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2018. 06. 29  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:21です。

<私訳>「だって、彼らは神を知っていながらも、神としてあがめず、感謝をささげることもなく、かえってむなしい議論にふけり、その愚かな心がどんどん暗くなっていくのですから。」


20節の「彼らには、神を知らないと言い訳などできない」という言葉から続いています。

神様のことをまったく知らない人などいないのです。うすうす「知っていながらも」逃げ回っていたり、神を正しく「神として」お取り扱いせず、勝手な神々をこしらえて、自分たちの宗教的欲求を手軽に満たしている。これが問題です。

大事なのは「神として」というところです。

私たちも自らを省みてみましょう。どこまで神様を「神様として」ふさわしくあがめ(賛美)、感謝をささげているか。

それを問うことは、「本当に私は、神様を知っているといえるのか?」と問うことに通じます。

自分勝手な神々をこしらえて、自分を神としているだけではないのか・・・。


それから、新共同訳では「むなしい思い」となっているところを、「むなしい議論」としました。

もしかするとこの背景に、当時の哲学者たち(特にストア派)の、神存在を巡っての議論の数々が意識されているのではないかと、思ったからです。

神を「知る」ということは、神を愛することであり、愛されることです。神に従うこと、すなわち神と一緒に歩み始めることです。賛美と感謝の新しいライフスタルを生きることです。

どれだけ「むなしい議論」を重ねても、神を「知る」ことは永久にできません。

最後の「暗くなっていく」は「スコトス(暗闇)」の派生語です。日蝕で光が失われていくように、人の心が光を失っていく・・・。そんな様です。

しかし、その人の心に光を灯すために、神の子が十字架にかかり、あの日、暗闇を味わってくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはあなたを正しく「神として」敬うことができているでしょうか。あなたに感謝し、あなたを愛することができているでしょうか。あなたのことを、もっと正しく深く知らせてください。そうして、私たちのまだ知らない恵みの世界を開いてください。
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2018. 06. 28  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:20です。

<私訳>「というのは、目に見えない神の本性、すなわち神の永遠の力や神々しさは、世界の創造された時からこのかた、神がお造りになったものによって知られ、見られている。だから、彼らには言い訳はできないのです。」


人間がみんな聖書を読んでいるわけではなく、それゆえに、まことの神をはっきりと知らされているわけではありません。

このローマ書の背景で言えば、帝国の首都ローマにはたくさんの人がいるわけですが、ユダヤ人が信じて来た主なる神を知っている人はごくわずかです。

99%が異教徒の日本と、状況は同じです。圧倒的多数が、聖書の神、まことの神を知らないでいる。

しかし、だからといって彼らには「言い訳はできない」とパウロは言います。

それは、彼らにも、神についてある程度「知り得るほどのこと」が明らかにされているからです(19節)。


今日の20節では、「神がお造りになったもの」によって、「神の永遠の力や神々しさ」が、ある程度「知られ、見られている」と教えられています。

「知られ」とあるのは、「ヌース(心、思考力あるいは理性)」という言葉からの派生語です。

私たちが持っている「心、理性」も、神が造って与えてくださったものです。まことの神を見失っていても、なんとなくその存在を覚え、悟るような「心、理性」というものが、人間には初めからセッティングされていると考えるといいでしょう。

あるいは、大自然に圧倒されることで、なんとなく「神々しさ」を覚えるということは、よくお分かりだと思います。

それゆえに、もろもろの偶像崇拝というかたちで、間違った神々への信仰が起こってくるのですね。


共に祈りましょう。

主よ、あなたをはっきりとは知らないままに、それぞれに勝手なものを拝んでいる人間の、その錯誤をあわれんでください。赦してください。そして、聖書を通して、あなたご自身をはっきりと知らせてくださり、あなたのもとへ導いて下さい。そのために、私たちを用いてください。
2018. 06. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は、1:19です。

