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2018. 01. 17  
昨晩は遅くまで、OCC神学研究会でした。私が研究を発表し、田中剛二先生の説教について分かち合い、力ある説教とはどういうものかと、みんなで本当に熱く語り合いました。

それで・・・今日は寝坊してしまいました。すみません。

田中先生の説教というのは、聖書の言葉をそのままに語るということを理想としました。

私の説教とはちがって、自分のことは決して語らない。時代を映し出すような例話も入れない。

人間の言葉をできる限り排除し、聖書の解説に徹して、そのままに取り次ぐ。

そして、自分を無として、透明な器となることを願いました。

私は、その方法論がベストとは思っていません。田中先生とは違う神学的確信をもって、私は私のこだわりを貫きます。

でも、彼からとても大切なことを学ばせていただきました。

「神への畏敬の姿勢」と、「神の言葉への絶対的な信頼」です。


田中先生は、神を心から畏れ敬ったからこそ、自分の罪深い存在が邪魔しないようにと願いました。

「わたしは汚れた唇のもの・・」と恐れた、預言者イザヤのように。

そして田中先生は、神の言葉を信頼しました。人間が余計な言葉を足さなくても、聖書の言葉がそのまま取り次がれれば、それだけで救いが起こる。奇跡が起こると信じていました。

神の言葉は、むなしく終わることはない。それは語られれば、必ず神の望むことを成し遂げ、使命を果たすという、イザヤ55:11の信仰です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も聖書を読ませてください。そして、理解させてください。分からせてください。神の言葉を聞かせてください。
2018. 01. 16  
今日は夕方からラジオの録音があります。「天国人のボキャブラリーシリーズ」です。

その原稿になるものをお届けします。「悔い改め」というボキャブラリーです。

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クリスチャンに独特の言葉づかいを順番に紹介しておりますが、「悔い改め」というのもそういう言葉です。

これは、ただ自分はダメだったと反省するという程度のことじゃなく、まったく方向転換して、心がぐるっと一回転して、新しく歩みだすということです。

聖書には、たとえば山上の説教と呼ばれる教えのように、この世の常識を超えた愛や正直さや、神様との真実な関係を教える言葉がたくさんあります。

そういう言葉に、たじろいでしまう方も多いでしょう。

でも、そういう言葉によって、「こんな生き方を今まで知らなかった、こういう生き方をしていきたい」と願って、洗礼を受けられた方もいます。

聖書にはこんな御言葉もあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」コリントの信徒への手紙の第二、5章17節の御言葉です。

キリストに結ばれる人は新しく創造された人だ。このように言われる新しさ。

これまでとは全く違う価値観、世界観をもって、キリストに結ばれて、キリストの心を自分の心として生きる、新しい歩き方が始まる。

そういう歩き方をしていくときに、はじめてこの命は輝きだすのです。魂は喜ぶのです。

そういう新しさへと、キリストは招いておられます。

「悔い改め」て、くるっと方向転換して、こっちへ来なさいと、私といっしょに歩もうと、招いておられます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたによって備えられたこの一日を、存分に喜び、大切に過ごすことができるように、わたしたちの内に新しい心をつくりだしてください。悔い改めるということの本当のうれしさを、私たちに教えてください。
2018. 01. 13  
土曜日は祈りの言葉を紹介しておりますが、今週はすこし趣向を変えて。

今週読みました本の中で、ある有名な説教者の言葉がありました。その先生は、神を求めておられる求道の友に、いつも最初に申し上げることがあると言います。

それは、まず祈ってくださいということです。

神様にお祈りをなさるようにと、強く勧めるそうです。

信仰というのは、神様が与えてくださるものですから、神様とその方との関係の中でしか決して成立しないものです。

牧師には、究極のところ、なすすべがないのです。だから、まず何よりも、神様に祈ってください。祈らなければ、何も始まりません。

そう申し上げると、返ってくる応答は、「どうやって祈ったらいいか分かりません」

あるいは、「まだ信じているかどうかも自分で分からないのに、祈れません」、という答えだったりします。

ならば、その心のままで、神様の御前にお出になったらいいのです。

神様、あなたを信じていいのかどうか、まだ分かりません・・、どうしたらいいのですか・・と祈ったらいいのです。

神様、あなたを信じてもいない私が、こんなことを祈っていいのかどうかも分かりませんが、苦しいのです・・、悩んでいるのです・・と打ち明けたらいいのです。

私はこの先、どのように生きていけばいいのですか、死んでいけばいいのですか・・。

神よ、私にあなたを信じさせてください。あの教会の方々が言う、信仰の喜びというものを、私にも教えてください・・。

そんな風に神の御前で、ひざまずいて、無力な手を組んで祈ってみるとき、何かが音を立てて始まるのです。


「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:6-7)」

皆さんの上に、聖霊による祈りの泉への導きと祝福が、豊かにありますように。
2018. 01. 12  
「神の国」とは、イエス・キリストが王様として君臨する王国です。

そして、今この地上世界において、その「神の国」の国民に、どこに行けば出会えるかといえば、それは何と言っても「教会」です。

「教会」は、地上における「神の国」の中心的顕現です。



昨日、キリストは「すべての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれた「まことの王様」であると、エフェソ書の御言葉から確認しました。

その御言葉の続きには、こう書かれています。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1:23)」


イエス・キリストという、「すべてにおいてすべてを満たしている方」が、特別な思いをもって、どっかり腰をすえて「満ちておられる場」は、「教会」なのだと言われています。

「教会」に行けば、この偉大な王様に確実にお会いできる。そういう場なのです。

「教会」こそ、イエス様の統治にしたがって、愛と義と平和を追い求める「家来・しもべ」たちの群れであるはずです。


今日は午前中に、H兄の長老任職準備会が持たれます。次の主日には任職試問も予定されています。

今この地上の教会にあって、イエス様の統治は、忠実な「長老たち(牧師も含む)」の会議を通して、「教会」にもたらされます。

愛と義と平和を追い求める「教会」を建て上げていくようにと、「長老たち」は神から選ばれ、また、その召しに応えようと懸命に努めておられます。

彼らのために、ふさわしい尊敬と、「教会」全体で一致団結しての祈りが必要です。



共に祈りましょう。

主よ、今日もキリストの家来である私たちに、命を満たしてくださって、遣わされるその場その場で、地の塩・世の光として用いてください。神の国にふさわしくない者ですが、どうか根深い罪をゆるしてくださって、ふさわしくつくりかえてください。

また、今日も長老お一人お一人の献身を励ましてください。それぞれの忠実な奉仕を導いてくださって、あなたの喜びに仕えることができますように。
2018. 01. 11  
「神の国」はキリストを王様とする、神の愛と恵みと正義に満たされた王国であると確認してきました。

このことをもっと深く理解するためのコツは、「王様をいただく」ということの意味を考えることです。

少しふざけた響きに感じるかもしれませんが、「殿様」でもかまいません。

あるいはもっと身近に、「社長、校長、会長・・・」という、リーダーについて考えて下さい。


そういうリーダーが、愚かで貧弱な人格であったら・・・。古今東西、そういうケースには事欠きません。

私たちには、よい「王様」が必要です。

自分には王などいらない、誰の家来にもならない、なりたくないという方もいらっしゃるでしょう。

でも、そういう方は、自分自身を自分の「王様」としておられるのです。

だれもが、「王様」なしには生きられないのです。だから、よい「王様」を必要としています。


覚えていてください。「福音=良い知らせ」とは、もともと「神が王となられた」というものです。

イザヤ52:7-10をお読みください。山々を急いで行き巡って使者が宣べ伝えたのは、「あなたの神は王となられた」という「良き知らせ」でした。

そして神は、イエス・キリストという「まことの、よい王様」をわたしたちに下さいました。

エフェソ1:20-21にこうあります。「神は、・・・キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」

私たちは、この「王様」にこそ従うべきです。

逆に言えば、どんな権力者であれ、キリストに背く悪い者には、抵抗してよいのです。

「神の国」に生きるというのは、そういうことでもあります。キリストという「よい王様」に従うということです。


共に祈りましょう。

主よ、イエス・キリストという「よい王様」に従う、「よい世界」が実現しますように。まず私たちの内に、実現しますように。まず私たちの内に、イエス様に忠実に従う心を備えてくださいますように。愛をください。悪と戦う勇気をください。

2018. 01. 10  
「神の国と教会の前進」という、勝田台教会に与えられた目的を分かち合っています。

「神の国」は、終わりの時に神の偉大な御力によってもたらされる、約束の世界です。

その意味で、いまだ完成していません。

でも同時に「神の国」は、すでに、今ここに始まっている、霊的な現実です。


「神の国」はいつどうやって到来するのか、という問いに対して、イエス様はお答えになりました。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:20-21)」

飛行機に乗ってアメリカに入国するように、「神の国」という特別なランドがあるわけではありません。

「神の国はあなたがたの間にある」、あるいは「あなたがたの中にある」。

一人一人の心の中で、あるいは二人または三人が集うところで、愛が育まれ、喜びの歌が歌われ始めるなら、もうそこに、「神の国」は生まれています。

今日、みなさんも自分の中に、また周囲に目を配って、よく見てください。すでにそこにある「神の国」を見つけてください。

それは私たちが生み出したものではない。イエス・キリストが、わたしたちの間に生み出してくださったものです。

イエス様が、わたしたちの間に、大きく育んで、前進させてくださるものです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの今日の一日に、「神の国」に生きる喜びを満たしてください。霊の目を開いてくださって、すでに始まっている「神の国」の喜びの世界を見させてください。そしてわたしたちが互いに喜び合い、励まし合い、愛し合うことができますように。
2018. 01. 09  
今年から4年間の勝田台教会の目標は、「神の国と教会の前進」です。

「神の国への招き」ということが、聖書の最大のテーマです。イエス様の宣教も「神の国は近づいた。だから悔い改めて、福音を信じなさい」というものでした。

神の国、それは天国とも、御国とも、キリストの王国とも言い換えられます。

ギリシャ語では「バシレイア」で、原意は「支配」です。だから、神の国とは、神の支配だとよく言われますね。

神様が王様として君臨し、すべてをよく支配してくださる。愛と正義と平和の世界をもたらしてくださる、ということです。

それは夢物語のようで、どういう世界なのか、私たちには想像することもできない。

むしろ、逆のことを想像してみるといいでしょう。

罪深い悪しき思いで、この世界が、また私たち自身の心が満たされる、支配される・・。

それならば、容易にイメージができるのではないでしょうか。

その悲惨な世界にはっきりと背を向けて、神の愛と平和がこの身に満ちるように求めるのです。神の希望が世界に満ちるように求めるのです。

イエス様は言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが教えてくださったように、御国を来たらせたまえと、何よりもまず祈ります。私たちがまず最も根本において、この祈りにおいて一致することができますように。
2018. 01. 06  
土曜日は「その時の祈り」を紹介します。今日は「新年に」です。

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創造主(つくりぬし)なる神さま

新しい年を、ここに加えてくださいましたことを感謝いたします。

この年、志をたてて主に仕える年とさせてください。

自分の楽しみのために使う時間があれば、その何分の一でも、神さまにささげて生きることができますように。

私たちは時間の中を生きています。無制限に時間が続くとは思いません。

それだけに、限りある時間をいかに有効に使うかは、ひとりびとりの信仰と決断にかかります。

もし困っている人が近くにいたら、骨惜しみせずに助ける者とさせてください。

悲しみの中にいる者があれば、その悲しみを共に担う者とさせてください。

与えられるよりは与える者に、助けられるよりは助ける者に、なることができますように。

そしていま始められた年が終わる日に、「善かつ忠実なるしもべよ」と呼ばれる者とならせてください。

年の初めに定めた目標をしっかり見据え、気をゆるめぬ一年とさせてください。

主にあって。
2018. 01. 05  
昨日に続いて、マタイ24:3-14の、終末のしるしについてのイエス様の教えを確認します。

その最後のところです。「12節 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」

愛が冷える、というのです。

信仰と希望と愛、その中で最も大切なものは愛であると言われました。その愛が冷えるのです。

不法がはびこり、権力者がやりたい放題。倫理は崩壊し、お金で買えないものの価値が見失われていく・・。今も、それに近いでしょうか・・。

そういう時には、最初に愛が冷える。神への愛が冷え、隣人への愛が冷えます。

「13節 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

最後まで耐え忍ぶ。それは、愛をあきらめないということかもしれません。

独り子をお与えになった神の愛をどこまでも見失わないで、その「熱さ、あたたかさ」を確認しながら、冷え切った時代を生きるのです。

ひとりでは、すぐに冷たくなってしまいます。だから、互いに体をあたためあうように、二人または三人で祈りあい、愛し合うのです。

愛と平和の神の国は、わたしたちのうちに始まっていると、堂々と証しするのです。

そのようにして愛し合う群れをとおして、「14節 御国の福音が、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と言われています。


共に祈りましょう。

主よ、この2018年も、表層上の繁栄や笑い声の裏で、多くの人の愛が冷え、確実に冷え続けていることを思わされます。主よ、愛をください。最も大切なものを、わたしたちのうちに満たしてください。
2018. 01. 04  
昨日の新年祈祷会では、マタイ24:3-14を分かち合いました。ここは、新共同訳では「終末の徴(しるし)」と表題がついています。

「終末」、それは主イエスの再臨の時にもたらされる、救いの完成の時、永遠の神の国が到来する時です。

それは、主イエスを信じる者たちにとって、すべての涙をぬぐわれる完全な希望の時です。

この希望の時を待ち望み、この希望へと人々を招く共同体、それがキリスト教会です。

しかし、その「終末」が訪れるまでには、試練の時が続くのですよ・・・それが、イエス様が教えてくださったことでした。

イエス様は、「産みの苦しみ」と表現されました。イエス様のお好きなたとえです。

その苦しみの向こうには、出産のはじける喜びが与えられます。その時には、痛みさえも忘れます。でも、その前には、大きな苦しみ・痛みをくぐりぬけねばなりません。


そういう「産みの苦しみ」が様々に挙げられます。そのひとつとして、「戦争」ということも挙げられていました。

マタイ24:6「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」

今年は年明けから、「核のボタンは私の机の上にある」とのおぞましい挑発の応酬がなされています。

最悪の事態が起こるかもしれません。でも、どんなことがあっても「慌てないように気をつけなさい」とイエス様は教えてくださいました。

そういうことは起こったとしても、何の不思議もありません。人間が、罪人であるからです。

でも、その絶望は「産みの苦しみ」の始まりなのです。その苦しみの中で、私たちの地上の命も失われるかもしれない。でも、その苦しみの向こうに終末の希望が必ず来る。

これが、キリスト者の持つ、希望の歴史観です。

その苦しみを経ることで、はじめて心の向きを変える者もあらわれるでしょう。神は、それを待っておられます。


共に祈りましょう。

主よ、この2018年にどんなことが起ころうとも、希望を失わず、慌てないでいることができますように。しかしまた、希望の人として祈ります。主よ、願わくは地上に平和を与えてください。私たちの愚かさを砕いてください。


プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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