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2018. 12. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:19です。私の解釈を反映して、大胆に意訳してみます。

<私訳>「さて、私たちは知っています。こうして『聖書』に書かれていることは何事でも、『聖書』をよく知っている人たちに向けて言われているのです。そうである以上、すべての口はふさがれており、全世界が神の裁きを免れません。」


『聖書』と訳したのは、ふつう「律法」と訳されるノモスです。

ここの場合は、10-18節でパウロが引用した、詩編やイザヤ書などの言葉のことが具体的には考えられています。

「『聖書』をよく知っている人たち」としたのは、ふつう「律法の下にある」と訳される語です。

ここの場合、具体的には、敬虔と自称しているユダヤ人のことです。

私たちに当てはめるなら、『聖書』を大切に読んで、神様の御心を求め、理解しようとしているまじめな信仰者たちと言ってもいいと思います。

そういう人たちは、ある意味で、人間の中で一番、神様に近い人。近くあろうと願っている人かもしれません。

でも、その彼らの中に「正しい者はいない。善を行う者は一人もいない」という、聖書の言葉が当てはまるというのです。

そうだとすれば、その他の全人類は、神の裁きに耐えることなどできません。


「すべての人の口がふさがれる」、これはそういう具合に、ぐうの音も出ないほどに追い詰められる様を言います。

でも、聖書の中にはもうひとつ、違うニュアンスで「口がふさがれる」と言われるところがあります。エゼキエル16:63です。

「こうして、お前が行ったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる。」

ここに示されているのは、神の圧倒的な赦しを味わったゆえに、もう言葉にできない思いで悔い改めに向かう人の姿です。


私たち全人類は、神の前で、ぐうの音も出ないほどに罪人です。でも、そういう者が、十字架の主の血潮によって赦される。

その赦しの感動に魂が打ち震える時こそが、私の口が、本当に「ふさがれる」時なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの聖い目を悲しませる私たちでしょう。あなたの聖い耳をわずらわせる私たちの身勝手な祈りでしょう。でも、主よ、どうか赦してください。あなたの赦しがなければ、生きられません。我らの罪を赦してください。私たちも、隣人の過ちを赦します。
2018. 12. 13  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:18です。

<私訳>「彼らの目の前には、神へのおそれがない。」

これは、詩編36:2の引用です。(ちょうど今日のリジョイスの個所です)

詩編36:2-3「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。」

10年くらい前に、私訳したものも紹介します。

「悪しき者への『悪』のささやき、わが心の内に響く。神へのおののきは、その目の前にない。まことに彼は、おもねる目で自分を見つめ、おのが咎と向き合わず、それを憎むこともしない。」

私は、この詩編の言葉は、聖書が言っているところの「罪」とはどういうことかを考えるのに、最善のテキストのひとつだと思っています。

ぜひ、繰り返し読んで、考えてみてください。


神への「おそれ」あるいは「おののき」。

それは、悪いことをしたらバチがあたるという「恐れ」の感覚だけでなく、神は確かに生きておられて、宇宙のすべてを導き、私たちを見ておられるという「畏れ(畏怖)」の感覚です。

それが、いつも「目の前」にあるかどうかが問題です。

どんな時も私たちを見ておられる神を、私たちもまた、どんな時も目を逸らさずに見ているかどうか。

いや、そんなことは誰にもできません。私たちは、神の目が気になりつつも、知らないふりをして逃げてしまっている・・・。

だから、「正しい者は一人もいない」と言われてしまうのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたへのおそれを知らぬ社会に生きております。だれよりも私自身が、あなたを甘く見ているかもしれません・・。主よ、お赦しください。


2018. 12. 12  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:15-17です。

<私訳>「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道にあっては破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」

これはイザヤ59:7-8の引用です。

「足(=歩み)」や「道」という言葉で、その人の生き方ということを示しています。

キリスト教というよりもキリスト道というほうがふさわしいところがあると、しばしば申し上げていますが、キリストの教えてくださる新しい生き方が問題なのです。

それと反対の古い人のままの生き方というのが、今日示された聖句には象徴されています。

平和を求めず、血を流すことを求めるという生き方です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる(マタイ5:9)」とのイエス様の教えを思い出します。

私たちは、だれ一人正しい者はいない罪人ですから、互いに血を流し合っています。

いじめのない世界などはどこにもないし、醜い争いのない集団というのもありません。

平和という完全な状態は、この地上のどこにもない。

人はいつも、それを壊すように動くことしかできない生き物です。人間が罪人であるとはそういうことです。

そのことを、イエス様は誰よりも良く知っておられます。イエス様は人間を良く知っておられます。

私たちが罪人であることをよく知っておられます。

でも、それを痛いほどご存知の上で、言われるのです。「あなたがたが平和を作り出すのです。平和のない世界に、平和を作り出すのです。」


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちが直面するあらゆる場面で、平和を求めることができますように、この心にあなたの教えを書き込んでください。今、心から血を流すような思いで、人間の攻撃に苦しんでいる人がいましたら、主よどうか憐れみ助けてください。その心に平安を満たしてください。 
2018. 12. 11  
ローマ書を一節ずつ読んでみる、を再開します。今日はローマ3:13-14です。

神の御前に、誰もが等しく罪人であって、正しい者、善を行う者は一人もいないと主張されている文脈です。

その主張を、パウロ先生は、旧約聖書の詩編や預言者の言葉によってふくらませていくのが13-18節です。

今日の13節は詩編5:10、140:3、14節は詩編10:7に由来すると思います。

これくらい自由自在に詩編の言葉が出てくるくらいに、精通しているということです。

今でもユダヤ教の宗教指導者であるラビの中には、詩編150篇全部を一息でそらんじる人がいると言います。

それを毎日の日課としているのです。

聖書の言葉によって生きる、生かされるというのは、極まっていくとそういう形をとるのですね。

ユダヤ教とキリスト教は、イエス・キリストを救い主と信じるか否かで決定的に異なりますが、聖書宗教としてのルーツは同じです。

私たちもまた、聖書の言葉に生きる神の民としての伝統を引き継いでいることを、改めて大切に考えたいと思います。


さて、13-14節を訳します。

<私訳>「彼らののどは、まるで開いた墓のようだ。その舌をもって人をあざむき、マムシの毒が唇の下にある。口には呪いと苦い言葉がいっぱいになっている。」

難しいことは特にありません。私たちの口から出てくる悪い言葉の問題が言われています。

聖書の宗教は、言葉を大切にします。言葉を通して神を知り、愛を知ります。言葉によって、互いを励まし合い、生かし合います。

人間に与えられている能力のなかで、最もすぐれたものが、言葉を語る能力と言ってもいいと思います。

しかし、だからこそ同時に、人間の罪深さもまた、ここに最も如実にあらわれてきます。


共に祈りましょう。

主よ、わが口をきよめてください。どうか悪い言葉がここから出てこないようにしてください。私の周囲にいる大切な伴侶や同僚や友人や、父母や子どもたちのことを、傷つけず、おとしめないようにさせてください。むしろ、互いに高めあう言葉を語らせてください。まず私自身を、あなたの言葉によって慰め、愛で満たしてください。


2018. 12. 07  
今週は説教準備に時間をとりましたので、今日の配信はお休みさせていただきます。

今日は私は、大会の常任書記団会議で一日留守をいたします。

そして明日の明け方には、毎年恒例のホームレスミニストリーを行います。

若い方々が、今晩から新浦安教会に集まって、プレゼントの準備をします。

午前4時くらいに新宿駅周辺をまわって、路上で寝ておられる方々の枕元にお届けする予定です。

祈りに覚えていただければ、うれしいです。

今日の聖書日課(リジョイス)に示された詩編31篇の、最後の言葉を共に分かち合い、一日を始めましょう。


恐怖に襲われて、わたしは言いました
「御目の前から断たれた」と。
それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを
嘆き祈るわたしの声を
あなたは聞いてくださいました。

主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。
主は信仰ある人を守り
傲慢な者には厳しく報いられる。
雄々しくあれ、心を強くせよ
主を待ち望む人はすべて。


2018. 12. 06  
先の日曜日には、マリアへの受胎告知の場面より、特にルカ1:28-29に注目しました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、天使はマリアに告げました。

しかし、この喜びの知らせを前にして、マリアはひどく戸惑い、不安に思ってしまいます。

というのは、天使が遣わされてきて、「主があなたと共におられる」などと言う時には、ただならぬことが始まるに決まっているからです。

士師記6:12では、ギデオンが、同じようなお告げを受けています。

それは、ミディアン人との戦いの始まりでもありました。

本来、臆病で慎重で、ミディアン人から逃げていたようなギデオンでしたのに、主からリーダーとして選ばれてしまいました。

そういうギデオンの戦いを励ますために、「勇者よ、主はあなたと共におられる」と、天使は伝えます。

「わたしはあなたと共にいる」と、改めて神様が言い直してくださる時というのは、いつもそんな具合に、厳しい試練を伴う「戦い」が始まる時です。

モーセもそうでした。ヨシュアもそうでした。

私たちにも、今日、それぞれの「戦い」が待ち受けていることでしょう。

キリストの僕である以上、罪と悪との戦いは避けられません。

悪い思いにひっぱられていってしまいそうになる、誘惑との戦いがあるでしょう。

愛しがたい相手を愛し続けようとする、愛の戦いということもあるでしょう。

やる気のない職場で、なんだか自分だけががんばっているような思いにさいなまれながらも、主から与えられた働きに精一杯取り組もうともがいている、そういう戦いをしている人もいるかもしれない。

