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2018. 07. 28  
来週からはキャンプの奉仕や休暇などで、9月上旬まで配信をお休みいたします。皆さんそれぞれの、御言葉と祈りの日々に祝福が豊かにありますように。

今日は「その時の祈り」より、「年老いて」という祈りです。
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主なる神よ、きょうまで旅路を導いてくださいましたことを感謝します。

この生涯をふりかえるとき、すべてのことが感謝のうちに過ぎたような気がします。

生涯の中で、もう終わりかと思う危機に、幾度か出会いました。

経済的な危機、病気の危機、人間関係の危機など、数え上げればきりがないほどです。

しかしいまそれらをのりこえ、「晩年」といえるこの時期を静かに迎えています。

若い時は余分なものをたくさん身に着けていました。

若さにまかせて乱暴でした。

時間を無駄に使いました。

無理がきかなくなったいま、自分の限界をじっとみつめます。

すべてが弱くなり、力もありません。

神さまは一つずつ余分なものを取り去り、身軽にしてくださっていると心から感謝をささげます。

御旨にしたがい、御旨にゆだね、あるべき姿に自然に帰ることができますように。

ここにきて、いたずらな反逆につきすすむことがないようにしてください。

主にあって。
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2018. 07. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:4です。

<私訳>「それとも、神の慈愛と忍耐と寛容との豊かさを誤解して、憐れみ深いこの方があなたを悔い改めさせようとしておられることが理解できないのですか。」

「慈愛」と「憐れみ深い」は同じ語根です。神様の親切なやさしさです。

「忍耐」は「辛抱」でもいいでしょう。そして「寛容」としたのは「怒ること遅い」ということです。

わたしたちの悔改めを待ってくださって、最終的な結論(判決)を遅らせておられる神の忍耐ということです(Ⅱペトロ3:9)。

でも、そういう神の忍耐を「誤解」している私たち。

「誤解する」としたのは、「軽んじる、うとんじる」と解されることが多いですが、そこから転じて、「自分に都合よく間違って理解する」という意味で考えています。


榊原康夫先生の注解にありましたが、コヘレト8:11にこういう言葉があります「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。(口語訳)」

神の裁きが必ずあるということは伝説のように聞かされていても、それはいつも世の終わりまでおあずけで、今はなにもないじゃないか。

むしろ、悪事を働く人がうまい汁を吸い、正直者が損を見ているではないか。

それならば、どんどん悪いことをやったほうがいいではないかと、人の心が悪に傾いていく。

それが、2018年現在のわたしたちの現実かもしれません。

そういう中で、目覚めている者として歩むというのはどういうことでしょうか・・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたはどんな思いで、昨日のわたしたちを御覧になっておられたのでしょうか。悔い改めということを、私自身が、そして私が出会わせていただいた方々が、よく考えることができますように、聖霊の導きを与えてください。
2018. 07. 26  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:2-3です。

<私訳>「私たちは知っています。このようなことを繰り返す者たちの上に、神の裁きが、真理に従ってなされるということを。しかし、人よ。このようなことを繰り返す者たちを裁いているあなた、でも同時に、自分も同じことをしているあなた!!あなたは、自分だけが神の裁きを逃れられるなどと目論んでいるのですか。」


昨日に続いて、「人を裁きながら、自分も同じことをしている」と、私たちの罪の本性が追い詰められています。

今日は特に、「神の裁き」という恐るべき事実が思い起こされています。

それは「真理に従って」なされる、とあります。これはとても重々しい表現です。

真理に従ってというのは、事柄の真実に照らしてということです。

神様の前には一切のごまかしが通用しません。人はうわべを見るが、神はすべてをご存じです。偽善も、口先だけの信仰も、全部お見通しです。


先日、ある方とお話していて、「先生は自分の罪深さということを、丁寧に掘り下げて見つめようとしておられるけど、そういうことばかりしているとノイローゼのようになってしまわれないか」と心配していただきました。

もし私がおっしゃる通りにできているとすれば、それは、「神の裁き」ということを意識しているからでしょう。

神様の前には、ごまかしがきかないと知っているから、正直にさらけだすしかありません。

とは言いながら、そうしながらもなお人には言えずに隠していることもあります。

「『自分の罪深さを悔い改めている』ポーズを見せようとしている自分」であることも知っています。

自分にしか知り得ない、自分の罪深さがあります。

しかしさらに恐るべきことに、そうやって自分について知ったかぶりをしている自分が、なお知らない、なお数えていない自分の罪さえも、神は「真理に従って」全部ご存じです。

・・・もうお手上げです。

そういうことを考え続けて行けば、確かにノイローゼになるかもしれませんね。

でも、私がノイローゼにならないのは、そういう私が赦されているということに、全面的によりかかっているからです。

すべては赦されている。だからもう、自分をいじめるために罪を掘り下げたりしません。

そうじゃなく、赦していただいたことがただただうれしいから、キリストに少しでもふさわしくなりたくて、自分をちゃんと見つめて、その罪と戦いたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの前でごちゃごちゃ申し上げても仕方ありません。私の罪を赦してください。そして、神の子として、今日も作り変えていってくださって、あなたとのお付き合いを深めさせてください。あなたに愛されている私自身を、自分でももっと好きになっていくことができますように、どんどん整えて行ってください。
2018. 07. 25  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日から2章です。2:1を分かち合います。

<私訳>「だから、人よ。だれであれ、人を裁いているあなた!!あなたにも、弁解の余地はないのです。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を断罪しています。だって裁いているあなたも、同じことを繰り返しているからです。」


1:18以降では、神の怒りを引き起こす「人間の罪(不信心・不道徳)」について、掘り下げられました。

そういうことを繰り返していてはダメだということは、聖書を知らなかった人でも、ある程度は「良心の痛み」として知っていることです。

神様は、すべての人にそういう心を与えておられるからです。だから、「そんなこと今まで聞いてない」との言い訳は成り立ちません、というのが、パウロの論法です。

そうやって罪人を追い詰めていくパウロの銃口は、今度は「人を裁いている者」に向けられます。


「人よ。だれであれ、人を裁いているあなた!!」あなた、あなたのことです。偉そうに人のことを批判しているあなた、あなただって同じだ!!

こういう風に言われてしまうと、もうほんとに形無しです。

この2章からは、聖書に慣れ親しんできたユダヤ人を対象に語っているとも言われますが、それはどうでもいいことです。

今日、神様から「あなた!!」と呼びかけられているのは、わたしたちです。

人のことはよく見えるこの目で、自分をちゃんと見つめ、そして、罪を繰り返さないように気を付けたいと願います。

とはいえ、それができないのが罪人なのですけどね。

だから、イエス様に死んでいただく必要があったのです。


共に祈りましょう。

主よ、自分の醜さを棚に上げて、人のことを笑ってばかりの私たちのありさまは、あなたの目にどれほど滑稽なことなのでしょう。主よ、そのようにしか生きられぬ私たちの罪深さを、どうか赦してください。ただあなたの愛ゆえに、そんなわたしを受け入れて下さい。



