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2018. 10. 31  
今日が宗教改革記念日です。1517年の今日、ルターが95か条の提題を貼り出しました。

主教改革を覚えてのシリーズ、今日はエフェソ2章4~6節から。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」


「罪のために死んでいた」、激しい言葉遣いです。

でも、こういう言葉で自分の過去を振り返ることができる人は幸いです。

神の恵みによって、自分の過ちに気付かせていただいた人です。

そして今は、「キリストと共に生きる」喜びを知っている人です。


宗教改革者カルヴァンは、その代表作であるキリスト教綱要の冒頭に、自分自身の罪と悲惨をはっきりと認識する必要を教え、「自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできない」と言います。

不快感という言葉がおもしろいです。それほどの、徹底した自己否定が必要と言う。

いやむしろ、聖なる神の御前に立つということを真剣に考えるなら、そうならざるを得ないのです。

カルヴァンという人は、神の御前での自分の罪深さに対して絶望しきっていた人でした。


私たちはまさしく「死んでいた」不良品でした。

しかし、そのような者を、憐れみ豊かな神がこの上なく愛して下さった。この愛から、すべてが始まりました。

「お前を棄てたくない、再生させる」と、神が望んでくださったのです。


共に祈りましょう。

憐れみ深い主よ、あなたを知らなければ、自分自身の罪深さに気付くこともありませんでした。あなたを悲しませ、周囲の人々を無自覚に傷つけてきた私を、ゆるしてください。どうぞ、キリストと共に生きる者として、いよいよ整えていってください。
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2018. 10. 30  
しばらく、来年のリジョイスの執筆をかねて、宗教改革をテーマに分かち合います。

先の日曜日は、エフェソ2:1-10を分かち合いました。その8-9節です。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」


ただ神の恵みによって救われる。私たちはそれを信じて、受け取らせていただくだけでいい。

この「福音=グッドニュース」を、聖書から再発見したことが、ルターの原動力でした。

当時のローマカトリック教会から破門されようとも、この福音をもう離したくない。そういう思いに突き動かされるままに進んでいくうちに、いつの間にか新しい教会が誕生していたというのが、実際の感覚でありましょう。

それほどに、ルターにとって福音は命であり力でした。そして光でした。

逆に言えば、それをいただくまでの彼は、死の暗闇にさまよっていました。

神の御心に沿って歩みたいと禁欲的な生活に励めば励むほどに、自分のどうしようもない汚れが見えて来て、裁きの神への恐れがどんどん大きくなっていく。

皆さんの中にも、「こんな私では裁かれる、神様は怒っておられる」と、自分の罪深さにひそかに悩んでいる方がいらっしゃるかもしれません。

でも、その罪の自覚が与えられたのは、神様の恵みであり、救いのはじまりです。

すでに神は、あなたを救い始めていてくださいます。だから、もう恐れなくていいのです。


共に祈りましょう。

主よ、ただあなたの恵みにすがらせていただきます。今日も恵みによって、罪に気付かせ、罪と戦わせてください。ルターのように、救いのはじける喜びの中で、躍動したいと願います。
2018. 10. 27  
今日は男子会主催のバーベキューが予定されています。雨が心配ですが、お昼ごろは大丈夫かな?

バーベキューとは少し違うかもしれませんが、水野源三さんの詩に、こういうものがありました。

「はっきりと分かりました」

焚火のあたたかさは
焚火に手をかざした
その時に
はっきりと分かりました

焼きいものうまさは
焼きいもを食べた
その時に
はっきりと分かりました

キリストの愛は
キリストを信じた
その時に
はっきりと分かりました
2018. 10. 26  
次の日曜日は、宗教改革記念日(10月31日)を覚えて、エフェソ2:1-10を分かち合います。

この箇所は、「ただ恩恵のみによって人は救われる」ということが、最も明確に示されている聖句のひとつです。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)」


神の賜物、すなわちまったく無償のプレゼントです。

そのプレゼントは、具体的には、独り子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださる、というかたちで示されました。

