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2018. 05. 31  
天国人のボキャブラリー、今日は「憐れみ」という言葉、特に「憐れんでください」という祈りを紹介します。

聖書には「主よ、わたしを憐れんでください」という祈りが何度も出て来ます(詩編6,9篇、マタイ17:15など多数)。

これがどうも分からない、自分はこのようには祈りたくないとおっしゃる方がいました。

憐れみを受けるなどというのはまるで物乞いのようで、ちょっと惨めすぎると言うのです。

他方で、本当に苦しい時には「憐れんでください」としか祈れないと、教えてくださった方もいます。

これまでの人生でたくさんの試練を味わってきたけど、もう祈ろうと思っても言葉にならない。ただ『憐れんでください、主よ、憐れんでください』としか祈ることができない時があるのですと、教えてくださいました。


「憐れむ」、それは、私たちの痛みを御自分の痛みとして、はらわたがちぎれる思いでもって近寄ってくださり、助けてくださるイエス様の感情を表している言葉でもあります。

そのようにして憐れんでいただくよりない惨めさを、私たちは誰もが、抱えているのではないでしょうか。


いっしょに祈りませんか。

憐れんでください。主よ、憐れんでください。惨めな私を憐れんでください。心乱れて、眠れなかった私を憐れんでください。今日も気が重い私を憐れんでください。主よ、憐れんでください。主よ、声にならぬ祈りを聞いて下さい。主よ、主よ・・・。
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2018. 05. 30  
天国人のボキャブラリー、今日は「安心」という言葉を考えてみます。

「安心して行きなさい」という呼びかけが、聖書には繰り返し与えられています(マルコ5:34など)。

勝田台教会の礼拝では、最後の祝福の宣言において「安心して行きなさい」と呼びかけられます。

この祝福の宣言が、毎日を生きていくための大きな力になっているという声をよく聞きます。私自身もそう感じています。

「安心して」という言葉は、ヘブライ語ではシャローム、ギリシア語ではエイレーネーで、平和・平安という意味を持つ言葉です。

平和のうちに歩みなさい、ということです。

その平和とは、何よりも神様との関係における平和です。

神様が、愛する独り子イエス様を与えてくださって、私たちの罪を赦してくださいました。

私たちは信仰によって義とされて、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています(ローマ5:1)。

だから、今や神様が私たちの味方でいてくださるから、私たちは神の子としていただいたのだから。恐れることは何もない。安心して行きなさい。

・・・そう言われながらも、なお恐れてしまう私たちをも、神様が丸ごと引き受けていてくださいます。

だから、安心して行きなさい。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたに与えられた一日を生きていきます。心に霧がかかったように、道が見えなくて思い悩む者もいるかもしれません。主よ、今日もいっしょに歩んでください。安心して歩めるように、すべてのことを備えてください。
2018. 05. 29  
ローマ書の続きが気になるところですが、「あさのことば」の録音が近づいていますので、しばらく原稿書きにお付き合いください。

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クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介するシリーズです。

今日取り上げたいのは「慰め」という言葉です。

教会に通うようになるまでは、慰めという言葉は滅多に口にしなかったと思いますが、教会では実によく用いられます。

「神様、私たちに慰めをお与えください」と祈ることもよくします。

そういう習慣の中で、私自身は、自分が慰めを必要としているのだということを自覚するようにもなりました。

それまでは気付いていなかったのですが、そういう自分の傷や痛み、あるいは不安や恐れということに気付いたのですね。

根源的な「慰め」を必要としているということに気付いたのです。



では聖書において、「慰め」という言葉はどういうニュアンスで用いられるかといえば、一番分かりやすいのは詩編23篇4節でしょうか。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」という御言葉です。

ん?どこにも、「慰め」と出て来ませんでしたね・・・?

でも、最後の「力づける」という言葉が、ふつう「慰める」と訳される語なのです。

どんな苦しいときでも、神様が共にいてくださる。この絶対的安心感。

だから私は、今日も恐れずに生きていける。

神様がくださる慰めは、そういう力強い歩みにつながっていくのです。


共に祈りましょう。

慰めの主よ、私たちは実に、だれもかれもが慰めを必要としております。主よ、今日も過ちだらけの私たちの歩みですが、赦してくださり、どうかいつまでも共にいて、支え、励まし、導いて下さい。私の愛するお一人お一人に、生きる慰めをください。
2018. 05. 23  
そういえば、皆さんに御連絡をしていませんでした。今週は休暇をいただいていて、配信はお休みさせていただきます。