2018. 07. 21  
ここのところ土曜日は、説教準備に集中して配信を忘れていました。ご容赦ください。

今日は、土曜の朝に際しての私の祈りの言葉をお届けします。

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「土曜の朝に」

天地のつくりぬしなる神さま

礼拝をもって始めた一週間を、お守りのうちに過ごさせてくださいましたことを感謝いたします。

まことに暑さが厳しい一週間でした。教会の仲間たちの健康を心配し、被災者の方々のことを思って胸を痛めてきた一週間でした。

主よ、憐れんでください。まことに私たちは弱い者です。

この肉体も、またこの心も、あまりにもろくて、すぐにこわれ、揺れ動くものです。

今クタクタに疲れている者や、思い煩いを抱えている者のことを憐れんでくださって、平安を与えてください。

そして主よ、今週の私を赦してください。

あなたを信頼しきれない私を赦してください。あなたに従いきれない私を赦してください。


まことにあなたの憐れみと恵みがなければ、ここまで歩んでくることはできませんでした。

今、御前にひざまずき、感謝を申し上げます。

子どもたちも今日より夏休みに入っています。一学期の歩みに与えられた祝福に感謝します。

あなたはすべてを備えて下さる方。

私たちの信仰の歩みにも、また新しい発見が与えられ、御言葉の理解が深まったことを感謝します。


今、一週間の終わりの日に、時の過ぎゆくことがあまりに早いことに驚きます。

この一日を大切に、あなたがくださった一つ一つの恵みの導きを思い巡らしながら、あすに備える日とさせてください。

そして希望に満たされて、あすの日曜を迎えることができますように。

キリストによって。
2018. 07. 20  
ローマ書は1章が終わりましたので小休止。今日は、質問をとりあげます。

イエス様は敵をも愛しなさいとおっしゃいますが、詩編には、5:11、9:20、59:14など、敵を滅ぼしてくださいとの激しい怒りの祈りがあります。どう考えたらいいのですか?との質問をいただきました。

これは難しい問題ですね。ここでは簡潔に答えようと思いますが、本当はそんなに簡単にスッキリしていいものではない、ずっと悩みながら考え続けていきたいことです。

答え方にもいろいろあると思います。今の私が思いつくのは、以下のような視点です。


①まず、神の愛と神の正義ということを考えましょう。

神は御自身に敵対する人間をも愛されつつ、彼らの暴虐なふるまいに対しては、正義の怒りを発せられます。

それは愛ゆえの怒りとも言えます。

だから私たちも、愛の教えを胸に覚えつつ、信仰者に対して悪を行う敵がふさわしく裁かれるようにと、神の正義に訴えるということは可能です。

敵を愛するというのは、敵が悪いままのさばるのを放任するということではないからです。


②霊的に解釈し、「わたしたちを苦しめる罪の力、サタンの攻撃を打ち破ってください、滅ぼしてください」という祈りとして考えると、スムーズに受け取れる場合は多いです。


③こういう祈りは、自分自身のために祈っているのではなく、神を愛する信仰者が、神様のために祈っていると理解することも大事です。

つまり、敵対者たちによって神があなどられ、コケにされているという現状に我慢ならず、「神様、あなたの御力をあらわして、あなたのご栄光を回復してください」と祈っているのです。


④こういう祈りは、自分自身が敵や迫害者に囲まれ、苦しみの状況に置かれていない時には、決して分からないものでしょう。

例えば、詩編137:9には、敵であるバビロンの幼子たちを岩にたたきつけて殺す者たちは幸いだ!、とのすさまじい呪いの言葉があります。

でもこれは、この詩編を受け継ぐイスラエルの民自身が、かつて経験した悲劇なのです。

幼子たちを岩にたたきつけて殺された、深い深いトラウマを抱えているのです。

詩編にあるような怒りや呪いの言葉を考える時には、それを発せざるを得ないような状況に置かれている人のことを想像し、「泣く者と共に泣く」ということも必要だと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今日も暑さの厳しい一日になると思います。私たちの弱さを憐れんでくださって、体も魂も、あなたの御翼の陰で休ませてください。今日も御言葉に導かれて、確実な歩みを進めることができますように。
2018. 07. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:32です。

<私訳>「彼らは、このようなことを繰り返す者は死に価するという、神様の義なる御定めを十分に知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、それを繰り返す者たちに心から同意しているのです。」