面白いのですが、エフェソの信徒への手紙というのは、「キリスト」という語がやたらたくさん用いられます。

気になったので調べてみますと、新約聖書全体では513回。さすがに「キリスト」教というだけあって多いですね。

その中で、エフェソ書では61回用いられます。これは一番ではありません。

一番はローマ書の73回。でもそれに次ぐ2位です。

ローマ書は16章あるのに対して、エフェソ書は6章しかないことを考えますと、どれだけ凝縮して「キリスト、キリスト」と詰め込まれているかが分かります。


キリストをくださったこと、そのことに、神の無限の愛があらわされています。

キリストと共に生きること、それこそが、新しい命であり、人間本来の尊厳が輝きだす道です。

エフェソ3:14-21にある、パウロの祈りに導かれて、私も、私たちの群れのために祈ります。


「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。

御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、

人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、

教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」
2018. 10. 25  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:3,4です。

<私訳>「では、どうでしょう。もし彼らの中にある者たちが、その神の言葉に対して不忠実であったら、その不忠実によって、神の信用性はボロボロに崩れるのではないか。

そんなことはありえません。神は真実であるとしなさい。人間がみんな偽り者であったとしてもです。『あなたがあなたの言葉によって正しいとされ、あなたが裁かれる時に、勝利を得られるため』と書いてある通りです。」


この世界にあって、聖書の神である「主」との特別な関係に、まずはじめに招かれたのはユダヤ人(=ヘブライ人、イスラエル)でした。

その彼らに「委ねられた(2節)」特別な使命は、「神の言葉を保存し、広く伝える」ことでした。

しかし、ユダヤ人は「その神の言葉に対して不忠実」であったと、パウロ先生は嘆きます。

ここでの「不忠実である」というのは、先の「委ねられた」の反意の言葉です。

せっかく神様から、大切な御言葉・教えを「委ねられた・信託された」のに、それを裏切るかたちになってしまっている。

そうなってきますと、そういう信仰者のだらしない様から判断するに、聖書の神など信用できないではないか・・、その御言葉・教えなど信じるに価しないではないか・・・。

私たちもまた、「私を見ないでくれ、信仰の悪い見本だから・・」と言ってしまいがちですが、人間と言うのは具体的なものを大事にしますから、ある宗教の信ぴょう性というものを、その信仰者の生き様でもって判断するというところがあります。

でも、人間の不真実のゆえに神の真実が揺らぐと考えている人は、結局のところ、人間が神を生み出し、宗教をつくると考えている人でしょう。

確かに、そのようにして生まれてくる、いわゆる「宗教」というものがたくさんある。

でも、本当の信仰とは、どんな時も「神は真実である」と信じ、その神の下に自分をへりくだらせるものです。

たとえ、信仰者がみんなダメな偽り者であっても、神はどこまでも真実です。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの今日の一日が、あなたの御栄光を損なうものとなりませんように。主よ、あなたに愛されている者として、喜びと平安のうちに歩ませてください。愛と義を行わせてください。あなたの御心と、わたしの心がひとつとなりますように。
2018. 10. 24  
昨日は、一泊教師会で出張しており、配信をお休みしました。

同労の先生方と、「教会論」の本を学び、いろんなことを語り合い、励まし合うことができました。

東関東中会は、先輩方もあたたかく、教師会の雰囲気はとてもいいです。さすがに体は疲れましたが・・。

いろんな話がありましたが、A先生が語って下さった、まだ求道者だったころの若い日のエピソードが印象的です。

何かの会合で、道すがら、亡くなられた榊原康夫先生と話しをする機会があったそうです。

榊原先生は、聖書講解の達人で著作も多く、他教派の方にも名の知られた有名な先生です。

しかしその頃のA先生は、そんな有名な先生だということは知らず、素朴な疑問を聞いてもらったそうです。

「先生、ぼくは聖書が神の言葉であるということが、まだどうにも信じられないのですよね・・・」

すると榊原先生は、実にうれしそうにニヤニヤとほほ笑みを浮かべて、「聖書をじっくり読んでごらんなさい。そうすれば、これは神の言葉だと必ず分かるようになるから」と、やさしく言ってくださったそうです。

