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2019. 04. 30  
昨日、東関東中会の第一回定期会が無事行われました。新しい年度が始まりました。

私は本日から、岐阜県の「雀のお宿キリスト教会館」に集まって、全国青年リトリートでの奉仕です。

改革派教会の主に20代の若者たちが集まります。そういうわけで、しばらく配信がお休みになりますのでご容赦ください。


今日明日は、天皇の代替わりということで世間はざわつき、熱狂、あるいは動揺と、様々な反応があることでしょう。

元号も変わりますね。元号というのは、皇帝こそが「時の支配者」であることを示すために、古代中国で考案されたアイディアだと伺っています。


そういうわけで、いろいろと騒がしい連休になりそうですが、落ち着いて、「王の王」であり、真実に「時の支配者」であるイエス・キリストを見上げて、いつもと変わらず過ごしたいと願っています。


詩編90篇を思い出しました。

「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。

あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜のひと時に過ぎません。(詩編90:1-4)」


共に祈りましょう。

「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」であるあなたをあがめます(Ⅰテモテ6:15-16)。

すべては、大いなるあなたのものです。あなたの手の中で、彼もまた命与えられ、日本の象徴という困難な宿命に向き合い、歩みを導かれてきたことを思います。あなたから遠く離れている者ですが、憐れみがありますように。また彼らに、人権や選択の自由が与えられますようにと願います。

今日、あなたから休暇をいただいた者たちに、肉体の休息や、家族で共に過ごす喜びや平安を豊かにお与えください。
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2019. 04. 26  
昨日に続き、ルカ24章の「エマオ途上」の物語から思い巡らします。みんなで共に、明後日の説教の準備をしましょう。

この物語のクライマックスは、二人の弟子の目が開かれて、主イエスだと分かるという31節です。

この「開かれる」という言葉は、ルカさんの好きな言葉遣いです。

ルカ2:23「母の胎を『開く』男子(新共同訳:初めて生まれる男子)」

同じくルカが作者である使徒言行録の7:56では、「天が『開いて』、人の子が神の右に立っておられるのが見える」とステファノが言います。

新しい生命の誕生、そして、神の永遠の世界との邂逅が、「開かれる」という言葉で表されます。


「目を開かれる」ということは、当然そういうことと関係することでしょう。

同じルカ24章の、この後の45節には、弟子たちに聖書を悟らせるために、主イエスが彼らの「心の目を開いた」とあります。

使徒言行録16:14にも、主がリディアという婦人の「心を開かれた」ので、彼女は使徒パウロの言葉を注意深く聞くようになった、とあります。

おやおや?この2箇所には、共通項がありますね。

どちらも、「聖書」や「使徒の言葉」に込められた福音を理解することとつながっているようです。

そして、大変面白いのが、もう1箇所。ルカ24章32節。

二人の弟子が、「あの時、心が燃えていたじゃないか」と回想するところ。

そこで「聖書を説明してくださったとき」とあります。この「説明する」が、「開く」という言葉なのです。

これは、どういうことなのでしょう?皆さんそれぞれに思い巡らし、主日礼拝に臨んでください。私もまだ、語るべき言葉を待っているところです。


共に祈りましょう。

主よ、今朝は曇っています。でも、私の目を開いてくださって、あなたから注がれている命の光を悟らせてください。今日の日を、賛美と感謝と喜びをもって、朗らかに歩ませてください。この心が、無限に広やかになりますように。

2019. 04. 25  
次の主日に分かち合うルカ24:13-35の「エマオ途上」の物語を思い巡らしています。

主イエスの十字架の死に絶望し、失意のうちに離れていこうとした二人の弟子が、復活された主に出会い、信仰を回復されるという物語です。

印象的なのは32節。主イエスが生きておられることを悟った二人が、回想します。

さっきのさっきまで、私たちと共に時を過ごしてくださった方は、確かに主イエスだ!!

だって、あの方が道で話してくださった時、そして聖書を解き明かしてくださった時、「わたしたちの心は燃えていたではないか!!」と、彼らは言いました。


「心が燃える」、私たちもまた、それを求めているのでしょう。

若い方々と共にキャンプをすると、最終日には、私自身が心燃やされて、元気になります。そういう意味では、奉仕と言いながらも、自分のために行っているのかもしれません。

もちろん、年令は関係ありません。礼拝が始まる前は、肩で息をするようだった方が、御言葉をいただいて心燃やされて、輝くような顔で家路に着かれる姿に、何度も励まされてきました。

私たちは、心が燃えることを求めているのです。心を燃やしてほしいのです。


同じような表現がマタイ26:41にあります(原語は違います)。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

確かにそうです。心は燃えても、肉体が弱い。そのことを痛感する。

だからこそ、いつも心を燃やしていてほしいのです。すぐに、暗くなってしまう自分を知っているから。


エレミヤ20:9もまたおもしろいです。

預言者エレミヤは、神の言葉をただしく取り次ごうとするゆえに、人々から反発され、命さえ狙われます。

だから、もう何も語りたくない。人々から遠ざかり、沈黙して過ごしたいと願う。

でも、そうして「語るまい」と思っても、主の言葉が、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がるのだと、言うのです。

