FC2ブログ
2018. 03. 24  
明日より受難週がはじまります。残念ながら、来週はまたキャンプのため、配信をすることができません。

でも、みなで祈りを合わせて、主の御受難の意味をかみしめ、イースターへと向かわせていただきましょう。

今日は、受難週を前にしての祈りです。

*******************
神さま、私たちにレントの期間を与えてくださいましたことを感謝いたします。

主イエス・キリストの十字架の意味が前よりわかり

主の十字架の苦しみが、身近に感じられるようになりました。

明日より迎える受難週を、その仕上げとして過ごさせてください。

聖霊によって導いてください。

私たちの鈍さは、聖霊によって開かれ導かれなければ、どうにもなりません。

主イエスがなんのためにエルサレムに入られたか。どうして宮清めをなさったか。

主が十字架におかかりになる前に起こった一つ一つの事柄に、信仰的わきまえを与えてください。

ゲツセマネで流された主イエスの血の汗や

最後の晩餐の席のユダの裏切りを

物語としてではなく、事実として受け取る感性を与えてください。

主の十字架の苦しみを思い、自らを楽しませる欲望を避け

すべての誘惑から、私たちが助け出されますように、

主にあって祈ります。
スポンサーサイト



2018. 03. 23  
今はレント、受難節を過ごしています。キリストの十字架の死の意味を、特別に想い起しながら、説教準備を進めています。

その過程で、イザヤ書43:24-25の御言葉を示され、考えさせられました。

神は言われます。あなたは、わたしを少しも喜ばせようとしない。

「むしろ、あなたの罪のためにわたしを苦しめ、あなたの悪のために、わたしに重荷を負わせた(煩わせた)」と。

神が苦しんでおられる、と言われています。これは、ショックです。

あなたの罪のために、わたしは苦しんでいる。耐え難い重荷を負わされている、とおっしゃるのです。

それは、悲しみのゆえ、また怒りのゆえでしょう。

神を見失ったわたしたちの織り成す、罪の悲惨に満ちた現実が、神を思い煩わせているのです。



わたしたちは、自分が神を思い煩わせていると、真剣に考えたことがあったでしょうか。



かつて、私の師に教えていただいたことを思い出しました。

もう18年も前、9・11アメリカ同時多発テロの時、まだ20代だった私は師に問いました。「どうしてこんなことが起こるのですか。神は何を考えておられるのですか。」

師は答えてくれました。「・・・このような時には、神の御心を問う前に、人間の罪の闇の深さについて、まず考えなさい。

このようなことが起こる時に、一番悲しんでおられるのは神ご自身です。神が、この罪の悲惨をごらんになって、苦悩しておられるのです。」



神はこの思い煩いを解決なさるために、どうなさったでしょうか。

イザヤ書の続きには、驚くべきことが書いてあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」

神は、もうまっぴらだと、罪深い人間を見捨て、消すという手段を、もはやお選びになりません。

その罪をぬぐい、もうあなたの罪を思い出さないと言われます。それは、この煩わしい私たちという存在を、まるごと引き受け、愛し抜くと、言っていただいているに等しい。

そのために、キリストの十字架が必要だったのです。


共に祈りましょう。

主よ、私自身の思い煩いばかりが、私の心にありました。あなたがそれに応えてくださらない、どうしてか・・・、そんな思いもありました。しかしあなたが、私の罪の日々を、悲しみ、思い煩っておられたことを知りませんでした。主よ、ごめんなさい。赦してください。

2018. 03. 22  
昨日の朝日新聞の「折々のことば」に、こんな言葉が紹介されていました。

「賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。(オルテガ・イ・ガゼット)」

(こちらで読めます。www.asahi.com/articles/ASL3G45PML3GUCVL00G.html)

おもしろいですね。昔、養老猛さんが「バカの壁」という言葉で言おうとしたことと、重なると思います。

賢者というのは、愚か者だと自覚し、「自分」を疑っている人です。

「自分」の分かっていることなど、ほんのわずかでしかない。

「自分」が正しいと思っていることは、ぜんぜん正しくない可能性がある。

そういうことを知っているから、新しい知識に貪欲だし、「自分」が変えられていくことを恐がりません。

しかし、そうはいかないのが私たちです。

どんなに外から揺さぶられても、なんでも「自分」に引きつけて、これまでの「自分」に分かる範囲でだけ、都合よく受け取ろうとする。

そうやって、ぐるぐるぐるぐる「自分」の中でとどまっているから、いつまでたっても「バカ」の壁を超えられない。

しかも残念なことに、私たちにはそういう愚か者であるという自覚さえ、なかなかもてない。

自覚していると思っている人ほど、実は結局「自分」の殻を破ることができないで、ぐずぐず言い訳ばかりしている。



先週の全国学生会でも、「自分を超えていけ」と言われていました。

居心地のいい「自分」に安住しないで、今の「自分」を疑って、どんどん殻を破って成長していきなさい・・・と。

マタイ16:24の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という御言葉が引かれました。

私たちの古い「自分」は、イエスと共に十字架につけられ死なしめられたのです。

だから、古い「自分」をいつも何度でも捨て去って、イエス様に従う新しい歩みにおいて、何度でも「自分を超えていきなさい」と、教えられました。

これは、学生たちだけが聞くべき言葉でしょうか・・・。



共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの人生はあなたのものです。わたしたちが勝手に「自分」を知った気になって、小さく固めてしまわないように。わたしを砕いてください。開いてください。

