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2018. 11. 30  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「自由」という言葉を考えてみましょう。

自由という言葉は魅力的な言葉ですね。一般的な日本語としてもよく用いられますし、その使い方は実に多様です。

日本国憲法で保障されている信教の自由や表現の自由といったことから、学校の自由時間とか自由研究といったことまで。

自由とは何かということは学問的にも大きなテーマですから、とても一口では言えないでしょうが、一般的な辞書的意味では、「心のままにふるまうこと、何者にも束縛されず自分自身の本性に従うこと」という風にとらえられているようです。

しかしそうなってきますと、教会で言われているところの自由ということとは、だいぶ意味合いが変わってくるのです。

キリスト教の教えでも、よく自由、自由と言われます。

でも、「全然自由じゃないじゃないか、日曜日には毎週礼拝するし、神様以外は信じちゃいけないっていうし、制約のほうが多いじゃないか・・」と、私ははじめのころ思っていました。

それは聖書の言葉遣いにおける自由というニュアンスが分かっていなかったからです。

イエス様の教えるところによれば、私たちが心のおもむくままに振る舞うことは、よくないことです。

なぜなら、私の心は罪に汚染されているからです。

むしろ、そういう罪深い思いに縛られてきた、古い自我を脱ぎ捨てて、新しくキリストと共に生き始めること。

それすなわち「罪からの自由」ということ。これが聖書における「自由」という言葉です。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたと共に歩ませてください。あなたが共にいてくださるから、私たちもあなたに従っていきたいのです。今日、様々な場面で、いろんな判断を迫られるとき、願わくは、あなたが私たちを導いてくださって、あなたが喜んでくださる判断ができるようにしてください。
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2018. 11. 29  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「幼子のような信仰」という言葉を紹介します。

これは信仰のひとつの理想形としてあるものですが、先日ある映画を見ていて、「幼子のような信仰」とはこういうことかと考えさせられました。

「グッドライ いちばん優しい嘘」という実話に基づく映画です。

アフリカのスーダン南部で、牛を飼って生活しているような素朴な村の人たちが、内戦によって襲撃されて、子どもたちだけが生き延びます。

彼らは難民となって、1000キロ以上の道を徒歩で旅してケニアを目指します。

余りにも過酷な状況です。でも自暴自棄になることなく、ただ生きたいと願って歩み続けます。

彼らはダニエル、あるいはポールすなわちパウロなどと名付けられたクリスチャンです。

主なる神に信頼し、助けを得れば感謝をしながら、聖書を大事に抱えて歩んでいきます。

途中、傷ついて死を待つ人と出会います。

彼らはその人を粗末にはせず、わずかな水と食料を分け与えます。

ほとんど何も持っていないのに、分け与えるのです。

「受けるより与えるほうが幸いである(20:35)」とのイエス様の教えが素直に心に響いてきます。

映画はその後もずっと、彼らの幼子のような素朴さを描き出し、あまりにも感動的なラストへと向かいます。

私もまた、このように生きることができたならいいのにと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちをまっすぐな者に創ってくださったのに、私たちは罪の世界の複雑さの中ですっかり心ねじけてしまって、傷つき、迷い出てしまいました。主よ、あなたを信じる一筋の心を、与えてください。幼子のように、すなおな心を。
2018. 11. 28  
天国人のボキャブラリーシリーズ、昨日に続いて「御心」について考えます。

最近私は「神様の御心とわたしの心を一つにしてください」という祈りを繰り返していますが、この場合の「御心」というのは、ローマ12章2節にあるのと同じです。

こういう風に言われています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

このように言ったあとで、愛をもって互いに尊敬すること、あるいは、悪に悪を返さず善をもって悪に対抗することといった、キリスト教的な生活の教えが続くのがローマ書の12章です。

そこに神の御心があるということです。

これは、私たちに対する神様からの期待と言い換えてもいいかもしれない。

私たちは本来そういう風に生きる者として創造されたのです。

そういう人間本来の尊厳を回復して下さるのがイエス様の救いですし、そうやって神の御心にぴったり沿って生きていくときに、私たちは生き生きと輝きだします。

しかし悲しいかな、私たちの罪は根深くて、神様にいつまでも背き続けてしまうねじけた心を持っています。

だからこそ、神の御心と自分の心がひとつになるようにと、祈り続けていきたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたと共に生きる一日を感謝します。あなたの御心を教えてください。あなたの御心の通りに生きることができれば、どれほど私たちは自由でしょうか。それをさまたげる内外のつまずきを遠ざけてくださって、あなたの御心とわたしの心がひとつになるようにしてください。
2018. 11. 27  
今週は「天国人のボキャブラリー」シリーズです。

クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日取り上げたいのは「御心ならば」という言葉づかいです。