燃えて燃えて、もう押さえつけておくことはできない。だから、語り出すよりない。


私が、そのようにして語り出すことができるように、どうか説教者のために祈って下さい。

そして、皆さんの心に、主の命の炎が引火し、燃え上がるように、期待し、求めて、お祈りください。


共に祈りましょう。

主よ、心を失いそうな慌ただしい日々の中ですが、昨晩も、休息を与えてくださって感謝します。週の後半の歩み、肉体の弱さを抱えて生きるひとりひとりを、どうか守り支え、霊の命を注いでください。
2019. 04. 24  
主の復活を喜ぶ一週間です。今日はローマ1:3-4。新共同訳はこうです。

「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」

私の解釈を込めた意訳はこうです。

「御子は、人間的側面としては、ダヴィデの家系の中からお生まれになり、聖なる霊的側面としては、死者の中から復活して、力ある神の子と公に示された方であり、私たちの主イエス・キリストです。」


いと高き神の子が、へりくだり、人間として、約束通りダビデの家系の「中から」生まれて来てくださいました。

その方が、今度は死者の「中から」新しくお生まれになり、いと高き神の子としての栄光を、フルに表してくださいました。

そのようにして、神の御子の隠されていた栄光が、「死者の中からの復活」という出来事によって、ついに「公に示された」ということです。


この復活がなければ、イエス様の真の姿は、私たちには分からないままでした。

キリスト教のシンボルは十字架ですが、イエス・キリストは十字架にかけられたままの方ではありません。

復活されたイエス・キリストこそ、私たちの信じ従うべき「主」なのであり、朽ちることない希望なのです。


共に祈りましょう。

主よ、キリストがよみがえられた、あの日の弟子たちの喜びを、今日のわたしたちの心にも満たしてください。私たちの目を開いてくださり、あの日公にあらわされた、大いなる希望の光を悟らせてください。
2019. 04. 23  
イースターの日に、スリランカで起こったあまりに悲しい出来事を、心にとどめています。

「わたしたちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった」という言葉のような思いです(旧約哀歌5:15)。

イースターの喜びの日が狙われました。迫害というよりも、存在をアピールするテロでしょう。

その背後には、貧困があり、根深い格差や対立があることでしょう。ただ、悪であることは疑いありません。

十字架の上での主イエスの祈りを思い出しています。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)」


他にも、思い巡らし祈る中で、いくつかの御言葉が心に浮かびました。

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ10:28)」

「・・戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。・・まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり・・、しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。・・(マタイ24:3-14)」

「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶようになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22)」


共に祈りましょう。

主よ、なぜですか。なぜこのような悲しみが繰り返されるのですか。どうか、悲しみの中にある方々を慰めてください。私たちが復活させていただき、世界が救いの完成に至るまでに、いったいどれだけの血が流され、涙が流されるのですか。主があの十字架で、私たちのすべての悲しみと痛みを共有し、罪を背負ってくださったことを覚えています。そして、その死を通って、命の道が開かれたことを信じています。主よ、憐れんでください。私たちの罪の悲惨に満ちた時代を憐れんでください。そして、命の光で照らしてください。
2019. 04. 19  
受難週の金曜日です。主が十字架にかけられたのは、金曜日の昼でした。

イザヤ書の「苦難のしもべの歌」をずっと分かち合ってきましたが、今日で最後です。

イザヤ53:12です。今日は、聖書協会共同訳で分かち合いましょう。

「それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え、彼は強い者たちを戦利品として分け与える。

彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し、背く者の一人に数えられたからだ。

多くの人の罪を担い、背く者のために執り成しをしたのは、この人であった。」


この人とは、まぎれもなく、主イエス・キリストのことです。

「彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し」という翻訳に、魂を撃ち抜かれる思いがしました。

十字架で流された、注ぎ出された血を思い出しました。そして、聖餐のワインを思い出しました。

明後日の主日礼拝では、勝田台教会をはじめとして、多くの教会で聖餐式がなされることと思います。

そこで差し出されるぶどう酒は、主イエスの命が注ぎ出されたものです。

これをいただくことで、私たちには命が与えられます。不滅の希望に輝く命が・・。

主が、御自身の命を注ぎ出し、「命を受けよ」と招いておられます。


まだ信仰告白しておられない方は、明後日の聖餐を受けることはできないでしょう。

ぜひ、信仰告白なさってください。この命を受けていただきたいのです。私はこの命をいただいたから、あなたにも受けてほしい。

どうか、キリストに代ってお願いします。どうか、この命を受け取らせていただいてください。

そこに、あなたの命が輝きだすから・・。主があなたの罪をもう全部担ってくださいましたから。ですから、どうか・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの死によって、私たちには命が与えられました。私に与えられている永遠の命を、もっと深く喜ばせてください。私たちのすべての憂いが消え去るほどに、みずみずしいあなたの命の喜びで満たしてください。そして、その喜びが、どうか私の愛する方々に広がっていきますように。







