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2018. 04. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:12です。

<私訳>「というよりも、私はあなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、共に励ましを受けたいのです。」


「あなたがたの間にいて」とは「あなたがたの中で」という言葉。これは本当に具体的に、ローマの兄弟たちの群れの「中で」、顔つき合わせて祈り、肩を抱き合い・・そういう交わりを持ちたいということです。

そして、「互いの信仰によって、共に励ましを受けたい」とパウロは願ってます。

いつも申し上げますが、信仰の歩みはひとりで歩むものではありません。

互いに励まし合うことのできる、具体的な仲間たちを、神は必ず与えてくださいます。

昨日も、配信を受け取った方から、勝田台教会において与えられた信仰の友たちとの交わりが本当に感謝なのですと、うれしい証しをいただきました。

皆さんも経験されたことがあると思います。自分が不安な時に、一緒に神様に祈ろうと、背中を支えてくれたその手のあたたかさを。

自分が、神を疑い、惑い、見失ってしまいそうになって、その苛立ちをぶつけても、少しも動じないで、ただ黙ってその惨めな私を受け入れてくださった、信仰の先輩たち・・。

「この人の信仰にはかなわない・・」と、私にとっての「壁」として立ちはだかってくださった方々・・。

そんな風に、神様は、同じ主を信じる仲間の信仰の姿をとおしてさえも、私たちを強め、励まし、成長させてくださる方です。



共に祈りましょう。

主よ、今、不安の中にいる仲間のことを覚えています。今、あなたの助けを必要としている兄弟姉妹のことを覚えています。主よ、私たちが、互いの信仰によって、共にあなたからの励ましを受けることができますように。

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2018. 04. 26  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:11です。

<私訳>「私はあなたがたに会いたいと切に望みます。あなたがたに霊的な賜物をいくらかでも分け与えたいのです。あなたがたが堅く立たされるためです。」


「堅く立たされるため」としたのは、新共同訳で「力になりたい」とあるところです。

原文は受動態になってます。それは、教会を立たせるのはパウロでなく神様であって、神様によって「堅く立たされる」という理解からのことでしょう。

神様を隠れた主語とした、神様中心の考えです。


そうやって教会が堅く立たされることのためには、「霊的な賜物を分け与える」ことが必要です。

「霊的な賜物」というのは、ローマ書の12:6以下に出てくる、預言や奉仕や教えの「賜物」です。

それらは、そういう「才能」と考えると分かりやすいですが、大事なのは、それらは聖霊によって授け与えられる恵みのプレゼントということです。

「賜物=カリスマ」とは「恵み=カリス」の派生語ですから。

しかし同時に、ここで面白いのは、そういう「賜物」は、パウロが彼らに直接会うことによって、パウロが「分け与える」ことによって引き起こされると考えられていることです。

「賜物」は神様がくださるものですが、そのためには、信仰の先輩から後輩への、人格的なふれあいが必要とされます。

これは、とても大切なことです。

私たちの信仰の成長、また奉仕の成長というのは、尊敬すべき具体的な信仰者とのふれあいの中で、その人格的な感化をとおして、育まれていくものです。

だれと出会うかということが、本当に大切なのです。

こういうことを、人間的だと言って批判するのは違うと思います。これは、人格的というのです。

神が人となられた方との「人格的出会い」によって生まれたキリスト教は、こういうことをもっと大切にしないといけないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがこれまでに私たちにくださった、たくさんのすばらしい出会いに感謝します。そして今、あなたがくださっている信仰の友との人格的ふれあいの日々に、心から感謝します。この祈りの交わりの中で、互いに励まし合い、霊的に成長していくことができますように。私たち自身も、誰かに感化を与える者として用いられますように。
2018. 04. 25  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:10です。

<私訳>「神が私の証人ですが(9節)・・、私の祈りのたびごとにいつでも、絶えずあなたがたのことを想い起し(9節)、ゆるされるなら、なんとかして、ついに、いつかは、神の御心によって道が開かれ、あなたがたのところに行くことができますようにと願ってます。」

