FC2ブログ
2018. 02. 13  
聖書においては、偶像崇拝ということが最も警戒すべき罪として、徹底的に非難されています。

私などは、聖書を読み始めた頃に、このことにとても違和感がありました。排他的な信仰を思わされ、心が引くような思いになりました。みなさんはどうでしょう?

偶像崇拝・・・、その問題の本質は、「神ではないものを神とする」というところにあります。

拝むべきでないもの、拝む必要のないものを拝む。さらには、拝ませる、ということです。

そのことによって生まれる問題は、2つです。

1つは、神様の偉大さをおとしめてしまうことです。

もう1つは、自分の存在の尊さを、また人間という尊い存在そのものをおとしめてしまうことです。

何言ってるのかよく分からないかもしれませんが、そういうことを今週は考えていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、偶像崇拝こそ最大の罪として聖書に示されていることの意味を、よく悟らせてください。わたしたちの周りにあふれている霊的な問題を、するどく見抜く洞察力をください。そして、真に幸いな道を歩ませてください。




2018. 02. 10  
久しぶりに、辻宣道先生の「その時の祈り」から、今日は「焦りがつのるとき」という祈りです。

*************
神さま、理由なく追いたてられるような気分になるときがあります。

しなければならぬ仕事があるのに、いっこうに手がつかず
焦りだけが前面にでていらいらします。

このようなとき、落ち着いて気持ちをしずめ
上よりの「細き御声」に
耳を傾ける余裕を与えてください。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とさとされながら、
イスラエルの民は神に聞くことをしませんでした。
そして失敗しました。

私たちは、おなじ過ちを繰り返したくありません。
あなたがとまれという時にとまり、進めという時すすみます。

人間の思いや判断が先にでて
神さまの指示を、あとまわしにすることがありませんように。

人間が先に結論をだし
その上に立って行動することがありませんように。

どんなに事が急なときも焦って行動せず
まず祈り、御言葉に聞き、その上で進むものとさせてください。

主にあって祈ります。
2018. 02. 09  
列王記上11章に記された、晩年のソロモンのあやまちから教えられています。

ソロモンの外国人の妻たちは、それぞれの故郷でなされている偶像崇拝のならわしを、イスラエルに持ち込みました。これが、一番の問題でした。

「6節 ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった」と言われます。

列王記の書き方では、「主の目に悪とされること」とは偶像崇拝です。

他にも、たくさん悪いことがあります。政治的、社会的に考えれば、ソロモン以降の王たちの腐敗、失政が非難されてしかるべきです。

でも、聖書の歴史記録は、そういう面をあまり多く語りません。

評価の基準は、偶像崇拝に陥ったかどうか。主なる神への信従を貫いたかどうか、だけです。

そこがゆがむならば、すべてはゆがむ・・・ということなのでしょう。

詩編1篇に、すべては凝縮されて言い表されています。

「いかに幸いなことか・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。・・その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」


共に祈りましょう。

主よ、いつもあなたと心をひとつにできないのが、私の悩みです。主よ、赦して下さり、またこの心を整えてくださって、あなたのもとにある「幸い」をゆたかに味わわせてください。
2018. 02. 08  
列王記上11章に記された、晩年のソロモン王のあやまちについて考えています。

彼には1000人にものぼる妻たちがいました。問題は、その多くが「外国人」で、イスラエルとは異なる宗教・文化を持ち込んだということです。

彼女たちはソロモンの心を迷わせ、偶像の神々に向かわせた・・・ここが問題です。

私たちに当てはめるならば、異なる信仰をもつ、あるいは世俗化した文化しか知らない配偶者と、結婚生活をしていくことの困難を考えさせられます。

私自身はむしろ逆で、そういう「外国人」の存在であった者が、キリスト者の妻の影響によって変えられたという経験をもちます。

ですから、キリスト教信仰をもたない方との結婚によって福音が広がっていくということを、積極的に考えたいと、いつも思っています。

ただ、それは一番の理想ですが、そうはうまくいかない。むしろ、ソロモンのように聖書信仰から離れてしまうケースのほうが多いのが、悩みの種です。

オフェンシブに考えるか、デフェンシブに考えるかの違いですね。


問題は、何を一番大切にするかです。ソロモンは、王女たちの歓心を得ることを第一として、偶像を持ち込みました。

私の場合は、デートよりも日曜日の礼拝を優先するというところに、いい意味でのショックを覚えたのが、求道のはじまりだったように思います。

共に祈りましょう。


主よ、配偶者の救いを求める者が、私たちの教会にもたくさんいます。どうかその祈りを聞きあげてください。一人一人が、あなたとの関係を確立し、世の感化を受けることなく、むしろ福音の感化を及ぼすことができますように。
2018. 02. 07  
列王記上11章によれば、ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいたとされます。

徳川家の大奥もそうですが、王様というのはそういうハーレムをもつものです。古代には、3000人の王妃がいたという記録もあります。

しかし、イスラエルの王であれば話は別です。

そういうことはしてはいけないと、申命記17:17に定められています。「王は大勢の妻をめとって、心を迷わせてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない。」