2018. 03. 21  
昨日からカンボジアへのミッショントリップが始まっています。勝田台教会からの献金をホザナスクールに届けてくださいます。覚えてお祈りください。

今日は、先週の全国学生会の講演で、ハッとさせられたことを分かち合います。

神戸改革派神学校校長の吉田隆先生を講師にお招きし、「善き生活」について教えていただきました。

その中で、改めて考えさせられたのは「Life」という言葉です。

Christian Life という風に言いますね。このLifeという言葉は、面白い言葉です。

「命」であり、「人生」であり、「生活」です。日本語では訳し分けますが、Lifeだとすべてをまとめてとらえることができます。

聖書で言うところの「命」とは、まさにこの「Life」ということを指します。

そして、「永遠の命」とは、言うなれば、「高次のLife」です。

永遠の命とは、唯一のまことの神である主と、その御子であるイエス・キリストを「知る」ことだと言われています(ヨハネ17:3)。

「知る」とは、深く結び合い、愛し合うことをも含みます。

神を知らなかった人間が、神を「知る」ようになる。神に愛され、神を愛するということを「知る」。

そのとき、その人のうちにはじまる、決定的に新しい「Life」、それこそ「永遠の命」です。

それは、その人本来の尊厳が輝きだす「人生」の始まりであり、まったく違う価値観に基づく「生活」の始まりなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちに新しいLifeの喜びを増し加えてください。信仰と希望と愛をゆたかに与えてください。いつも喜んでいることができますように。感謝する心を与えてください。賛美の歌を、この口に与えてください。恐れも不安も、すべてをあなたが受け止めてください。
2018. 03. 20  
このところ、公文書の改ざんのニュースで持ちきりです。

生真面目さと秩序が取りえだった国でしたが、このようになってしまいました。大事の前の小事とは、私には思えません。

今回の真相は分かりませんので、安易に世論に同調するのは控えます。

ただ、世の道理として、自分の持っている権力に無自覚でいる権力者ほどタチが悪い、ということは言えましょう。

また、この世の支配者は、自分の命を守るために、臣下の命を要求し、時に臣下を裏切りさえもするというのも、歴史が教えることです。

私自身もまた牧師という、宗教的権力者とみなされうる者として、そういう愚かさを抱えます。


キリストはそうではありませんでした。

今は、十字架の御受難を特別に想い起すレントの時を過ごしていますが、あの前夜、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言いました(13:37)。

主イエスに魂をわしづかみにされた者は、そのようにして自ら献身へと向かいます。

残念ながら、ペトロはそれを全うできず、主を裏切ることになりました。

しかし、ご自分を裏切った者たちのために、その命をささげてくださったのが主の十字架です。



そのようなことを思いながら、詩編36篇の祈りをもって、共に祈りましょう。



神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。
彼の前に、神への恐れはない。
自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。
彼の口が語ることは悪事、あざむき。
決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
・・・・

主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている。
・・・・
神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きをいやす。
命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。

あなたを知る人の上に、慈しみが常にありますように。
心のまっすぐな人の上に、恵みの御業が常にありますように。

神に逆らう者の手が、わたしを追い立てることを許さず
おごる者の足が、わたしに迫ることを許さないでください。

悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され、再び立ち上がることはない。






2018. 03. 10  
おはようございます。今朝は「その時の祈り」より「土曜の夕に」と言う祈りを紹介します。

こういう祈りを覚えつつ一日を過ごし、ぜひ、夕べの時に、祈りの言葉に心を合わせてみてください。

なお、来週は一週間出張ですので、配信をお休みさせていただきます。

**************
天地のつくりぬしなる神さま

一日の終わりに、そして一週の終わりに、このように密室を用意してくださいましたことを感謝いたします。

御子イエス・キリストは、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて祈れ」とおおせになりました。

いま、命ぜられた場所で心静かに祈ります。

かえりみてこの一週間、なんと多くの世俗的な思いが私の心に入りこみ、

ほしいままにふるまい、不信仰な爪痕を残して去ったことでしょうか。

あなたは「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」とおおせになりました。

いま一週間の実りがなんであったか考えます。

あなたにつながって、豊かな実りを得たかどうかを考えます。

もしそこに貧しい実りしか見られないなら、主よ、私の祈りの不足のゆえでした。

今こそ、戸を閉めて祈ります。

あすの礼拝に備えます。

よい日曜を迎えさせてください。

主によって祈ります。
2018. 03. 09  
本日、午後1時より東京基督教大学の卒業式があり、修士号をいただきます。これまでの皆さんのお祈りに、心から感謝を申し上げます。

*************
先の日曜日に分かち合ったイザヤ書35:8の御言葉です。

「そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主ご自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。」


