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2018. 09. 29  
明日の礼拝は、私は上福岡教会の特伝奉仕で留守をしますが、引退教師の高瀬一夫先生が説教してくださいます。

また、伝道委員会では、駅前でのティッシュ配りを予定しています。

皆さん少しずつでも、主の伝道の御業に参加なさってください。

明日は台風も来ていたり、所用のため活動に参加できない方も多くいるので、無理はできません。

しかし、福音の喜びがたくさんの人に伝えられるように、みんなで祈りを合わせましょう。


主よ、全世界の救い主よ

神を見失い、帰るべき家を見失い、彷徨っている魂をお救いください。

生きる意味が分からないでつぶやいている人を、むなしさからお救いください。

自分が犯し続けている悪に鈍感で、自分が「罪人」だと知らないでいる人たちに、気づかせてください。

そして、悔い改めを与えてください。向きを変えて、あなたの示される命の道を歩むことができますように。

自分が犯してしまった過ちに苦悩している人に、あなたの赦しと癒しと慰めがありますように。

悲惨な現実の中で、頼るべきものを持たないで泣いている人に、あなたが助けとなってくださいますように。

死を恐れている者に、復活の主イエス・キリストにある平安が与えられますように。


主よ、わたしたちの世界は、あなたを必要としていないかのように振る舞っています。

しかし、あなたなしでは、本当は誰も生きていけません。だれもが福音の喜びを必要としています。正しい道を求めています。

主よ、私たちは無力です。伝道の無力さを覚えています。

主よ、人々を助けてください。あなた御自身の救いのご計画を、前に進めてください。

私たちの教会を、あなたの手足として用いてください。

そして、そのことをとおして、私たち自身が、あなたの生きておられることを豊かに知ることができますように。


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2018. 09. 28  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:19-21aです。昨日に続いてユダヤ人への訴えですが、キリスト者である自分への語りかけとして聞きたいと思います。

<私訳>「また、律法の中に示された、具体的な形での知識と真理を持っているので、あなたがたは自らを、盲人の案内者、暗闇に迷う者の光、愚かな人のしつけをなす者、未熟者の教師であると確信しています。ならばなぜ、他人は教えて、自分には教えないのですか。」


「律法=聖書」というのは、私たちが何を信じ、どう生きればいいのかという、非常に具体的な教えが記されています。

だから、それを持っている人は、確かに「案内者、光、しつけ手、教師」として自任してよいのです。

むしろ、そういう役割・責任があると言ってもいいと思います。

でも、それを果すことができないのが、私たちの残念な実力です。

責任を果すことができていないのに、自意識だけが過剰な人ほど、みっともない人はいません。


その反対に、そういう役割・責任から逃げるようにして、「自分はダメな信仰者だから証しにならない」と、いつまでも同じことばかり言っている。

そういう、謙遜という名を借りた不信仰も・・・。



神の前に自分を真実にへりくだらせ、自分を明け渡し、その御心を我が心とすることは、いかに難しいことか。

共に祈りましょう。

主よ、この日本という国にあって、選ばれ、あなたとの出会いをゆるされた私たちの幸いを感謝します。どうか私たちに、必要なだけの誇りと謙遜とを与えてくださって、地の塩・世の光として用いてください。
2018. 09. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:17-18です。

今日のところからは、パウロはダイレクトに、ユダヤ人たちに対して語りかけます。

神様にはえこひいきはないのだから、旧来の「神の民」としての特権意識に浸っていてはダメなんだよと、訴えかけるのです。

<私訳>「あなたはユダヤ人と自称し、律法の上に安んじていて、神との特別な関係をプライドとして、律法に教えられて、御心を知っていて、何が大切な事であるかを見分けることができるはずです。」

