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2018. 11. 16  
昨日、電車の中で読んでいて、涙を必死にこらえた文章を紹介します。

医師である山浦玄嗣先生の「イエスの言葉 ケセン語訳」の中の文章です。

山浦先生は、2011年の東日本大震災を経験された被災地の医師です。ケセン語とは、岩手県気仙地方の方言です。

ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。」

これをケセン語にすると、こうなります。

「俺ァ、人ォ本当の幸せにみちびぐ。俺ァ、人ァ本当に幸せになるなりがたァおせえる。俺ァ、人ォ幸せに活ぎ活ぎ生がす。」


山浦先生は、あの津波によってすっかり変わり果てたふるさとの様子を、切々とお伝えになります。

そして、多くの老人たちが急速に人格崩壊されたことや、自死を選んだ何人かの方々のことを悲しまれます。

そういう中で、イエス様に問うのです。それが以下の文章です。
************************

どうやったらそのようになるのでしょう。この人生の悲惨の中で、イエスよ、あなたはどのようにしてわれわれを幸せに活き活き生かしてくださるのですか。あなたもずいぶんと悲惨な人生を歩みましたけれども、よくまあ堂々とそんなことがいえるものですね。

あなたは幸せでしたか?きっとそうだったのでしょうね。では、われわれもそうなりたいものです。どんな悲惨の中にあっても、希望を失わず、勇気に満ち、元気で活き活きと生きたいものです。でも、この惨状を前にして、わたしは足がすくみ、体中がふるえて、どうすることもできないのです。

「目をつぶるな!」とイエスは朗らかにいいます。

「目をつぶって何が見える?真っ暗闇だけではないか。そのままでは一歩も動けまい?ひと足でも動いたら、何があるかわからない。崖から落ちるかも知れないし、木にぶつかるかも知れないぞ。その恐怖でお前さんはひと足も進めず、恐ろしさに目をつぶったまま縮こまっているだけだ。情けないやつだ。いつまでそうしているつもりかね。

さあ、目を大きく開け!どんなに悲惨なありさまが見えようとも、それが現実というものだ。目をそらすな。こわがるな。この俺がついているんだ。

いいかね、いいことを教えてやろう。わたしの話していたヘブライ語ではな、《ことば》と《できごと》とはどちらもダーヴァールといってな、互いに区別がないのだよ。お前の身の回りに起きている《できごと》は、すなわち神さまの《ことば》なのだ。

耳をすまして、その《ことば》を聞け。そうすればこの《できごと》を通じて、神さまがお前に語りかけている《ことば》が聞こえてくるはずだ。

お前が今何をすればいいのか、神さまはお前に何をさせようとなさっているのか、それが聞こえてくるはずだ。それに従うのだ。

その先に、お前が人間として本当に喜び輝く光の道が見え、お前は幸せに活き活きと生きる!」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちを幸せにしてください。私のこの目を開かせてください。私を、私の愛するひとりひとりを、活き活きと生きることができるようにしてください。

2018. 11. 15  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日から3:9-20の新しい単元にとりかかります。

昨日までの3:5-8は、人間的な罪深い屁理屈を相手にして、すこし横道に逸れました。

その屁理屈とは、神様の恵み深さを引き合いに出して、自分に都合よく理解しようとするものでした。


神はどこまでも真実であり、正義である。これが、聖書が示す真理です。

その神に対して、わたしたちも真実であり正義であるべきである。それが、人間本来の姿である。

パウロにとっては、こういう規範・道徳・倫理の意識が、福音を伝えるための大前提なのです。

現代の日本では、このような神へのおそれ(畏れ・恐れ)に基づく意識が、まったく失われてしまっています。いや、はじめから無いのでしょう。

パウロが示す、神の恵みによる救い、信仰によって義とされるという「福音」も、自分に都合よく理解されて、「だから、私は悪くてもいい、そのままでいい」となってしまうことが多い。