その時の笑顔がずっと忘れられないと、思い出を伝えてくださいました。


共に祈りましょう。

「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。(詩編119:130)」

聖書に記された「神の御言葉」が、まさに「御言葉」として光を放ちはじめ、まだ確信の持てない方にも真理を悟らせてくださいますように。
2018. 10. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:1-2です。

<私訳>「それでは、ユダヤ人には特別なところはないのですか。割礼をして何の得があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。まず第一に、神の言葉が彼らに委ねられたということです。」

「われわれは聖なる神の民ユダヤ人だ」という選民意識におぼれていてはいけないと、2章では語られました。

でも、聖書の神と共に歩んできたユダヤ人の、特別な使命・役割というものがあります。

それは第一に、「神の言葉を委ねられた」ということです。

「委ねられた」とは、「信じる、信頼する」という語の受身形です。

神様は、この広い世界の中で、ユダヤ人(=イスラエル人、ヘブライ人)という小さな民族に、最初に目を留められ、まず彼らにだけ語りかけられました。

そうして、神が与えてくださった法や教え、また神に従い、あるいは背いてきた民族の歴史が、「聖書」としてまとめられ、保存されました。

ユダヤ人は、これを可能な限り完全な状態で保存しようと、涙ぐましい努力をしてきました。

実に、今私たちが、神様の言葉に触れることができるのは、ユダヤ民族のおかげです。

激しい迫害下で、聖書が燃やされた時にも、必死の脱出劇をもって聖書を守った、そういう先人たちの血と汗を忘れるわけにはいきません。


今、私たち日本のクリスチャンは、この広い国で、「神の言葉を委ねられた」一握りの小さな群れです。

神は私たちという器を用いて、命の言葉を保存し、また、広く宣べ伝えようとしておられます。

あなたに、この福音(グッドニュース)を託すと、神から委ねられたのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの言葉によって生かされ、導かれてきた、何千年にわたる信仰者の歴史を思います。今日も私たちに、聖書を通して語りかけてください。私たちがあなたをもっと知ることができますように。
2018. 10. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日からは3章に入ります。4月から始めて、約半年で2章進みました。

3章は21節のところから、いよいよこの手紙の中核部分に入っていきます。でも、そこに至る1-20節の流れが分かりにくい。

木を見て森を見ずになってしまわないように、今日はその全体のおおまかな文脈を予測しておきましょう。


*********************
昨日までの議論で、「律法」や「割礼」はユダヤ人の選民としての特権を保証しないと、厳しく批判されてきました。

でも、ユダヤ人が「優れた点=他の民族と違う点」があります。

それは、「神の言葉をゆだねられた」ということです。特別な役割、使命です(1-2節)。

歴史的に考えて、ユダヤ人がいなければ、神の言葉が保存されて伝えられることはなかったでしょう。


そうして、ユダヤ人という器によって運ばれてきた神の言葉において伝えられている神様は、真実な神様です。

もしもその神の真実が疑われるとすれば、それはユダヤ人が不真実だからです。

しかし、器が汚れていたとしても、中身は真実ですと、パウロは言っているのだと思います(3-4節)。


大事なのは、神は真実な方であると認めることです。

その神の真実をねじまげ、自分に都合よく理解しようとする、人間的な屁理屈があります。

そういう屁理屈をやっつけるのに、少し横道にそれるのが5-8節です。どういう屁理屈であるかは、またあとでじっくり見てみましょう。

いずれにしろ、それは断じて違う!!というのがパウロの結論です。

神はどこまでも真実であられて、その神の前で、人間も真実であらねばならない。それが、神との本来の契約関係なのです。


しかし、それができない。人は誰もが罪人であって、ユダヤ人であってもギリシア人でも日本人でも、だれ一人神の前で真実ではありえない。

神様の基準を満たすことはできないから・・。それが9-20節に書かれていることです。

だから、21節以降の福音が必要になるのです。イエス・キリストを信じることによって義とされるという、福音です。


共に祈りましょう。

主よ、ローマ書3章を通して、改めて福音を丁寧に教えてください。時代は変わっても、変わることない永遠の真理を。今、この混迷の時代にこそ。様々な雑事に追われて、呼吸が浅くなっている私たちの現実にこそ、永遠のよき音ずれを・・・。
2018. 10. 17  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:28-29です。

自分たちは「文字に書かれた律法を持っている」ということや、「割礼を受けている」ということを誇りとしてきたユダヤ人に対する、痛烈な批判がされてきました。その最後のところです。

<私訳>「見せかけのユダヤ人ではいけない、肉体に施された見せかけの割礼が割礼ではない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字によるのでなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その栄誉は、人からではなく神からいただくのです。」


「隠れたユダヤ人」とある「隠れた」は、2章16節の「神が隠れた事柄を裁かれる」とあるのと同じ語です。

神様にはすべてお見通しです。見せかけの信仰は、通用しません。私たちで言えば、形だけの洗礼では意味がありません。

大事なのは、「霊によって心に施された割礼」であり、すなわち、聖霊をいただいて新しく生まれさせていただくことです。


だからといって、洗礼という形式的儀式は無用であるというのは、言い過ぎです。

それはイエス様が「人々に授けなさい(マタイ28:19)」と命じられたものです。

洗礼は、しるしであり、証印といわれます。

信仰の弱い私たちのために、神様が押してくださる太鼓判であり、入学させていただいたことを証明する在校証明書のようなものです。

「洗礼を受けた私の内には、確かに聖霊が生きておられる」と、確認させていただくのです。

確認させていただき、もう一度初心に帰る。

あの、水で洗っていただいた時の思いを思い出す。

そのためにこそ、洗礼式という明確なスタート地点が、私たちには必要なのです。


思い出してください。あなたは、聖霊をいただいて新しく生まれさせていただいたのです。


共に祈りましょう。

主よ、見せかけだけの信仰者でありたくないと願います。きよめてください。整えてください。あの最初の熱心を、喜びを、今日の私たちに思い出させてください。また、未信の友に、あの喜びをお与えください。
2018. 10. 16  
先週は大会会議などで日程過密で、配信をお休みしました。今日は寝坊しましたので、明日からまたローマ書を読みましょう。

今朝はちょっと小話を。

今私は、新しい翻訳である「新改訳2017」を用いて、通読に取り組んでますが、今朝は詩編の61-63篇を読んでいました。

私はずっと「新共同訳」の翻訳に親しんできたので、「新改訳2017」はずいぶんとタッチが変わって、驚くことしばしばです。

「新改訳2017」はできるだけ原文の雰囲気をそのままにという意図から、日本語としてはややゴツゴツした感じもありますが、原意が読み取りやすくなっています。

ただ、詩編に関しては、ちょっとゴツゴツしすぎていて、「詩」としては残念・・というところもあるかな。

63:6に「わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように」とあるところ、「新改訳2017」では、「脂肪と髄をふるまわれたかのように」となっています。

原文はそのとおりなのですが、「脂肪と髄」と言われてしまうとなんだかなあ・・・、と。

中近東の遊牧民のもてなしは、羊の尾っぽの近くのギトギトの脂肪をふるまうことだと聞いたことがあります。

日本人にはとても食べられたものじゃないけど、それが最良のごちそうで、一族の長がそれを実にうまそうに食べるそうです。

「脂肪と髄をふるまう」とは、そういう背景からきていると思います。

こういう具合に、「何だこれ?」と違和感を感じさせてくれるところが、「新改訳2017」のいいところかもしれません。

もうひとつ面白かったのは、詩編62:12。

「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた」とあるところ、「新改訳2017」では「神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。」となっています。

ん、どういうこと?と、おもしろく感じました。

一度告げられたことを、私は二度聞く。どういうことなんでしょうね。ちゃんと調べてないのでまだよく分かりません。

でも、一度聞いただけではよく分からない自分の情けなさを思いました。

二度ならず何度でも、恵みの言葉を聞き続けねばならない、聞きたいと思いました。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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