そういう者であるはずなのに、その通りに生きていないじゃないか・・・と、この後続いていくわけです。


今日の御言葉は「クリスチャンとして漫然と過ごしている自分」に語りかけられていると思って、読んでみてください。

そうしますと、なんとも決まり悪くて恥ずかしい・・・。


私たちは、ちゃんと色んなところで、キリスト者と自称しているでしょうか。

聖書にまったく信頼し、その御言葉によって心安んじているでしょうか。持っているだけでなく・・。

神との特別な関係が、良い意味でわたしのプライドになっているでしょうか。腐った選民意識ではなく・・。

神様の御心をちゃんと知っていると、言えるでしょうか。

何が大切なことであり、何がどうでもいいことか、その「差」をきっちり見分けることができるでしょうか。

しかもそれは、自分勝手な価値観にしたがってではなく、聖書に基いての判断です。


しばらく、こういうしんどい言葉が続いていますので、読者は減っているかもしれません。

でも、自分を見つめ直すことから、この一日を始めることがゆるされて、感謝します。


共に祈りましょう。

主よ、ローマ書を読んでいると自分を問われてばかりで苦しくなります。やさしい言葉をほしがってます。でも、こうやって自分と向き合うことが、今日の私に必要なのですね。主よ、感謝します。

2018. 09. 26  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:16です。

ここまでの文脈は、聖書を知っている神の民も、そうでない者も、それぞれの行いに応じて裁かれると言われてきました。

神様がお求めになることは、聖書を全然知らない人たちにも、ある程度は、その心に記されているからです。

そういうことが、全部明らかにされるのは、終わりの時だと教えるのが、今日の16節です。

<私訳>「私の福音によれば、神が、人間たちの秘密のことがらを、キリスト・イエスによって裁かれる日に。」


「秘密のことがら」、隠された、人に分からない、人間の心の奥底にある内密の部分です。

そういうところが、すべて見られている。そして、全部ありのままに、イエス様によって裁かれます。

そのことを真剣に考えだすと、やはり恐ろしいと言いますか、逃げたいという思いがとても大きくあります。

ただ、こういう裁きの日のことをも、「私の福音」だとパウロは言っています。

キリストがそのように、裁き主として君臨されることが、福音、よき知らせです。

そこで、この世で裁かれることのなかった悪しき者は裁かれます。

私たちもまた、必死で隠そうとしてきたすべてが開かれ、裁かれるその時に、初めて真の解放感が与えられ、魂は平安を得るでしょう。

キリストを信じて生きる者には、裁きと同時に、赦しがあるからです。すべてが受け入れられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私のすべてをご存じです。願わくは、ありのままのわたしを赦し、受け入れてください。そして、ありのままの私を、作り変えていってください。私の心が、あなたの御心とひとつになっていきますように。
2018. 09. 22  


土曜日は「その時の祈り」から抜粋して紹介させていただいてきました。

これからしばらくは、「まばたきの詩人」として有名な水野源三さんの詩集から、信仰詩を紹介することにします。

水野源三さん(1937-1984年)は、10歳の時に脳性麻痺で、見る、聞く以外の何もできない重度の障害を負われました。

しかし、聖書の言葉によって希望を得て、18歳の頃から、まばたきをもって意思表示する仕方で、詩作をはじめました。

有名な「悲しみよ」という詩です。

*************
悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう

お前が来なかったら つよくなかったなら

私は今どうなったか

悲しみよ悲しみよ お前が私を

この世にはない大きな喜びが

かわらない平安がある

主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ

2018. 09. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:15、かなり解釈を込めて意訳してみます。

<私訳>「こういう道徳的な人々の存在は、“律法の要求するところのことが、律法を持っていない人々の心にもある程度は記されている”ということを、確かに証明しています。

彼らが持っている、いわゆる『良心』というものも、そのことの証明になります。その『良心』に基づいて、互いに咎めあったり、弁明し合ったりもしているのです。」


「良心」とは、良い心、正しい心ということではありません。「正しい者は一人もいない(ローマ3:10)」のです。

そうではなくて、それは「善悪の自己批判能力」でして、自分自身のことを客観的に見つめて、そんなことしていてはいけないでしょと警告を発するセンサーです。

つまり、良心の呵責を覚えるということですね。

そういう呵責ゆえに、互いに咎めあったり、弁明したりしている・・・。

これは、文字通り、二人以上での議論の様子だと思いますが、一人の人間の中での内なる葛藤を表しているという解釈もあります。

つまり、「ダメじゃないか、もうこんなことやめよう、良くないと自分でも分かってるだろう」と自分を責めながらも、

他方で「これくらいみんなやってるじゃないか、ストレス発散に仕方ないじゃないか、組織のために仕方ないじゃないか」などと、言い訳をしている。

「聖書の教え」を知らないとしても、そういう倫理的・道徳的な葛藤が、実は、どんな人にもあるはずです。

それは、私たち人間が本来、「神のかたち」に造っていただいた倫理的・道徳的存在だからです。



人間というのはみんな、神様に対するなんらかの『後ろめたさ』を抱えて生きているものだと、私は思います。

その『後ろめたさ』が耐え難くて、考えないようにしようとする人や、「知ったことか!」と開き直る人が多い。

しかし、神が、イエス・キリストにおいて表現して下さったメッセージは、お前の『後ろめたさ』を赦し、受け入れ、癒す。だから、罪を認めて、こっちに来なさいというものです。

みなさんは、どちらの道を選ばれるでしょうか。


共に祈りましょう。

憐れみと赦しに富みたもう主よ、あなたを裏切り、隣人を裏切るような自分の振る舞いに、人知れず悩んでいる兄弟姉妹がいましたら、どうかその罪との戦いを支えてください。まだあなたを知らない人々で、良心の呵責に苦しんでいる者も多くいるでしょう。あなたのもとで、赦しにあずかり、新しく生き直すことができますように。
2018. 09. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今読んでいる2章のところはややこしいですね。

神はえこひいきなさらない。だから選びの民と自認してきたユダヤ人でも、特別扱いされませんよ。

神様の「律法」をもってるだけで、ちゃんと行わないなら裁かれるのですよ、ということをパウロは言っています。

「律法」とは、私たちの感覚で言えば「聖書の教え」です。聖書をもってるだけじゃダメだということです。

他方で、えこひいきがないということで言えば、ユダヤ人ではない異邦人たちも、まったく同じ扱いを受けます。

つまり、「律法」すなわち「聖書の教え」をちゃんと行っていないなら、等しく裁かれるのです。

とはいえ、そう言われてしまうと、異邦人サイドからしますと抵抗があるでしょう。

だって、「聖書」なんて読んだこともないのに、「聖書の教え」に従ってないと言われても・・・、という困惑です。

でも、パウロは言い訳をゆるしません。

なぜなら、たとえ「聖書」をもっていなくても、すべての人間には、ある程度は、神様の教えがすでにインプットされているものなのです。

人は皆、神に似せて、神のかたちに造られたものであるからです。

非キリスト者であっても、時にすばらしい道徳的偉業を成し遂げる方がいます。そういう方々を見ると、確かに「聖書」をもっていなくても、人間は神様の教えを知らされているのだと思わされます。

もちろんそれは、今は罪ゆえに、不完全ではありますが。

今日のローマ2:14は、そういうことを言おうとしている言葉としてお読みください。

<私訳>「というのは、律法をもたない異邦人が、自然の秩序に従って律法の命じるところを行うような場合は、律法をもたなくとも、自分自身が自分にとっての法となっています。」


共に祈りましょう。

主よ、まだ聖書を知らないすべての人たちが、福音に触れて、命の道に回復されますように。また、すでに聖書を与えられている私たちが、その教えを行うことができますように。
2018. 09. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:12-13です。

「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしで滅びますが、律法の下にあって罪を犯した者もみな、律法によって裁かれます。なぜなら、律法を聞いている者が神の前で正しいのではなく、律法をちゃんと行う者こそが、義とされるからです。」

昨日、「神はえこひいきなさらない」と学びました。これは神の選民としての特別な意識に生きていたユダヤ人には耐え難いことでした。

ユダヤ人の選民意識を支えていたのは、「自分たちは神から『律法』を与えられている」ということです。

『律法』とは、十戒に代表される聖書の教え・戒めであり、「このように生きなさい」と神が示される道です。

そういう教えをいただいていることが、大いなる創造主である神様と自分たちとの、特別な親密さのしるしでした。

旧約聖書の申命記4:7-8に、そういう意識が表されています。

「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」


しかし、ここでパウロが言っているのは、『律法』をもっているだけではダメなんだよ。

それをちゃんと実行しないなら裁かれるんだよ、ということです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを近くに覚え、あなたから日毎に語りかけていただく、恵みの特権を感謝します。あなたの教えをちゃんと守ることができないものです。キリストのあがないの血によって赦してくださり、きよめ、整えてください。そして今日の日、選ばれた者にふさわしい歩みをなさせてください。
2018. 09. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は、2:9-11です。

<私訳>「苦しみと悩みは、すべて悪を行う人間存在の上に支払われます。ユダヤ人はもとより、ギリシア人にもです。栄光と誉れと平安は、すべて善を行う者に。ユダヤ人はもとより、ギリシア人にもです。なぜなら、神にはえこひいきがないからです。」

神には「えこひいき」がない。ゆえに、差別も偏見も分け隔てもない。

これは、自分たちは特別な神の民だという選民意識によってプライドを保っていたユダヤ人にとって、受け入れがたい真理でした。

ユダヤ人の意識は複雑です。彼らはバビロン捕囚の時に一度国を失って以来、世界中に散らばりましたが、どの場所にあっても、周囲に同調しないで独特の生活習慣に生きる変人たちとして、なんらかの差別の対象でした。

その反動でしょうか。ユダヤ人たちもまた、自らのアイデンティティーを確立しようと戒律主義を強め、主なる神を知らない他民族を「汚れた異邦人」として差別しました。

日本のキリスト者である私たちも、同じような意識構造の中にいませんか・・・。


このような意識でもって、ローマ社会で肩ひじ張って生きていた、パウロの時代のユダヤの人々。

しかし、パウロが伝える「福音」は、そういう考えを根底からひっくりかえすものでした。

今や神は、「まだ神を知らないすべての人々に、信仰すなわち従順をもたらすため(1:5)」に、自分を遣わされているとパウロは言いました。

今や、イエス・キリストに対する「信仰すなわち従順」という「善」を行う者は、どんな人であれ、神の国の「栄光、誉れ、平安」にあずかる。

その反対の「悪」、すなわちキリストへの反逆を継続するなら、終わりの裁きにおいて「苦しみと悩み」が支払われる。

だから、だれでも救い主キリストのもとに来なさい。それがパウロの伝えた「御子の福音(1:9)」でした。

神には、えこひいきはないのです。


共に祈りましょう。

主よ、私の内にも、つまらない特権意識があって、神を知らない人々を偏り見ていることに気付かされました。滅びてしまえばいいと、心のどこかで思ってしまっているような、私の「悪」を砕いて、直してください。そして福音を喜び伝える者にしてください。





2018. 09. 15  
明日の日曜日には、ローマ8:12-17を分かち合います。先日の説教塾セミナーにおいて、深く思い巡らした御言葉です。

ひとつの鍵となるのは、「アッバ、父よ」という祈りです。

これはアラム語で「お父ちゃん」という、実に親密な呼びかけ。そんな風に、神様に近づかせていただいていいのだと、イエス様が教えてくださいました。

私たちが繰り返し祈っている「主の祈り」においても、「天にまします我らの父よ」と祈り始めます。

私たちは「神の子」としていただいた者たちとして、大いなる神を「父よ」と呼ぶことがゆるされています。


ニーゼルという神学者の黙想の言葉を紹介します。

「アッバ、父よ」、このように祈りがなされるところ、そこに自由がある。恐れは消える。

そうでなければ、ただ習慣的に、義務的に、自分がキリスト者らしく生きていることを証明したくて、主の祈りをペラペラ口にしているだけではないだろうか。

本当に祈りがなされるところでは、喪失と滅びの深みから「父よ」との叫びがあげられるところでは、そこでは、思い煩いの霊も、恐れも逃げてしまう。


共に祈りましょう。

天にまします我らの父よ・・・。父よ・・・。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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