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2019. 01. 31  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:31です。またもかなりの意訳です。

<私訳>「それでは私たちは、キリストへの信仰によって、これまでの聖書の教えを無にしてしまうのでしょうか。いいえ、とんでもない。むしろ、それを確立するのです。」

「これまでの聖書の教え」としたのは「ギリシャ語:ノモス」で、文脈によって「律法(ヘブライ語:トーラー)」とか「原理・法則」とか幅広い意味を担っています。

ここでの場合は、続く4章との関連で考えました。

4章は、旧約時代を代表するアブラハムやダビデの例を挙げ、信仰義認の教えは「これまでの聖書の教えと一致する」ということを示しています。

「確立する」としましたのは、「起こす、立たせる」という意もある言葉で、「真の価値を与える」とか、「効力を発揮させる」などの翻訳もあります。


いつも申し上げておりますが、旧約の民は「やがて来られるキリスト」への信仰に生きた、私たちの信仰の祖先です。

旧約における神様とのお付き合いも、その本質は、神の恵みと慈しみにより頼む「信仰のみ」の関係でありまして、小さな戒律を守った守らないと窮屈に硬直化したものではなかったはずなのです。

イエス様がかたくななファリサイ人たちと議論なさったのも、そういうことでした。



共に祈りましょう。

主よ、アブラハムを祖とする信仰の民の末裔として、あなたの恵みによって今日も生き、生かされたいと願います。願わくは、大らかに朗らかに、かつ真剣に、あなたと共に生きることへと導いてください。
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2019. 01. 30  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:29-30です。かなり意訳的な私訳です。

<私訳>「それとも神はユダヤ人だけのための方でしょうか。まだ神を知らぬ人々のための方でもあるのではありませんか。そうです、すべての人の神でもあるのです。

もし本当に神がおひとりだけならば、そうならざるをえないでしょう。この唯一の方が、割礼のある者も割礼のない者をも、どちらも同じく、ただ信仰によって義としてくださるのです。」


昨日の27-28節では「誇り」の問題が扱われました。

それは直接的には、ユダヤ人の宗教原理において大切にされてきた「誇り」は、もう役に立たないのだという議論でした。

それは「ユダヤ民族の誇り」の問題でもあります。

一度は国を失いながら、「割礼と安息日」という戒律に生きる極めてユニークな「神の民」としてのプライドをもって、古代オリエント世界でつっぱって生き抜いてきたユダヤ民族です。

でも、そんなプライドはもう捨ててしまえと言うのです。神様とのお付き合いは、まったく違うステージに入ったのだと、パウロは言いたいのです。


確かに神はこれまで、アブラハムに始まるユダヤ民族との特別な関係において、ご自身をあらわしてくださいました。

でもそれは、神が「ユダヤ人だけの神」ということではありません。

創造者であり、導きの主である神は、全世界・全人類・全被造物にとっての神でもあります。

もちろんユダヤの人々もそれを知っています。でも、放蕩息子のお兄さんのことを思い出してください。

自分だけが父に忠実な息子としてがんばってきたのに、これまでいい加減な生活をしてきた弟があらわれて、父の寵愛を受ける・・・。

耐えがたい思いになるのは、共感できるのではないでしょうか。

「神の民」の誇りに生きてきたパウロにとっても、すべての者が「ただイエス・キリストへの信仰によって」義とされるというのは、そういう受け入れがたい教えだったことでしょう。

そういうパウロが言うことだからこそ、深い重みがあるのです。


共に祈りましょう。

主よ、極東の偶像崇拝に満ちた島国に生きてきた者が、ただ信仰によって、あなたとの契約に入れていただいたこと、この大いなる恵みに改めて感謝します。かつての私と同じように、まだ神を知らぬ者たちがたくさんいます。主よ、その方々を救いに導いてください。

また、キリストに対してかたくなになってしまったユダヤの人々にも、恵みと憐れみを注いでくださって、主イエスをメシアと認める信仰を与え、その魂をいやしてください。
2019. 01. 29  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。先週は風邪を引いて休んでしまいました。信仰生活におけるプライドの問題を考えてみようと言って、そのままになってましたね。

