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2017. 12. 30  
今年最後の配信になります。今年も一年間、みなさまと共に祈ることがゆるされました。心身の健康を備えてくださった主に感謝します。

今日は「その時の祈り」から、「年の終わりに」という祈りを紹介します。私自身、深く心を沿わせることができました。

また、年明けは3日(水)から再開させていただきます。

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恵み深い神様、ここに一年が過ぎようとしています。

いま私たちは「来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」というほかないような気持ちでいます。

神さまが断罪することを延ばしてくださったために、私のこんにちはありました。

もしあなたが、私の不従順、偽善、不真実をあばかれるなら

青ざめてそれを受けるより道のない者です。

しかしあなたはイエス・キリストに免じて、しつこく罪を追求せず、ゆるしの中においてくださいました。

ありがとうございます。

キリストがそばにいて、「もう一度やりなおしてみなさい」といわれるので、勇気がわいてきます。

御言葉にしたがって従順に網をおろした弟子たちのように、

やりなおそうとする素直な気持ちを、起こさせてください。

それをもって新しい年を迎える備えとさせてください。

そこに希望を見出させてください。

キリストによって祈ります。
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2017. 12. 29  
今年一年を個人的に振り返ると、本当にたくさんの奉仕がゆるされたということに、感謝を覚えます。

同時に、自分の心身の貧弱さや、器の小ささということも覚えさせられた一年でした。まさに土の器・・・。

ともすると、「自分はこんなにすごい」と言いたがる愚か者ですが、それもまた私の心の抱える弱さです。その弱さを受容してくださる周囲の方々と、神の愛に、図々しく甘えさせていただいているものです。

自分の罪深さということも、年々、深く知らされるものですね。皆さんもそうでしょう。

時に神様は、それを徹底的に知らせるために、いろいろな仕方で、外から働きかけてくださいます。

神が送られる隣人によって、隠していたかったことが暴かれたり、自分の問題性を強く指摘されたりして、深く落ち込むこともありますね。

あるいは、時には夢を通して「お前は罪人なのだ」と、語りかけてこられることもあるでしょう。

そんな時のどうにも行き場のない、頼りない心持ちを、今年も経験しました。

つらいなあと思います。でも、救いはそこから始まるというのも本当です。


ルカ18章の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえを思い出していました。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下しているような人の象徴として、「ファリサイ派の人」が描かれます。

彼はこんな風に祈ります「神様、わたしは他の人たちのように、悪いことはしませんでしたし、あなたに喜ばれる立派な奉仕をたくさんしました。愚かな徴税人のような者でないことを感謝します。」

一方で、罪深い「徴税人」の祈りの姿が、このように描かれます。

「ルカ18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください・・・。』」

イエス様は、言われました。義とされたのは、この徴税人のほうなのだと。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちは自分が罪人だと口では言いながらも、何も分かっていない者であったことに、また気付かされています。主よ、まことに愚かです。このような者を憐れんでください。今年与えられた、すべての気付きに感謝いたします。
2017. 12. 28  
今日は午前中に、長老任職準備会がございます。候補に立てられた兄弟の学びと備えのためにお祈りください。教会員の一致した祈りが必要です。

新しい長老、また執事の候補者が備えられたことは、今年私たちの教会に与えられた最大の祝福と言っても過言ではないと思います。

それぞれに主からの召しに応答して、恐る恐ると、でもほほ笑みながら、新しい歩みに踏み出そうとしておられます。

改めて思いますのは、主は本当に、一人一人の個性を生かして、教会を建て上げていかれるということです。

イエス様の12弟子がそれぞれ個性豊かであったように、私たちの教会の長老・執事も個性豊かです。

それぞれに得意なこともあれば、苦手なこともあります。

Ⅰコリント12章に示された、キリストの体のたとえを思い出します。それぞれの部分が、それぞれの役割を担って、体を形成していきます。

成長させてくださる聖霊の導きは多様で色鮮やかです。理想のモデルはひとつだけじゃありません。

自分にはどういう役割が与えられているだろうか・・と、役員だけでなく、みんなで考えたいことです。


また、賜物というのは、与えられる量がそれぞれに違うということも、健全に自覚しておきたいものです。

マタイ25章のタラントンのたとえにありますように、5タラントン預かる者もいれば、1タラントンだけ預かる者もいる。

そこには差があるのです。それは、優劣ではなく、神様から与えられている役割の違いです。

預けられている能力が違うから、仕事の量や成果においても、違いが生じるのは当然です。でも、そこに優劣を見出すべきではない。

大事なのは、その人が、主に忠実であったかどうかだけです。

タラントンのたとえでも、主人は僕たちの生み出した成果の大きさの違いなど、少しも目を留めていません。

自分に与えられた能力の分をわきまえて、最大限に用いられるように、なまけずに仕えていく。

そうすれば、「忠実な良い僕だ」と主はほめてくださいます。そして、天に約束されているものは、あまりに豊かです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの教会に多様な賜物をもった長老・執事を与えてくださっていることに、あなたの教会への愛を強く覚えます。本当にありがとうございます。今、3人の方々が任職に向けて準備しておられます。主よ、どうか助けてくださって、あなたに忠実な心を備えてください。