<私訳>「だって、神について知り得るほどのことは、彼らにも明らかなのですから。それは、神様が明らかにされたからです。」

昨日の18節で、神様がお怒りになっているということを確認しました。

では、なぜお怒りになっているかといえば、だれもが神様のことを、ある程度知っているにも関わらず、それを徹底的に無視して反抗しているからです。

ここからしばらくは、生まれながらの罪人が持っている神知識について教える、聖書の中でも希少な箇所です。

神様は、聖書において御自分を完全に明らかにされていて、聖書を通してでなければ、神様とはどういう方か、またその真の御心を知ることはできません。

でも聖書を知らなくても、大自然を見ておそれを抱いたり、「お天道様が見ているよ」という風な感じに、良心のとがめを覚えたりする。

そういうかたちで、神様のことをある程度は知っている。それが、世界万民に共通する人間の本質的宗教性です。

それは、神様が創造の業を通して、明らかにしてくださったからなのですが、続きは明日。


共に祈りましょう。

主よ、私たちがあなたのことを知る前から、あなたはすべてを知っていてくださって、私があなたに気付くのを待っていてくださいました。今もたくさんの人が、あなたを無視したまま、さまよい、勝手に生き、また、独りで苦悩しています。主よ、私たちが、また私たちの周囲の方々が、あなたのことを真実に知ることができますように。


2018. 06. 26  
「ローマ書を一節ずつ読んでみる」を再開しましょう。序文が終わって、今日からは「罪に対する神の怒り」についての教えです。

1:18<私訳>「なぜなら、神の怒りが天から現れているからです。不道徳をもって真理を押さえつけている人間の、あらゆる不信心と不道徳に対して。」


この18節は、直接的には15節の「私はあなたたちに福音を伝えたい」からつながると考えると分かりやすいでしょう。

福音を伝えたい。「なぜなら、今は、神の怒りが現わされているから。そのままでは滅びだから・・」と続くのです。

あるいは違う角度から考えれば、「神の怒り」もまた福音であり、神様の「義」の現れであるとも言えます。

「神の義」とは、「罪に歪んだ世界を回復したいと願う神の責任感」であると、試みに定義してみました。

そういう強い責任感をもって、神様は、わたしたちの不信心や不道徳に「怒り」を覚えられます。

この「怒り」はそういう意味で、だめな息子をほったらかしにしておくことのできない親心であり、愛です。怒るのは、愛するからです。

いずれにしろ私たちは、このような「神の怒り」と、それを引き起こす「人間の罪」ということに向き合わねばなりません。

それが、福音を受け取るための始まりであり、前提です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが怒っておられるということなど、考えた事もなかった私でした。あなたの親心を忘れて、好き放題に生きていた者たちです。今、あなたの怒りを知った者として、今日の日、あなたの喜びのために歩むことができますように。
2018. 06. 08  
今、何人かの方が互いに励まし合って聖書の通読に取り組んでおられます。

「聖書をちゃんと全部読んでごらんなさい。好きなところだけ、分かるところだけではなく、全部読んでごらんなさい」と、機会を見つけてはおすすめしています。

尊敬する先輩牧師が、ある時言っておられました。

ある集会で若い方々と語らった時、いろいろとひねくれた、うがった質問をたくさんされた。

かわいいなあとは思いつつ、ふと思いついて、問いかけた。「みなさんは、聖書を全部読まれましたか?」

すると、読んだことのある人はゼロだったと言います。

だから、一度ちゃんと読みなさいとおすすめしたそうです。ちゃんと読まないと、いつまでも「聖書に負けている感」がぬぐえない。

そういうコンプレックスが根底にあるままで、しかも中途半端には知識があるから、「知った気になっている」状態・・・。

私たちが何かに文句を言う時って、そういう時ですよね。

聖書を通読してみなきゃ見えてこないことがたくさんあります。新共同訳が難しければ、リビングバイブルという分かりやすいものもあります。

少し翻訳に問題があるところもありますが、難しくて読めないというくらいなら、リビングバイブルでちゃんと最後まで読むほうが、よっぽどいいと私は思っています。

とにかく、読んだことのない方は、ぜひ全部読んでみてください。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。(Ⅱテモテ3:15,16)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちに与えてくださった命の御言葉、信仰の先輩たちが命がけで受け継いできたこの聖書・・。私にも、この聖書を読み解く力をください。そして、まだ私の知らない恵みの世界を開いて下さい。そして、今日を生きる力をください。聖書を通して、愛する兄弟姉妹たちが、今日も生かされますように。

