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2018. 01. 31  
教会員には連絡がいっていると思いますが、一昨日の晩にT兄が天に召されました。85歳の誕生日まで、間もなくでした。

Tさんといえば、音楽のお好きな方だったと、皆さん口をそろえて思い出を語られます。

フルートの演奏に親しみ、娘さんの奏でるピアノの音色を楽しんでおられるお写真も拝見しました。

賛美歌を歌うのが好きな方でもありました。Tさんといえば、讃美歌194番。「さかえにみちたる、神の都は♪」葬儀でも、ともに歌う予定です。

音楽がお好きな方だったから、賛美歌にも造詣が深かったのか。むしろ、その逆でしょうか。

いずれにしろ確かなことは、彼にとって、すべてのものの創造主への信仰を与えられた時から、「音楽」の意味が変わったということでしょう。

それは、自分が楽しむための娯楽ではなく、美しい音色を創造される神のすばらしさをほめたたえ、また、神のすばらしさを喜び楽しませていただく、祈りの行為となりました。


「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。(詩編146:1-2)」


まさにこのように、寝たきりの床でも、神へのほめ歌を歌い続けた生涯でした。

今、その魂は、主イエスのもとで完全に安らい、天に奏でられる永遠の賛美の音色に酔いしれておられることでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは今、愛する兄弟をみもとに送り、地上の悲しみを味わっておりますが、あなたの大いなる御手を覚え、畏れつつ、あなたを賛美いたします。どうぞご遺族に深い慰めがありますように。死の闇に光が差した、救い主イエスの復活の希望が、すべての時間を照らしてくださいますように。

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2018. 01. 30  
日曜日には、列王記上3章に記されたソロモンの願いから学びました。

ソロモンは、「自分のための」長寿、富、敵の滅びではなく、「神の栄光のため」に、そして神が愛しておられる「民のために」、よく統治していくことのできる心を求めました。

自分のためではなく、神のため、そして人々のため。ここが、神に喜ばれたポイントです。

そしてそれは、イエス様が私たちに教えてくださった、根本的な愛のかまえです。


「自分のためではなく」・・・純粋にそのように生きることは、イエス様以外の誰にもできません。

「だれかのために生きたい」などと、それは結局「あなた自身の」願望ではないか、自己満足のためではないかという、批判もあるでしょう。

そんなことは、人から言われるまでもなく、よーーーーーーーっく分かっているのがクリスチャンです。

人はみな罪人だから。純粋な、神のため、他者のための愛など、だれにも持てません。


だったらいさぎよく、すべては「自分のため」だと割り切るという生き方もあるでしょう。

でも私は、そうやって開き直るのはもういやだと、決めたのです。

そして私は、そうやって批判だけして、何もしない生き方はもうやめようと、決めたのです。

自分のエゴに気付いていない人の、傲慢な「愛の押し付け」にはうんざりします。

でも、そうやって外から批判してばかりで、自分は結局何もしようとしない、そういう自分自身に、もっともっともっと、うんざりしたのです。

私たちには偽りを含む愛しかありません。でも、それはイエス様がわたしたちのうちに起こしてくださった「新しい願い」です。


共に祈りましょう。

主よ、真実の愛よ、あなたに出会ってから、あなたに愛されたように愛したいと、私は願い始めました。あなたのようには愛せない自分を恥じます。でも、この道を進んでいきたいと願います。こんな「願い」を私に与えてくださって、本当にありがとうございます。

2018. 01. 27  
勝田台教会では、明日は会員総会です。祈ってご出席ください。
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昨日の続きです。十字架を家紋とする信仰の家族、すなわちエルサレムに生きた初代教会の人々の墓が1960年代に発見されたと伝えました。

彼らの石棺には、ラザロやマルタ、マリア、あるいはヤイロなど、聖書の登場人物と同じかと思える名がたくさん刻まれています。

これらの名は、当時たくさんあった名前でただちに同定することはできませんが、あの主に愛された姉妹とその兄弟、あるいはあの主に従った会堂長のことかもしれません。

考古学的にはその蓋然性は高いと言えるようです。

「イシュア(ギリシャ語にするとイエス)」「主にありて」という文字も見つかりました。


さて、改めて十字架の家紋について考えましょう。

十字架は、ローマにおける最も残酷な見せしめであり、ユダヤの伝統では「木にかけられた死体」は呪われたものです。

今日のように、おしゃれなデザインにはなりえない。呪いの紋章です。

そのような紋章が、希望のしるしとして、墓に刻まれている。

こんなことは、イエス・キリストの復活ということがないかぎり、決してありえなかったことなのです。

彼らは確かに、2000年前、主イエスの十字架と復活を目撃し、その意味を主からはっきりと教えられ、希望のうちに死んでいったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今週の歩み、とても寒い日々が続きましたが、ここまで守られて感謝します。明日、主が復活された日曜日を見つめながら、今日の日を希望をもって生きたいと願います。今日、死が与えられるなら、その時に主よ、希望の光で包んでください。



2018. 01. 26  
昨日、聖書考古学の授業で学んだことを紹介いたします。

1960年代に、オリーブ山の一角にひとつの家族の墓が発見されました。

オリーブ山には、ユダヤ人の墓がたくさんあります。それは、終わりの日にはメシアはオリーブ山に来られるという、ゼカリヤ書の預言のゆえです。

「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる(ゼカリヤ14:4)」


この家族の墓には、質素な石棺がたくさんありました。

石棺は、骨を納めるためのものです。遺体を墓穴に安置して一年後、肉体が朽ちた後で、骨だけを石棺に納めるのです。

イスラエルでは骨が大事にされます。それは、復活の信仰のゆえです。

そういう石棺の習慣は、AD70年のローマによるエルサレム神殿崩壊の時まで続きました。


さて、その家族の墓ですが、他の家族とは決定的に違うことがひとつありました。

それは、この家族の家紋が、すべての石棺に刻まれていることです。

そしてその家紋は、十字架でした。

十字架を家紋とする家族・・・、そう彼らは、AD30~70の間に生きた、初代教会の人々なのです。キリストへの信仰によって結ばれた家族です。

続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの信仰の先祖が、キリストの福音を希望として生き、死んでいったという事実を覚えて、胸をあつくされます。今日も、十字架を家紋とする信仰の家族のひとりひとりが、希望と愛を失うことなく歩むことができますように。
2018. 01. 25  
サムエル記下7章に記されたダビデの祈りを、昨日に続いて分かち合います。

祈りの中で、ダビデは神様が導いてきてくださった、救いの歴史を思い返しています。

「主なる神よ、まことにあなたは大いなる方・・・この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれをあがなってご自分の民とし、名をお与えになりました。・・・ご自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民をあがなってくださいました。(22-23節)」


ここで思い返されているのは、出エジプトの出来事です。いつも申し上げますが、これが救いの原体験です。

あの時、エジプトから救い出してくださった神が、今、わたしの神でいてくださる。

わたしは、イスラエルの歴史を受け継ぐ「神の民」とされているから、今日も大きな救いの手の中で守り導かれている。

このように信じるがゆえに、わたしたちは、勇気をもって祈ります。


みなさんにおすすめします。一日に10秒でもかまいませんから、静まって、自分の力を捨てて、神の救いを思い起こしてください。

エジプトから救い出してくださった神。ダビデを愛し、助けられた神。

この神が、今、わたしの神です。この主なる神を畏れ敬う者には、恵みと慈しみは尽きることない。

静まって、いつもこの想起から始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今朝はとても寒い朝です。体調を崩している者もたくさんいますから、十分な癒しが与えられますように。不安や重圧を覚えている者を憐れんでください。モーセもダビデも、不安に満ちていたことを思い出します。主よ、思いを超えた恵みをください。

2018. 01. 24  
日曜日にはサムエル記下7章から、ダビデと神様との恵みのやりとりを学びました。

18節からには、ダビデの祈りの言葉が記されています。このように始まります。

「主なる神よ、なにゆえわたしを、わたしの家などを、ここまでお導きになったのですか。主なる神よ、御目にはそれもまた小さな事にすぎません。また、あなたはこの僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。」


