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2018. 07. 12  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:28です。

<私訳>「また、彼らが神を知ることを役に立たないと考えたので、神は彼らを役に立たない心に引き渡されました。その結果、彼らはしてはならないことをするようになったのです。」


「役に立たない」という言葉を重ねて、皮肉な言葉遊びがされています。

これは元々、「テストに合格と認める」という言葉です。

被造物である人間の方が、創造主である神様に対して「あんたは不合格!!」とつきつけているという、身の程知らずなサカサマ状態・・・。そういう現実が確かに私たちの周辺にもあるでしょう。

それゆえに神様のほうでは、「役に立たない、不合格な、無価値な、くだらない」心に、人間を「引き渡して」しまっている。

「引き渡して」が、ここでも繰り返されているのですね。

くだらない心のままに、落ちるところまで落ちていけとほったらかしておられるということです。そういう形で示されている、神の静かな怒り・・。

その怒りの奥に秘められている神の思いに、だれも気付いていません。

そうして、役に立たない心のままに、してはならないことを繰り返しながら、どんどんと破局をおのれへとたぐり寄せている。

それが、聖書が示している人間理解なのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしのうちにある、役に立たない、くだらない心について考えさせられています。どうか、取り替えてください。感謝と喜びと、愛と平和に満ちた、クオリティーの高い心に取り替えて下さい。そして、あなたを深く知るということの価値について、私や、私の周囲の人々が、もっと目覚めることができますように。
2018. 07. 11  
今日はローマ書は休憩して、豪雨災害にあわれた方々のために祈りましょう。

災害の実態がだんだん明らかになってきて、教会関係でも情報が集まってきました。

改革派教会の関係では、教会堂および会員の皆さまに特別大きな被害はないようです。ただ、道路が寸断されていたり、断水・停電などで困難を覚えているという報告はいただいてます。

広島地区は、特に被害が大きいようで、広島教会や東広島伝道所、そして忠海教会から報告をいただいてます。

忠海教会は、福祉施設のワークホーム聖恵と隣接していますが、施設のほうに近隣住民10名ほどを受け入れ、月曜日までは備蓄の非常食で対応したとのことです。

岡山地区は、岡山教会、岡山西伝道所とも無事です。

岡山西には、真備町の方もいましたが、自宅寸前まで冠水したため身動きとれず、断水で困っているそうです。

四国も大丈夫のようですが、一番被害の大きかったのは愛媛県でした。

また中部からは、関教会が、関市上之保地区で被災されている方々に、必要とされている物資を届けているとの報告をいただいてます。

あまり報道されることがありませんが、被害が大きいようです。

東関東中会の執事活動委員会としても、昨日、求められた物資をお送りしました。


各地区において、近隣教会から牧師・信徒が市民ボランティアとして参加している旨も聞いています。

今後、どこかの教会が基点になってボランティアセンターとなる可能性もありますが、いずれにせよ、時間や体や持ち物をささげて、主の愛の業のために用いられたいという思いを、みなで共有したいと願います。


ダニエル9:18-19の祈りに導かれつつ、共に祈りましょう。

神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃を御覧ください。

まだあなたの御名を無視し続ける者たちのことをも、造り主なるあなたの愛ゆえに、無視することなくご覧ください。

わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。

主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。

わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。

あなたのまなざしの内にあるすべての者たちが、あなたの御名を知り、あがめ、あなたに賛美を帰すように、憐れみと恵みの御手をさしのべてください。

愛する者を失い、悲嘆にくれている人々を憐れんでください。

住むところを失い、何をしたらいいのか分からなくなっている人を憐れんでください。

激しい暑さの中で、復旧に励む作業員の方々を励ましてください。

ボランティアとして集まる人々の善意を用いて、あなたの憐れみをあらわしてください。

そして私たちをも、必要な業のために用いて下さい。





2018. 07. 10  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:26-27です。

<私訳>「このことのゆえに、神は彼らを、恥ずべき衝動に引き渡されました。すなわち、女は自然の性交を不自然な性交と取り替えてしまい、同様に、男もまた、女との自然な性交を棄てて、互いに情欲を燃え立たせ、男と男のみだらなことへと行き着き、こうして、彼らの迷走に対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」


「このことのゆえに」とは、前節にあった「造られた方の代わりに造られたものを礼拝する」という倒錯のゆえに、ということです。

その倒錯にお怒りになった神は、彼らをほったらかしにされ(24節参照)、「恥ずべき衝動」のおもむくままに「引き渡された」のですね。神の怒りが、そういうかたちで現わされた。

その結果として、男女の自然な性の関係がひっくりかえってしまうという、倒錯が起こってくる。

神を偶像に「取り替えた」人類は、性の関係も「取り替える」ことになったのです。


こういう箇所は、性的マイノリティーの方との関係で、現代においては、大変慎重に扱う必要がある箇所だと思います。

「自然の」とあるのは「生まれつきの」ということです。性同一性障害と言われる方のように、生まれつきの性倒錯の問題は除外するべきでしょう。

では、どこまでが生まれつきで、どこからが好き放題の性的嗜好の問題なのかというと、私にはよく分からないところがあります。

ただ、聖書の価値観は、世のリベラルな考え方における性の自由ということとは、一線を画すということは確かだと思います。

私自身、このことに不勉強なこともありますので、これ以上は触れません。

大事なことは、そういう性の倒錯ということが、すべてがひっくりかえってしまっている人間存在の根本的な混乱・カオスの象徴として示されているということです。

それは、神を見失った偶像崇拝という「迷走」に対する「当然の報い」として与えられている状態であって、そのままでは破局を免れないのです。


共に祈りましょう。

主よ、まるでおもちゃ箱をひっくりかえしたようなカオスが、確かに私たちの現実にあって、もうどうしたらいいのか誰にも分からないほどに、私たちは行き詰っています。主よ、憐れんでください。十字架のキリストのゆえに、我らに赦しと回復を与えてください。
2018. 07. 06  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:25です。

<私訳>「彼らは、神の真理を偽りに取り替え、造られた方の代わりに造られたものを礼拝し、これに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です。アーメン。」


今日のところは、先の23節の「不朽の神を、朽ちていく偶像にすり替えた」という議論の繰り返しのようです。

違っているのは、「造られた方=造り主」という神認識です。

自分が造っていただいた存在でありながら、そのことを見失い、造ってくださった方をあがめようとしない・・。そこに罪人としての全人類の根本的な倒錯があるのです。

そこがまるでひっくり返っているから、逆立ちの生活になってしまって、すべてがしっちゃかめっちゃかになっている。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に目を留めよ」そうすれば、人生の空しさにのみこまれてしまうことはないと、古の賢者も言いました(コヘレト12:1)。

神はすべてを造られた。海も空も、クジラもビフィズス菌も・・。その大いなる手の中で、すべての命が営まれている。

そしてその大いなる創造主が、この小さな私のことも、真心をこめて造って下さいました。そこに込められた愛・・。

パウロはここで、「造り主こそ、永遠にほめたたえられよ」と、突然に賛美の歌声をあげます。

創造主がふさわしくあがめられていない現実を思い出す中で、思いがこみ上げて来て、思わずトーンがあがってしまったのでしょう。

私たちもまた、この声に合わせて、賛美をもって一日を始めましょう。


我が主よ、大いなる創造主よ、すべて造られた者たちがあなたをふさわしくあがめ、あなたを賛美する声が全地に満ちますように。主よ、あなたに与えられた今日の日を、あなたが用意してくださったこの地球の上で、存分に喜び、感謝をもって歩みたいと願います。あなたに御栄光がありますように。

2018. 07. 05  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:24です。

<私訳>「そこで神は、彼らがその心の情欲に引きずられていくにまかせ、汚れにと引き渡されました。そのために彼らは、互いにその体を辱めるようになりました。」


ここから32節までは、ローマ社会に蔓延していた悪徳を数え上げているところです。

パウロは、コリントやエフェソなどのローマ世界の大都会での生活の中で、人の心が荒れ廃れていることを実感していたのでしょう。

そして、性的な乱れがひどく、少年男色などが当然のごとくなされる様子に、ひどいショックを受けていたのだと思います。

そしてこう思ったのですね。「ああ、神様は怒ってしまわれて、ほったらかしにしておられるのだ・・。」


あまりにも腹が立って、残念で、「もういい、勝手にしろ・・・」と手を引く。皆さんにもそういう経験はないでしょうか。

「汚れにと引き渡された」と言われています。「引き渡される」という言葉が、この後26,28節にも続きます。

罪を愛する者を、罪に「引き渡す」。これが、最もおそろしい神の怒りの仕打ちなのです。

それはある意味で、見捨てる、見放すということでもあります。

かたくなな心には、何を言ったところで言う事を聞きません。

残念ながら、行き詰るまで放蕩のかぎりを尽くさないと、悔い改めができないのが人間です。だから、ほったらかす。

でも、それは完全に見捨てたということではない。神から完全に見捨てられたのは、十字架の主イエスだけです。

ほったらかしにしながら、どんどん悪魔化していく人間に心を痛めつつ、見守り、待っておられるのです。

放蕩息子の帰郷を待ちわびる父のように、行き詰り、神に立ち帰るのを、待っておられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがどれほどに怒っておられるのか、悲しんでおられるのか、そんなことを考えてもいなかった私たちを赦してください。私たちのすべての営みを、忍耐をもって見つめていてくださるあなたのまなざしを覚えながら、今日歩んでいきます。あなたのもとへと導いて下さい。
2018. 07. 04  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:23です。昨日の22節から続けてみます。

<私訳>「彼らは自分では賢いと主張していますが、自分を愚かにしています。朽ちることのない神の栄光を、朽ちていく人間や鳥や、四つ足のものや這うもののかたちに似た物と、すり替えてしまったのです。」

中途半端に神様を知った気になっている、自称「賢い」文化人は、日本にもたくさんいます。私自身もそうでした。

そういう人は、創造主の存在をうすうす感じながらも、巧妙に無視して、神様のおっしゃることを聞く気などありません。

でも、気ままに、なんとなく、宗教的感情を満たしたくて、仏像をながめてみたり、白ヘビをありがたがってみたりします。

まったく傲慢に「神などいない」かのように振る舞いながら、お手軽な「神っぽいもの」が欲しくてそれぞれの偶像を求める、この愚かさ・・・。

あるいは、十字架のキリスト像や、マリア像を、意味も知らずに何となくありがたがるというのも、これと同じなのでしょう。



そこでは、根本的な倒錯が起こっています。

見えない、そして「朽ちることない」栄光の神を、目に見える、「朽ちていく」被造物に「すり替える」という、倒錯です。

そういう倒錯が、その人の生活も「逆立ちの生活」にしてしまって、結局はおかしなことになるのだと、竹森満佐一という先生が言っています。


共に祈りましょう。

主よ、偶像崇拝に囲まれたこの国にあって、見えないあなたのことを知らせていただき、悔い改めをさせていただいたことを感謝します。私たちの弱さゆえに、見えるもの、手で触れることのできるものに頼ってしまう、そういう倒錯を赦してください。人間に頼ってしまう思いも、どうか憐れんでください。そして、正しくひっくり返して、まことの信仰を与えてください。

2018. 07. 03  
今週も、ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:22です。

<私訳>「彼らは自分では賢いと主張していますが、自分を愚かにしています。」


「彼ら」というのは、まだ聖書の神を知らないローマの人々です。

繁栄を誇ったローマのインテリたちは、自分たちには知らないものはないとうぬぼれていました。

しかし、本当に知るべきことを知らないままであると、パウロは洞察しているのですね。

その結果として、人間は愚かになるのですね。

自分を愚かにしている。自分で自分をつぶしていくような結果になっている、という感じの言葉です。

そういう愚かさは、この後続く24節以下に描かれる、退廃的で、愛を見失った人間世界の暗さに現れています。

中途半端に神様を知った気になっているから、人間は傲慢になり、自滅していきます。

中途半端に知った気になっている・・・。私自身もそういう者ではないかと、いつも自省しています。

イエス・キリストにおいて御自分を明らかにしてくださった神の御心を、日ごとに新しく、もっと深く、もっと豊かに、知らせていただきたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、私を砕いて下さい。あなたからの命の水が、もっと深く染みわたるように、このかたくなな心を砕いてください。真実の賢さを与えてください。



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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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