2018. 06. 07  
今日からまたローマ書を再開しようと思いましたが、考えてみれば、来週・再来週と出張が続いて、しばらくお休みになります。

ローマ書の講解は、その後にしましょう。
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先の主日の礼拝では、ルカ3:21-22の、イエス様が洗礼をお受けになったという記事を分かち合いました。

どうしてイエス様が洗礼をお受けになるのか?

一切の罪が無い方。洗われる必要の無い方。その方がなぜ、「罪の赦しを得させるための悔改めの洗礼(3:3)」をお受けになるのか。

それは、悔い改めて新しく生きたいと願う者たちと、共に歩んでくださるためだと、私は申し上げました。

洗礼を受けたいとヨルダン川に集ってきた者たちは、魂の飢え渇きを覚えて、神のもとに帰りたいと願った者たちです。

どうかこの汚れた心をきれいにしてほしいと、泣き崩れる者もいたかもしれません。


そういう私たちと共に生きるために、そういう私たちの汚れを引き受けるようにして、イエス様は列に並び、一緒に洗礼を受けて下さったのです。


信仰には「悔い改め」ということが絶対に必要です。そこにはやはり、ある厳しさがある。

キリストの教えは、「悔い改め」への招きです。それはすなわち、向きを変えて、新しく生きようとする決断への招き・・。

そこにはやはり厳しい響きがある。でも、そうやって悔い改めたいと願い始めた者たちを、イエス様は決して見捨てたりなさいません。裁き落としたりなさいません。

そういう私たちと横並びで歩んでくださって、いつも赦しつづけ、受け入れつづけ、励ましつづけてくださいます。

お前はダメな子ではないよ・・。悔い改めたいと願う心は、まだ消えていないじゃないか。また、新しく歩みだしなさいと、何度でもスタートし直させてくださいます。

そういう私たちと共にスタートを切ってくださった、それがイエス様の洗礼でした。

このイエス様が、最後まで責任をもって伴走してくださり、永遠の命に導いて下さいます。


共に祈りましょう。

主よ、厳しくやさしいあなたの手が、私の肩を抱いていてくださるのを、こんなにもはっきりと感じています。

主よ、昨日の私と違う私として、今日を新しく歩ませてください。この汚れた心を清めてください。主よ、悔い改めの道を歩んでいるすべての者たちに、尽きせぬ憐れみと励ましがありますように。

2018. 06. 06  
天国人のボキャブラリーシリーズ、とりあえず今回は今日でおしまいです。

「執り成す」という言葉を覚えましょう。

誰か他の人のためにお祈りをする時に、「執り成しの祈り」をするという風に言います。

心配している誰かが今日も神様によって守られますようにという様な祈りも、執り成しの祈りです。

でも、執り成しというのは本来、敵対関係にある両者を仲直りさせるという意味があります。

神様から心が離れてしまっている人や、まだ神様を知らないで道を見失っているいる多くの人々、あるいは、快楽だけを追い求めて好き放題している人々のために、

「神よ、彼らをお赦しください。彼らがあなたのもとに帰ってきて、平安を覚えることができますように」と祈る。執り成すというのはそういうことです。

そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことです。

イエス様は十字架にかけられながら、その十字架の上で、私たちのために執り成しの祈りをしてくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました(ルカ23:34)。

今も、イエス様は執り成し続けていてくださいます。

彼らをお赦しくださいと、愚かな私たちのために祈っていてくださいます。

この祈りによって赦された私たちだから、私たちも、誰かのために執り成しの祈りをしたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、慈悲深い父よ、どうかすべての放蕩息子たちをお怒りにならず、御赦しください。そして、あなたのもとに帰って来て、真実の生の喜びと平安を得ることができますように。
2018. 06. 05  
天国人のボキャブラリー、あと2回分お付き合いください。

「交わり」なんていう言葉も、独特の言葉遣いだと思いますが、みなさんはどう感じますか?

教会の仲間同士で親睦を深めるために、語り合ったり、一緒に食事をしたりする時に「交わりを持つ」という風に言う。

私自身は最初の頃、「なんだ?交わりって?」とおもしろく感じてました。もちろん、一般的にも交流・交際といった意味で使われている言葉ではあると思いますが、教会の独特の言葉遣いではないかと思います。

そういう「交わり」ということが、教会では色んな機会に大事にされますが、そのことの好き嫌い、得意不得意というのは人それぞれあると思います。

でもどちらにせよ、教会の「交わり」っていうのは、そんなに軽いものじゃないということは覚えていたいと思います。

人付き合いは苦手だからと避けていいものではないし、ただの友達のおしゃべりコミュニケーションでもない。

教会の「交わり」は、キリストを信じ、キリストに従う一人一人の、日々の信仰の戦いを、互いに支え合い、励まし合うための作戦会議であり、祈りの交流です。

「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように(ヨハネ15:12)」とイエス様は言われます。

キリストの十字架の愛が映し出されるような、「交わり」がほしいですね。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに与えていただいた信仰の友たちを想い、感謝します。彼ら彼女らの存在が私の励ましであるように、私もまた、だれかを励まし、支えることができますように。キリストへの信仰によって結ばれた私たちが、信頼関係を深めることができますように。
2018. 06. 02  
土曜日は「その時の祈り」から。明日は聖餐の恵みにあずかりますので、「聖餐の前に」との祈りを。

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主よ、そなえられている「パン」と「ぶどう酒」を感謝いたします。

パンはパンでしかありません。ぶどう酒はぶどう酒です。

しかし、このパンとぶどう酒を媒介として、聖霊が働かれるとき、

パンを通して私たちは、十字架上に裂かれた主イエスの御身体を想います。

ぶどう酒は、主が十字架に流された血潮です。

信仰がなかった日、私たちは主イエスの十字架を知りませんでした。

わけても主が裂かれた肉、流された血について無関心でした。

信仰を与えられたいま、おごそかな思いをもって御前に立ちます。

私たちは少し油断をすると、すぐわき道にそれてしまう弱さをもっています。

福音の中心的なことを忘れ、つけ足しのことに目を奪われてしまいます。

いま、パンとぶどう酒の前に立ち、中心的なものに目を向けさせてください。

信仰のゆがみを、これによって訂正することができますように。

キリストの御名によって祈ります。
2018. 06. 01  
天国人のボキャブラリー、「賛美する」というのもそうですね。

教会で「賛美」といえば、神様はすばらしい方だとほめたたえることです。

より実際的には、「賛美歌を歌う」ということとイコールでもあります。

教会というのは、よく歌を歌うところです。葬儀の場であっても、いつもと変わらずみんなで歌を歌います。それは神様への賛美の歌です。

天に召された兄弟姉妹の地上の生涯に寄り添い、慰め励まし続けてくださった神に感謝をして、神よ、まことにあなたはすばらしいことをしてくださったと、喜び歌うのですね。

それは確かに常識外れでしょうが、希望の人であるクリスチャンの極めてユニークな特質だと自負しています。

私はしばしば祈ります。嘆きとため息に満ちているこの口から、賛美があふれだすように、この心を引き上げてください、と・・。

いつでも、賛美を口ずさみ歩みたいですね。

苦しいときも悲しいときも。

どんな時でも、私たちは賛美ができます。

それは、神と共に生きる、永遠の命の希望を見つめているからです。

だから、いつも賛美します。その賛美の歌によって、この貧しい心が守られるのです。

賛美することで、この心が変えられていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私に賛美の心を与えてくれました。それは私にとって、革命的な出来事でした。主よ、あなたはすばらしい。あなたは私に、なにひとつ悪いことをなさらなかった。主よ、今日もお守りください。愛するすべての人々に、恵みと慈しみが限りなくありますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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