この「大路」とは、高速道路のような道です。バビロンからエルサレムへと、荒れ野を貫いて一直線に開通するハイウェイのイメージ。

このハイウェイは、罪人が神のもとへと帰るために、キリストによって用意された救いの道でもあります。

その道は「聖なる道」であり、「汚れた者」は通ることはできません。

そう言われると、つらいものです。

聖なる神様と、真剣にお付き合いをしようと考えるなら、必ずわたしたちは、自分が「汚れた者」であることに気付きます。

適当な距離感で、信仰ごっこをしている間は、それほど「汚れ」を意識することもないでしょう。

「汚れ」を覚えさせられるのは、つらいことです。

でも、そういう者が、ただ神の恵みと憐れみによってきよめられ、「聖なる道」を通らせていただくのです。


「愚か者がそこに迷い入ることはない」というのは、違う翻訳も可能です。

「愚か者でも、もはや迷うことはない」。このように訳すと、これもまた慰め深い約束です。

私たちは「汚れた者」「愚か者」ですが、羊飼いである主イエスが間違いなく先導してくださるから、迷うことなく、救いのハイウェイを歩ませていただくのです。



共に祈りましょう。

主よ、目を開き、耳を開き、あなたとの距離を縮めてください。自分の汚れに気付かせてください。そして、その汚れをきよめてください。今日も少しずつ、わたしを作り変えてください。
2018. 03. 08  
先の日曜日には、イザヤ書35章をいただきました。その中の、5-6節にこうあります。

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。

そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」


目が開き、耳が開く。これは、霊的開眼ということを暗示しています。

神様がまさに生きておられるということを、まざまざと知り、心の目が開かれるのです。

そうすると、神様の語りかけも聞こえてきます。

慈しみと慰めに満ちた「安心して行きなさい」という声も・・。

真実の愛と正義に裏付けられた「このように生きなさい」という教えも、戒めも・・。

そうして目も耳も開かれた人は、元気がでます。必ず元気になります。

倒れていても、復活するのですね。そして、鹿のように躍り上がります。

そうして、喜び歌うようになります。これは、神へのほめ歌です。賛美を口ずさむようになる。

これは、人間本来の喜びの姿の回復です。神を賛美し始めた人間は輝きます。



共に祈りましょう。

主よ、私たちの目を開き、耳を開き、あなたへの信頼を呼び起こしてください。あなたの言葉が、もっとこの魂に響いてくるように、わたしを砕いて下さい。そうして、生きる喜びを満たしてください。このくだらない言葉ばかりが出てくる口から、あなたへのほめ歌があふれだしますように。
2018. 03. 07  
今日は祈祷会があります。互いに祈り合うまじわりは、信仰の人生の格別の恵みです。

小さなグループに分かれて祈るのが、勝田台教会の流儀です。そんな時に、ひとりひとりの具体的な名をあげながら、祈りを合わせます。

自分の知らないところで、自分のためにどれほどの祈りが重ねられているのか・・。そんなことにも気づかされます。

直接に、グループの仲間のために祈ることもあります。

私自身、信頼する信仰者に祈っていただくことの喜びをたくさん味わってきたので、そのように祈り合うことを奨励しています。

ヤコブの手紙の中にも、長老に祈ってもらいなさいという有名な御言葉がありますね。

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。

あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。

その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白しあい、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコブ5:13-16)」


この御言葉は実に不思議で、戸惑いさえ覚えさせられます。

「正しい人の祈り」とは、なんでしょうね?

正しい者はいない、ひとりもいないと言われているのに・・・。ただ、旧約聖書の詩編の言葉づかいでは、「正しい人」とは、憐れみにひたすらすがって「主に頼る人」とイコールです。

そういう人とともに祈りあうことは、主の平安に満たされる至福の時です。


共に祈りましょう。

主よ、キリストのあがないのゆえに、わたしたちがあなたに祈ることのできること、この特権を感謝します。そして、互いに祈り合う信仰の仲間を与えてくださってありがとうございます。
2018. 03. 06  
今、病を与えられている方々、大きなケガをされた方々、試練を味わっている方々のことを覚えながら、日々祈っています。

その癒しを、切実に願います。

同時に、それらの出来事を通してまた深く、広く、神の御旨を悟ることができますように・・と、そうしていよいよ砕かれて、信仰と希望と愛が増し加えられますように・・と、祈っています。

詩編37:23-24の御言葉を思い出しています。

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。

主がその手をとらえていてくださる。」


わたしたちの願いにかなう道ではなく、大きな大きな主の御旨にかなう道が備えられます。

私たちにとって、それがなにより、幸いなことです。

病与えられ、試練与えられ、落ちこみ、肩を落とす時がある。でも、主がその手をとらえていてくださる。

彼らが、今その状況の中でなす証しが、自分ではない誰かのため、あるいは明日、明後日、100年後の未来のために、主の大きな大きなご計画の中で豊かに用いられもするのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが愛しておられ、わたしも愛している者たちを、どうか大きな御手の中で、髪の毛一本さえ無駄に落ちないように、完全にお守りください。すべてを通して、あなたの栄光があらわされますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR