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2019. 04. 11  
今日はイザヤ書53:4-6です。フランシスコ会訳が印象的でした。

「まことに、彼はわたしたちの病を担い、わたしたちの苦しみを背負った。わたしたちは、彼が神によって打たれ、たたかれ、卑しめられていると考えた。

彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、彼の傷によってわたしたちは癒された。

わたしたちはみな、羊のように迷い、それぞれ自分の道に向かったが、主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。」


特に印象的だったのは、最後の「主はわたしたちみなの悪を」彼に負わせられたというところです。

新共同訳では「わたしたちの罪をすべて」です。他にも「咎」「過ち」という訳もされますが、「わたしたちの悪」と言われた時に、ドキッとしました。

私たちの日常に繰り返してしまっている、悪意ある言動のひとつひとつが思い出されます。

しかも「わたしたちみなの悪」と言われました。この「みな」の中には、まだ神を知らないで背きと滅びの道を進んでいくすべての人々が入ると思います。

毎日の新聞やニュースに伝えられる悪事。いや、もっと深刻なのは、伝えられていないような闇の社会の「悪」や、戦争という「悪」でしょう。

あるいは、もはやニュースにもならないような私たちの日常に蔓延する不正やいじめや差別という「悪」こそ、おぞましいものです。

そういう「悪」をも、主イエスは負ってくださったのです。

それを感謝し、悔い改めて主に従うかどうかは、その人次第です。でも、神のほうでは、「みなの悪」を、主イエスに負わせられたのです。

そして主は十字架の上で祈られました。「彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです・・・。」

「悪」に染まりきってしまって、自分が「悪」をなしていることさえ知らないでいるような、そういう罪人のために主は祈っておられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、この心から、「悪」を除いてください。悪に悪をもって対抗するよりないと思ってしまっている、この不自由な心を解放してください。


2019. 04. 10  
イザヤ53:1-3を分かち合います。昨日のように翻訳を見比べると、長くなってしまいますのでやめましょう。

新改訳2017が印象的だったので紹介します。

「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」


苦難のしもべイエスには、「私たちが慕うような見栄え」がないと言われます。

「望ましい容姿もない」とも訳されます。今でいえば、イケメンじゃないということでしょうか。イケメンというだけで人気が出るのは、古今東西共通の人間の悲しさです。

あるいは「わたしたちが欲する威容もなかった」とも訳されます。強く威厳ある政治家を求める声は、今、世界中で高まっています。そのニーズには応えられない方なのです。


「悲しみの人で、病を知っていた」とあります。

「痛みの人」、「苦しみの人」とも訳されます。馴染みの新共同訳では「多くの痛みを負い、病を知っていた」とされています。

昨日、落語家がテレビで話していましたが、長く真打にあがれなかった時に覚えた悔しさや痛みが、自分の落語に深みを与えてくれた。

滑稽な登場人物たちのおかしみの裏にある、悲しみ、痛み、苦しみが理解できるようになった、ということだそうです。

十字架のイエス様は、地上に生きた誰よりも、悲しみの人であり、痛みの人、苦しみの人でありました。

そういう人として、私たちと共に生きることを選んでくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、我らの悲しみの時、あなたがそこに共にいてくださることを感謝します。あなたの知らない悲しみは無く、あなたの知らない痛みは無いことを感謝します。主よ、見栄えなきあなたを尊ぼうとしない、私たちの愚かさを砕いてください。
2019. 04. 09  
皆様お変わりなくお過ごしですか。私はまだしばらく時間的余裕がないのですが、日々の配信の習慣をやめてしまうと、霊的枯渇がひどいことに気づきました。

ローマ書の分かち合いはしばらくお休みしますが、皆さんと共に御言葉をいただくことを再開したいと思います。

今は、主イエスの十字架への足取りをたどらせていただく、特別な受難節の季節です。

その十字架の死を預言した、イザヤ書53章の「苦難のしもべの歌」を、諸翻訳で見比べていきましょう。

今日はイザヤ52:13-15です。

フランシスコ会訳「見よ、わたしの僕は栄え、高められ、上げられ、大いに高揚される。多くの者がお前の前で感嘆したように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の風貌もない。そのように彼は多くの国を驚かせる。王たちは彼の前で口を閉じる。彼らは自分たちに語られなかったことを見、聞かされなかったことを悟るからだ。」

聖書協会共同訳「見よ、わが僕は栄える。彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる。多くの人が彼のことで驚いたように、その姿は損なわれ、人のようではなく、姿形は人の子らとは違っていた。そうして、彼は多くの国民を驚かせる。王たちは彼について口を閉ざす。彼らは、自分たちに告げられていなかったことを見、聞いていなかったことを悟るからだ。」

新改訳2017「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。多くの者があなたを見て驚き畏れたように、その顔立ちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。そのように、彼は多くの国々に血を振りまく。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らが告げられていなかったことを見、聞いたこともないことを悟るからだ。」


下2つは新しい翻訳ですが、それぞれずいぶん違っていますね。理解の深まりが与えられます。

十字架の救い主の異様な姿は、正視に耐えないものです。神の子が、そのような姿になって私たちの罪を背負ってくださいました。

しかし、その十字架の道の向こうに、復活の命が与えられ、彼は「栄える」のです。それは、この地上の誰も考えたことがなかった救いの道でした。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、どこまでも父なる神を信頼し、神のご計画が成ることを願って、神のしもべとして歩みぬかれたあなたの足跡を、私たちにもたどらせてください。十字架の苦しみは、必ず復活の命の栄光に通じることを、今、信じます。

今日は、久しぶりに埼玉のK姉をおたずねする予定にもしています。主よ、恵みと祝福を満たしてください。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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