ギリシャ語の苦手な私には大変難解な文章ですが、きっとこんな感じで、パウロがごにょごにょ言っていたのだと思います。

ぜひあなたがたのところに行きたいのだ、と切望しつつも、今はどうしても行けないという事情・・。

パウロはこの時、ギリシャ地方の教会からの献金を届けるためにエルサレムに行き、困難にあえぐ教会を助けようとしています。

それが無事に終わった後で、ローマに入り、そこを宣教の拠点として、西方に伝道を展開したいと願っていたのです。

しかし、無事に終えられるかどうか・・、だから、こんな風に、言葉が揺れ動きます。


「神の御心によって」と言っています。

「私の願いではなく、あなたの御心がなりますように」との祈りは、主イエスのゲツセマネの祈りから教えられるものです。

どうしてもこれは避けたいという重荷も、御心によって、負いなさいと示される時があります。

どうしてもあそこに行きたいという願いも、御心によって、道が閉ざされる時があります。

神の御心と、私の願いは、一致しないことがあるのですね。本当に、これが悩ましい・・。

しかし、だから何も願わないというのは、違うでしょう。

自分がなすべきだと確信していることや、どうしても実現してほしいことを、ひたすらに祈り願うのです。パウロのように。

その祈りの結果として、なんとパウロはエルサレムで捕らえられた後、囚人として念願のローマに行くことになりました(使徒言行録27章など)。

神の御心は、私たちの小さな願いを超えて大きい。

しかしまた神は、私たちの小さな願いを、ちゃんと聞いていてくださいます。限りなくやさしく、決して悪いようにはなさいません。

だから、信じて、ゆだねて、時を待って、今自分に与えられた願いを、あきらめずに願い続けるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたを信じて歩むことのできる、この身の幸いを感謝します。あなたはこれまで、私の人生に、よいものを満たしてくださいました。今日も、すべてを知っていてくださるあなたにおゆだねします。
2018. 04. 24  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:9です。

ここは9-11節で続いていますので、一節だけを訳すのは難しいですが、とりあえず原文の語順通りで訳してみましょう。

<私訳>「というのは、神が私の証人ですが-この神は、私が霊をもって、御子の福音をもって礼拝している神です-、わたしは絶えずあなたがたのことを思い起こし・・」


「神が私の証人です」と言うのは、ある種の誓いの言葉でもありますね。

神の前で決して嘘ではないと、まだ見ぬローマの人々に対して、熱い思いを訴えているわけです。

「神の名をみだりに唱えるなかれ」と言われていますから、私たちは簡単に「神が証人です」などと言えません。言ってはいけません。

ですから、ここまで言うのは、パウロのよっぽどの思いだということが、分かります。


その後は、新共同訳とはずいぶんニュアンスが異なってしまいましたね。

新共同訳では「御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています」となっています。

この「仕える」と訳されている語が、「祭儀礼拝」と関係する語ですから、「礼拝する」に変えました。

「心から」と訳されているのは、原文そのままでは「霊をもって」です。

「御子の福音を宣べ伝えながら」というのも、「御子の福音をもって」です。

私はここのところは、ヨハネ4:23の「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」と、リンクしていると考えました。

もうエルサレム神殿と古い犠牲祭儀ではなく、いつでもどこでも霊的に、「御子の十字架と復活の福音」という真理をもって、新しい仕方で神を礼拝しています。

そういうことを、パウロは言っているのかな・・。同じ解釈をとる学者はいませんが・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちのすべての時間が、あなたの前に置かれている厳しさと、また、あなたに見守られているあたたかさを覚えさせられています。いつでもどこでも、あなたを見上げ、御言葉を覚え、賛美を口ずさみながら、今日の日を礼拝の一日としておささげすることができますように。
2018. 04. 21  
土曜日は「その時の祈り」から、今日は「忙しいときに」という祈りを共にしましょう。

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神さま、忙しい、忙しいといって

いちばん大事にしなければならない礼拝を、おろそかにしてきたことを悔い改めます。

忙しいとは心を亡ぼすことなのに、それに気付かず時が過ぎていってしまいました。

礼拝をまもらず、この世のことに気を奪われていたとき

すべてがうまくいってるようでありながら、どこかが崩れていました。

夫婦の間がうまくいきませんでした。

親子の間がいつかしっくりいかなくなっていました。

いまそれを思い返して、もう一度みまえに立ちます。

どんなに忙しくても、第一になすべきことを第一にするけじめを

忘れることがありませんように。

生活の中の優先順位をきちんと決め

忙しければ忙しいほど礼拝を守り、祈りをささげ、みことばを聞く者とさせてください。

それなしにすべてを順調に運ぼうとするのは、高慢であると知りました。

いま、忙しさから離れ、心静かに神さまを想います。

主にあって。
2018. 04. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:8です。

<私訳>「まずはじめに、わたしはあなたがた一同のことについて、イエス・キリストを通して、わたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が、全世界で評判になっているからです。」


挨拶が終わって、手紙の本題に入っていくところです。最初に、神への「感謝」を述べるのは、パウロの常道です。

言葉をつむごうとする時に、いつでも、まず何よりも、神への感謝から始まる。そんな風になりたいですね。


パウロは、「イエス・キリストを通して」感謝します、と言います。

イエス・キリストを通して示された神は、もはや恐るべき怒りの神ではなく、独り子をお与えになった無限の愛の神です。

イエス・キリストを通して、私たちは神に親しく近づくことがゆるされます。パウロのように、「わたしの神」と呼ぶこともできます。

わたしたちの神との関係は、イエス・キリスト抜きにはありえません。

キリストの名によってでなければ、祈りは聞かれないし、感謝も届きません。貧しい感謝を、主イエスが運び届けてくださるのです。


もうひとつ、ローマ教会の信仰が、評判になっていると言われています。

これは、立派で質のいい信仰であったということではないようです。実際は、教会の内実については、まだよく知られていなかったのです。

でも、中身はどうあれ、世界の中心である首都ローマに、神が「信仰」を起こしてくださっている、そのこと自体が驚くべき感動なのです。

その意味で、わたしたち日本のクリスチャンも同じです。

あの摩訶不思議な国に、わずかでも、また貧相でも、「信仰」が起こされている・・・。そのことに、世界中の兄弟姉妹は驚き、主に感謝し、そして、新たな宣教師をまたも送ってくださいます。

私たちに与えられている「信仰」には、客観的に見て、それほどの値打ちがあるということを覚えていたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今日もイエス・キリストを通して、あなたを恋い慕い、あなたに感謝をささげます。今日も、あなたと共に生きる信仰を与えてくださってありがとうございます。私たちに与えられた信仰を、大切にします。いよいよ豊かに信仰の成長を与えてください。
2018. 04. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:7後半の挨拶です。

<私訳>「恵みと平和が、私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、あなたがたにあるように。」


ここでは、父なる神と主イエス・キリストが、まったく同列に置かれています。

最近、少しだけイスラム教の本を読んでますが、ムハンマドの教えでは主イエスはあくまで人間で、預言者の一人です。

彼に言わせれば、神とイエスを同列に置くなど断じてあってはならない。それは偶像崇拝です。

しかし、新約聖書はやはり、同列に置くのです。

パウロは、ユダヤに育った徹底的な唯一神信仰の持主で、偶像崇拝はダメだと痛いほど分かってる。

でも、ナザレのイエスを「神」であり「主」として認めざるを得なかったのです。

それはやはり、あの復活の主との出会いのインパクトによるのでしょう。


イスラム教との関連でいえば、もうひとつ、「私たちの父なる神」という言い方、これはゆるしがたいことのようです。

神と人間との関係は、どこまでも主人と奴隷であって、父子関係の親しさなどゆるされない、という教えです。

偉大な神を「父よ」と呼びまつることのゆるされた幸いを、私たちはもっと覚えるべきなのでしょう。



最後に「恵みと平和」、特に「平和」はシャローム。

私はいつも礼拝の祝福で「安心して行きなさい」と申しますが、これも「シャロームで歩みなさい」という言葉です。


祈ります。

みなさんの今日の一日が、私たちを子として愛して下さる偉大な父と、復活の栄光に輝く大いなる主イエス・キリストに守られ、導かれて、恵みと平和がゆたかにありますように。

安心して行きなさい。強く雄々しくありなさい。恐れることはない、私たちの神である主が、いつも共におられます。
2018. 04. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:7の前半です。

