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2019. 02. 28  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:15です。

<私訳>「というのは、律法は怒りを引き起こすものであり、律法のないところには、違反もありません。」


ここで言うところの「律法」とは、神様とのあいだでの「法的・条件的取り決め」という意味合いです。

神様からの「約束」は、まったくのご好意によるもので、そういう「取り決め」に基づくのではないということを昨日確認しました。

というのは、もしそういう「取り決め」であるならば、とてもじゃないですが、私たちはそれを満たせないからです。

神様の求められる敬虔のレベル、ないし道徳レベルは、だれひとり満たすことはできず、むしろ神様をいらだたせ、「怒り」を引き起こしてしまうのが関の山です。

私たちは、そういう意味で、自分自身を「義とする」ことが完全に不可能なのです。

自分で自分を救えない。その無力を認めることが、「罪人としての自覚」の鍵です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを怒らせ、悲しませている私たちの毎日を、御子の十字架のあがないゆえにお赦しください。私たちはあなたを満たすことはできませんが、どうか私たちの貧しい心をあなたの御心で満たしてくださって、あなた御自身の喜びとしてください。

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2019. 02. 27  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:14です。

アブラハムとその子孫に与えられた「約束」とは、「世界の相続人になる」ことです。

その約束は、「信仰による義」に基づくのであって、「律法」に基づくのではないと、昨日確認しました。

今日はその続きです。<私訳>「もし律法によって生きる者が相続人になるのであれば、信仰は虚しくされてしまい、あの約束は破棄されたことになってしまいます。」


「律法によって生きる」というのは、難しい言葉です。

律法に「立つ、頼る、行う、よりどころにする」など、色んな翻訳ができます。英語のfromのような前置詞が、ひとつ付いてるだけの言葉です。

手段・条件として、「律法によって生きる」とも考えられます。

よって立つ根本原理、生活原理という意味で、「律法によって生きる」でもいい。

そもそも、「律法」とは何でしょう?

この場合は、神様との法的・条件的な取り決め、というニュアンスが強いと思います。


榊原康夫先生の説教の中で、おもしろいたとえがされていたので、そのまま紹介しますね。

その当時ブーツが流行していたそうで、娘さんに「買ってあげる」と約束したそうです。

しかしお忙しいものですから、それきりになってしまってまだ約束が果たせない。

奥様もあきれてしまって、「パパはいつもいいことだけ言って守ってくれないから、もう娘はとっくにあきらめてるか、忘れていますよ」と言われてしまう。

でも、ご本人は全然そんな気はなくて「いや、約束したのだから、いつか買ってやるつもりだ」と考えている。

これが「約束」ということです。

もしも、そうではなくて、先生と娘さんとのあいだでアルバイトの協定を結びまして、何かお手伝いをしたらブーツを買ってやると条件を付けましたら、娘さんは黙っていないでしょう。

どんなに先生が忙しかろうと、法的取り決めに従って、断固要求するはずですね。

しかし、このブーツの件は、そういう取り決めではありませんでしたから、パパを信じて、黙って待つしかない・・。

「律法によって」ではなく「信仰によって、神からの約束に生きる」というのは、そういうことなんだと言われます。

神様の側から、思いもよらぬ、まったくの恵みの、ご好意のプレゼントが約束された。

それは、こちら側のいかなる条件にもよらないものです。

お手伝いをしたからもらえるでもなし、逆に、さぼったからもらえないでもない。

まったくの恵みで約束してもらったことを、ただ信じて、待っていればいいのです。

しかも神様は、榊原先生のようないい加減なパパではなく、必ず約束を実現してくださる頼もしい父ですから、信じるに値するのです。


共に祈りましょう。

天の父よ、私のことを、まさしく無条件で愛して下さるあなたのご好意に、改めて感謝をします。御子をくださったあなたが、その他のすべてのこともくださるに違いありません。今日もあなたの恵みを信じています。