改めて、3:27-28を読み返してみましょう。

<私訳>「それでは、誇りはどこにあるのか?そんなものはもうとっくに締め出されたのです。

どういう原理でそうなるのか?行いの原理ではそうならない。でも、信仰の原理によってはそうなるのです。

なぜなら、人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされると、私たちは考えるからです。」


この言葉は、直接的には、ユダヤ人の宗教原理において大切にされてきた「誇り」は、もう役に立たないのだよと言うものです。

今日はもっと広く、私たち人間が持ちたがる「宗教的誇り」のこととして考えてみましょう。

それは、私たちの側での「手応えがほしい」とか「納得したい」とか、あるいは「自慢をしたい」という抑えがたい欲求の問題です。

貧しい人への施しに励んだり、戒律を厳格に守ったり、トーラー(聖書)と祈りに驚くほど熱心だったり・・、そういう立派な生活で人々の尊敬を集める。

パウロはそうやって、プライドを満たしてきました。

それを手放すということ、これはなかなかどうして、難しいことです。

私たちはどうしても、そういう「自慢をしたい」という欲求から抜け出せません。

例えばパウロは、コリント書では「誇るなら自分の弱さを誇ろう」と言って苦労自慢を始めますが、これだって紙一重です。

いや、パウロ自身はきっと分かっているのだと思います。そういう苦労自慢も危険であり、本来すべきではないということを。

でも、そういうことが説得力を持ってしまう私たちの世界の悩ましさ・・。

そして、そういうところでしか、信仰者としての「手応え」や「納得」を得られない私たちの弱さ・・。


ただ「信仰によって」義としていただくというのは、そういうものを全部手放すということと表裏一体なのですね。


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日が終わったときに、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。(ルカ17:10)」と、言うことができる私たちでありますように。」


2019. 01. 25  
今日の日に、主の喜びが豊かにありますように。わたしたちにもいつも喜びが与えられますように。

体調を崩して寝込んでしまい、一昨日から配信を休んでおりました。インフルエンザかと思いましたが、検査の結果は一応マイナスです。

ずいぶんよくなりましたので、日曜日の奉仕は大丈夫です。ご心配おかけしました。皆さまのお祈りに感謝します。

健康を失うことで、健康であったことの恵みに改めて気づくというのは、本当ですね。

配信は、また来週火曜日から再開させていただく予定にしています。皆さまの身体と心の、なにより魂の健康のためにお祈りしています。

感謝して、坂井
2019. 01. 22  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:27-28です。

<私訳>「それでは、誇りはどこにあるのか?そんなものはもうとっくに締め出されたのです。

どういう原理でそうなるのか?行いの原理ではそうならない。でも、信仰の原理によってはそうなるのです。

なぜなら、人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされると、私たちは考えるからです。」


「行いの原理、信仰の原理」とした「原理(ノモス)」とは、「律法」というのと同じ語です。新共同訳は「法則」。

これを「律法(トーラー)」と訳す方向で理解してみたいとも思いつつ、とりあえずは、多数派にしたがっておきます。ちなみに新改訳2017は「律法」です。

榊原康夫先生は、「宗教的原理」と訳します。絶対的なものとの関係において、どういう原理で生活するか。どういう仕方でアプローチするかの問題だと。

まあ、そういうことなのかなと思います。

ここでは「誇り」、宗教的プライドが問題とされています。

パウロという人は元来、よほど誇り高い人だったのでしょう。自慢できるところの多い人であったとも言えます。

彼の手紙では「誇り」の問題がしばしば扱われます。

彼には、少なくともユダヤ人の宗教原理の中にあっては、自分は誰よりも勉強してきたし、敬虔の業に励んできたという自負がありました。

でも今は、そういうものは全部役に立たない、シャットアウトされてしまったと言います。

信仰の原理というのは、そういうものなのです。わたしたちの自慢とするところを全部役立たずにし、誇りを打ち砕くものです。

誰もがただイエス・キリストへの信仰によってのみ義とされる。そこには何の差別もないと言うのですから。

プライドの問題は、もうちょっと思い巡らしたいですね。続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、聖なる方、完全な正義、大いなる愛よ。私の心はさもしくて、小さなプライドが壊されることを怖れています。でも、必要なだけ砕いてくださって、ただ信仰によって義とされるということの真の喜びを悟らせてください。




2019. 01. 18  
次の主日には、箴言1:1-19を分かち合う予定にしています。

この日々の御言葉の配信でも、箴言の御言葉を取り上げてきました。私たちの生活に直結する言葉ですから、受け取りやすいのです。

ただ、主日の礼拝説教としてこれを取り次ぐというのは、私にとっても初めての経験で、どう取り組めばいいのかと思案しているところです。

この箴言の言葉を通して、生きておられるイエス・キリストが立ち現われてこられる、その瞬間を祈り求めて待っているような感じです。

貧しい説教者のために、どうぞ祈ってください。

箴言1:7の有名な言葉が、箴言全体のカギとなっているのは間違いありません。

「主を畏れることは、知恵の初め。無知な者は、知恵をも諭しをも侮る。」

面白い解説がありました。エイトケンという注解者の解説です。長いですけど、おもしろいので、せめて最後の行だけでも読んでください。



「箴言が教えているのは、実際に役立つ経験的な教訓であって、信仰に関する霊的な教えではない。・・・彼は人生から最高のものを得る方法を心得ており、可能なかぎり十分に人生を生き尽くすやり方も心得ている。

しかし建物にはしっかりした基礎が必要である。だからこそ著者である賢者は、信仰こそ、しあわせに栄える良い人生の根源的基礎であると主張しているのである。

真に賢明な世俗の人は、信仰をもつ人である。そしてまた、基礎とはその上に建物を建てるためのものであるから、信仰のある人はまた世俗の人間であらねばならない。

したがって、知恵を軽蔑する愚者とは、神のために使う時間をもたない世俗の人間か、あるいはまた、この世のために使う時間をもたない神を敬う人かのどちらかである。

言い換えれば、天国で役に立たないほど世俗的な人か、この世で役に立たないほど天上の人間かのいずれかなのである。」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちを世に遣わしてくださることを感謝します。それぞれの家庭、職場、学校、地域にあって、あなたにあって知恵深く、賢く歩ませてください。
2019. 01. 17  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は改めて3:26です。

<私訳>「言わば、今この時に(過去を清算して)、ご自身の義を立証するため、

つまり、ご自身が義なる方であることと、イエスを信じる信仰の足場に立つ者を義となさる方であることを示すためである。」


「今、この時に」ということが強調されています。

私たち一人一人の個人史においても、キリストの十字架の意味を知るまでは、すべて「これまで」の時間です。

でも、それを知った「今」からはじまる「これから」の時間をどう生きるかが問われます。

神は、私たちのこれまでの過ちを見過ごし、今、それらを精算して、キリストにある新しい人生を始めさせようとしてくださっています。


そのようにして神は、ご自身が「義なる方」であることを示されたのだと言われています。

それは一方で、罪を処断せずにはいられない完全な正義の方である、ということの立証です。

他方でキリストの十字架は、私たち罪人を憐れまずにはいられない、神の愛の爆発です。

十字架は、神の怒りの裁きの横棒と、罪人へと向かう神の愛の縦棒でできていると、しばしば申し上げています。

神とわたしたちの間には、決して越えられない断絶があります。

完全な正義である神は、私たちを赦せず、これ以上近づくなと線を引かれるのです。

しかし、その同じ神が、罪人を愛さずにはいられない、完全な愛の方です。

その愛の矢が、裁きの一線をも貫いて、上から下へと放たれます。

罪人をあがない、神との正しい関係へと再び取り戻すために、すなわち「義となさる」ために、神の愛が乗り出されたのです。

その時必要とされたのが、キリストの十字架の血の犠牲でした。


共に祈りましょう。

主よ、キリストの十字架に示されたあなたの正義と愛におののきます。私たちもまた、正義と愛に生きる「義なる者」とならせてください。今、この時から・・。
2019. 01. 16  
少し風邪を引いてしまって朝起きられませんでしたので、ローマ書は休憩します。