最後の「あなたは僕を認めてくださいました」は、原語では「あなたは僕を知っておられる」です。

わたしたちの過去も未来も、心までも、すべてをご存じの神様。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる・・・。」詩編139篇の冒頭です。この詩編はそのあと、すべてはあなたの手の中にあって、私は離れることはできないと続いていきます。これもダビデの詩です。


私のことだけでなく、はるかな宇宙の森羅万象を素粒子レベルですべてご存じの、大いなる神様。

その神の目に、わたしや、わたしの家のことなど「小さな事」に過ぎません。

しかし、その取るに足らない私たちが、その大いなる御手の中で、導かれ、はるか未来までも約束されています。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる主よ、すべてをご存じのあなたの手の中で、今日というまだ見ぬ未来に飛び込んでまいります。主よ、今不安に満ちている者の心を静めてください。小さな小さな者たちの祈りを、どうぞ聞きあげてください。
2018. 01. 23  
今日はY姉が心臓カテーテルの手術をなさいます。無事を祈ります。

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およそ3年にわたって取り組んできた修士論文ですが、昨日完成しました。

みなさんの祈りに支えられて、やりとげることができました。主が与えてくださったこの3年の時間を、心から感謝します。

今日はその原稿を大学に提出する予定ですが、あいにくの大雪・・・。出勤、通学のみなさんも大変ですね。道が守られますように。

雪というと、やはり詩編51篇を思い出しますね。これもダビデの詩です。

バト・シェバとの姦淫という決定的なあやまちを犯してしまったことの、悔い改めを歌っています。



「わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。(詩編51:9)」



雪よりも白くなるように・・・、そんな祈りを抱えながら、非日常の景色をお過ごしください。

あるいは、その白い雪が、人に踏み荒らされぐちゃぐちゃに汚れていく姿も、わたしたちの罪の現実と似ているかもしれません。

そういえば、田中剛二先生が、求道の友に対してこうおっしゃいました。

信仰告白に際して一番大切なのは、罪の認識なのです。自分の罪を知るということ。これが肝心です。

私もまったく同感します。

キリストの血によって洗っていただかねばどうにもならない、私の罪の汚れ・・・。それを認めることが、何よりも大切で、また難しいかもしれません。


共に祈りましょう。

主よ、わたしのすべてをご存じの神よ、わたしを洗ってください。雪よりも白く、あなたの光を映し出すことができるように。今日は移動に困難を覚える方も多いでしょう。どうか安全をもたらしてください。また、それぞれの健康が守られますように。



2018. 01. 20  
今日は10時から、みんなで「年報」の製本作業です。毎年の恒例行事ですね。

そして明日は、長老・執事の任職・就職式を控えています。3人の兄弟姉妹のために祈りをあつくし、会員もまた誓約をしますので、祈って備えてください。

今日は「その時の祈り」から、「役員のために」という祈りを紹介します。

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主よ、教会生活を始めていささかの時間がたちました。

最初知らなかったことが、このごろわかるようになりました。

なかでも、教会が地上においては「組織」であることがわかりました。

わけても教会総会において「長老・執事」が選ばれ、役員を中心に教会の運営がなされていることを知りました。

御言葉に忠実に従う人が、役員に選ばれますように。

教会のためには損得ぬきで働く人が役員に選ばれ、教会がいきいきとしてまいりますように。

私たちも役員のために祈り、それを支え、任務を分担して、キリストのからだなる教会の形成のために励みます。

それにふさわしい信仰を与えてください。

教職(=牧師)を支える役員がひとりひとり強くなって、御国のために働く教会とさせられますように。

キリストを通して祈ります。
2018. 01. 19  
今週はサムエル記上16章の、ダビデの登場にまつわる物語に教えられて、一週間をはじめました。

家族の中でも疎んじられていたような末っ子のダビデを、「これがその人だ」と、王に選ばれた神様。

「容姿や背の高さに目を向けるな。・・・(神は)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。(サムエル上16:7)」

