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2018. 02. 28  
私たちの人生には、様々な出来事が起こります。

教会の歴史にも、この世界全体の歴史にも、様々な出来事が起こります。

大切なのは、その出来事とひとつひとつ丁寧に向き合い、神様との関係において、その意味をよく悟り、受け止めることだと思います。

「バビロン捕囚」という悲劇は、本当につらく悲しいことでした。でも、その意味を大切に考えたことによって、神の民の未来は開かれました。

彼らがどのように受け止めたのかを知るのに、ネヘミヤ記9章に記されている祈りの言葉は重要です。

お手元に聖書のある方は、ぜひ全部読んでください。

これは、捕囚から解放されて後、エルサレムに帰還した人々が、再建した新しい神殿においてささげた礼拝の中で、大きな声で叫ばれた祈りです。

そこには、これまでの過ちの歴史が振り返られています。

神は、ご自身の約束にしたがって助けを与え、イスラエルの民の歩みを支えてくださった。しかし、先祖たちは神に背きつづけ、神を無視してきた・・。

天地創造の時以来の、そういう過ちの歴史を、切々と振り返るのです。

「あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。(ネヘミヤ9:33)」


このようにして、イスラエルの人々は歴史から学び、悔い改めました。

屈辱的な、民族の悲惨の歴史を語り継ぐのは、もう二度とこのようなことを繰り返してはならないと、この悔改めを受け継ぐためです。

悔い改める者たちには、必ず未来が開かれます。神は、決してお見捨てにはなりません。

特に日本人であるわたしたちに足りないのは、そのようにして歴史に学ぶという姿勢かもしれません。



共に祈りましょう。

主よ、これまで積み重ねられてきた人類の歴史、4000年にわたる信仰者の歴史、この日本という国の歴史、わたしという人間の小さな人生・・・、そのすべてをここまで導いてきてくださった、あなたに栄光がありますように。
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2018. 02. 27  
先の日曜日は、「バビロン捕囚」の悲劇について記録した、歴代誌下36章の記事を分かち合いました。

朝の礼拝で、このような箇所を取り上げる教会は、多くはないと思います。

一度この「バビロン捕囚」を、真正面から取り上げて、説教を取り次いでみたいと願っていました。「バビロン捕囚」において味わった悲惨と、神の民の悔い改めということが分からないと、聖書全体の構造がよく分からないままになるからです。

聖書が教えてくれる神様の救いをとらえるためには、大きく3つのポイントがあります。

エジプトからの解放と、バビロンからの解放、そしてイエス・キリストの十字架と復活による罪からの解放です。


主なる神は、助けを求めるイスラエルの人々の叫びにこたえて、「奴隷の家」であるエジプトから救い出してくださいました。

そして、海を越え、ヨルダン川を越えて、約束の地カナンに入れてくださり、そこで豊かな王国を建て上げてくださいました。

これが、終わりの時に完成する「神の国」の原型とも言えます。


しかし、繁栄もつかの間、歴代の王は偶像崇拝にふけり、社会は腐敗し、人心は荒れ、王国は破滅に向かいます。

そして、ついに神は怒りを爆発させ、新バビロニア帝国を用いて怒りの鞭をふるわれ、王国は滅亡します。

神の懲らしめ、裁きとしての「バビロン捕囚」の悲劇です。

その時味わった悲惨・・・。飢え果てた母親が、子を煮炊きして食うというような地獄絵図・・・(哀歌4:10)。

これが、「罪人の悲惨」というものです。そしてこの捕囚の悲しみの中で、人々は、神に背き続けた自分たちの「罪」ということをはっきりと悟ったのです。


しかし、この破滅は、神との関係の終わりではありませんでした。

救いの糸は、まだ切れずに、か細く残っていたのです。神は、怒りに怒られたが、決して彼らを見捨てることはできなかった。憐れみを絶やすことはできなかった。

それゆえ、再び救いの手を差し伸ばし、失われてしまった罪人たちをひとりひとり探して、連れ戻して、新しい出発をさせてくださいます。

そのようにして、かつてエジプトから救い出してくださった神が、バビロンから救い出してくださったのです。


この神が、「罪」にとらわれた人類を、イエス・キリストにおいて裁き、かつ、救ってくださる、というわけです。


共に祈りましょう。

主よ、旧約の歴史をとおして、あなたのことをよく知り、わたしたちの先祖の歩みをよく知ることができますように。そして、人間のことを知り、自分自身のことをもよく知ることができますように。
2018. 02. 23  
今週は、日曜日に与えられた創世記12:1-4の御言葉を思い返しています。

アブラム(後のアブラハム)は、「あなたを大いなる国民にする」との約束、すなわち、子々孫々にわたる神の祝福の約束を信じて歩みました。

今世界で、アブラハムを父祖として覚えているのは、ユダヤ教、キリスト教、またイスラム教の人たちもそうです。

まさしく信仰の子孫が増え広がり、全世界に広がることになりましたが、きっとアブラムには想像することもできなかったでしょう。

そんなことは、想像することもできなかったけど、ただ、神の約束を信じて歩んだのです。

神は、私たちの小さな想像を超えることをなさる方だから・・・。


私は、このような御言葉を受け取りながら、今まであまり考えたことのなかった自分の子孫たちのヴィジョンが、ぶわっと脳裏に広がりました。

それは、血統上の子孫にとどまらない、キリストへの信仰においてつながっている教会の子どもたちのヴィジョンです。

100年後、300年後、500年後・・・、主が終わりをもたらしたもうその時まで、私の子どもたちもまた、今の私と同じように恵みと平安に満たされて、主をほめたたえている光景です。

その歴史は順風満帆なはずがありません。幾たびも試練を越え、苦難を味わいながら、それでも教会は守られ続け、信仰の火がともされ続けているのです。

そんなヴィジョンが広がったのです。

だから、思いました。そうだ、300年先の子どもたちのために、今、私がなすべきことをしよう。

アブラムのように、神の約束を信じて、勇気をもって歩みだす一歩。私たちのその一歩が、未来へと通じるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが見ておられること、考えておられることは、はるかに壮大でまた思慮深く、私たちには想像もできません。だから、ただあなたを信じて歩みたいと願います。信仰を与えてください。父たちに与えられた信仰を、私にも与えてください。そして、祝福を広げてください。


2018. 02. 22  
ゴー先生が解き明かしてくださった創世記12:1-4の、アブラムの旅立ちの記録を思い返しましょう。

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしがあなたを大いなる国民にしよう。』」

わたしたちの信仰の祖先であるアブラムは、こういう神さまからのコーリングに応えて、信仰の旅路を歩み始めました。

そのとき、75歳。

それまで住み慣れた環境を捨て、人生をやりなおすようにして、旅を始めたのです。チャレンジを始めたのです。

それは、ゴールが分からない旅でした。神様は、「わたしが示す地」と言われましたが、それがどこであるのかは分からないまま出発したのです。

私たちの人生も同じでしょう。

それぞれに、神が用意してくださる目の前の課題に、ひたすらチャレンジを繰り返しながら、わたしたちは毎日を懸命に生きます。

新しい仕事・奉仕が与えられる・・。人生の困難が与えられる・・。病が与えられる・・。取り組むべき試験が与えられる・・etc。

実に神様は、それぞれの人にそれぞれの仕方で「信仰」の試練を与え、勇気をもって歩みだすことへと導かれます。

それらはすべて、ゴールが見えない旅路です。

ゴールどころか、一歩先に何があるのかも分からない、手探りで闇の中を行くようなチャレンジです。

わたしたちにできるのは、与えられた課題に向き合って、毎日を、信仰と希望と愛をもって、懸命に取り組むことだけです。

一歩、また一歩と、明日のことを思い煩わず、今日の歩みを進めます。

わたしたちにはゴールは見えません。でも、神様は、わたしたちのゴールを知っていてくださいます。最善のゴールを備えていてくださいます。そこに向かって、すべてを導いていてくださいます。

だから、わたしたちは、不安ではありません。

主が共に歩んでいてくださるからです。主が、わたしの祝福を約束してくださったからです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も信仰の旅路を行くすべての旅人たちに、あなたの恵みと祝福がありますように。すべてを知っていてくださる、あなたの大いなる手に、この小さなわたしの人生をおゆだねします。
2018. 02. 21  
日曜日の礼拝ではジョン・ゴー宣教師が説教してくださいました。ゴー先生は、私にとって魂の恩人ともいえる方です。

