに、謎はようやく解けたのでした。


共に祈りましょう。

主よ、旧約聖書は難しくて、あまり読んだことのないという方も大勢います。どうか、わたしたちの心を照らしてくださって、旧約聖書を理解させてくださり、イエス・キリストにおいて成就された希望の大きさを悟らせてください。
2017. 12. 12  
今、アメリカのトランプ大統領が、エルサレムをイスラエル国の首都と認定したために、大変な状況になっています。

この問題は、私も不勉強なこと多く、一言でまとめることなどできません。

今の「イスラエル」という国は、第二次大戦後に建国されました。

「よそ者」として世界中に散らばっていたユダヤ人が、失ってしまった自分たちの国を回復しようと、約束の地カナンに再び戻ったのです。

しかし、その地には、すでにアラブ人の国がありました。でも、それを追い出すようにして、イスラエル国は誕生しました。

今も継続しているパレスチナとの戦争の歴史は、その時から始まる悲しみです。

今回のエルサレム首都認定問題は、そのような微妙な均衡を無視して、過度にイスラエル国に肩入れする主張だと、各国から非難がされています。


聖書の舞台になっているのは、そういう混乱と争いの場所です。

そして、エルサレム、またカナンの地というのは、大国の利害関係に翻弄されて、古代からずっと戦争の絶えない場所でした。

そういうところに、救い主イエスはお生まれになりました。

敵を愛していたらこちらが殺されるような場所で、イエス・キリストは、それでも「敵を愛せ」と語られたのです。平和を造りだす者は幸いであると語られたのです。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生れた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。(イザヤ9:5-6)」


共に祈りましょう。

主よ、世界は今、様々な場所で憎しみが連動し、緊張が高まっています。主よ、平和の君よ、わたしたちの心を造り変えてください。私たち一人ひとりの生活にも、どうか平安を満たしてください。ささくれだった心をいやしてください。
2017. 12. 09  
おはようございます。今朝は早朝3時頃に、新宿にホームレスミニストリーに出かけてきました。

青年たち11名とともに、食べ物や防寒具などを、眠っておられる枕元に届けてきました。

ごくごく小さな営みであることに負い目も覚えますが、このような業も主が用いてくださって、ご自身の愛を届けてくださいますようにと祈ります。

明日の主日に分かち合われる御言葉を、心にとどめています。

「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。(エフェソ5:28)」


私自身、キリストに出会う前は、たくさんの「盗み」をしてきた者でしたが、わずかでも、「与える」ことの喜びを教えていただいたことに感謝します。


共に祈りましょう。

主よ、寒い日々が続きます。路上で暮らす方々にも、あなたの憐みが豊かにありますように。受けるより与えるほうが幸いであるとの、あなたのお言葉を、自分の言葉にすることができますように。
2017. 12. 08  
昨日、大学の聖書考古学の授業で、大アッシリア帝国のことを学びました。

140年におよんで古代オリエント全域を制した、最初の世界帝国です。

イスラエルの民は、そのアッシリアによって300年にわたる脅威を受け続けてきました。

そうしてついに、紀元前721年、大王ティグラト・ピレセルによって、北イスラエル王国が滅亡に追いやられます。(※ ダビデに始まるイスラエル王国は、三代目のレハブアム王の時に、南北に分裂します)

その時の様子が、列王記下17章に書かれています。ぜひご確認ください。


今は、「メシアを待ち望む」をテーマに、アドベントの時を過ごしています。

イザヤ書8:23~9:6に、有名なクリスマスの預言があります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」というところです。

この預言も、実はアッシリアによる北イスラエルの滅亡と深い関係があります。

8:23には、このように書かれています。

「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」

この言葉の背景には、列王記下15:29に書かれている歴史があります。

アッシリアに攻められて、ゼブルン、ナフタリ、またガリラヤという土地の人々が捕えられ、異国に強制移住させられたのです。

イスラエルの歴史というのは、そういう挫折と苦難の連続です。

預言者イザヤは、そういう絶望の時代を、実際に目の当たりにしながら、・・・しかし、その暗闇に光が輝く時が来ると、「メシア」の到来を預言したのです。


共に祈りましょう。

主よ、この地上の歴史において、強き者たちの暴力によって、弱き者たちの血と涙が流されてきました。たくさん、たくさん流されてきました。今も流されています。主よ、憐れんでください。イエス・キリストの愛と平和を満たしてください。
2017. 12. 07  
クリスマスとはどういう時であったか、ほとんどの人は知らないままに、毎年お祭りされています。

もちろん、それはイエス様がお生まれになった時です。そして、もう一歩進んで、イエス様がどういう希望を背負って生まれてきてくださったのかを覚えたくて、このシリーズに取り組んでいます。