今週はペンテコステの恵みを覚える日々。

私たちの住んでいてくださる聖霊によって、喜びと平和が豊かに備えられますように。

聖霊において、私たちの内にイエス・キリストが生きていてくださり、永遠に共にいてくださいます。

エフェソ3:15-21の祈りです。

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

2018. 05. 19  
土曜日は、「その時の祈り」から、今日は「ペンテコステに」です。(明日がペンテコステ=聖霊降臨記念日です)

****************
天の神さま

昔、弟子たちがいただいた聖霊を、いま私たちにも与えてください。

弟子たちが、主イエスの昇天のあと意気消沈していたとき

あなたは助け主なる聖霊をおくり、弟子たちひとりびとりの信仰を回復してくださいました。

私たちも大きな壁にぶつかると、意気阻喪してしまいます。

神さまを信じていたというのはみせかけで、じつは信じていなかったのだと

心身ともに落ち込んでしまう場合もあります。

弟子たちから勇気も希望も忍耐も失われていたとき、そこに聖霊が与えられました。

そして立ち上がりました。

弟子たちは、とじこもっていた穴から引きだされました。

そのように、私たちも暗い底から引き上げられたいと思います。

弟子たちが解放されたように、いま、私たちにも解放の恵みを与えてください。

わからなかったことが明らかになり、示され、導かれますように。

今朝、聖霊を与えてください。

主によって祈ります。
2018. 05. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。1:17を今日こそ終わりにしましょう。

ここには、「正しい者は信仰(ピスティス)によって生きる(新共同訳)」という、旧約ハバクク書2:4の御言葉が引用されています。

元来の文脈を確認しておきますと、ハバクク書というのは「神よ、どうしてですか?」と問いかける預言者の嘆きに、神がお答えになるという形で書かれています。

何を嘆いているかといえば、「正しい人=神に従う人」が、「悪しき者=神に逆らう者、高慢な者」にとり囲まれて苦しんでいる現実を嘆いています。

それに対する答えとして、「終末的破局がもたらされるから待っていなさい」と、そして、「悪しき者は滅ぶが、神に従う人はその忠実によって、破局に耐えて生き残る」と言うのが、ハバクク2:4の元来の意味です。


ここでの「忠実、誠実、不動の信頼、あるいは真心」というヘブライ語エムーナーが、ギリシャ語でピスティスになるのです。

これをどう訳すべきかは今は置いて、とりあえず「信仰」としておきます。

パウロが言っている「ピスティス=信仰」ということには、こういう含蓄があるということを覚えておきましょう。

ただ選民意識と伝統によりすがっていても仕方ない、救いにあずかるのは「真のピスティス」に生きる者だという主張があるのです。


以上、もろもろを踏まえて、17節の敷衍的な<私訳>です。

「この福音のうちに、神の義、すなわち罪にゆがんだ世界を回復しようとなさっておられる神の責任感が、はっきり現わされているのです。それは、徹頭徹尾、ひたむきな信仰において応答させていただく神の救いです。『神に従う人は、信仰によって生きる』と聖書に書かれているようにです。」


共に祈りましょう。

主よ、ひたむきな信仰にあこがれます。今日もどんな場面においても、あなたにまったく信頼し、あなたの御心を追い求め、真心をこめてあなたを愛し、出会う方々を愛し、自分自身を大切にして生きることができますように。お一人お一人の信仰の歩みを導いてください。

2018. 05. 17  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。1:17の続きです。

昨日までのところを、1:16から続けて敷衍訳してみましょう。

「私は、福音、すなわち御子イエスについての素晴らしい情報を、恥じることなくそのままに伝えます。なぜなら、今まさに生ける神が全力で働いておられて、私たちにこの知らせを伝え、救いへと導こうとしておられるからです。この福音のうちに、神の義、すなわち罪にゆがんだ世界をまっすぐに回復しようとなさる神の責任感がはっきりとあらわされているのです。」


今日は、その「神の義」の説明句としてつけられている、「ピスティスからピスティスへ」という問題です。

ここでのギリシャ語ピスティスは、ふつうは「信仰」と訳されますね。

でも、パウロが本来持っていたヘブライ的な言葉遣いでは、ピスティスは「(契約に対する)忠実、誠実=ヘブライ語のエムーナー」なのです。

しかも、それは人間の側からのピスティスだけでなく、神様の側からのピスティスとして、「約束を必ず守る真実」という意味でも使われます。


そんなことを考えていくと、「ピスティスからピスティスへ」というのは果たしてどういうことか?

