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2018. 12. 29  
今年最後の配信になります。今年も一年間、継続することができましたことを主に感謝します。

実に、いろんなことのあった一年でした。その中で、この奉仕を続けることができて、皆さんと共に祈り続けてこれたことに、特別な恵みの導きを覚えます。

大切に受け取ってくださる方々がいなければ、続けることはできませんでした。支え励ましに心から感謝します。

今日は昨年と同じく、「その時の祈り」から、「年の終わりに」という祈りを紹介します。

説教準備は大変祝福されましたので、明日の礼拝を楽しみにしていてください。

2019年は1月1日の新年礼拝もありますので、ぜひお越しください。

メールの配信は、年明け4日(金)から再開させていただきます。

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恵み深い神様、ここに一年が過ぎようとしています。

いま私たちは「来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」というほかないような気持ちでいます。

神さまが断罪することを延ばしてくださったために、私のこんにちはありました。

もしあなたが、私の不従順、偽善、不真実をあばかれるなら

青ざめてそれを受けるより道のない者です。

しかしあなたはイエス・キリストに免じて、しつこく罪を追求せず、ゆるしの中においてくださいました。

ありがとうございます。

キリストがそばにいて、「もう一度やりなおしてみなさい」といわれるので、勇気がわいてきます。

御言葉にしたがって従順に網をおろした弟子たちのように、

やりなおそうとする素直な気持ちを、起こさせてください。

それをもって新しい年を迎える備えとさせてください。

そこに希望を見出させてください。

キリストによって祈ります。
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2018. 12. 28  
次の日曜日に分かち合う詩編103篇は、「罪人の賛美」として、あらゆる時代を通して愛されてきた詩編です。

私たちの背信にも関わらず、注がれ続ける「主の慈しみと憐れみ」を想い起し、主をたたえよと呼びかけてくれます。

詩編に導かれて思い巡らすうちに、今年の自分の歩みにおいて残してしまった、愚かな足跡を思わざるを得ません。

いろんな反省が沸き起こってきます。

自分の知らないところで、皆さんを深く傷つけたこともあったかもしれません。申し訳なく思います。


「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない(詩編103:2)」と、歌われます。

新改訳では、「主のよくしてくださったことを、何一つ忘れるな」です。

実に、「主のよくしてくださったこと」を思い出せば、数えきれません。

他方で、どうしてうまくいかないのか・・と、頭を悩ませ、祈らざるを得ないような思いも、それぞれに味わってこられたのではないかと思います。

そんな時に、やはり自分に何か問題があったのだろうと、反省に導かれるのは私だけでしょうか。

そういう反省は必要なことなのだと思います。でも、自分を責めすぎるのはやめたほうがいいですね。

すべては「主の慈しみと憐れみ」のもとに置かれています。

主はわたしたちの罪をよくご存じですが、「罪に応じてあしらわれることなく、悪に従って報いられることもない」のです(10節)。

今年与えられた課題や反省も、すべては「主の慈しみと憐れみ」によって与えていただいた、私たちに必要なことです。

「主のよくしてくださったこと」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今年与えられたあれやこれやを思い巡らしております。あなたはまことに忍耐強く、見守ってきてくださいました。感謝します。今日で仕事納めの者もいることでしょう。主よ、今年あなたが与えてくださった、すべてのことに感謝します。
2018. 12. 27  
昨日は祈祷会で今年の恵みを分かち合いましたが、私と同様に黙示録22章の「主よ、来てください」との祈りを大切にしているという姉妹と語らいました。

そして、主に早く来ていただくように、福音を伝えていかなきゃねと、励まし合いました。

神の国のグッドニュースが、全世界のあらゆる民に宣べ伝えられる。それから、終わりが来ると、イエス様は教えてくださいました(マタイ24:14)。

しかし、今は本当に福音伝道の難しい時代だなと、強く感じさせられたこの一年でもありました。

あれこれと工夫してみたのですが、手ごたえを感じられず、新来会者がなかなか与えられないなあ・・・というのが実感です。


先の姉妹は、「みんな神様を求めていない」とおっしゃいました。確かにそうかもしれません。

「正しい者は一人もいない」と嘆く詩編14篇に、こう言われています。

「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」

神を求める人はいないか・・・?その結果は、ひとりもいない、ということです。

クリスチャンと自称している私たち自身、どうなのでしょう。私たちも含めて、ひとりもいない、と神は嘆いておられるのでしょう。


しばしば申し上げますが、「魂の飢え渇き」というのは、自覚症状がない場合が多いです。ほとんど、と言ってもいいかもしれない。

人の心はとらえがたく病んでいます(エレミヤ17:9)。それが名医である主の見立てです。

でも、私たちにはその自覚がない。自分の抱える病に気付かないというところに、罪人の罪人たる闇の深さがあります。

自覚症状がない。だから、治療を求めない。

なんとなく「飢え渇き」があるかな?と感じても、物質的に満たされていれば、紛れてしまう。

キリストの道を求めるなどという、面倒で、マイナーで、得体のしれないことはしたくない。そういう感じでしょうか。

でも、私は知っています。「魂の飢え渇き」が本当に癒されるとき、人は、自分の知らなかった新しい自分を発見することを。

自分もそうだったと思います。だから、この福音の喜びを、折の悪い時だって黙々と証ししていくまでです。


共に祈りましょう。

主よ、私を救ってくださったように、私の愛する家族や友人たちをお救い下さい。この町の方々をお救いください。罪の世界に毒されてしまった魂を、根源的に癒してください。あなたと共に生きる喜びと平安を満たしてください。
2018. 12. 26  
今日は今年最後の祈祷会があります。今年それぞれに与えられた恵みを、小グループで分かち合って、主に感謝をしたいと思います。

日ごろ集うことのできない方も、ぜひ一緒に祈りましょう。

ゆるされれば、それぞれが今年大事にしてきた御言葉も分かち合ってください。「この言葉がずっと心にとどまっています・・」と。

例えば私の場合は、今年は祈祷会での60周年宣言「終末の宣言」の学びや、主日礼拝で黙示録を分ち合ったことが印象的です。

終わりの時の希望ということを、ずっと考えています。

「主よ、早く来てください。すべてを新しくしてください」と、主の再臨を待ち望む祈りを強くしています(黙示録22:17)。

それは、現実の社会に、より根本的には人間について、絶望しているということの裏返しでもあるでしょう。

自分についても絶望しているのです。

主が再び来てくださるその時、私はとてつもなく恥ずかしい思いをすることでしょう。

最後の審判において、すべての罪が暴かれ、言い訳もできないで、首を垂れるよりない自分を想像します。

でも、そのわたしが、キリストの贖いのゆえに赦されているのです。その無罪判決がいよいよ確定するとき、それが終わりの時です。

私たちを裁く方は、また同時に私たちを守って下さる最強の弁護人でもあります。

私のために死んでくださった方が、私を完全にきよくするために来てくださるのです。

この方は、万物を再創造する救済者として、この絶望的な「世」を更新し、永遠の朝をもたらしてくださいます。

その希望の日が、まさに来らんとしている。主は、すぐに来る。もうスタートを切っておられ、来つつある。

だからこそ、私たちは、決してあきらめることなく、今を生きるのです。主に忠実に生きたいと願うのです。

そういう終末論的な希望の構造の中で、歩まされてきたこの一年でありました。


共に祈りましょう。

主よ、年の終わりが近づく中で、今改めて、あなたが下さった希望を確認し、心機一転させられています。主よ、今改めて目を覚まさせてくださって、たるんでしまったこの体と魂をひきしめてください。








2018. 12. 25  
今日はクリスマスです。私たちの教会では特別に集まって礼拝をささげることはしませんが、それぞれに聖霊の導きがありますように。

主日の礼拝では、ルカ福音書2:8-20を分かち合いました。

朝の礼拝では、特に20節に注目し、羊飼いたちの心が高く引き上げられて、神を賛美する喜びへと導かれたことを覚えました。

夕べのキャンドルサービスでは、特に16節に注目し、羊飼いたちが乳飲み子イエス様を必死で探し当てたのだということを思い巡らしました。

読み慣れたご降誕の物語ですが、また新鮮な思いで、いつもと違う響きをもって迫って来たという声もうかがいました、


子どもたちはすでに冬休みに入っていますが、大人の皆さんは今日も普通に仕事でしょうね。

羊飼いたちが、あの特別な体験から、再び日常に帰っていったように、私たちも日常が始まります。

でも、クリスマスの喜びは、消えるわけではありません。

世間の人は、昨日の夜にパーティーをしたりして、楽しみはもう終わったという感じでしょう。

12月25日はもうあまり値打ちを覚えられず、スーパーマーケットもすでにお正月モードです。

でも私たちは、今日、その慌ただしい日常にあって、クリスマスをしっかり心に抱いて、喜び過ごしたいものですね。

羊飼いたちは、神をあがめ、賛美しながら、いつもの日常に帰っていったのです。

その賛美の歌は、消えないのです。私たちも、賛美を口ずさみながら、心を高くあげて、年の瀬を過ごしていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、わがために生れてきてくださった私の救い主よ。あなたが生まれてきてくださったこの日が、わが喜びです。わが歌です。主よ、この一日に、私たちの口に賛美の歌声を満たしてください。永遠の光によって、わが魂を照らしてください。
2018. 12. 22  
明日はいよいよクリスマスですね。

今日は、板口冨美子さんの詩を紹介します。キャンドルサービスなどで、何度か紹介してきたものです。

板口さんは、長く病床での生活を強いられた方だそうですが、イエス・キリストを信じる信仰によって、いつも慰めと希望を得て、病と闘われた方だと伺っています。


「クリスマスを祝う」
キリストさまのお生まれになった日
こんなおめでたい日には
みんなのこころが こうもやさしく、あたたかくなるのだろうか
みんなお互いにぬくめあおうと
みんなお互いによろこばしあおうと
どんな苦しい日の中も
この日だけは そのことばかりを考えている
世界中の人々が
この日の心をもちつづけることができたら
この世からたたかいもなくなるであろうに
せめてこの日一日
人をよろこばすことだけを考えて
本当によろこびあおう
せめてこの日のためにと したくする幾日
こころの中に キリストが降りたもう
2018. 12. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて、21ー22節の私訳を紹介します。

<私訳>「しかし今や、『律法を行いなさい』ということとはまったく別のかたちで、神の義が明らかにされました。それは実は、モーセ五書や預言者たちの書、すなわち『聖書』において、すでに証言されているものなのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であり、信じる者たちすべてを対象としています。そこには差別がないのです。」


「神の義」とは何なのかについて、悩みながら学んでいます。

昨日の私の解説を読んで、すーっと一本筋が通ったように思えて分かりやすかった反面、何か物足りない。「神の義」というのは「責任感」というだけでは言い切れないのではないか、というご意見もいただきました。

ごもっともと思います。だからこそ、私も悩みます。文脈によっても意味合いが異なってきます。

伝統的には、「義」というのは法廷の言葉遣いで、「義と認められる」=正しい、無罪=救われるということと理解されます。

この21-22節での「神の義」ということも、「神の救い」と言い換えると分かりやすいかもしれません。

くどく言えば、「あなたは正しい・合格と認められるまでの方法」ということです。


そのうえで、私が皆さんとともに何とか把握したいと願っているのは、「義」ということの人格的・関係的な面です。

ご批判を恐れずにいえば、「義」とは、任侠の言葉遣いでいうところの「義理」とか「仁義」に近いと思います。

親分が子分となった者を命を懸けて守る、これは親の「仁義」ですね。

神様はそのようにして、子分である私たちに対する「義理」を通されます。

同じように、子分となった者も親分に対する「義理」を通すことが求められます。それが筋です。

その「義理」を通す方法として、十戒に代表される神のルールを守るということが、全人類には求められるというわけです。

でも、それができないのです。しかし、神はそういうダメな子を見捨てません。絶対に見捨てません。

それは親の「義理」を通されるからです。だからこそ、新しい関係性を提示してしてくださいました。

イエス・キリストが私たちを代表して、「義理」を果してくださるから、そのキリストにつきなさいという提案です。

私たちは、兄貴であるイエス様の仲立ちによって、子分としての身分を確立され、親分の愛を受けます。

これはもう、ただありがたいことです。こんなにあたたかい恩情に対して、「義理」を果さないわけにはいきません。

「もうそんな必要はない」と親分はおっしゃるけど、いただいた恩に感謝で報いたい。それがクリスチャンの善い行いのモチベーションになる。すなわち、感謝の応答ということです。

長くなってすみません。少しでも理解の助けになるといいのですが・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの子としていただいたこの身の幸いに感謝します。父よ、今日もお守りください。私もあなたをどこまでも大切にいたします。


2018. 12. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。3:21ー26の、ローマ書の中核とも言える箇所に取り組んでいます。

昨日のものに修正をしつつ、21ー22節を私訳します。

<私訳>「しかし今や、『律法を行いなさい』ということとはまったく別のかたちで、神の義が明らかにされました。それは実は、モーセ五書や預言者たちの書、すなわち『聖書』において、すでに証言されているものなのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であり、信じる者たちすべてを対象としています。そこには差別がないのです。」