でも、パウロが言いたいことはそうではないのです。

真実である神の前で、わたしたちも真実であろう。これが大前提です。

このことに真剣に取り組むなら、おのずと、「罪」ということが分かります。

どうがんばっても、真実であれない、正義にはなりきれない自分に気付かされ、私はまさしく罪人なのだと悟らされずにいません。

そして、「罪」が分かればこそ、救いをもたらす「福音」が、本当に「福音=よき知らせ」になるのです。


そんなことを覚えながら、9節の<私訳>を分かち合いましょう。

「では、どうなのでしょう。わたしたちには何か言い訳が立てられるでしょうか。まったく無理です。わたしたちはすでに告発しました。ユダヤ人もギリシア人も、だれもが等しく平等に、罪の支配の下にあるということを。」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちは、自分の罪をまだよく分かっていません。あなたとのお付き合いに、もっと深まらせてください。自分の罪を知り、そしてその罪の赦しの喜びをよく知ることができますように。人知を超えた喜びが、ひとりひとりに広がりますように。


2018. 11. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:7-8です。

昨日に続いて、神へのおそれ(畏れ・恐れ)のない「罪深い屁理屈」を、パウロが切って捨てています。

この屁理屈は、パウロたちが伝えようとした福音の論理に対する偏見ゆえの、歪んだ曲解から生じてきたもののようです。

パウロの伝えるところによれば、人はその功績に関わらず、ただ神の恵みによって救われます。

どんな悪人であっても同様です。イエス様の周りには、徴税人や遊女などの罪深いとされた者たちが集まっていました。

そういう具合に、誰かが悪ければ悪いほど、その人を救われる神の恵みが際立ち、神はすばらしいとの賛美があふれます。確かにそういう面があります。

でもそれは、「だから、悪いことをしていい」ということではありません。

「福音の論理をつきつめていくと、そういうことになるではないか」と言われるとそうなのかもしれません。

でも、信仰というのは理屈ではないのです。

だから、パウロは理屈でもって反論しようとはしません。

そういうことを考えること自体が、神へのおそれ(畏れ・恐れ)のない不敬虔のしるしであり、そのようにして言い逃れようとする者に、神の裁きは容赦なく与えられると言うのです。


上記を踏まえて、<私訳>をお届けします。

「またこのように言う人もいます。『私の嘘によって神の真実がいよいよ明らかにされて、神の栄光となったということなら、どうして私は、なおも罪人として裁かれねばならないのか。むしろ、善いことが来るために悪いことをしようではないか』と。

しかもある人々は、こういう言い分が、私たちが主張していることであると中傷します。この人たちが裁かれるのは当然です。」


共に祈りましょう。

主よ、私たちはいつも自分自身をごまかしながら、あなたと向き合うことから逃げています。どうか、救い主イエス・キリストの贖いゆえに、私たちを滅ぼさないでください。そして、あなたの御心とわたしの心が一つになっていきますように。
2018. 11. 13  
しばらく中断しましたが、ローマ書を一節ずつ読んでみる、再開しましょう。

今日は3:5-6です。ここはどういうことが書かれているかと言いますと、神への畏れのない「罪深い屁理屈」です。

犯罪者がいなくなれば、警察の仕事が無くなって困るじゃないか。

だとしたら、警察は犯罪者に対してむしろ感謝するべきで、怒るのは間違っている・・・。

これと同じような屁理屈が言われています。


今日の5-6節、そして7-8節は、議論が少し横道に逸れていくところです。

「神はどこまでも真実であるから、あなたも真実であれ」、こういうパウロの主張に対して、「いや、そうはおっしゃるけど・・」と反論をしてくる論敵がいたようです。

人間が不真実であるからこそ、神の真実ということがよく見えてくるのではないか・・・という反論です。

そういう声は、結局、「あなたは真実であれ」というまっすぐな教えに対する、居直りであります。

パウロはそういう理屈には付き合おうとしません。

決してそんなことはないと切り捨てます。

神がすべての審判者であるということは、わたしたちの多くにとって、不都合な真実です。

そんなことは信じないと否定するか、あれこれと屁理屈をつけるか・・。みなさんはどうなさるでしょう?


改めて、解釈を込めた<私訳>をお届けします。

「ところが、こんな風に言う人がいます。実に人間的な言い方ですが、私はあえて言ってみます。『わたしたちの不正義が、神の正義を実証するということではないか。これはどう考えたらいいのだ。悪に対して怒りを下される神は正しくないのではないか。』

これはとんでもないことで、断じてそうではありません。そうだとしたら、神はどのようにして世界をお裁きになることでしょう。」


共に祈りましょう。

主よ、真実であり正義であるあなたの御心に対して、私たちの貧しい心がケチをつけます。この心を、砕いてください。ひっくり返してください。新しい霊の心を与えてください。




2018. 11. 10  
土曜日は、水野源三さんの信仰詩を紹介しています。

「それなのに」

誰も誰も

美しい花を愛し親しみ楽しむ

庭にたくさんの花の種をまき

鉢に色とりどりの花を咲かせ

床の間に形よく花をいけ

机の上に花を美しくかざり

高原に咲き乱れる花を見に行き

山奥にかおる花を捜しに行き

それなのになぜ

ほんとの心を求めないのか

美しい愛の心を

それなのになぜ語る

ひとの心を傷つける言葉を
2018. 11. 09  
昨日、戦前から戦後にかけて活躍された村田四郎牧師の説教を読んでいて、学ばされたことを紹介します。

Ⅱコリント4:8-10にこうあります。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち破られても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を身にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

パウロという人は、ここで言われているような、さまざまな困難、苦悩を味わった人でした。

しかしパウロは、そんなこと何とも思っていない。

なぜならば、彼は死に切っているからだと、村田先生は解き明かしました。

この世の中で迫ってくる事柄に対して、すでに死んでしまっている。

十字架のイエス・キリストと共に、古い自分はもう死んだのであって、もうこの地上で何が起ころうが問題ではない。

肉体の死というものも、もう何にも問題ではない。恐怖でも何でもない。

なぜなら、もうすでに死んでしまっているのだから。

いつもイエスの死を身にまとっているというのは、そういうことなのだと言われます。

でも、そのようにして死ぬからこそ、キリストと共によみがえることもできるのです。

古い自分が十字架にかけられて終わりを告げて、死んで死に切ったところに、キリストと共に生きる新しい命が始まってくる。

永遠の輝きを帯びた、不滅の命が始まるのです。その人が、本当に生きるということが起こってくる。

信仰生活というのは、そういうものなのでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、この地上での生においてすでに私は死んでいるということが、まだよく分かっていない私たちであるのだと思います。すさまじいことが言われているのだと思います。主よ、分からせてください。そして、新しい命を私のうちに始めてください。
2018. 11. 08  
昨晩の祈祷会で、幼児洗礼についての教理を確認する中で、Ⅰコリント7:14の御言葉を分かち合いました。

「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている。そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」という御言葉です。


これは、本当に驚くべき言葉であり、それだけに理解も分かれるものです。

勝田台教会には、妻だけが信者というパターンが多いです。でも、そういう家庭の夫や、また子どもたちは、「聖なる者」とされている。

神様は、そのような者として特別に目をかけて、扱っていてくださるのです。

もちろん、その神の愛顧を無視して、かたくなに拒むならば、滅びはまぬがれないでしょう。

でも、神様はそれを望んでおられません。家族の中の最初の実りである私たちを、祝福の源として用いて、その家族全体をまるごと祝福しようと、すでに動き始めていてくださいます。

私たちの家族は、そのようにして「聖なる家族」、すなわち、神に特別にキープされている家族として、扱われているのです。


使徒言行録16:31には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」との言葉もあります。

これも同様に、家族の自動的な救いを保証するものではありませんが、神様の救いの手が私たちの家族に差し伸べられているということを明らかに教えてくれます。


11月18日の歓迎礼拝に向けて、みなさまのご家族にも案内を出させていただきました。

共に祈りましょう。

主よ、家族の救いを願う者たちの祈りをかなえてください。夫婦が、親子が、本当に愛し合うことができるように、信仰における一致を与えてください。主よ、私たちは本当に無力を覚えています。どうか主よ、奇跡を起こしてください。
2018. 11. 07  
宗教改革記念日を覚えて、今日で最後です。

昨日は、宗教改革における「万人祭司性の原理」の再発見について確認しました。

私たちはみな、神を見失ったこの世界にあって特別に選ばれ、神にお仕えする存在として聖別された「祭司」です。

その祭司としての務めの本質は、「犠牲をささげる」ことだとカルヴァンは理解していました。

それは旧約時代の神殿でのいけにえのことではなく、「感謝と賛美のいけにえ(ヘブライ13章15節)」であり、「霊的ないけにえ(Ⅰペトロ2章5節)」です。

それは一言でいえば、まったき献身の人生ということです。

祈り、礼拝、伝道、愛と慈善の義務・・その他一切のことを含めて、我々の身と魂のすべてをささげる。

全的献身の生涯に生きることです。

主イエスがその命のすべてをささげてくださいました。そのまったき愛と献身に答えて、わたしもまた主のためにおのれをささげる。

主は言われました、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(ヨハネ17章19節)」



ローマ12章1節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

共に祈りましょう。

主よ、ひとりひとりが今日も、あなたに与えられた一日に取り組もうとしています。この一日を、あなたにおささげします。どうか喜んで受け取ってくださり、大いなる天の祝福を満たしてください。
2018. 11. 06  
宗教改革記念日を覚えて、あと2回です。

宗教改革は、本質的に教会改革でありました。

ルターが最初期の書物において強調しているのは、信仰における神の前での「身分の平等」です。

中世においては「聖なる教会」と「汚れた世俗」の差は根本的なものとみなされました。

しかしルターは、腐敗したローマ教会の聖職者位階制度に対する激しい批判を込めて、いわゆる聖職者と世俗人との間には、一切の身分上の差別は存在しないと主張しました。

聖書によれば、われわれはみな一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰をもつ同じキリスト者であり、すべての者が聖別された「祭司」として、神に仕える存在とされていると再発見したのです。

ルターは、「みなが教皇なのだ」とさえ言いました。

これを「万人祭司性の原理」と言います。


教会は一部の聖職者のものではなく、みんなのものです。

互いに罪を告白し、執り成し合い、キリストの赦しを語り合う「聖徒の交わり」であり、神の家族、神の民です。

それぞれに委ねられる働きには違いがあっても、そこにはお客さんは一人もいません。

それぞれが神様から与えられている務めと賜物があるのです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。(Ⅰペトロ2:9)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も世俗の社会に生きる私たちすべてのキリスト者を用いて、あなたの御業をすすめてください。あなたの御栄光が、わたしたちの家で、学校で、職場で、また教会で、ゆたかにあらわされますように。
2018. 11. 02  
宗教改革記念日を覚えてのシリーズ、今日はⅡペトロ1章20~21節から。

「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基いて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」


日本キリスト改革派教会の伝統においては、聖書を順番に丁寧に読み解いていく「連続講解説教」が主流です。

これは、宗教改革者たちの実践を模範としたものです。

その背景には、「聖書全体が神の言葉で成り立っている」という確信があります。

聖書全体は、同一著者なる聖霊による一貫性をもち、どの書物も、どの章も、どの節においても信仰者たちへのメッセージをもっています。

私たちに求められるのは、自分の言葉を捨てて、その神の言葉のすべてに聴き従うということです。


連続講解説教というスタイルが絶対的なわけではなく、大事なのは、与えられる御言葉をひれ伏し聴くという姿勢です。

時代や流行に合わせるのではなく、聖書の視点から、時代や流行を解釈するのです。

自分の手の中に聖書を置くのではなく、聖書の中に、また聖書の下に自分を置くという姿勢です。

連続講解説教を聞き続ける中で、「こんな御言葉が今日与えられるなんて・・」と、意外な喜び、驚き、あるいは戸惑いを覚えることは、誰もが経験することです。

私以上に私を知っておられる神は、私の思いを超えて、私の聞くべき言葉を与えてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉を与えてください。私の思いを超えて、あなたの御言葉によって、教え、戒め、励まし、慰めを与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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