大勢の妻をめとるのは、大変にお金のかかることです。それは結局、民の福祉のためでなく、自分のために金銀を用いることです。

逆に言えば、それだけの金銀の蓄えがあってこそ、そういうぜいたくは成り立ちます。

金銀財宝に囲まれて、かつての純朴な信仰と愛の心を失ったソロモンの姿が目に浮かびます。


繁栄は、人間をゆがませる。これは、聖書の「歴史」から教えられることです。

イエス様が、公生涯のはじめに、荒野で誘惑をお受けになった記事を思い出します。

悪魔はイエス様を高い山に連れていって、地上の国々の繁栄を見せつけ、わたしにひれ伏すならこれを全部与えようと誘いました。

主は言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。(マタイ4:10)」

イエス様がわたしたちに与えてくださるのは、この悪魔と戦う力です。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちに必要なだけの富をお与えください。少なすぎれば卑屈になってしまいます。多すぎれば、あまりにもやすやすと、魂がゆがんでしまいます。主よ、ちょうどいいだけのものを、わたしたちに与えてください。
2018. 02. 06  
今週は、日曜日に与えられた列王記上11章の御言葉を思いめぐらしていきたいと思います。

その前に、旧約の「歴史」を読み進めていくことの意義を、確認しておきましょう。

アブラハムから始まるイスラエル民族は、ダビデの時代に王国を確立し、ソロモンの時に最大の繁栄を迎えます。

それは、神と共に歩んだ民を、祝福したもうた神の恵みに導かれた歴史でした。

しかし、晩年のソロモンの陥った偶像崇拝のあやまちをスタートとして、破滅が始まるのです。

旧約聖書の大半は、このような「神の民の歴史」を記しています。

このあたりが、イスラム教のクルアーン(コーラン)と違うところですね。

クルアーンは、聖書でいえば「戒め」や「箴言」のような言葉ばかりです。聖書は「歴史」を伝えます。この「歴史」にこそ、わたしたちが学ぶべき「教え」があるのです。

聖書が示している「歴史」は、あやまちだらけの罪人の歴史です。

それは、何度も繰り返されます。かつて起こったことが、また起こる。これが聖書の歴史観です。

そういう聖書の「歴史」を原型として、自分自身の人生を、あるいは世界全体の歴史を見つめなおすのです。

これまでに起こったことを、聖書に照らして見つめなおす。そして、これから起こるかもしれないことを、預言者の目をもって見抜いていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、人間は本当に愚かで、いつもあなたを悲しませ続けてきたことを思います。歴史に学ぶことを教えてください。あなたの御心に沿って歩んだ者たちの祝福の道を、私も歩むことができますように。
2018. 02. 03  
昨日は、葬儀の疲れからでしょうか、珍しく大寝坊をしてしまいまして、配信はあきらめました。すみません。

ひとりの人の死の現実と向き合うこと、また、遺族の慰めのために祈ることは、やはり大変なことです。

でも、そのような日々の中で、神は本当に生きておられるということを、はっきりと悟らされた一週間でありました。

葬儀で分ち合った、T兄の愛唱聖句である詩編100篇を、私訳でお贈りします。

この呼びかけに導かれて、一週間の恵みを感謝し、主にほめ歌を歌って、そして、日曜日の礼拝へと進みゆかせていただきましょう。


「讃えのための歌。
    
 凱歌をあげよ、主に向かって、全地よ。仕えよ、主に、喜びをもって。来たれ、御前に、歓呼をもって。

 知れ、まことに、主こそ神。主がわれらを作られた。われらは主のもの、主の民、その牧場の羊。

 さあ入りなさい、主の門に、讃えをもって、主の庭に、賛美をもって。
 
 讃えよ、主のために、たたえよ、その御名を。まことに、主はすばらしい、その慈愛はとこしえに。
    
 その真実は、代から代へ。」

2018. 02. 01  
今日は正午から、T兄の葬儀がなされます。

葬儀においては分かち合いませんが、Tさんの愛した聖書の御言葉に、イザヤ書55章があります。

イザヤ55章は、「わたしのところに来なさい」との神の呼びかけに始まる、印象深い章です。

その中で、6-9節を取り上げますので、共に味わわせていただきましょう。

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。

 神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。

 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。

 わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。

 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」


「死」の向こうに何があるのか、それは人知を超えたことです。

わたしたちの思いを高く超えた、神の大きな御手の中にゆだねるしかありません。

ならば、この神を尋ね求め、仲直りさせていただきなさいと、勧められています。

どれほどわたしたちの罪が深くても、神の赦しの愛もまた、思いを高く超えてはるかに大きいから・・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの大きな手の中で、生かされ、また死なされていく、小さなわたしたちの存在を、今日も憐れんでいてください。今日なされる葬儀を通して、あなたが確かに生きておられることをお示しくださり、悲しむ者たちに永遠の慰めをもたらしてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR