FC2ブログ
2018. 10. 06  
おはようございます。今週もはや土曜日ですね。慌ただしく過ぎていく毎日ですから、少し静まりましょうか。

水野源三さんの詩を紹介します。


「黙ろうよ」

朝霧に包まれて
草も木も
黙っている

自分勝手な
おしゃべりをやめて
黙ろうよ

そうすれば
主の御声が
聞こえてくる。
2018. 10. 05  
この場を借りて、少し宣伝させてください。今日から始まります新番組で、パーソナリティーをしております。
「がっつり!!コミュニケーション」略して「ガチコミ」という、15分のトーク番組です。

ガチコミ

若い方々とともに作り上げていこうとしている番組です。
でも、年齢問わず、どなたにも聞いていただきたいと願っています。
ぜひお試しください。

2018. 10. 05  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:26-27です。

<私訳>「反対に、無割礼の者が律法の定めを遵守するならば、その無割礼は割礼と見なされるのではないですか。そして、生来は無割礼でも律法を全うする者が、文字に書かれた律法と割礼とを持っていながらも律法に背くあなたのことを、裁くでしょう。」


ユダヤ人にとって、「文字に書かれた律法」と「割礼」というのが、選民としての自意識を支えるよりどころでした。

でも、形式だけでは意味がない。たとえ無割礼でも、神様の御心に沿って生き、律法を全うする人がいるなら、その人に裁かれるのではないですか・・、という問いかけです。

実際には、人はみんな罪人ですから、どれだけ道徳的に立派でも「律法を全うする」ことができる人なんていません。(ここでの「全う」とはそういう重い言葉です)

でも、もしそういう人がいるならどうですか・・・と、割礼に頼る者に考えさせているわけです。


こういう言葉を私たちに置き換えるなら、「形式だけの洗礼」の問題について考えざるを得ません。

注意すべきは、「神を知らず洗礼を受けなくても、救われる人がいるかいないか」という問題について、ここから答えを得ようとするのはあまりふさわしくないということです。

ここではあくまでも、「形式だけの洗礼」に甘んじて、神の御心をないがしろにしている信仰者への鋭い問いかけがなされているのであって、それ以上ではありません。


勝田台教会の初代牧師、安田吉三郎師が手がけたローマ書の解説にあって、こういう風に言われていました。

「真の信仰が堕落すると、宗教は外面的なしるしや儀式をことさらに強調するようになる。・・・キリスト教会も、真の霊性を失えば、バプテスマ(洗礼)が不当に強調されたり、名目だけのキリスト信者がこの礼典に偽りの希望を託したりしかねない。パウロの叱責は二千年前のユダヤ人だけの問題ではないのである。」

厳しい言葉です。


共に祈りましょう。

主よ、自らの信仰のあり方について、問い直す機会を与えてくださってありがとうございます。私たちそれぞれに、必要な悔い改めを与えてくださって、救いの道を外れることなく歩ませてください。




2018. 10. 04  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。

ここ最近は、大変耳の痛い御言葉が続いていて、読者がどんどん減っているのではと心配しています。

でも、聖書を全部丁寧に読んでいくという時には、そういうこともあるので仕方ありません。

元来の文脈は、「選ばれた神の民」と自任してきたユダヤ人に対する、パウロの鋭い問いかけの言葉です。

「律法」を知っているだけでは意味がない、神の御心に沿って生きないなら・・・。

さらに追い打ちをかけるようにして、形だけの「割礼」など意味がないと迫るのが、今日からのところです。


今日は2:25です。

<私訳>「もしあなたが律法に従って行動するなら、割礼というしるしは意味がある。しかし、あなたが律法に背いているなら、あなたの割礼は、無いものとなる。」


割礼は、男性性器の包皮を切り取るしきたりです。ユダヤ人にとっては、それは神との契約のしるしとして、特別なよりどころでした(創世記17:11など)。

割礼を身に受けているということが、「自分は神のものとなった、救われた者である」という確信を支えました。

でも、形だけの割礼では意味がない。割礼は受けていなくても、御心に忠実に生きている異邦人のキリスト者たちは、「神と契約を結んだ者」として扱われるのですよと伝えているのが、25-29節の元来の文脈です。