偉大な王ダビデの再来としての「メシア」を、ユダヤの人々は待ち望んでいたと、昨日確認しました。

ユダヤの歴史を考えると、その思いがいかに切実であったかが分かります。

ユダヤ人と聞いて思い出すのは、何と言っても、ナチスによって虐殺された人々というイメージでしょう。

どうしてそんなことになったかといえば、彼らが国を持たない民として、ドイツなどの国で「よそもの」として生きていたからです。

なぜ「よそもの」にならねばならなかったかといえば、それは紀元66年から73年のユダヤ戦争で、ローマに反旗をひるがえした結果、徹底的に滅ぼされたからです。

そこへと至る歴史は、複雑すぎて、簡単には書けません。ローマやシリアの圧迫に苦しみ続けた、波乱の歴史でした。

その波乱のはじまりは、紀元前586年のバビロン捕囚という悲劇です。

そのとき、ユダヤ人は一度決定的に滅びを経験し、国を失い、「よそもの」として生きる宿命がはじまったのです。


そのような歴史を背景にして考えれば、どれほど切実に、「メシア」が待ち望まれたかが分かるでしょう。

国を立て直し、争いと苦難の歴史に終わりをもたらしたもう、偉大な王・・・。

イエス・キリストは、そういう希望を背負って、生まれてきてくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、はるかな歴史をかえりみながら、イエス様が生まれてきてくださったことの意味を考えております。どうか主イエスのもとで、神の義と愛と平和の王国が、立て上げられていきますように。主よ、御国を来たらせたまえ。
2017. 12. 06  
今はアドベントの時ですから、「メシアを待ち望む」という信仰を新たにしましょう。

「メシア」とは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。それをギリシャ語にすると、「クリストス」になります。これが、すなわち「キリスト」です。

油を注がれるというのは、深い象徴的行為です。

王や祭司、あるいは預言者として、特別の力と権威を与えられて、神から指名された者であるということのしるしです。

特別に大切なテキストは、サムエル記上16:12,13にある、ダビデに対する油注ぎです。

名もなき羊飼いであったダビデ。7人兄弟の末っ子として、軽んじられていたダビデ。

しかし、この容姿端麗で聡明な若者を、預言者サムエルが見出して、油を注ぎます。その場面です。

「・・エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった。

主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。・・」



こうして油注がれたダビデは、偉大な王としてイスラエル王国を樹立します。

このダビデのような偉大な王が、再び到来することを、人々は待ち続けたのです。クリスマスというのは、そういう偉大な王の誕生の時です。


共に祈りましょう。

主よ、今アドベントの時、私たちのために生まれてきてくださった方は、どういう方なのかを、私たちがよく覚えることができますように。世界が混乱する今の時代、真に偉大な指導者であるイエス・キリストのもとに、立ち返ることができますように。
2017. 12. 05  
「主の祈り」の学びを終えて、今日からは、クリスマスに向けて、「メシアを待ち望む」ということを覚えましょう。

今はアドベント(待降節)です。それは、かつて来られた「メシア」が、再び来てくださることを待ち望んで過ごす日々です。

私たちキリスト教会は、イエス様が「メシア」だと信じる者たちです。

その信仰は、より丁寧に見ていくとどういうものであるのかということを、明日から覚えていきましょう。

今日は、まず最初にイザヤ52:7-10の御言葉を大事に覚えてください。

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、“良い知らせ”を伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王になられた、とシオン(=エルサレム)に向かって呼ばわる。」


ここに「良い知らせ」とあります。これがグッドニュース。新約聖書の言葉遣いで言えば、「福音」です。

その「福音」とは何であったか。「あなたの神が王となられた」ということでした。

神様が、王様として君臨してくださって、わたしたちを守って下さる、ということです。


イスラエルの人々は、自分たちの背信ゆえに、国を失い、バビロンに捕囚され、異教の民に牛耳られました。

美しの都エルサレムも、すっかり廃墟となってしまいました。

でも、そんなイスラエルの人々を再び立ち上がらせるために、神が王となって、エルサレムに帰還してくださる。これが希望です。

それは具体的には、神が、ひとりのまことの王を遣わしてくださる、という希望でした。

その王様のことを、「メシア」と呼ぶのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの王よ、今日もあなたの偉大な力によって、貧しい者たちを守り導いてください。あなたによく従うことができますように。アドベントの時、メシアを待ち望むということを、よく考えることができますように。

2017. 12. 02  
昨日に続いて「アーメン」という祈りを覚えて、「主の祈り」の学びをおしまいにしましょう。

「アーメン」とは、「まことにその通りです」という感じの言葉です。

それを祈りの最後につけることで、「たしかにこれは私の祈りです」と確認し、神様に「だから、受け取ってください」と差し出すのです。

同時に、「アーメン」と唱えるときに私たちが心に思うのは、「たしかに、神はこの祈りを聞いておられる」という確認です。


ハイデルベルク信仰問答の129問に、「アーメン」の解説があり、このように言われます。

「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。

なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、

わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。


思い出すのは、イザヤ65:24の御言葉です。

「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。」

私たちが祈る前から、私たちの祈りを全部知っていてくださる神様です。

私たちには、自分の周辺のことばかりの貧しい祈りしかできませんが、そういう小さい思いをこえて、私たちが祈っていなかったようなことまで考えていてくださる神様です。


そういう神様に、確実にこの祈りは聞かれている。

そういう確認をもって、「アーメン」と言うのです。


共に祈りましょう。

主よ、今週の歩みも今日までたくさんの恵みをありがとうございます。すべての祈りを聞いていてくださるあなたに信頼します。アーメン主よ、あなたは生きておられます。

※ 今日は子どもたちのクリスマス会があります。お祈りください。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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