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2018. 09. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日取り上げられなかった2:8を改めて訳し直します。

<私訳>「他方で、自分のことばかり考えて、真理に従わないで不正に従う人たちには、怒りと憤りが支払われます。」


「自分のことばかり」と訳した言葉の語源は、「雇われ仕事」というものです。

雇われ人というのは、自分の生きがいでやっているのではないので、自分の得になるように、できるだけ楽して給料をもらえるようにとズルをする。

そういう雇われ人根性というところから派生して「利己的に、自己中心的に」という意味が出てきたと、榊原康夫先生は言われます。


「不正に従う」というのも面白い言葉です。「不正に説き伏せられる、説得に服する」というニュアンスです。

「・・・わたしだって、こんなことやりたくないんだけど・・。仕方ないんだよ・・・。」

そんな風に、「説き伏せられる」ようにして悪に進んでいくということが、私たちの現実にはたくさんあるでしょう。

「みんなやっているのだから、君もやっていい。むしろ、やりなさい。そうするとみんなと仲良くなれる。さあ、空気を読んで!!」

あるいは、「組織のために、そういう良心は捨てなさい」と、説き伏せられることもある。

もし私たちが、雇われ人根性しか持っていないなら、「まあ、仕方ないか」となってしまうでしょうね。

それは、自分で自分を説き伏せるような、悲しい経験です。

そういう苦さを知らずに生きてこられた人は、いるのでしょうか。


竹森満佐一牧師が言っています。

悪を行うというのは、何かの力に引き回されている生活です。

それに対し、善を行うということは、本来孤独なことです。人間との関係において、孤独です。

しかし神との関係においては孤独ではない。それは、いつも神とともにある、神とだけともにおる孤独であります。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが共にいてくださる、そのことの恵みと祝福、そしてその意味を、改めて考え直すことへと導かれたこの朝です。主よ、私たちを悪より救い出したまえ。


2018. 09. 13  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:7,8です。

<私訳>「すなわち、善い業にふみとどまるという忍耐に基いて、栄光と誉れと不滅のものを追い求める人たちには、永遠の命が。他方で、自己中心の野心を抱き、真理に従わないで不義に従う人たちには、怒りと憤りが支払われます。」

「忍耐」というのは聖書において大変重要な言葉です。

それは、不当な仕打ちを受けても抵抗しないでじっと耐える「我慢、辛抱」ということとは、性質が違います。

いつでも神の希望の約束を見つめ、そこにたどりつくために、どんな逆風にも負けないで、自分の信じた道にふみとどまる。

病の時もトラブルの時も、迫害の時も、キリストと共に生きることを誇りとし、神を愛し、人を愛し、敵さえも愛し、善をもって悪に打ち勝つ。

そんな風に、「善=キリストの道にふみとどまる」という忍耐です。(Ⅰペトロ2:20以下もご参照)


栄光と誉れと不滅のものを追い求めるとあります。

この「誉れ」は「評価、価値」という語であり、神様からほめていただきたいという素朴な願いの反映です。

あるいは、「真に価値あるもの」を求めるという意味にもとれます。

そして「不滅」、時代が移り変わっても、決して朽ちることのない真理。そういうものを追求する心。

そんな高い精神性が与えられるということ。それ自体がとても新しいことであり、私たちの内に宿ってくださる聖霊が始めてくださった新しい私です。

「永遠の命」とは、将来に約束されていると同時に、私たちの内に今すでに始まっている、質的にまったく新しいありかたでもあります。



共に祈りましょう。

主よ、今この道にくじけそうな者、疲れている者、誘惑や試練に負けそうになっている者がいましたら、どうか憐れんでくださって、ふみとどまる力をください。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
2018. 09. 12  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:6です。

<私訳>「神は、おのおのに、その人の業に応じて支払われます。」

「業」としたのは、新共同訳では「行い」です。仕事や業績という意味も含まれます。その人の一生涯全体のありよう、という解釈もあります。

その人の心の奥底にあることをひっくるめて、その人がどういう風に生きようとしたのか・・・。

つまるところ「善を行ったか、悪を行ったか(7-10節)」に応じて、ふさわしい「支払い、報い」が与えられるのです。

これは前の5節とつながっていて、やがて神の正しい裁きが明らかにされる「怒りの日」に、それは支払われるということです。


こういう教えは、他にもⅡコリント5:10、ヨハネ5:29、ガラテヤ6:7-10、黙示録2:23、20:12などにもあります。

このような言葉に触れると、「ただ信じるだけで救われる」とあるのに・・、と困惑する方もいるかもしれません。

これは、この場で短く答えるのが難しいことですが、ただ「行いの伴わない信仰」というものはありえないということ、このことはよく覚えていただきたいと思います。

「キリストを信じる」とは、神社でお守りを買うこととはわけが違います。

「キリストを信じる」とは、「キリストと共に歩み始める、生き始める」ということです。


私はこれまでの人生で、何人かの師に出会い、彼らの指導を信じて、すなおにそれを実行することで、生き方そのものが変えられてきました。

そこには常に葛藤もあり、古い罪深い自我との戦いもあります。それに負けることもしばしばです。

でも、神はそれぞれの方との出会いを通して、私の人生を少しずつ整えていってくださっています。

「キリストを信じる」とは、そういうことに似ているのです。

人間の師にはそれぞれ欠けもあり、教えは不完全です。キリストこそ、完全な師であり、「信じる」に足る方です。

彼への信仰は、「業、行い、人生」の変化を生まずにはいません。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日の私たちの歩みを祝福してください。あなたの御心と、わたしの心をひとつにしてください。あなたの教えによって、わたしを幸いな人生に導いて下さい。

2018. 09. 11  
夏の中断を終えまして、ローマ書を一節ずつ読んでみる、再開します。今日は2:5です。

<私訳>「あなたのかたくなで悔い改めのない心のゆえに、あなたは神の怒りを、すなわち、神の正しい裁きが明らかにされる「怒りの日」に臨む怒りを、自分のためにせっせと蓄えているのです。」

振り返りますと、1章の最後では神の怒りに価する人間の罪深い悪徳が、数え上げられました。

そして2章では、他人の罪を偉そうに断罪しながら、「同じことをしているあなた!」に、警告が与えられます。

私たちは、神が怒ること遅く、やさしく、寛容な方であることを知っています。しかしそれに甘えて、「悔い改め」ということを真剣に考えないならば、それはまったく自分に都合のよい誤解です。

それは、「神の怒りを、せっせと蓄える(愛蔵する)」ようなものだと言われています。

貯金箱にはなかなか貯まりませんが、神の怒りは、知らぬ間にどんどん貯まっていく・・・。

それは、今は隠されているが、神の正しさが完全にあらわされる「怒りの日」に明らかにされます。


こういう恐るべき言葉を、読み過ごさずにいたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、自分自身のためにあなたの怒りではなく、あなたの恵みを蓄える者でありたいと願います。主よ、恐るべき言葉が与えられました。ショックがあります。この言葉を、本当によく分からせてください。そして、救いに導いて下さい。

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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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