<神様の側の「真実」からはじまって、人間の「信仰・忠誠」を作り上げていく、そういう「神の義」である>、という理解にとても魅力を覚えます。

でも、そう言い切るのも決め手が欠けます。

もっと大きな文脈で2,3章まで見渡して考えるなら、とにかくパウロが言おうとしてるのは「律法を持っているかどうかじゃなくて、真のピスティスこそ必要なのだ」ということのようです。

神様が、責任をもって救ってくださるから、それを受けさせていただくにはピスティスが必要、ということでしょう。


もう時間になってしまいました。すみません、もう一度明日・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日も様々なことを忘れて、御言葉に集中する時間をくださって感謝します。みんな色んなことを抱えていますが、今日もあなたの義に支えられて、元気に歩めますように。変わることのない真理に、しっかり立つことができますように。

2018. 05. 16  

ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:17に取り組みましたが、まだ訳せません。

新共同訳では「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

この「神の義」と、「初めから終わりまで信仰を通して」というところが、とても難しいのです。


「神の義」という言葉は、ローマ書で7回用いられていまして、最重要キーワードのひとつです。

今後の解き明かしのためにも、その意味の範囲・奥行をできるだけ把握したいと思います。

しかし、この概念はあまりに多義的で複雑で、手応えのある解き明かしをしたいと本気で考えるなら、2時間ほどの学びではとても無理だということが、今日は分かりました。

むしろ、ローマ書全体を丁寧に読んでいくことを通して、「神の義」の全体像も見えてくるでしょう。

だから、全部が終わってから、改めて1:17という心臓部に取り組み直してみたい。

今はとりあえず暫定的に、ここで言われている「神の義」とは、「罪にゆがんだ世界をまっすぐに回復しようとなさる神の責任感」と、大づかみにとらえておきたいと思います。

「責任感」というのは、私なりの表現です。

まだとても自信がないので、読み進めながら丁寧に検証していきましょう。


明日は、「・・信仰を通して」と訳されるところを考えます。これも、本当に「信仰」という訳でいいのかと、悩んでます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが与えてくださった恵みの御言葉を、間違いなく聞き取ることなど、私たちにはできません。でも主よ、どうか少しでも正しく理解させてくださって、あなたと心が通い合うようにならせてください。どうか今日も、言葉を与えてくださって、私たちに慰めと励ましと、また歩むべき道を示してください。


2018. 05. 15  
昨日は久しぶりにゆっくり休養でき、おかげで今朝は寝坊してしまいました・・。

ローマ1:17はまた明日からにしまして、今日は9年前に取り組んだ、ローマ8:1-17の敷衍訳をお届けします。

今日、埼玉のKさんをおたずねし、いっしょに読もうと思っています。

ペンテコステに向けて、「聖霊」をいただいた恵みを豊かに教えてくれる聖句です。とても長いですから、お時間のある時に読んでください。

共に祈りましょう。

主よ、今日も聖霊において、あなたが共にいて下さることを感謝します。わたしのうちにあなたが始めてくださった新しい人間を、今日も御言葉によって成長させてくださって、光として、神の子として、ふさわしく整えてください。あなたに用いられやすい器となっていくことができますように。


*******************
1 こういうわけで今や、洗礼を受けてキリストに結び付けられ、キリストに連なる者とされた人々が、懲罰を受けて、罪の牢獄から永遠に解放されないような裁きを与えられることは絶対にありません。
2 なぜなら、聖霊の御力によって命を与えてくださるという仕方での、神の新しい支配が、罪と死に支配された泥沼の悪循環から、私たちを解き放ってくださったからです。
3 これまでにも確かに神は、聖なる律法を与えて命の道を示してくださいました。でもそれをいただくだけでは、悪循環を抜け出すことはできませんでした。私たちの腐敗した本性のままでは、それを守ることができないからです。それゆえに、命をもたらすはずの律法が、かえって私たちの罪を目覚めさせ、神への反逆を生み出すことになり、私たちを呪いの死に導くものになってしまいました。
  しかし憐れみ深い神は、そのような私たちを救うために、まったく新しい救いの業を実現してくださったのです。すなわち、神の独り子であるイエス様を、罪の支配下にある無力な私たちと同じ姿で、この世に遣わしてくださったのです。そして御子は私たちに代わって、私たちの代表として、自ら呪われた者となって、十字架の上で命をささげてくださいました。その御子の十字架の死によって、神は私たちの罪を、正しく罪として処断されましたから、私たちはもはや責めたてられることはありません。しかも私たちは、私たちをがんじがらめにしていた罪の支配から解き放たれ、イエス様が与えてくださる聖霊による新しい支配の下に入れられたのです。
4 今や私たちは、この聖霊の助けによって、神のみこころを行うまったく新しい人間として歩むことが可能になったのです。もはや私たちは、古い罪深い自我の言いなりになることもありません。