7年前、牧師としてのそれまでの歩みの至らなさを思い知らされていた時に、先生と出会いました。

そして彼を通して、今までとは違う角度から聖書を読み始めるようになりました。そして私の内に、新しい熱心が起こされました。

日曜日の説教によって、初心に帰らされた思いです。

ゴー先生の取り次いでくださったことは、私が6年間、勝田台教会に取り次ぎ続けてきたことと同じです。あんなにパワフルではありませんが・・。

私たちは、日本人である前に天国人であること。神の息子、娘であること。

神は、わたしや、わたしの周りに、変化を生み出してくださる方であること。

「祝福の源」として選ばれたこと。わたしから、わたしの周りに神の祝福が広がるように。神が、わたしを遣わされるということ。

キリストを愛する者は、この世でハッピーになるとは聖書に書いていない、必ず苦難があると教えられていること。

人生の困難があり、迫害があり、病があり、災害もある。必ずある。しかし、それらは、主が全部知っていてくださること。すべてを通して、主のご栄光があらわされる。

だから、最後まで耐え忍びなさい。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)」。


これらはすべて、何も特別なことではない。聖書をすなおに読んでいけば、そのように書いてあるのです。

共に祈りましょう。

主よ、今日も私の愛するお一人お一人に、あなたの恵みの導きがありますように。今、困難の中にある者たちのことを思います。今日もがんばって生きようとしている一人一人を、強く雄々しくあらせてください。すべてのことを通して、あなたがご自身の栄光をあらわしてくださいますように。



2018. 02. 20  
先の日曜日は、私は朝から「御言葉を聴く」ことに集中することがゆるされ、大変恵み深い一日でした。

礼拝ではジョン・ゴー宣教師が大胆に語ってくださり、ドキドキするような思いで、御言葉のスリルと言ってもいいでしょうか・・、神の御前での緊張を感じながら、上から、まったく自分の外から、御言葉がわたしを射抜いてくるという感覚を覚えていました。

そのことは、また明日分かち合います。

今日は、その礼拝の前になされた子どもたちの教会学校で、TCUの林茉莉神学生がなしてくださった証しの言葉を分かち合いましょう。

林さんは、クリスチャンホームで、お母さんのおなかの中にいたころから教会に通っていたわけですが、ずっと神様のことを遠くに感じていたようです。

でも、ご自分にとってつらい試練のときに、「(地上のどんなものであっても)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:39)」という御言葉を与えられ、神様が近くにいらっしゃることが分かったそうです。

それからは、神様が共にいてくださると思うと、毎日はとてもうれしいと、子どもたちに伝えてくださいました。

それは、ディズニーランドに行くのの何倍も、くらべものにならないくらい、うれしいよと。

林さんはもうひとつ、御言葉を伝えてくれました。Ⅰペトロ5:7です。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

神様が、小さなわたしのことを心にかけていてくださる。だから大丈夫。すべてお任せしなさい・・・。

なんだかとてもストレートにこの御言葉が迫ってきて、涙が出そうになりました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがこの小さな一日を与えてくださいました。生きよと、命じてくださいました。そして、すべてを心にかけていてくださることを感謝します。主よ、すべてをお任せします。今日もすべてのことを通して、あなたのご栄光があらわされますように。

2018. 02. 17  
今週は偶像崇拝の問題ということを考えてきました。

明日は、主の日の礼拝です。わたしたちのなすべきまことの神礼拝は、どこが違うのでしょうか。

ひとつの決定的なポイントは、偶像はものを言わないが、主なる神は言葉を語られるということです。

詩編115:2-8をお読みください。

「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず・・・のどがあっても声を出せない。・・」


改革派の会堂には何もないので、「何を拝んだらいいの?」と言われる方もしばしばです。

でも、目に見えるものに心を奪われずに、神が、今語りかけてくださる、ライブな御言葉に集中するのです。

神の御前に静まって、自分の言葉をいったんすべて捨て去って、自分の外から聞こえてくる御言葉に聞くのです。

自分が聞きたくないことも、今まで聞いたことのなかったことも・・・。

そして、そういう語りかけを受け止める時に、わたしたちのうちに新しい祈りが生まれます。賛美の思いが起こされます。

そういう、ライブな、生きた声をもって神に語りかけるのです。

わたしたちの礼拝というのは、そんな神との生きた対話です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは生きておられます。今週も、あなたと語らいながら、日々励まされ、戒められて歩むことができました。明日、ゴー先生を用いてくださって、あなたの御言葉を聴かせてください。
2018. 02. 16  
今度の日曜日は、ジョン・ゴー宣教師をお迎えして説教をしていただきます。2014年以来ですが、前回の時に、この御言葉を解き明かしてくださったことが記憶に残っています。

「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(使徒言行録17:16)」

偶像があふれているのを見て「憤慨した」というパウロの怒りが、わたしたちにはありますか?と問いかけられたのです。


日本にも偶像があふれています。人間が自分勝手にこしらえた、たくさんの神々があふれています。

おそらくこれほどに、「神」という言葉が軽く扱われる国も、他にないでしょう。

パウロは、そういう状態に「憤慨」します。


自分は無宗教だと逃げながら、願いごとだけは叶えてほしいと初もうでに殺到するひとたち。そこにあるのは、自分、自分、自分です。

まことの神への畏れも信頼もなく、神の言葉に聞き従うということから徹底的に逃げながら、自分の手の中で、都合よく神々を作り出していく人間の罪。

わたしたちは、それを見て「憤慨」するのでしょうか?