神の怒りの下にある人間の闇の深さについて書かれてきました。最後に行き着くのが、今日の32節です。

このようなことを「繰り返す」と意訳したのは、普通に「行う」ということよりも、習慣になってしまっているというニュアンスがあるからです。

昨日もテレビで、万引きや痴漢をやめられない依存症のことが紹介されていました。

こんなことをしていてはダメだ・・・、そういう道徳的良心は、誰にでもあります。

それは神様がそれぞれの心に植え付けておられるもので、聖書を読んだことが無くても、「十分に知っている」と言えるほどに、みんな本当は分かっているはずなのです。

でも、やめられない・・・。

こういうことは、一般的に考えているだけではダメですね。それぞれの胸に手を当てて、自分がやめられない悪徳を、意識化しましょう。


自分でそれを行うだけでなく、同類の仲間に「心から同意している」=一緒になって楽しんでいる、とも言われています。

私たちは、自分と同類の悪に染まっている人にはやさしくなるものです。

それは、そういう間違いを繰り返してしまう弱さがよく分かるからという、共感・同情がはたらくからでしょう。

でも、さらに掘り下げて考えてみれば、そこには「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な、みんな同じだから大丈夫だよという「ごまかし」がないでしょうか。

自分がやっていることの問題性をごまかすために、「あなたはそれでいいんだ、ありのままでいいんだ。私だってそうだ」と、人のことを是認していく。

わたしたちは、そういうことをしているのではないでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちそれぞれが抱えている、そして多くの場合に人に隠しているような、やめられない過ちを、主よ、あなたの恵みによって、ストップさせてください。とらえがたく病んでいる私たちの魂を、どうか赦してくださり、いやしてくださり、きよめてください。
2018. 07. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:31です。

「物分かりが悪く、約束を守らず、人の心が分からず、思いやりがないのです。」


悪徳が数えられる最後のところですが、この四つの形容詞は語呂合わせになっています。

新共同訳の翻訳は、その雰囲気を出すために工夫していますね。「無知、不誠実、無情、無慈悲です」となってます。


「物分かりが悪く」は、「聡明な、洞察力をもった」という言葉に否定がついた言葉です。

「約束を守らず」は、「合意されたこと、取り決められた」に否定がついた言葉で、裏切り。

「人の心が分からず」は、「愛情」に否定がついた言葉。自然の情愛を欠く冷たさ、薄情さ。

「思いやりがない」は、「憐れみ深い」に否定がついた言葉。


毎日、こういう悪徳を数えていますと、「・・・あの人のようだ」と、朝からなんだかがっかりした気持ちになってしまうかもしれません。

あるいは、「自分は昔こうだったな・・、今でも同じだな・・」と、自分に嫌気がさす人もいらっしゃるでしょうか。

後者であれば、そういう罪の自覚こそが救いの始まりでありますから、すばらしいことです。

大事なのは、落ちこんだり、あるいは落ち込んだふりをしてるだけにとどまらないで、そういう罪を赦し、また、そういう罪を克服させてくださる方のもとに、真剣に立ち帰ることです。

罪が行き着く先は、永遠の滅びです。

しかし、神の義に立ち帰るなら、行き着く先は永遠の命です。


共に祈りましょう。

主よ、約束を決して忘れないあなたに出会うまで、約束を破ってもまるで平気でした。あなたの教えに生きる人たちの思いやりによって、魂をいやしていただくまで、他者を配慮することなど考えられない者でした。主よ、ありがとうございます。今日もきよめてください。
2018. 07. 17  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:30です。