2017. 12. 27  
今日は10時30分から、今年最後の祈祷会です。小グループに分かれて、今年与えられた恵みを分かち合い、祈りあいたいと思います。

日頃祈祷会に出席できない方々も、ご都合許されれば、ぜひ一緒に祈りましょう。

私はこの一年間、様々な恵みがありましたが、真っ先に思い浮かんだのは、「土の器」という言葉でした。

Ⅱコリント4:7「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

この御言葉は、説教者としての姿勢を教える言葉として、田中剛二先生から教えられたものです。

「このような宝」というのは、栄光に輝くイエス・キリストの福音です。

説教者というのは、その福音を神からゆだねられ、神に遣わされて説教している神の器です。

この傲慢とも思える確信。しかし、説教者からこの傲慢を取り除くことはできないのだと、田中先生は教えてくれました。

しかし、同時に教えられたのは、その器はあくまでも、弱く貧しい土の器であって、誇るべき何も持っていないということです。

私という説教者自身は、神の言葉の前には無きに等しい土の器です。

この不適任の意識がなければ、その人は神に遣わされた説教者ではありません。

この「土の器」としての、傲慢と謙遜。そして、ただ器として用いられたいと願っての、神への忠実な奉仕。

そのような心掛けをもって奉仕がゆるされた一年でした。

とはいえ、不十分であったと思います。どうかおゆるしください。これからも、一層精進したいと願います。お祈りください。


共に祈りましょう。

主よ、今年のここまでの歩みにあなたが与えてくださったものは、星の数ほどに多くありますが、その一つ一つを数えながら、感謝し、あなたをほめたたえ、魂の充足を得ることができますように。
2017. 12. 26  
昨日はそれぞれ、すてきなクリスマスを過ごされたことでしょう。

日本では、24日を過ぎるともうクリスマスムードは去ってしまって、25日すらも忘れられがちです。

でも私たちにとっては、むしろ25日からが、クリスマスの喜びに生きる毎日の始まりですね。ドイツなどでは、1月半ばくらいまで街はクリスマス一色なのです。

クリスマスの喜び、それは「インマヌエル=神が我々と共におられる」との信仰に生きる喜びと言ってもいい。

キャンドルサーヴィスで、そんなメッセージを分かち合いました。

クリスマスは、「神が共にいてくださる」ことを何度でも確認させていただく時です。

独り子イエスを私たちのために与えてくださったということに、神の切なる思いがあらわされています。

「わたしはあなたを見ている、あなたを大切に思っている、わたしはあなたと共にいるのだ」という神のメッセージが、イエス様のご誕生という事実によって雄弁に語られているのです。

キリスト教なんて、そんなに難しいことではないのです。このことを信じるかどうか、ということです。

イエス様を与えてくださったことが、「神が我々と共におられる」ということの証拠です。

今や、神は、「わたしはあなたと共にいる」と、すべての人に語りかけていてくださいます。

信じる者にも、まだ信じない者にも。

わたしたちの目は鈍いから、そんな大事なことが、なかなか分かりません。見えないから、信じることができません。

でも、神はわたしたちと共におられます。その慰めに気付いて、信じる者になっていきたいと思います。

信じる者になっていただきたいと、心から願います。



共に祈りましょう。

主よ、この一週間を、クリスマスの喜びによって強く雄々しく歩ませてください。たとえ死の陰の谷を歩む時も、わたしは災いを恐れません。あなたがわたしと共にいてくださる。主よ、今日もこの信仰に生きる幸いを感謝します。
2017. 12. 23  
「その時の祈り」より、今日は「クリスマスを迎えて」です。

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神さま、イエス・キリストを与えてくださったことを感謝いたします。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という御言葉の意味が、いまにしてわかります。

人の目には見えない神さまの御意志が、イエス・キリストという見えるかたちとなって、

私たちの住むこの世に、あらわれたのがきょうこの日です。

歴史の中に人として生まれた、神の子イエス・キリストを通して、キリストをおつかわしくださった神さまを知りました。

ありがたく思います。

御子をつかわすために、あなたがお払いになった犠牲は、どんなに大きかったことでしょう。

私たちは神さまから「愛」をいただくばかりで、こちらからはなに一つお返しするものはありません。

クリスマスのこの日、「受けるよりは与える方が幸いである」という教えにしたがって

小さな愛のわざを、確実に行うことができますように。

それを私の信仰の表現とさせてください。

主の御名によって祈ります。
2017. 12. 22  
メシアを待ち望むという信仰を確認しながら、アドベントを過ごしてきました。いよいよ明後日はクリスマス記念礼拝です。

日曜日にはルカ2:1-7から、主イエスがベツレヘムでお生まれになったことの意味を分かち合う予定です。

その前に、そのことを預言している旧約聖書ミカ書5:1を確認しておきましょう。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。

お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

ベツレヘム・・・それは、エルサレム近郊の小さな寒村でした。

そのような場所が、聖書の世界では大切に記憶されています。なぜなら、そこは偉大なダビデ王の故郷だから(サムエル記上17:12)。

そして、そのようなところだからこそ、やがて来るメシアもそこから登場すると、人々は待ち望みました。

「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」と新共同訳は翻訳します。

これは、生まれてくる方が、永遠の神の世界から来られるということを示しています。

あるいは、新改訳2017では、「その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」と翻訳します。

いずれにしろ、ベツレヘムにおけるメシアの誕生は、神が永遠のご計画に基づいて実行される、人知を超えた救いのドラマであるということです。


共に祈りましょう。

主よ、永遠の神であるあなたが、人となって生まれてきてくださったこと、その喜びをいよいよ豊かに、私たちのうちに満たしてください。今日も小さな場所で、小さな人生を営むひとりひとりを、永遠の光で照らしてください。
2017. 12. 21  
おとめマリアに、イエス・キリストの誕生を告げる天使の挨拶は、「喜びなさい!!」に始まります。

新共同訳の翻訳ではそのようになっていません。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」とあります(ルカ1:28)。

「おめでとう」とするのは正しいのですが、本来の意味は、「喜びなさい」という言葉なのです。

イエス様は、わたしたちに「喜び」をもたらすために、生まれてきてくださいました。

イエスに従う者には世で苦難がありますが、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と主は言われました(マタイ5:12)。

やがて主は、十字架の死を前にして、弟子たちに言われました。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶようになる。その喜びをあなたがたから奪い去るものはない。(ヨハネ16:22)」

この約束は、復活された主との再会によって果たされました。だから弟子たちは、人が変わったように、そのあとは喜びに生きました。

この約束は、今や、主の再臨を待つわたしたちにとっても、大切な意味をもっています。


このような「喜び」の到来の時、それは、旧約聖書のゼファニア書3章14-17節の預言の成就なのです。

「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ。

・・・イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」


共に祈りましょう。

わたしたちの中におられる王なるイエスよ、今日も喜びを与えてください。今、悲しんでいる者が、あなたによって喜び踊りますように。わが魂よ、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい!!



2017. 12. 20  
昨日は急きょ、早朝から熊本に行くことになり、配信をお休みしてすみませんでした。

大切な姉妹が天に召されましたので、その娘さんと共に祈るために、出かけてきました。今日、葬儀がなされます。

小児麻痺で体の不自由な方でした。小さな体で、子を産み、育てられました。たくさんの病を得て、この10年は病院で寝たきりでした。最晩年は、体重は20キロにも満たなかったようです。

礼拝に出席するのを本当に楽しみにしていて、抱きかかえて送迎をしたことなど思い出されます。

何度も何度も分かち合った聖句は、ヨハネ3:16でした。私の最愛の聖句であり、彼女の信仰のきっかけの聖句でもありました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」


どんな時も、この御言葉を思い出そうと励まし合いました。

つらい時、みじめな時は、山ほどありました。神様が何を考えておられるのか・・・心がくもって見えなくなる時が、何度も何度もありました。

でも、いつでもこの御言葉に帰りましょうと、励まし合いました。神は、その独り子を与えるほどに、私たちを愛してくださった。それがすべてなのですよ、と。

きっとクリスマスという季節は、この神の愛を、何度でも思い出すために、神が備えてくださった恵みの暦なのでしょう。

今は、その魂は主イエスの完全な慰めのもとで、安んじていることを思い、心から主をほめたたえ、感謝します。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが与えてくださるすべてのことに感謝します。今、悲しみの中にある者も、試練のうちにある者も、すべての者をあなたの愛で覆ってくださって、何度でもその魂を起き上がらせてください。
2017. 12. 16  
辻宣道先生の「その時の祈り」から、「アドベントを迎えて」という祈りを紹介します。

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キリストをこの世にお送りくださった神さま

一年が終わりに近づくこの季節に、アドベントを迎えるさいわいを思います。

これは年末の風物詩ではなく、神さまからの呼びかけです。

いまこのとき、再び「来る」と約束して、天に昇られたイエス・キリストを、心から「待つ」信仰に私たちを導いてください。

かつてベツレヘムの闇の中に、光としておいでになった神の子の事実は

再び光として来るキリストを、胸おどらせて待つ思いにさせます。

世の中は矛盾だらけです。解決はすべて先送りの状態です。

イエス・キリストが再びおいでになって、すべてを解決してくださるまで、決着はつきません。

旧約以来のメシア待望に応えてくださった神さま

あなたは「アアメン主イエスよ来りませ」という信仰に必ず応えてくださるかたです

クリスマスを待つ心と、終末を待つ心が重なって

この時を、最高に霊的な時として過ごせますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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