これは、お祈りをする時に用いられます。「御心ならば、この願いをかなえてください」という風に祈るのです。

初めて聞いた時は、何と奥ゆかしいことかと思いました。

御心、すなわち神様のお考え、思いにかなっているなら、というこの感覚。これは、以前の私にはまったく無いものでした。

クリスチャンではなくても、お祈りということはなさると思います。

何に対して祈っているのかなどあまり考えず、何となく神様的なものにむかって、自分の願いをかなえてほしいと願う。

私自身もそういう風にして、家の神棚に向かって祈ったこともあります。

でもそれはあくまでも、自分中心の願いです。それをかなえてほしいという一辺倒です。

それがかなえば、神様はいると信じる。かなわないなら、やっぱり神も仏もないと馬鹿にする。そういう考えしかもてないものでした。

でも、教会でなされている祈りとは、それとは全然違っていたのです。


これは、イエス様の祈りにならうものでもあります。

イエス様は十字架にかけられる前の夜、その苦しみに耐えかねて、ゆるされるなら十字架の死を免れさせてくださいと、神に願われました。

救い主として、すべての罪人の身代わりとなって死ぬという使命から、逃れたいと願われたのです。

しかし、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(ルカ22:42)」と祈られました。

こういう感覚が、私には非常に衝撃的だったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちの願いではなく、あなたの御心がなされますように。あなたのもとに、私の幸いがあり、喜びがあると信じます。私たちのために最善なことを備えてください。あなたにすべてをお委ねします。
2018. 11. 24  
明日の主日は、午後に会員総会です。長老・執事の選挙とともに、来年度の予算や計画を話し合う大切な会議です。祈りをもって備えて臨みましょう。

土曜日は水野源三さんの信仰詩を紹介しています。

千葉でも紅葉が色づいてきました。「かわいい かわいい秋」という詩です。


夕焼けに染まって
ポケットいっぱいに
数えて拾った木の実
かわいい かわいい秋
今もおぼえているか

父も母もいない
古里だけれども
風が吹くたびに

かわいい かわいい秋が
今もこぼれおちる

神の恵み思う
心とりもどしに
帰ってこないか
かわいい かわいい秋が
今も 待ってるから
2018. 11. 23  

先日、うれしい語らいの時が与えられ、互いの魂の平安のために祈りました。

昔は見えていなかったものが、よく見えるようになってきたと証しをしてくださいました。

イエス・キリストの恵みということが、実に、言葉にできないような深さ、広さ、高さ、大きさをもっているということも、分かってきたとおっしゃる。

ですから私も申し上げました。

人間の言葉にはどうにも言語化し得ないからこそ、神は人となって来てくださったのでしょう。

イエス・キリストは、「神の言」すなわち「神の思いのすべて」であると、ヨハネ福音書に言われています。

その思いのすべてを届けるようにして、受肉して、わたしたちのところに来てくださいました。


ヨハネ福音書1:14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

キリストが来てくださった。もう、これでいいのです。そこにすべてがあります。

次の主日に分かち合う、黙示録の最後のところ。

聖書66巻の最後の最後は、こういう祈りと祝福で締めくくられています。

「主イエスの恵みが、すべての者と共にありますように。」


共に祈りましょう。

主よ、主イエス・キリストの恵みで、わたしたちの小さな魂をいっぱいに満たしてください。恐れや不安の入り込む余地のないくらいに。そして、その祝福があふれだして、わたしたちの周りにまで及ぶほどに。



2018. 11. 22  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:12です。

<私訳>「すべての人が迷い出て、役に立たない者になってしまった。善を行う者はいない。ひとりもいない。」


「迷い出る」としましたのは、聖書で3回しか用いられていない語です。「反れる、背く、遠ざかる、道を踏み外す」などの翻訳が可能です。

これは、まっすぐな神様のものさしからズレている、ということです。

「役に立たない」というのは、ここだけに出てくる語です。「無益な、堕落した」という訳もあります。

神様を喜ばせる最愛の作品として生み出された者たちが、堕落し、本来の姿を損なったということを意味するのでしょう。


人間はみんなことごとく神から迷い出ています。

それは、日本語でいうところの「迷い」ということとは別物です。

「信念に基づく迷いのない決断」で、どんどん進んでいく人がいます。今話題のゴーンさんなども、そうかもしれません。

神から迷い出ていても、全然行動にブレがない、迷いがないという人はいっぱいいるのです。

むしろ、クリスチャンとして神に立ち帰り、神の御心に自分の心を沿わせていきたいと願うなら、前よりも「迷い」が多くなるかもしれない。

なぜなら、自分の判断が100%正しいとはもう考えられないからです。

祈って祈って祈って考えても、本当にそれが神の御心なのか、決定的には分かりません。

だから、最後まで迷います。自分はどうしたらいいのだ、と。

私たちは誰一人として、完璧に正しい判断はできません。だから、この罪深い存在を全部おゆだねして、思い切って、飛び込んでいくしかないのです。

それがルターが言うところの、「大胆に罪を犯せ」ということの意味でしょう。

どうやっても間違ってしまう私たちですが、神の御心と一致したいとの願いがあるなら、もうそれで十分だ。

あとは思い切ってやりなさい。神は、私たちの「無益」な失敗をも用いて善をなされる。万事はかならず「有益」となる。

神にゆだねて、思い切ってやりなさい。そういうことです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も間違いだらけの私たちの歩みですが、どうか受け入れてください、見守っていてください。あなたが喜んでくださるように、大切に歩みます。そして私が私自身をもっと喜び、出会いを喜び、食事を喜び、与えられた働きを喜ぶことができますように。
2018. 11. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日も短く3:11だけ。