大変印象的な御言葉です。


面白いのですが、そうは言いつつも、少年ダビデは大変容姿もよく、姿も立派だったと書いています(12節)。

結局見た目も大事なの・・?と言いたくもなりますが、そういうことではなくて、心のよさは見た目にもあらわれてくるということでしょう。

特に、「目が美しい」というのはそうです。聖書においては、目は生命力のバロメーター。信仰の命に満たされている人は、目が輝くのです。

そういう意味で、見た目というのは、やっぱり人間同士の間ではある程度重要ですね。


ただしかし、神様の目には、すべてはお見通しです。その目の輝きの奥にある、罪の闇を見透かされます。ダビデとて、同じです。

思い出した聖句は、ヨハネ2:23-25です。イエス様のなさる奇跡に驚き、信じますとたくさんの人がついてくる。

でも、イエスは「彼らを信用されなかった」と書いてあるのです。なぜなら「イエスは何が人間の心の中にあるのかをよく知っておられたからである」と言われます。

恐るべき言葉です。


新聞に新興宗教の広告がありまして、「神様を信じるのでなく、神様に信じられる人間になる」と書いてあったのを思い出します。

なるほど、なかなか面白いことを言うなと思いましたが、聖書の世界観とはまったく違いますね。

人間の罪に対する理解が、浅すぎるのです。人間は、決して神に信用していただくことなどできません。

こういうところが、人間が作り出した神と、人間を創り出した神の違いのようにも思います。

聖書というのは一面において、人間というものの真実の姿について、神が教えてくださっている書物だと言う事もできます。

そしてそこには、神にまったく信用されない、わたしたちの罪の闇が見透かされています。

でも、そのすべてをご存じの上で、全部引き受けて、全部背負って、赦し、愛し、用いてくださる。

それが、キリストの十字架の犠牲において示された、神様の救いなのです。


共に祈りましょう。

主よ、私の知らない私自身の悪い心もよい心も、すべてを知っていてくださるあなたの御手に、この一日をおゆだねします。主よ、どうか今日の私の、すべてを赦し、すべてを愛し、すべてを用いてください。
2018. 01. 18  
昨日、朝の祈祷会で、改革派教会の50周年「伝道の宣言」をみなで読みました。

その中に、こういうフレーズがありました。「教会は、キリストにある真実な共感をもって、現代社会の抑圧と差別の中に生きる人びとを見つめます。わたしたちは、神の国とキリストの福音が、特に現代社会にあって、傷つき、悩み、病んでいる多くの人たちに差し出されるべきことを自覚します。」

そして、こういう面で、私たちの教会はこれまで十分な取り組みができてこなかったという、反省の言葉が続きます。

これは、今から20年前の宣言です。あれから20年・・。改革派教会は、ずいぶん変わったと思います。

「傷つき、悩み、病んでいる多くの人たち」のことを思いやり、手を差し伸ばそうとする教会に、変えられてきています。

神戸、東北、また熊本という3つの震災の経験も、主から与えられた試練であり、チャレンジでした。

思えば昨日は、阪神淡路大震災から23年目の記念日でした。

あのころわたしは、まだキリストを知らない大学生で、大阪にいながらも、神戸のことなどまったく無関心でした。実に、何の関心ももたずに、いつもと変わらず遊び、お芝居の稽古に夢中になっていました。

他方で、あの時、改革派教会のたくさんの若者たちが、私の母教会である神戸の板宿教会に集まって、ボランティア活動を経験しました。

その中から、牧師になった者が何人もいます。

彼らから、その時味わった奉仕の挫折や、自身の無力、でも、そこで初めて知った信仰のリアリティーということを、教えてもらったこともあります。



イエス様は言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。(ルカ9:37)」

瀕死の旅人を助けたよきサマリア人のように・・・、罪の悲惨の世界に苦しむすべてのものを憐れみ、癒したイエスのように・・・。

行って、あなたも同じようにしなさい。

この言葉に動かされて、教会は変えられてきたのです。私もまた、変えられています。みなさんも・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今もなお苦悩している人々がいる神戸の地を憐れんでください。私たちに、あなたの愛を教えてください。注いでください。まことに愛のない者です。自分のことばかり考えている者です。主よ、あなたが、違う生き方を教えてくださいました。だから主よ、もっと愛する力をください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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