昨日学んだことの中から、ウィリアム・テンプル(1881-1944)という説教者の言葉を紹介します。

彼は、英国国教会の最高権威であるカンタベリー大主教を務めた人で、剛健な信仰、明らかな善意、神への深い愛を備えた人格において、人々の尊敬を集めました。

彼はキリスト教社会主義者として、貧しさにあえぐ方々への共感をも表し続けました。

こういう言葉が残っています。

「このおかしな社会システムの圧力によって押しつぶされておられるのは、キリストにほかなりません。

・・・もしも、それがただ安いからといって、それを作っている人たちの人格を破壊するような環境のもとで作られた商品を私が買うなら、私はユダのようなものです。

私は金と引き換えに、キリストを売ってしまったのですから。」


ドキッとしました。

私自身、決して裕福ではない者として、より安い商品を探しては購入しています。その際に、それを作らされている人たちの状況を想像したことがありませんでした。


共に祈りましょう。

主よ、今豊かな生活を与えられている者には、貧しい方々を思いやる想像力と、社会を改善する意志をお与えください。今貧しい生活を与えられている者には、あなたの恵みと慈しみを絶やすことなく、今日必要な糧を十分に備えてくださいますように。
2019. 01. 15  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は3:25の後半です。

25節前半では、神の怒りをなだめるための供え物として、神自らが、キリストの命を差し出してくださったと教えられました。

それは、私たちが支払うべき賠償金の代わりに、イエス様の命というこの上なく高価なものが差し出されたということです。

それはまた別の言い方をすれば、私たちが受けるべき「罪の処断」を、イエス様が身代わりに引き受けられたということです。


25節後半はこう続きます。<私訳>「それは、神の広い忍耐の心によって、今までなされてきた罪科の数々を見逃してこられたので、(十字架による罪の処断によって)ご自身の義を立証するため、」

ここでの「神の義」とは、罪を憎み、処罰することなしに赦すことのできない「神の正義」というニュアンスが強いです。

そういう神の正義は、あのノアの方舟の物語を想い起せばよく分かります。

あの時神は、怒りにふるえ、全部捨ててしまおうとされたのです。人間のにおいのするもの全部を・・。

でも神は、もう二度とこのようなことはしないと、あの時約束してくださいました。それゆえ、今に至るまで、神は「広い忍耐の心」をもって、私たち人間の繰り返す「罪科の数々」を見逃してこられたのです。

いや、見逃したというと正確ではないかもしれません。

しっかりと見て、数えておられるでしょう。でも、手を出さずにいてくださったのです。怒りに震えつつ、また、深く悲しみつつ・・。

そういう神が、今、ついにその「義」を示し、人間の罪を処断すると決断なさいました。

それがイエス・キリストの十字架の時でした。


共に祈りましょう。

主よ、この手紙と聖書全体の中心ともいえるところを、丁寧に学ばせていただいています。どうか、よく理解させてくだり、わたしたちの根本的な方向性を定めさせてください。





2019. 01. 12  
今年は土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

今日は、200年ごろに書かれた「ディオグネトスへの手紙」(著者不明)より。

以前にも紹介した記憶があります。今日は私は自治会の餅つき大会で、自治会長として取り仕切らねばなりません。そのために祈って備える中で、改めて示されました。

****************
・・・キリスト者は、ただ神の霊によって生かされる一つの共同体に属しているがゆえに、驚くべき、まったく逆説的な態度を示します。

彼らは市民としてのあらゆる義務を果たし、税を負担しています。すべての外国が彼らにとっては祖国であり、またすべての祖国が外国です。

彼らは皆と同じように結婚し、子どもをもちますが、生まれたばかりの赤ん坊を捨てたりはしません。

また、皆で同じ食卓を共に囲んでも、皆で同じ寝床に入ったりはしません。

この世に生きていますが、この世に従って生きてはいません。地上での生を送りますが、天の市民なのです。

定められた法律に従っていますが、彼らの生き方はそれらの法をはるかに超えています。


彼らはすべての人を愛しますが、人々は彼らを迫害します。彼らを認めず、非難し、殺します。

しかし、それによってキリスト者たちは命を得るのです。

彼らは貧しいですが、多くの人を富ませます。すべてを欠いていますが、すべてにおいて有り余るほど豊かです。

人々は彼らを軽蔑しますが、彼らはその軽蔑の中に自らの名誉を見出します。

人々は彼らを侮辱しますが、彼らは人々を祝福します。


・・・ひとことで言えば、体に魂が宿るように、キリスト者はこの世に宿る魂なのです。魂が体の各部に行き渡っているように、キリスト者もこの世の町々に浸透しています。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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