むしろわたしたちもまた、自分に都合の良い程度で、神とのお付き合いを楽しんでいないでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、ともすればあなたを忘れ、逃げるものです。あなたに従うところに、平安と祝福があると言われているのに・・・。まことの神を侮り続ける、この罪の世界に慣れきってしまったわたしたちを赦してください。そして、その罪から離れさせてください。
2018. 02. 15  
列王記上18章における偶像崇拝との苛烈な戦いの記事から、いろいろと考えさせられています。

偶像崇拝というのは、「神ではないものを神とする」ことに本質的問題があると言いました。

「主こそ神です、主こそ神です(列王記上18:39)」と、人々が我に返って信仰告白したように、神とはただおひとり、「主なる神」だけです。


「偶像」といっても、仏像とか、ご神体、ご神木の類だけではありません。人間を、神として崇拝させるというのもそうです。

エジプトのファラオ、ローマの皇帝・・、古代の支配者たちは、神として崇められることを要求しました。

日本においては、あの戦争に敗北するまで、天皇は「現人神」として崇拝されました。

江戸時代には、一般庶民にはまったく馴染みのなかった天皇ですが、明治政府に君主として担ぎ出されて、神格化されます。

西洋にはキリスト教があるが、日本にはそのような、国民を統合する宗教的基軸がない。だから、それに代わるものとして、神道を急ごしらえで組織化・体系化し、その頂点として天皇を置こう・・と、明治政府が考えたわけです。

これを「国家神道」といいます。それまでの日本古来の自然神道とは似て非なる、「天皇教」とでも言うべき新興宗教でした。

ところが、担ぎ出された明治天皇は、京の御所で女官たちに囲まれて育ったボンボンですから、まったく頼りないものでした。

ひどい酒好き、女好き、勉強はだめと・・・、明治政府が求める立派な君主、「現人神」からは遠く離れた実態だったようです。

だから、無理やり権威づけて、スパルタ教育もして、「こうであらねばならない」という天皇像をつくりあげていきます。これぞまさしく「偶像」です。

戦後、天皇の人間宣言はなされました。でも、この「天皇教」の構造は、実はなにひとつ変わることなくこの国に残っているのです。


共に祈りましょう。

主よ、この日本という独特の、実に独特の異教国にあって、キリストを知る者とされたということを感謝します。それゆえの様々な難しさもあります。主よ、どうか今日も、すべてのキリスト者を支え励ましてください。


2018. 02. 14  
日曜日には、列王記上18章に記された、ドラマチックな出来事を分かち合いました。

バアルやアシェラという偶像の神々の預言者と、聖書の示す主なる神の預言者であるエリヤとの対決の場面です。

結果はエリヤの圧倒的勝利で、主なる神こそ、生きておられるまことの神だと示されたという故事でした。


改めて、偶像崇拝ということを考えますと、日本という国はたくさんの偶像に満ちています。

ただおもしろいことに、多くの人はそのことに無自覚なのですね。7割の人が、自分は「無宗教」だと答えるようです。

でも、プロテスタントのキリスト者の立場からすれば、なんとくだらない迷信にとりつかれていらっしゃるのかと、思ってしまうことがしばしばです。

バアルやアシェラ崇拝のような原始的な宗教も、いくらでも残っていますね。

あまり意識されることはありませんが、天皇という存在も、極めて宗教的な存在です。これは別の機会に考えましょう。

難しい言葉でいえば、日本人は、自分が「創唱宗教」の信者であることを否定しますが、無自覚のうちに「自然宗教」の信者なのです。

私自身は、キリスト者になる時に、「この生き方こそが理にかなっている」という思いを強くもっていました。

少なくとも、自分自身をちゃんと知ろうとしない日本人的発想から、自分は決別するのだと、ちょっとうれしくなったことを覚えています。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに出会わせていただいてから、私はものをよく考えるようになりました。世界の仕組みについて、ひとつの明確な考えをもつことができるようになりました。そして、自分自身の罪も知り、その赦しの喜びも知りました。自分のことを、大切に見つめなおすことができるようにもなりました。そのことがうれしいのです。主よ、感謝します。今日もまた、私に新しい知識を与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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