<私訳>「人を誹謗中傷し、神を憎み、人を人と思わず、高慢ちきで、自分を大きく見せたがり、悪事の発明家で、親不孝で、」

福音の光によってあばかれた、人間の正体としてのダークな姿を描くために、引き続き言葉が重ねられます。


私たちはまるで、泥沼で互いに足をひっぱりあって、誰もそこから出れなくなっている人たちのようです。

だれか優れた人がいれば、真似して自分も高められればいいのに、自分の低いレベルに引きずり落そうとするかのように「誹謗中傷」します。

その罪の沼から引き上げようと、神は手を差し伸べてくださいます。しかし、「神を憎んで」拒絶します。

だって私たちは、その泥沼のぬるい感じが、お気に入りなのですから。


「人を人と思わず、高慢ちきで、自分を大きく見せたがり」と、言葉を尽くして、人間の傲慢があばかれます。

お年を召した方でも、若い方でも、やたらに偉そうに、人を批判する方がいらっしゃいます。

「あれではダメだ・・」とか、「おれならもっとうまくやるのに・・」と、いつも言ってる。

そういう自分は何ができるのかといえば、何一つ成し遂げられないで、いつも途中で投げ出しては、「周りが悪い」と文句ばかり言っている。

本当に自信のある人は、やたらにかみつかないものです。

せこくて、小さくて、何も持っていない人間が、自分の正体をごまかすために、あるいはそういう現実から逃げるように、やたらに見栄を張り、ほらを吹くのです。

私自身もそういう人間だから、よく分かるのです・・・。


朝から、そういう自分と向き合うのは嫌なことです・・。あわれだなと思いました。救いようがないです。やっぱり、イエス様が必要なのです。



共に祈りましょう。

憐れみ深い主よ、私たちのごまかしは、あなたにはすべてお見通しです。・・・このままじゃいけないですよね。聖霊よ、わたしをきよめ、砕いて、生まれ変わらせてください。
2018. 07. 13  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は1:29です。

<私訳>「そうして彼らは、あらゆる不義、邪悪、むさぼり、意地悪に満ちていて、ねたみ、人殺し、ケンカ、だまし、悪だくみでいっぱいで、人の陰口を言い・・・」

29-32節に示された悪徳表は、ギリシャの哲学者たちが示すものとも似ており、日本でも普通に道徳の授業に用いられそうです。

しかしパウロが伝えようとしているのは、これが神の怒りのもとにある人間の惨状だということです。

昨日の28節にあったように、神様のことを「役立たず」と断じて無視するような人間の傲慢に対して、神様は、落ちるところまで落ちていけとほったらかしにされ、それゆえに人間は「してはならないことをするようになった」のです。

その結果として起こっているのが、この惨状です。


「不義」というのは、神様が正しいとすることを否定し、自分の正しさを主張することです。

「むさぼり」は自己中心な貪欲、欲張り。

辞書にはやたら詳しくこうあります。「もっともっと自分のものとして取り込もうとする欲望、人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やそうとする欲望、取ってはならないものまで無理に手を伸ばして取ろうとする欲望。」

「意地悪」、これはくせものです。意地悪な人は、自分の意地悪に気がついていなかったり、あるいは、分かっていてもやめられません。

善意を装って、皮肉な嫌味を言ったりします。自分がそうなので、よく分かります。

「ねたみ」、私は男性なので、特に男のねたみの闇の深さ、おぞましさということを覚えさせられます。女性も同じでしょうか。

「人殺し」、ドキッとします。イエス様は、心の中でバカと言うのも、その人を殺すのと同じだと言われました。

そして、「ケンカ、だまし、悪だくみ、陰口」・・・、確かに、私たちの現実はそういうもので「いっぱい」です。


これらが、福音の光によってあばかれた、人間の闇です。正体です。

こういう自分に嫌気がさして、罪を自覚するなら、それが、それこそが、救いの始まりです。

パウロがこんなにしつこく罪を指摘するのも、救いへ招きたいからです。それ以外にはありません。


共に祈りましょう。

主よ、御言葉に触れれば触れるほど、自分の罪深さを知らされ嫌になります。神の子に十字架で死んでいただかねばならなかったほどの、私たちの罪とはどれほど深く大きいのでしょうか。あなたの赦しの愛に感謝します。自分の罪をよく知り、それと闘うことができるようにしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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