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2019. 02. 14  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて4:6-8です。

<私訳>「ダビデもまた、行いと無関係に義とみなされる人の幸いについて、こう言っている通りです。『幸いだ、その不法を赦され、罪を覆われた人々は。幸いだ、その罪を、主から罪とみなされない人は。』」

最後の「幸いだ、その罪を、主から罪と見なされない人は」。

原文は、「幸いだ、主が、罪を、けっして勘定に入れ給わないところの、人は」という感じです。

あくまでも主体は「主なる神」のほうにあって、「人」のほうにはありません。

「人」のほうでは、罪のおのれをさらけ出すしかないのですが、「主」が、それを「勘定に入れない」でいてくださる。

すなわち、「罪があるのに、罪だと見なさない」でいてくださる、ということです。

また、「けっして!!」と強調しました。文法的に、ここには「未来への強い否定」が込められているようです(参考書の受け売りです)。

私たちは、そういう「主」の側の、強い決意によって、ようやく救っていただけるような者たちです。


共に祈りましょう。

主よ、行いと無関係に義としていただく私たちですから、今、感謝とおそれをもって、自らの行いをもきよめたいと願います。また主よ、罪の深い自覚こそ、なによりも罪人にとって困難なことですから、それぞれにふさわしい聖霊の導きがありますように。
2019. 02. 13  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:6-8です。

<私訳>「ダビデもまた、行いと無関係に義とみなされる人の幸いについて、こう言っている通りです。『幸いだ、その不法を赦され、罪を覆われた人々は。幸いだ、その罪を、主から罪とみなされない人は。』」


ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるという教えを、旧約聖書から例証しているところです。

アブラハムに続いて、今度は、「ダビデも同じことを言っている」とパウロは主張します。ここに引かれているのは、詩編32篇冒頭の言葉です。

今日はその前半部分だけ。「幸いだ、その不法を赦され、罪を覆われた人々は。」

特に、「罪を覆われる」ということに注目しましょう。


「罪を覆う」とは、決して「大目に見る、見逃す」とか、「隠蔽してやる」、「臭いものにふたをする」と言うことではありません。

むしろ、神様はいつだって、わたしたちの隠したがっている問題を、鋭く見つめておられます。

そういう神様の前では、犯してしまった罪を隠せば隠すほどに、苦しみが増すばかりです。

詩編32篇を開いていただけば、3-4節に、その苦しみが歌われています。

神様の御手が重くのしかかっているように、昼も夜も苦しくて、衰え果ててしまっていたと書かれています。

しかし、その罪をはっきりと言い表した時に、神はそれを「覆ってくださった」と言うのです。

それは、私たちの罪を罪としてよくよくご存じでありながら、それを体を張って包み込むようにして、覆ってしまわれるということです。

「愛は多くの罪を覆う」とⅠペトロ4:8にありますように、それはまさしく、神の愛によるものです。

神は、わたしたちの罪と過ちを覆ってくださる方です。だから、隠さずにいたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが知っていてくださる私の罪深い本性を、どうか愛によって覆ってくださって、いやしてくださり、直してくださり、神の子としてきれいに整えていってください。昨日よりも少しでも・・。
2019. 02. 12  
昨日は2月11日。「建国記念の日」とされていますが、これは日本書紀にある神武天皇の即位の日であり、戦前の国家神道において「紀元節」と呼ばれていた日です。

江戸時代には、一般庶民にはまったく馴染みのなかった天皇ですが、明治政府に君主として担ぎ出されて、神格化されます。

西洋にはキリスト教があるが、日本にはそのような、国民を統合する宗教的基軸がない。だから、それに代わるものとして、神道を急ごしらえで組織化・体系化し、その頂点として天皇を置こう・・と、明治政府が考えたわけです。

これを「国家神道」といいます。それまでの日本古来の自然神道とは似て非なる、「天皇教」とでも言うべき新興宗教でした。

「天皇」は日本国民が崇め、命をささげるべき「現人神」とされ、キリスト教会も天皇崇拝や神社参拝を強制させられました。

「紀元節」というのは、そんな国家神道体制における一大イベントでした。

ですから、日本のキリスト教会では、2月11日を「建国記念の日」としては認めず、「信教の自由を守る日」ととらえなおし、聖書において自らを啓示されるただ御一人の神様への信従を、改めて確認する時としています。


あの敗戦後、いわゆる天皇の人間宣言がなされ、象徴天皇制に変わりはしましたが、「天皇教」的な構造は、実はなにひとつ変わることなくこの国に残っています。

かつて政治家が、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言して大騒ぎになりましたが、本音ではそう思っている人がたくさんいるのです。

今年は4月には元号が変わって、天皇の代替わりの儀式もなされます。

多くの人は、特に問題意識もないまま、祝賀ムードが流れることでしょう。今の天皇や皇太子は人格者であり、私も個人的には好感を持ちます。

しかし、唯一の主イエス・キリストを信じる者として、「天皇制」の内包する問題を鋭く見つめ、対峙していたいと思います。


Ⅰコリント8:5-6の御言葉に聴いて、確認しましょう。

「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」



共に祈りましょう。

万物の支配者である主よ、日本の国をかえりみてくださり、かつてのように、思想・良心の自由がおろそかにされる国にならないようにしてください。

このような特殊な国で、キリスト教信仰を与えられたことの恵みと幸いを心から感謝します。
2019. 02. 09  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

今日はシリアのアンティオキアの主教、イグナティオスの言葉です。

ローマに連行され、110年頃に殉教しました。その死を前にしての、全教会に宛てた手紙の中から。

「・・・わたしが新たに産み出されるときは、すぐそこに近づいています。

兄弟たち、どうか赦してください。わたしが本当の意味で生きることを妨げないでください。わたしに汚れない光の中に入らせてください。

そこにたどり着いたとき、わたしは本当にはじめて人間となるのです。

わたしが神の受難を再現するのを赦してください。

誰か心の中に神をもつ人は、わたしが望んでいることを理解してくれるでしょう。

何がわたしの心を締めつけているのかを知って、深く同情してくれるでしょう。

・・・この世的な願望は十字架につけられ、もはやわたしの中に物質を愛する火は燃えていません。

わたしの中にはただ生きた水だけがあり、その水は心の内にこうささやきかけます。

『父のもとに来なさい』

わたしがほしいのは神のパン、つまりイエス・キリストの体です。

そして飲み物としての血、すなわち朽ちることのない愛がほしいのです。」
2019. 02. 08  
先の主日には、ルカ11:1-13の御言葉に基いて、祈りについて教えられました。

イエス様が教えてくださった祈りの要は、「神の子として、安んじて、父のふところに飛び込んでいく」ことでした。

私たちは、聖霊をいただいて神の子としていただいた者たちです。

だから大胆に、信頼して、幼子のように、「アッバ、お父さん」と飛び込んでいきなさい。父は決して悪いものをお与えにならないから・・。

こういう御言葉をよく覚えているようで、今週は、我が家の末っ子ぼうずが、私の帰宅のたびに「アッバ父よ」と毎日抱きついてきます。

神様は、そういう光景に苦笑しておられるでしょうか。

昨今は、父親による虐待のニュースもあふれていて、胸がつまります。

自分自身の内にもそういう弱さがあることを見つめつつ、そのようなかたちで子を支配しようとする父親たちの罪を、切に悲しみ、憎みます。

すべての人に、父なる神の愛が必要です。

虐待に苦しんでいる子どもたちにも、虐待に手を染めている親たちにも・・・。

父なる神のもとに回復されて、罪をきよめられ、聖書の教えに基いて、神の子として育て直していただくことが必要なのだと痛感します。


共に祈りましょう。

神様、お父さん、あなたに見守られて歩むこの一日、私たちは平安です。感謝します。今、平安を失っているすべての人たちに、憐れみがありますように。父の愛を必要としている方々に、福音を届けることができますように、私たちを用いてください。
2019. 02. 07  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて4:4-5です。