「神の義」というのが、やはり難しいですね。

先に、1:17を読んだ時に、「神の義」とは、「罪にゆがんだ世界をまっすぐに回復しようとなさる神の責任感」と、大づかみにとらえてみました。

神様は、人間の裏切りによる堕落の後も、ずっと創造者としての責任において、世界と人間とに対する関心を失われずに、関り続けてくださいました。

そうして全人類の中からアブラハムという一人の人を選んで、御自身の生きておられることを示され、彼から始まる壮大な神の国の物語を約束されました。

それは、アブラハムには思いもよらないことでしたが、彼からはじまるイスラエルという特殊な民族を「祝福の源」として、全人類に祝福を及ぼそうとする壮大なご計画でした。

そうして、イスラエル民族には、主なる神の広告塔として、不思議な歴史と、『聖書』という神の言葉が与えられました。

その『聖書』には、まず十戒に代表されるような、神の定めたルール「律法」ということが示されています。

神様は、その律法を「ちゃんと行いなさい」と世界に呼びかけられたのです。

そういうかたちで、「世界を回復させたいと願う責任感」を表されたのです。

イスラエル民族も、自分たちの名刺代わりに「律法」をもち、広告塔として、それをちゃんと守ることが期待されました。

しかし、その結果はどうだったでしょう。

「正しい者は一人もいない」とパウロが言うように、「ちゃんと行う」ことなど誰にもできなかったのです。

むしろ、イスラエルをはじめとする全人類は、神のルールに逆らい続けました。

神の呼びかけは、空しく終わりました・・。しかし、神は「もう知らん」と投げ出されませんでした。

あのノアの洪水の時のように、逆上なさって怒りに我を任せることも、もうなさいませんでした。

そうではなく、忍耐と、約束を守ろうとする真実と、深い愛をもって、新しい仕方で責任を果そうとされたのです。

それが、イエス・キリストを与えるという方法でした。

そしてそれは実は、ずっと前からすでに『聖書』において示されてきていた約束だったと、パウロは言っているのです。


共に祈りましょう。

主よ、天地の創造者であるあなたの深遠なご計画を、こんなに簡単にまとめてしまってよいものかと、おそれを覚えています。主よ、イエス・キリストを与えてくださったあなたの思いを、どうか私たちに深く悟らせてください。このクリスマスという時にこそ・・・。

2018. 12. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日からの3:21ー26のところは、ローマ書の教えの要約とも言われ、いよいよ本題というところです。

ここを読み進めていくのには時間をかけたいものです。今日は、勉強しているうちに時間が過ぎてしまいました。

とりあえず、21節を私訳しておきます。

<私訳>「しかし今や、『律法による行い』ということとはまったく離れて、神の義が明らかにされました。それは実は、モーセ五書や預言者たちの書、すなわち『聖書』において証言されているものなのです。」

神様の御前では、全人類が罪人であって、だれひとり正しい者はいない。

「律法を行う」ということを求められる限り、だれひとり合格点はとれない。まじめに取り組むほどに、罪の自覚が深まっていく。

そういう具合に、ここのところずっと、罪、罪、罪と、追い詰められてきました。

「しかし今や」と、ここでまったく新しいことが始まります。

人間の努力ではもうどうにもできない罪の袋小路で、神が乗り出してくださって、救いの世界を開いてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、クリスマスを待つこの時、我らの「罪を救う」ために生れてきてくださった主イエスを思います。そのようにして、あなたが、この暗い世界に光を与えてくださったこと、手を差し伸べてくださったことを感謝します。

2018. 12. 18  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:20です。

<私訳>「なぜなら、『聖書』の教える律法を行うことによっては、すべての人間は、神の前に合格とされないからです。律法によっては、むしろ罪の自覚が生じるからです。」

正しい人はひとりもいないという『聖書』の真理は、『聖書』の律法(道・教え)を一番よく知っている敬虔なユダヤ人にもあてはまるのだと、前回言われました。

なぜなら、どれほどに道徳的に高潔な人であっても、神の前では、合格ではない(=義とされない)からです。

それは、神の前では、というのが効いてます。

人の前では、立派な人はたくさんいる。私たちの周囲でも、信仰篤い道徳家で、まじめな生活をなさっている人がいるかもしれない。

しかし、神の前ではだれひとり、合格には満たない。この点において、人間は恐ろしく平等です。

だから、どんな人であれ、自分を誇ることができません。

むしろ、『聖書』を学び、律法を知れば知るほど、「罪の自覚」が生じてきます。

自分が罪人であるという認識が、どんどん深まっていきます。

それは、見ていて何か卑屈に思えるほどかもしれません。

でも、すべてを見透かしておられる神の前で、自分をありのままに見つめるならば、やはりそうせざるをえないのです。

その自覚が与えられること、そして、神の前でひざまずくこと・・・、そこから新しい命が始まります。


共に祈りましょう。

主よ、今日も寒い朝です。体調を崩している者、病と向き合う者たちに、憐れみと平安をお与えください。御前に、罪深い私たちです。どうか、今日の日、互いに傷つけ合うことのないように、むしろ励まし合い、高めあうことができますように。



プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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