2019. 02. 26  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:13です。

<私訳>「というのは、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられた約束は、律法に基くのではないのです。そうではなく、彼が世界の相続人になるというのは、信仰による義に基いています。」

アブラハムとその子孫に与えられた「約束」とは、「世界の相続人になる」ことです。

といいましても、旧約聖書には、そういうはっきりとした言葉で約束がされているわけではありません。

アブラハムとその子孫が、祝福の源となって、彼らを通して世界のもろもろの民が祝福を受けるという約束があります(創世記12:2、18:18、22:18)。

あるいは、「約束の地カナン」を受け継ぐという約束もあります(創世記13:15-17、15:18-21)。

これらの約束を総合して「世界の相続人になる」ということだと理解されているのでしょう。

そして、ここで言われている「アブラハムの子孫」の中に、霊的な子孫である私たちクリスチャンも入るのです。

キリストの福音を広げていく私たちの存在が、今や、祝福の源です。

そして私たちには、やがてもたらされる新しい天と地、完全な平和と慰めに満ちた神の国の「相続人になる」ことが約束されています。

そういう約束は、「信仰による義」に基づくのであって、「律法」に基づくのではないというのも鍵ですが、これはまた明日、14節を読みながら考えましょう。


共に祈りましょう。

主よ、世界の相続人になるとは、あまりにスケールが大きすぎて、私たちは呆気に取られてしまいます。主よ願わくは、私たちの信仰のスケールを大きくしてください。約束の喜びに満たしてください。
2019. 02. 23  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

シリアのアンティオキアの主教、イグナティオスの言葉の3回目です。

**************
思いをひとつにして、愛のハーモニーの中で、イエス・キリストを歌いなさい。

皆が歌隊のメンバーになりなさい。

声を調和させ、一致して神の調べにのせて、イエス・キリストによって声をひとつにあわせて御父に賛歌を歌うのです。

御父はその歌を聴き、あなたがたのすべての善い行いのゆえに、あなたがたを御子の肢体としてお認めになります。

ですから、いつも神に与かるために、不可分の一致の内に留まることが、あなたがたに大きな実りをもたらすのです。
2019. 02. 22  
今週の主日には、ルカ12:22-34を分かち合い、「思い悩むな」との主の御声を聴きました。

「信仰の薄い者たちよ」と主は言われました。

「信仰のスケールの小さい者」、もっと言うと「信仰の肝っ玉の小さい者たちよ」という言葉です。

イエス様のような、信仰の肝っ玉の大きい人になりたいと、あこがれます。

イエス様はどんな時も、父なる神様への信頼を失いませんでした。

十字架の試練に直面しても、それは1ミリも変わりませんでした。

ゲツセマネの祈りを思い出します。あの時主は、「アバ父よ」と、深い信頼をもって呼びかけ、「あなたの御心がなりますように」と願われました。

それは、悟りを開いて十字架の苦しみを黙々と受け入れた・・というのとは、全然違います。

あの時、主は、悩み苦しまれました。血のような汗を流して、もがき苦しまれました。

でもそれは、「思い悩む」ということとは違います。

「思い悩む」とは、「心が分裂する」ということで、「父なる神への一筋の信頼から逸れてしまう」ことです。

イエス様は、そこのところが腹がすわってます。信頼は変わりません。

その信頼関係の中で、悩んだり、悲しんだりすることはあるでしょう。

父なる神が与えられる試練や悲しみに直面して、それを受け入れるまでには、祈りの格闘が必要です。

でも、そういう中で、どこまでも父なる神に信頼し、神が進められる大いなる神のご計画を見上げる。

そういうスケールの大きな信仰を、主は与えてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も視野の狭い私たちは、右往左往し、一喜一憂し、悩んだりもがいたりしてしまうと思いますが、どうか憐れみ導いてください。そして、あなたの御心がなりますように。

2019. 02. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。もう一度だけ4:9-12から考えます。