<私訳>「さて、働く人に対しては、報酬というのは、恵みとしては見なされず、当然支払われるべきものです。

しかし、働かない人、でも、不敬虔な者を義としてくださる方を信じている人に対しては、彼のその信仰が、義とみなされるのです。」


今日は「不敬虔な者を義としてくださる」神様のことを考えましょう。

「不敬虔、不信心」、これは実は1:18に用いられていました。

1:18<私訳>「なぜなら、神の怒りが天から現れているからです。不道徳をもって真理を押さえつけている人間の、あらゆる不信心と不道徳に対して。」

このように、「不敬虔、不信心」とは、「不道徳をもって真理を押さえつけようとする」ような、神をないがしろにする態度です。

神を畏れず、教えを知らないふりをする、だらしのない生き様です。私自身も、まさにそういう者でした。

そういう「不敬虔、不信心」は、神の怒りの対象である!!・・・はずでした。

しかし何ということでしょうか・・。そういう者を「義としてくださる」というのです。これは「恵み」でしかありません。


「義とする」、この言葉は、「義とみなす・認める」という言葉とは違います。

そのことも当然含みますが、「不敬虔な者を義人に作り変えてしまう」という、神様の「救いのわざ」の全体を表す言葉であると考えることができます。

私たちは、自分で自分を「義とする」ことのできない者です。実に、私たちの内には、よいものが何もないのです。

しかし、無からすべてを創造される神が、義ではない者をも作り変え、新しい人を生み出されます。

そういう神様の「恵み」の導きに、すべてをお任せするよりないのです。

神が働いてくださらないなら、自分はもうどうしようもない・・。罪人のまま、滅びていくよりない・・。自分は何も働けない。神が働いてくださらないなら・・。

そのように観念し、「恵み」をただただ受け取らせていただく。そういう「信仰」が、「義とみなされる」というのです。

アブラハムも、そういう信仰からスタートしたのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしを義としてください。私たちの内にある不敬虔を、汚れを、みだらな欲求を、すべてきよめてください。私たちのためによいことをすべて備えてくださる、あなたの恵みの御手に、今日の一日をおゆだねします。

2019. 02. 06  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:4-5です。

<私訳>「さて、働く人に対しては、報酬というのは、恵みとしては見なされず、当然支払われるべきものです。

しかし、働かない人、でも、不敬虔な者を義としてくださる方を信じている人に対しては、彼のその信仰が、義とみなされるのです。」


アブラハムを例に出しながら、「ただ信仰によって義とされる」という真理を論証しようとしているところです。

今日のところでは、「働かない人」すなわち「不敬虔な者」に対して、恵みとして与えられる「義」ということを言っています。

そういう人であっても、「不敬虔な者を義としてくださる方」のゆえに、その方の恩恵によって救われます。


私は、聖書についての理解が深まってくる中で、悩んだことがあります。

キリストの道に足を踏み入れた当初は、ありのままのあなたでいいのだ、ダメでもいいのだという教えのままに、実に適当な、ほんとうにだらしない信仰生活を送っていました。

でも、だんだんと熱心が起こされて、聖書を学び始めると、敬虔で信仰深い生活が、理想として示されています。

たしかに行いや功績によって救われるのではないのですが、でも、聖書に出てくる人たちはみんな立派です。

信仰の父アブラハムは、とても真似できそうもない「信仰」の姿を示しています。

これじゃあ、「行為義認ではない」といくら言われたって、プレッシャーは同じじゃないか。

「信仰に生きる」ということが、そもそも「立派な行い」じゃないか・・。

こんなのとても無理だ・・。ぼくはとても不信心で、不敬虔だ・・・。

そんな風に悩み始めてしまいました。

でも、さらに学びを進めていく中で、その悩みは解決されていきました。

私がたどりついたのは、今日の御言葉に示されていることと同じです。神は、「不敬虔な者を義としてくださる方」だということです。

この神からすべては始まるのです。私からではないのです。私の「信仰」が出発点ではないのです。

続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの恵みによらねば、わたしのうちにはよいものは何一つありません。今日も、信仰と希望と愛を与えてくださって、真理の道を歩ませてください。
2019. 02. 05  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。4章に入ります。

先の3:27からの議論で、これまで大切にしてきたユダヤ人の宗教的な「誇り・プライド」は、もう捨ててしまうべきだと、パウロは教えました。

割礼や安息日の習わしに代表される、ユダヤ民族のアイデンティティーにこだわって、神の御心を小さく狭くとらえてしまってはいけない。

神は、全人類の神であって、まだ神を知らないすべての異邦人をも、御自身との正しい関係に招こうとしておられる。

そのために、イエス・キリストが遣わされたのだ。このキリストを信じればいい。信じることへと、全人類が招かれている。

それが、パウロの主張の要点です。

そして、その主張は、これまでの聖書の教えとも一致していると言いました。

それを例証するのに、まずアブラハムの場合はどうかと示すのが、今日の4:1-3です。

<私訳>「では、私たちユダヤ人の肉の先祖であるアブラハムの場合はどうでしょうか。もしアブラハムが、立派な行いによって義とされたのなら、彼には誇りを持つ理由があります。しかし、神に対しては、それはありません。

というのは、聖書はどう言っていますか?『アブラハムは神を信じた。それが彼に対して、義とみなされた』とあるのです。」


アブラハムは「信仰の父」として尊敬されています。

創世記に示された、彼の勇気ある旅立ちの決断、大事な息子イサクさえもささげようとした信仰は、彼の偉大な功績であると考えられていました。

私たちも、そのように考えがちではないですか?

「あの人は本当に立派な信仰だ」と、人の生き様を評価し、またその人自身も、自分の信仰の姿勢を誇りとしてしまう・・・。

これは本当に、なんなのでしょうね?悩ましいことですが、私たちは、そういうところから抜けられません。

それが罪人ということなのでしょう。

パウロ自身にも、残念ながらそういう弱さがあります。でも、パウロが原理として持っている信仰理解は、それとは決定的に異なります。

アブラハムの生き様に先行するのは、神の恵みの約束です。

アブラハムは、神が示してくださった約束を信頼して、自分の生涯をゆだね、合わせたに過ぎません。

まず神の無償の恵みが示されたのです。約束の言葉が先にあったのです。そして、その約束が、アブラハムの信仰を生み出したのです。

だから、アブラハムには、神に対して誇るものは何もない。それがパウロの理解です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの恵みによって今日も歩ませてください。信仰と希望と愛を与えてください。あなたが与えてくださらなければ、私たちの内には何もありません。主よ・・。







2019. 02. 03  
私と妻がパーソナリティーを務めています、「がっつり!!コミュニケーション」という番組があります。

RCJメディアミニストリーの番組で、ふだんは音声のみの、ネット番組です。

今回はゲストを迎えての初動画ですので、ぜひご覧ください。

がっつり!!コミュニケーション動画放送
2019. 02. 02  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

今日は、200年ごろに書かれた「ディオグネトスへの手紙」(著者不明)より。


神が人類に遣わされたのは、ほかでもなく、宇宙の創造主であるキリストです。

人間の知性ではこれを思い描くことができないので、この神の行為について横暴さを感じたり、恐れや不安を抱いたりします。

しかし、けっしてそうではなく、まったくの善意と優しさの内に、一人の王が、やはり王である自分の息子を遣わすように、神は、神である御子を遣わされました。

それは、荒々しい力によってではなく、説得によって人類を救うのがふさわしいと思われたからです。

神の内にはいかなる暴力も存在しません。

神が御子を遣わされたのは、わたしたちをとがめるためではなく、ご自分のもとに招き寄せるためでした。

わたしたちを愛しておられたからであり、裁くためではなかったのです。

プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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