そういう文脈を確認した上で、少し自由に自分たちに置き換えてみますと、旧約時代の割礼は、新約時代の洗礼に通じます。

「形だけの洗礼では意味がない・・・」と言われているようで、肩身が狭くなります。



続きはまた明日。共に祈りましょう。

主よ、あなたからまさに心を見られているような思いで、御言葉を味わっています。願わくは、今日の日、私たちがあなたの御心に真摯に向き合うことができますように。



2018. 10. 03  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:24です。

<私訳>「『神の御名が、あなたがたのゆえに、異邦人の間で冒涜される』と書かれているとおりです。」

これは、イザヤ52:5の引用です。

信仰は、人ではなく、神を見ることであり、人間に左右されてはいけないというのは真理です。

でも、そういうことが分かるのは、信仰が確かにその人の内に育まれて以降のことです。

まだ神を十分に知らぬ人々にとって、先に救われたキリスト者の存在は、神の真理を映し出す鏡にならざるをえません。

わたしたちの言動のゆえに、「キリストなど、ろくなものじゃない・・」と御名が冒涜されるとしたら、こんなに申し訳ないことはありません。


エゼキエル36章の言葉が救いです。22節からのところをお読みください。

そこで神様は、「23節 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする」と言って下さっています。

自らの力によって汚名返上をなされると、言って下さいます。

「26節 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。・・わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

神様の霊である聖霊が与えられなければ、私たちは、よき証しを立てることなどできません。

だから、お前たちに聖霊を与える、そして、お前たちを作り変えると、神が約束してくださいました。

聖霊を求めましょう。今、改めて、もう一度ここから。

共に祈りましょう。

主よ、わたしに新しい心を与えてください。あなたの霊で、私の汚れた心を支配してください。愛を増し加えてください。もう一度、はじめの熱心を起こしてください。あなたを喜び、あなたの栄光をあらわすことができますように。

2018. 10. 02  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:21b-23です。

<私訳>「盗んではならないと大声で説きながら、盗むのですか。姦淫してはならないと言いながら、姦淫するのですか。偶像崇拝を忌み嫌いながら、宮荒らしをするのですか。あなたは律法に誇りをおきながら、律法への背反によって神をはずかしめています。」

ここは難しいことはないですね。ひとつだけ、「宮荒らし」というのは異教の神殿を荒らして金品を強盗してくるふるまいのことを言うようです。


自分たちで教えているその教えの通りに生きていない。こういう批判は、一番耳が痛いものです。

盗み、姦淫、宮荒らしといった罪に具体的に手を染めている人は稀でしょう。

でも、これはほんの一例です。神様の教えはそれだけじゃないですよね。

ましてや、イエス様が言われたように、私たちの心の中まで吟味されるなら、潔白な人など誰もいないと思います。

今日覚えたいのは、そのようにして私たちが神の教えを二の次にして生活をするということは、「神をはずかしめる、侮る、面目を失わせる」ということだという認識です。

神を神として「正当に扱わない、その価値を認めない」、という語です。

若いころ私は、デートの約束をしながら平気で2時間も遅刻してしまったことがありますが、それは、相手のことを軽く考えているからだと非難されても仕方のない振る舞いですね。

神様に対してはどうでしょうか。


ともに祈りましょう。

主よ、いつも本当にごめんなさい。あなたを侮っているつもりはないのです。でも私たちは、あなたを大切にしきれていないのかもしれません。どうか、赦してください。改めて、あなたと共に歩ませてください。

今、あなたとの関係において負い目を抱えている者がいましたら、もう一度、あなたとの信頼関係を回復できますように、愛の導きをお与えください。


プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR