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2018. 04. 06  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:5です。

<私訳>「このお方によって、私たちは使徒の務めという恵みをいただきました。それは、御名のために、まだ神を知らないすべての人々に、信仰すなわち従順をもたらすためです。」


パウロが伝える「福音」は、死者の中から復活された主イエス・キリストその方のことです。

そのキリストによって、彼は「使徒の務め」を受けたといいます。

イエス様に呼ばれた人には、いつも「務め」がともないます。役割と言い換えてもいいでしょう。

「使徒」という特別な「務め」ではなくても、わたしたちにもそれぞれの「務め」が与えられます。

それは重荷ではありますが、そこにこそ「恵み」があります。

「使徒の務めという恵み」というのは、原語で「恩恵と使徒職」という言葉の意訳ですが、パウロの思いはまさに、この重大な務めをいただいたことこそ主の恵みであるということでした。


そしてパウロは、自らのその「務め」を、「異邦人=まだ神を知らない人々」に「信仰すなわち従順」をもたらすということだと理解していました。

「信仰すなわち従順」としたのは、新共同訳では「信仰による従順」とされているところです。

私の解釈では、「信仰すなわち従順」とするほうが、より聖書的だし、パウロらしいと思います。

旧約聖書からずっと親しんでいる人にとっては、神様を信頼するなら、神様の教えには従う、というのが当たり前の前提です。

「信仰」というのは、常に「従順」と一体的です。

例えば食卓で焼肉をするとして、このお肉はまだ焼けてないから待ちなさいと親が言えば、幼子は信じてそれに従うでしょう。

親を信頼しているからです。親の愛を信じているからです。だから、従順に言うことを聞くのです。


共に祈りましょう。

主よ、幼子の様な信仰にあこがれます。あなたに深く信頼し、あなたの示されるところに従順に歩む、そんな信仰生活を与えてください。そこにある平安と魂の喜びを、今日の私たちの一日に満たしてください。





2018. 04. 05  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日はローマ1:3-4です。

<私訳>「御子は、人間的側面としては、ダヴィデの家系の中からお生まれになり、聖なる霊的側面としては、死者の中から復活して、力ある神の子と公に示された方であり、私たちの主イエス・キリストです。」


パウロが伝える「福音」とは、「神の御子」に関することでした。

その「御子」とはどういう方かが教えられています。コントラストが浮き彫りになるように、意訳してみました。ちょっとやりすぎかもしれません。

「人間的・霊的側面としては」としたのは、「肉によれば、霊によれば」という言葉です。

これは、ウエストミンスター信条がいうところの、イエス様のご生涯の「謙卑の状態、高挙の状態」というコントラストです。

いと高き神の子が、へりくだり、人間として、約束通りダビデの家系の「中から」生まれて来てくださいました。

その方が、今度は死者の「中から」新しくお生まれになり、いと高き神の子としての栄光を、フルに表してくださいました。

そのようにして、神の御子の隠されていた栄光が、復活という出来事によって、ついに「公に示された」ということです。

そういう意味で、やはり「死者の中からの復活」ということは、福音の中心ですね。



共に祈りましょう。

主よ、キリストがよみがえられた、あの日の弟子たちの喜びを、今日のわたしたちの心にも満たしてください。私たちの目を開いてくださり、あの日公にあらわされた、大いなる希望の光を悟らせてください。
2018. 04. 04  
ローマ書を丁寧に読んでいく。今日は1:2-3aです。

<私訳>「―この福音は、神さまが、ご自身の預言者たちを通して、聖なる聖書にあらかじめ約束してくださったもので、ご自身の御子に関することです。」


パウロは「福音」を異邦人に伝えるために、選び分けられた人でした。

では、その「福音」とは何か。それは、「神様ご自身の御子」に関することです。

御子イエス・キリストが与えられたということそのものが、福音=よい知らせです。


神様は、その御子の到来を、預言者たちを通して「あらかじめ」約束してくださいました。

約束というのは、そもそも前もってするものですよね。

それをわざわざ「あらかじめ」と、くどく強調されているのは珍しい表現です。


そして、「聖なる聖書に」約束されてきたことだと、パウロは言ってます。

「聖なる聖書」などと、あえておかしく訳してみました。ふつうは「聖書」と訳されます。

「グラフェー」という、それだけで「聖書」を示す言葉に、わざわざ「ハギオス(聖なる)」という形容詞がついてます。

こんなくどい言い回しは、どうやら他にはないようです。

つまりパウロさんは、私が伝える「福音」は、私たちが考え出した新しい教えではなく、あの「聖なる聖書」に、もうずっと前から「あらかじめ」約束されていたことなのだと、言いたいのではないかと思います。

ですから私たちも、聖書を大切に読んで、御子キリストの福音を知らせていただきたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今日もそれぞれが「聖なる聖書」に親しみ、キリストを深く深く知ることができますように。福音の喜びによって、慰めと励ましと勇気と平安を得て、今日の日を、安心して歩むことができますように。
2018. 04. 03  
4月より心機一転、新年度に臨んでおられる方が多いと思います。

今年は4月1日がイースターでしたので、新しい始まりにぴったりですね。

私も思うところありまして、今日からこの場を用いて、ローマの信徒への手紙を一節ずつ、くわしく調べていこうと思います。

実はこれまで、パウロ書簡と正面から向き合うことをしてきませんでしたが、やってみたいという思いが起こされました。

早速、1:1です。

<ローマ1:1 私的敷衍訳>

私は、キリスト・イエスの僕であるパウロです。神の福音を伝えるために選び分かたれ、神から召し出された使徒です。」

<注釈>

「パウロ」です!!との自己紹介から手紙は始まります。

そしてすぐに続いて、「キリスト・イエスの僕」がくっつきます。パウロという人は、四六時中、そういう自意識で生きていたのでしょう。

私は、キリストの僕だ。それを抜きにして、私はないのだ、という感じです。


「選び分かたれ」という言葉の理解には、ガラテヤ1:15-16が参考になります。

パウロは、キリストの福音を異邦人に伝える、すなわち、まだ神を知らない人々に伝えるという、特別な役割を与えられているという強い自覚がありました。

そのために、母の胎内にある時から「選び分けられ」、恵みによって「召し出された」と言っています。

この強い自覚、ある意味では傲慢なまでの確信を、召命感といいます。これがあるから、どんな伝道の困難にもくじけません。

わたしたちは、どうでしょう。主なる神から、どんな役割を与えられているのでしょうか。

そのために選び分かたれ、召し出されたという確信を、持っているでしょうか。



共に祈りましょう。

主よ、新年度に入って、新しい環境の中で励む一人一人に、上よりの豊かな祝福と励ましがありますように。この朝の時間も、新しいチャレンジを与えてくださり感謝します。ローマ書を通して、私たちがあなたの御心を深く知り、祈りを新たにすることができますように。

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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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