<私訳>「本当に分かっている人なんていない。神をとことん求める人もいない。」


「本当に分かっている」としたのは、普通は「悟る」とされるところです。

「悟る」という言葉は、日本においては禅宗のイメージも強いですかね。

聖書の言葉遣いにおいては、神様やイエス様のおっしゃっていることが、本当によく分かるようになって、心燃やされ、その人の人生が変わっていくことです。

ルカ24章45節で、復活されたイエス様が、失意にうなだれる弟子たちの真ん中にあらわれてくださって、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」、十字架と復活の意味を教えてくださったとあります。

私たちは、いつでも心かたくなで、物分かりの悪い者たちですから、神の恵みによって分からせていただく必要があります。

自分が罪人であること、でも、その私が神に受け入れられていること。神は生きておられること・・・。

私も先日、色んな思いを抱えながら、暗い川沿いの道をとぼとぼ歩いていたときに、「わたしはある」という神の御言葉(出エジプト3:14)が急に立ち上がって来て、震えました。

私たちは、まだ本当に何も分かっていないのです。

神様のものさしからすれば、本当に分かっている人なんて誰もいないのですね。

そうであるにも関わらず、「神をとことん求める人」もいない。

熱烈な祈りをもって神を探求する真剣さが、わたしたちにあれば・・・。


共に祈りましょう。

主よ、小さく縮こまってしまったこの心を開いてください。聖書に書かれていることが本当によく分かるように。あらゆる場所に、あなたの導きを覚えることができますように。そして私が、心引き上げられ、真新しい服をまとって歩むことができますように。
2018. 11. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。3:10-12は旧約聖書の詩編14:1-3(53:2-4も同じ)からの自由な引用です。

今日は短く、最初の10節だけ。

<私訳>「聖書にこのように書かれています。『正しい人はいない。一人もいない。』」

「正しい人=ディカイオス」は、1:17においては「神に従う人」と訳していたのと同じ語です。

わたしたちにとって「正しい」とは、創造者である神の御心にぴったり沿って「従う」ことです。

しかし、そんなことは誰一人できないのです。イエス・キリスト以外は。


先日、山浦玄嗣先生の「ケセン語訳」を紹介しましたが、同じ本の中で、「人を裁くな」という教えについての解説が印象的でした。

山浦先生は「人を裁くな」という教えはとても大切だとしたうえで、「人の善し悪しをいうな」と訳し直します。

以下、引用です。

「われわれは日頃いとも簡単に人の善し悪しをいいます。誰でも自分がいちばん正しいと思いたいし、事実そう思っているものです。それですぐに他人の行いを批評したがります。

でも残念ながらそれが良い実を結ぶことはほとんどありません。十中八九、善いことはいわず、悪いことに力点を置くからです。

もちろん、言われたほうは面白くありませんから、反発し、逆に相手についての善し悪しをいいます。こうしてけんかが始まります。

この世の中のありとあらゆる争い、戦争は、みな正義と平和の旗印のもとに行われてきました。人の善し悪しをいいつのったあげくの悲劇です。

(中略)多くは人の善し悪しをいい過ぎて、人と人との関係を決定的に破壊してしまい、悲惨な結末にいたるのです。

それでイエスはいいます。『お前さんたちは自分が振りかざすその善し悪しで自分も善し悪しを見られ、自分が測るその物差しを今度は我が身に当てられるのだ。』

完全な人はありません。他人を批判する基準で自分自身を振り返ってみると、実は自分もまた善し悪しをいわれなければならない身であると気づくものです。」


共に祈りましょう。

主よ、私にへりくだりの心をください。相手の言うことを大切に受け止める愛をください。どのように考えたらいいのか、分からなくなります。自分がまったく正しくないわけではないのだと思います。相手の側にある間違いにも気付いてほしい。どうして自分ばかりが謝らなければいけないのかと、腹が立ちます。主よ、正しさを主張し合う私たちの罪深さを、どうか赦してください。愛の心で満たしてください。
2018. 11. 17  
明日は歓迎礼拝です。わたしたちがお招きした方々が、神様のもとに集うことができますように。祈りを集めましょう。

土曜日は水野源三さんの信仰詩を紹介します。

「目には見えない」

心に迷いある時は
私たちの目には見えない
私たちを導きたもう
恵み深き主の御手を覚えよ

心が飢え渇く時には
私たちの目には見えない
私たちを養いたもう
恵み深き主の御手を覚えよ

心まで疲れた時には
私たちの目には見えない
私たちをいたわりたもう
恵み深き主の御手を覚えよ
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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