5 腐敗した本性の言いなりになっている人は、自分を喜ばせるためにだけ生きています。しかし聖霊に導かれて歩む人は、神のみこころに従い、神を喜ばせるために生きます。
6 聖霊に導かれるままに追い求めるなら、命と平和が待っています。しかし、本性のままに追い求めるなら、行き着く先は滅びの死です。
7 古いままの私たちの本性は、神様に敵対するからです。私たちの腐敗した本性は、神様の律法に完全に従ったことなど一度もなかったし、従うことなどできもしないのです。
8 そんな古い罪深い自我に支配されて、欲望を追及し続ける者は、決して神を喜ばせることなどできません。

9 しかしあなたがたはそうではありません。あなたがたは本性に従う者ではなく、聖霊に導かれて歩む者たちです。確かにあなたがたのうちに、神の霊が宿っておられるのですから!!もし、その人のうちにキリストの霊が宿っておられないなら、その人はキリスト者ではありません。
10 しかしあなたがたのうちには、確かにキリストがおられるのです。
それゆえに、たとえあなたがたの肉体が、なお残存する罪のゆえに死に果てたとしても、あなたがたを義とする聖霊が、あなたがたのうちにあって命であり続けるのです。
11 そしてあなたがたのうちには、イエス様を死人の中から復活させた神の霊が宿っておられるのですから、キリストを死人の中から復活させた方は、あなたがたのうちに宿っておられるその力ある霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも必ず生かしてくださるのです。

12 ですから、愛する兄弟たち。私たちは、この聖霊の導きによって歩むべきです。あなたがたの古い罪深い自我がどんなことを要求しても、それに応じる必要はまったくありません。
13 もしあなたがたが、腐敗した本性に従い続けるならば、あなたがたは必ず死にます。しかし聖霊の助けによって、邪悪な行いを打ち砕くならば、あなたがたは生きるのです。私たちはこの地上に生きる限り、常に誘惑にさらされますが、聖霊が助けてくださいます。
14 神の霊によって導かれる人は、だれでもみな神の子だからです。
15 あなたがたは罪と死の支配のもとで、奴隷のように恐れに満たされた日々を送っていました。しかしあなたがたが神の霊を受けて神の子とされました。それは神の家でもう一度恐怖の奴隷のようになったということではなく、恵みによって、神様の子どもとして家族の中にあたたかく迎え入れられたということです。だから私たちは、「アバ、お父さん」と大声で呼んだらいいのです。
16 私たちが神の子どもであることは、聖霊ご自身が、私たちの霊と共に証言してくださいます。
17 そして私たちが子どもであるということは、同時に神様の財産の分け前をいただく相続人であるということです。神様が独り息子であるイエス様にお与えになったものを、私たちもいっしょに受けることができるということです。
私たちはイエス様といっしょに苦しむなら、イエス様といっしょに栄光を受けることになるのです。
2018. 05. 11  
おはようございます。今日はローマ1:17に取り組んでみましたが、やはり最難関ですね。

昨晩遅くて、頭が回らず、難しい本が読めないので、また来週にいたします。

特に、17節の前半部分が難しい。いくつか翻訳を紹介します。

新共同訳「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」

新改訳2017「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」

口語訳「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

フランシスコ会訳「人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に現れています。」

塚本訳「信仰から出て信仰に終わる、徹頭徹尾信仰本位の神の義が、この福音において現わされているからである。」

岩隈訳「というのは、福音において、信仰から出て信仰に終わる神の義が現れている。」


いやあ、みんなバラバラですね。岩隈さんのが、一番原文そのままの感じですが、それぞれの解釈によって、翻訳がずいぶん変わってきます。

たった一節でも、大問題です。逆に言えば、たった一節でも、無尽蔵の恵みが蔵されているということです。


共に祈りましょう。

主よ、聖霊を吹き込んでくださって、あなたの恵みの真理を、もっと豊かに教えてください。そうして私たちが、今日を喜び生きることができるように。御言葉が、今日も愛するひとりひとりの命を照らしますように。

※明日は、配信をお休みいたします。説教準備のためにお祈りください。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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