<私訳>「それでわたしは、神に愛されている人たち、神から召し出された聖徒である、ローマにいるすべての人たちへ、この手紙を送ります。」

「神に愛されている人たち」とあるのは、「愛する人たち」という言葉に、「神の」という属格がくっついた言葉です。

「神が愛しておられる人たち」と訳してもいいのではないかと思います。ポイントは、「愛する」主体が「神」だということです。

パウロはふつう、「愛する人たち」という呼びかけを多用します。

しかし、ここは違う。「神に愛されている人たち」、実はこれは、とても珍しい言葉遣いなのです。

おそらく、パウロがこのローマの群れと、まだ一度も会ったことがないからでしょう。

その意味で、個人的なつながりがなく、顔も知らない。でも、彼らが「神に愛されている」ということを、パウロはよく知っていました。


それから、「神から召し出された聖徒」とあるのは、1:1で、パウロの自己紹介において「神から召し出された使徒」とあったのと、対になっているのだと理解しました。

昨日の6節にもありましたが、すべてのクリスチャンは、神から「召し出され=呼ばれ」て、新しい人生を用意されます。

私たちは、パウロのように「使徒」の召しは受けません。

しかし、「聖徒=聖なる者たち」という特別な役割へと、みんな、召し出された者たちです。

「聖なる者」とはどういう存在か、話し出すと長くなるので今日はやめましょう。

自分がそういう者とされたのだと意識すれば、聖書の読み方も変わるはずです。自分で勉強なさってください。


共に祈りましょう。

主よ。わたしの愛する人たちを、あなたが愛しておられる人たちを、今日もあなたがお守りくださり、必要なすべてのよいことを備えてください。また私たちに、恵みの発見と、信仰の成長をゆたかに与えてくださり、「聖なる者たち」としての自覚に目覚めさせてください。
2018. 04. 17  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:6です。

<私訳>「あなたがたもまた、異邦人の中にあって、イエス・キリストのものとして召し出された方々です。」


「あなたがた“もまた”」とあるのは、「私パウロと同様に、あなたがたもまた」ということです。

私たち日本のクリスチャンにぴったりの呼びかけです。

私たちは、まことの神を知らないで生きている「異邦人の中にあって」、それぞれに不思議な導きで、「召し出された」者たちです。

「イエス・キリストのものとして」としたところは、「イエス・キリストによって」と訳すことも可能です。

いずれにしろ、イエス・キリストとの切っても切れない関係の中で生きていく、不思議な人生に「召し出された」のです。

「召し出された」という言葉は、「呼ぶ、呼ばれる」という語をベースにします。

イエス様はいつでも、罪の悲惨に死んでいる者を呼んでくださいます。

木の上のザアカイの名を呼ばれたように(ルカ19章)、死んで墓に葬られたラザロを大声で呼び出されたように(ヨハネ11章)。

わたしたちも、そうして呼び出されました。それは、新しく生きるためです。

そして、私たちもまたパウロのように、新しい「役割・務め」に生きるためです。異邦人の中にあって、主を証しし、命と祝福の源となるという・・・。
2018. 04. 07  
来週は、韓国に出かけますので配信をお休みいたします。

始まったばかりのローマ書の学びは、毎日かなり大変ですが、発見が多いです。再来週の再開をお楽しみに。

土曜日は「その時の祈り」より、今日は「求道者のために」です。

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主なる神さま

かつて私は「人間の救いとは何か」について一所懸命考え、求めていたときがあります。

皆目見当がつかず、途方にくれていたとき、

私を導いてくれた友がいました。

ひとりで教会の門をくぐろうとしていたとき

友の出現は闇夜の灯火のようでした。

いま私のとなりに、道を求めている者がいます。

私にできることがあれば教えてください。

かつての自分が友に導かれて、聖書にたどりついたように、

今度は人を教会に導く者とさせてください。

力もなく、才能も乏しい私ですが、自分に与えられたひとつのことだけ、まちがいなく伝えたいと思います。

イエス・キリストが私の罪の身代わりに、十字架にかけられて死んだこと、そしてよみがえられたことです。

それによって私の罪がゆるされ、今の「命」を得ました。

それを伝える者とさせてください。

私は、言葉のたくみな人間ではありません。

しかし、聖霊の助けをいただいて、言葉以上の行動ができますように。

御名によって祈ります。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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