もうすべてがどうでもいいやと投げ出しそうになりながら、なお主イエスを信頼して、希望をもって忍耐の戦いをしている人もいるかもしれない。

与えられた病と戦っている人もいる。

暴力や不正といった、この世の悪と向き合って戦っている人もいるでしょう。今日、そういう戦いが与えられるかもしれない。

私たちには、そういう「戦い」が待ち受けている。私たちはその中で、もがき苦しむかもしれない。

しかし、そういう私たちとこそ、主は共におられるのです。

「主があなたと共におられる」というのは、そういう究極の慰め、励ましの言葉なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたに選ばれた者たちが、戦いに出陣しようとしています。主よ、どうか我らと共にいてください。我らをいつも助けてください。
2018. 12. 05  
クリスチャンに独特の言葉づかいを天国人のボキャブラリーとして紹介しておりますが、今日は「アーメン」について考えます。

クリスチャンがお祈りをする時には、最後にアーメンと言って締めくくることは有名だと思います。

これは「真実です」という意味でして、このお祈りが真実に確実に神様に聴かれているとの確信をもって、アーメンと言うわけです。

でもお祈りの時以外にも、アーメンと思わず言ってしまうような時があります。

例えば先日、ある方と話していて大変に励まされたことがありました。

その方は、試練を味わってしばらく苦しい日々が続いていたけれど、「神は愛する子を鍛錬なさるのだ(ヘブライ12章)」という御言葉が与えられて、前向きな気持ちになることができたと教えてくださいました。

そして自分自身に与えられた神様からの役割に励んでいきたい、先生、主の御用のためにいっしょに歩んでいきましょうと、力強く呼びかけてくださいました。

私は思わずアーメンと言っておりました。

「アーメン、確かに神は生きておられます、あなたの言うとおりだ、それは真実だ」という思いを込めて、「アーメン」と叫んだのです。

そんな風にして神は、私たちの日常のいろんな場面で喜びや励ましを与えてくださって、私たちにアーメンと叫ばせてくださるのです。


共に祈りましょう。

アーメン、主イエスよ、あなたは生きておられます。今日も私たちを強く導いてくださって、光ある方へと進み行かせてください。
2018. 12. 04  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、前回に続いて「自由」という言葉を考えます。

聖書の示す「自由」とは、私たちの真の支配者である神様以外の何者にも縛られない、支配されない、従わないということだと言ってもいいと思います。

使徒言行録の5章29節には「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません」という御言葉があります。

たとえ親や教師、また会社の上司であれども、地域の実力者、国家権力であれども、あるいは相手が牧師であれども同じです。

自分は神様以外の何者にも支配されないという魂の自由が問題です。

聖書の教えに従って平和主義を貫いて兵役拒否をした信仰者の話を聞いたことがあります。

そのためにしばらく牢につながれることになりましたが、魂はどこまでも平安で、これまでに味わったことのない自由の喜びを覚えたということでした。

あるいはまた魂の自由という時には、わたしたちの心を縛ろうとしているこの世の力や世俗主義への抵抗ということも考える必要があります。

私たちの魂は無色透明ではありえませんで、世間の常識とされる価値観に知らず知らずに縛られていて、かなり不自由になっています。

そういう「自分の不自由さ」への気付きこそが重要です。

「今はみんなこういう考えで生きている。これを知らないと流行おくれ、非常識・・・。」

そういう価値観の押し付けに対して、私には関係ないと、ひとりでキリストの道を行く、そういう自由があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、ひとりひとりが厳しい現実の中を生きていて、思うに任せぬ人間関係もあることでしょう。窮屈に心を封じられて、苦悩している人もいるかもしれません。どうか主よ、私たちに、キリストの道をひとりで歩む勇気を与えてください。
2018. 12. 01  
今週も、はや土曜日ですね。そして今年も、はや12月です。

今日は午後2時より、御茶ノ水クリスチャンセンターで、ふくいんのなみクリスマスがあります。

わたしがメッセージの奉仕をさせていただきます。ご都合許される方はぜひ。

また、同じ時に、船橋高根教会で、東関東中会の連合長老会がもたれます。勝田台教会からも長老たちが参加されます。祈りに覚えてください。


土曜日は、水野源三さんの信仰詩を紹介しています。

「御心のままに」

この道行きたいと願っても
御心でなければ行かれない
御心を成したもう御神よ
御心のままに行かせたまえ

試練を避けたいと願っても
御心でなければ避けられない
御心を成したもう御神よ
御心のままに助けたまえ

どんなに生きたいと願っても
御心でなければ生きられない
御心を成したもう神よ
御心のままに生かしたまえ
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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