「割礼」があることが救いを保証するわけではない。信仰がはじまりなのだ。

アブラハムも、まず「信じた」ということが先であった。

まったく先が見えない中で、ただ神の約束を信じることによって、神との深いお付き合いの関係(=契約)へと入らせていただき、遥かな旅路をはじめたアブラハム。

そういう彼のことを、神は「義」とみなしてくださいました。

そして、その十数年後に、アブラハムは「割礼」を受けました。それは、救いに入るためではなく、もう救われているということを保証されるためでした。


こういう「割礼」の話は私たちには縁遠く思いますが、「洗礼」のことを考えるとよく分かると思います。

「洗礼」は、心の包皮を切り捨てる「キリスト教的割礼」という理解ができます。

洗礼入会式は非常に大切で不可欠ですが、それは救いに入るための手段・方法ではなく、すでに「信仰によって義とみなされている」人に、救いを保証するものです。

いうなれば、太鼓判を押していただくということです。「義」印のハンコが押されるのです。

中身が醤油であることを証明するために、醤油というラベルを貼るということだとおっしゃる先生もいました。

大事なのは中身であって、中身がソースに変わってしまうのなら、偽り者になってしまいます。ラベルが絶対的ではありません。

しかしこのハンコを押していただくことで、私たちは、自分が「義とされた神の子なのだ」と何度でも確認し、信仰の歩みを励まされます。

実に「洗礼」は、わたしたちの弱さを励ますために、主が与えてくださったしるしなのです。

「お前は救われた神の子だ。新しく生きよ」との、神からの後押しなのです。


共に祈りましょう。

主よ、キリストを信じることへと招かれたことを感謝します。あなたを知り、あなたと共に生きる喜びへと招かれたことを感謝します。義としていただいたことを感謝します。義とされた者として、新しく生きようとするすべての者たちを、励まし祝福してください。



2019. 02. 20  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日から、4:9-12に取り組んでいます。

(<私訳>は繰り返しませんので、昨日の配信をご確認ください。)


ここで問題になっているのは、「割礼」ということです。

「割礼」は男性性器の包皮を切り取る儀式で、成人になる通過儀礼として、古代オリエント世界で広く行われていました。ですから、ユダヤ人だけの独自の慣習ではありません。

しかしユダヤ人の場合は、「主なる神様との契約を結んだということのしるし」として、割礼を理解している点が独特です。

割礼を受けた者は、神との契約に入った神の民であり、「義とみなされる」と考えていたのです。

女性は割礼を受けることができませんが、家長である男性のゆえに契約に入れていただくという理解です。

女性はまるで付属物のような扱いです。こういうことからも、いかに男性中心の社会であったかということが分かります。

今日の私たちにとって、それは決して正しいあり方ではないでしょう。

話は戻りますが、そういう「割礼」というしるしを、ユダヤ人たちは非常に大切にしていました。

たとえはよくないですが、任侠の世界で、体に墨を入れることによって自分を異質な者として誇るように、ユダヤ人たちも、異教社会でつっぱって生きる神の民としての自らのオリジナリティーを、割礼というしるしで確認しました。

でも本当に、割礼を受けたユダヤ人でなければ、「義とみなされる」ことはないのかと、パウロは問うています。

一番ルーツに戻ってみて、アブラハムの場合はどうだったか?

アブラハムが割礼を受けたのは99歳の時で(創世記17章)、神様の約束を信じて旅をはじめてから、ずいぶん後のことでした。

だから、大事なのは「信仰」、より正確には、救い主イエス・キリストを信じて受け入れることなのだと、言っているのです。

私たちには誇るべきなにものもないのです。信じさせていただくだけです。


共に祈りましょう。

主よ、何も持たないものが、義とされ、神の子、神の民としていただいたことを感謝します。外見ではなく、私たちの中身が変えられて、神の民としての証しがなされますように。




2019. 02. 19  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は4:9-12を一気に読みます。

今日は、翻訳だけしてみて、明日また味わい直してみましょう。

<私訳>「では、その『幸いだ』という祝福は、割礼を受けたユダヤ人だけに向けられているのでしょうか。それとも、割礼のないすべての人にも向けられているのでしょうか。

私は繰り返して言いますが、『アブラハムに対しては、彼の信仰が義とみなされた』のです。

それではどんな状況の時に、そのようにみなされたのでしょうか。すでに割礼を受けた後でしょうか。それとも、割礼を受ける前でしょうか。

割礼を受けた後ではないですね。まだ割礼を受ける前だったじゃないですか。

まだ割礼は無くともすでに「信仰によって義とされている」ということの、認め印のようなものとして、後から、割礼という象徴的なしるしをいただいたのです。

こうしてアブラハムは、割礼は無くとも信仰をもっているすべての人々の父となったのです。それは、そういう人たちもまた義とみなされるようになるためです。

同時に彼は、まことの割礼のある者たちの父でもあります。

すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、私たちの父アブラハムがまだ割礼を受けていなかった時からの、信仰の足跡に従って歩もうとする者たちにとって、彼は父なのです。」


共に祈りましょう。

あなたによって義としていただいて、愛され、子とされて生きるこの身の幸いを感謝します。今日も、義とされた私たちが、平安と喜びに生かされ、互いに愛し合うことができますように。悲しみや痛みを覚える方々に、イエス・キリストの憐れみがありますように。
2019. 02. 16  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介いたします。

先週に続いて、シリアのアンティオキアの主教、イグナティオスの言葉です。


・・・イエスの言葉を真に自分の中にもつ人は、イエスの沈黙さえも聴くことができます。

それは、完全な者となるためであり、語ることを行い、その沈黙によって理解されるためです。

主に隠されていることなど何もなく、わたしたちの秘密も主の前に置かれています。

ですから、主がわたしたちの内におられることを思って、すべてを行いましょう。

わたしたちが主の神殿となり、わたしたちの中で主がわたしたちの神となられるために。

そして実際、主はその通りわたしたちの内におられ、わたしたちが主を正しく愛するとき、主はわたしたちの面前に顕現なさるでしょう。


2019. 02. 15  
先の主日には、ルカ12:13-21から、「愚かな金持ちのたとえ」を学びました。

ある金持ちが、大豊作で、蔵に入りきらないほどの財産を得ました。蔵がいっぱいになったのですから、もう十分です。有り余っているということです。

だったら貧しい人にあげるとかいう発想があるといいのですが、そうはいきません。

全部、自分のものとして確保するために、蔵を大きくしようと考えました。

そうやって、自分で、自分のものを、自分のために確保することで、彼は安心をするのです。

でも、悲しいかな、そうして安心したその夜に、彼の人生は終わりを迎える・・・。

こういうたとえ話によって、イエス様は、何を教えようとしてくださっているのでしょうか。


地上の財産を蓄えることに執着するのは空しいことだ。どうせ誰もが死ぬ。裸で土に帰っていく。だから、「貪欲=欲しがる罪」に気をつけなさい。

そういう教えだと理解されることもあります。そういうことも当然含んでいるでしょう。

でも、より丁寧に考えれば、お金や持ち物、財産を「すべては自分のものだ!!」と考えることの間違いが、教えられているのだと思います。

すべては神様のものであって、私たちのものではない。これがポイントです。

私たちは、この地上で生きる間、いうなればレンタルをさせていただいるのであって、決して自分のものではない。

そして、それは神様のご都合で、ある時突然終わるのであって、残念ながら、私たちの計画通りには進まないのです。

私たちのお金や持ち物、さらには生命そのものさえも、すべては神様のものであって、取り去られる時があるのです。

このたとえ話の中心は、そういうところです。

そうであればこそ、自分のために富を積むということでなく、「神の前に豊かになる(ルカ12:21)」ということを考えてごらんと、示されています。


共に祈りましょう。

主よ、今日与えられている生命、時間、仕事、出会い・・・。今、私たちが用いることがゆるされている間に、これらのものを、存分に喜び楽しませてくださいますように。そして、あなたの前に豊かになるとはどういうことか、それぞれに考えさせてください。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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