2019. 04. 18  
今日はイザヤ書53:11です。今日もフランシスコ会訳が、ベターだと思いました。

「彼は自らの辛苦を脱け出て、光を見、その悟りによって満足する。

わたしの正しい僕は、多くの者を正しい者とする。彼らの悪を、彼が背負った。」


この言葉は、ローマ5:18,19を思い出させてくれます。アダムとキリストが対比されるところです。

始祖アダムの一人の罪によって、全人類に有罪の判決が下されました。それが、人類の歴史の最初に起こったことです。

それ以来、すべての人は「生まれながらにして神の怒りを受けるべき者たち(エフェソ2:3)」となってしまいました。

しかし、その逆転もまた、一人の人によってもたらされます。新しいアダムであるイエス・キリストです。

その一人の方の正しい行為によって、すべての人が義とされ、命を得ることになったのです。

「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマ5:19)」


イエス様は、私たちの悪・過ちというマイナスを帳消しにしてくださったのみならず、私たちがこなさねばならない「神への従順」というノルマも、ひとりで背負ってくださいました。

そこまでしていただかねば、私たちは「正しい者」とされることはありません。

それは、実に虫がいい話です。図々しすぎると思われるかもしれません。でも、おかしなもので、このイエスの思いをよく理解し受け止めた者たちは、みなことごとく、生き方を変えられていくのです。

もはや「正しい者」として扱っていただいているから、それにふさわしく生きたいと願い始めるのです。



共に祈りましょう。

主よ、我らをきよめてください。正しい者として身も心も魂も、いよいよ主イエスに似る者として整えていってください。主がこの貧しい私の内に生きていてくださること、私の内に、新しい心が創造され、新しい人が確かに生まれていることを、私は喜びます。大切にいたします。
2019. 04. 17  
受難週を「苦難のしもべの歌」と共に過ごしています。今日はイザヤ53:10です。フランシスコ会訳でお届けします。

「主は彼を病苦で打ち砕こうと望まれた。もし彼が、自らを賠償の献げ物とするなら、彼は末永く子孫を見るだろう。主の望みは、彼の手によって成し遂げられる。」


「賠償の献げ物」とは、レビ記5:14-19(旧約p168)に詳しく記載されています。

「過ちを犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破った場合には、それを知らなくとも責めを負い、罰を負う」という厳しい法があります。

その刑罰を逃れるための賠償として、「相当額の無傷の雄羊」を神殿にいる祭司のところに連れて行き、「賠償の献げ物」とする必要がありました。

そうして祭司がそれを屠(ほふ)って、その人が過って犯した過失を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦され、神様に対して賠償が済んだと見なされたのです。

こういう神殿祭儀が、イエス・キリストの十字架の贖いの背景にあります。

羊を殺すなんて、そんなかわいそうなことを・・・とおっしゃる方もいます。

ドクドクと血を流しながら絶命していく羊を想像するのは、あまりに痛ましいです。

でも、私たちが神に対して犯している過失を償うには、そのような「命」をもっての賠償が必要でした。

それは本来、私たち自身の「命」で賠償するべきなのでした。でもその身代わりに、羊に死んでもらったということです。

今はもう、そういう羊の犠牲は必要ありません。

イエス・キリストの「命」による賠償によって、完全に最終的に、罪の償いがなされたからです。そうして私たちに、赦しが与えられたのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちを愛してくださって、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて、永遠より選んでくださいました。そのように、あなたが望んでくださったことを感謝します。

どうぞあなたの御心に従って、今日の私たちの生活を罪からきよめ、神の子として整えてください。


2019. 04. 16  
主イエスの十字架の御苦しみを覚えて、受難週を過ごしています。

イザヤ53:7-9を分かち合いましょう。新改訳2017で引用します。

「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。

屠(ほふ)り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口にあざむきはなかったが。」


主日礼拝ではルカ福音書の受難物語を分ち合ってきましたが、十字架刑を決する裁判の席において、一言も発せられないイエス様のお姿が印象的でした。

それは、このイザヤ書の預言のとおりです。

神殿礼拝では、人間の罪を償ういけにえとして、羊が屠(ほふ)られました。羊たちは、そのさだめも知らず、抵抗もできず、当然声を発することもできませんでした。

イエス様は、御自身の犠牲の死をもって、その神殿祭儀をおしまいにされました。

この方こそ、私たちの罪の赦しのためにささげられる「神の小羊(ヨハネ1:29)」であって、最後の、完全なるいけにえです。

イエス様は、羊たちと違って、御自身のさだめを知っておられました。抵抗もできました。言葉を発することもできました。

でも、あえてそれをしないで、自らの明確な意志において、十字架にかかってくださったのです。

それは、私たちの神への「背き」のゆえでした。


共に祈りましょう。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。主よ、あなたに死んでいただかねばならなかった、私たちの背きを思います。今週の歩みの中で、いよいよ深く自らの罪を知り、赦されて生きることの意味を知ることができますように。
2019. 04. 12  
今朝は説教準備に夢中になっているうちに、配信の時間になってしまいました。

先の主日に与えられた御言葉を、思い出しましょう。

何の罪も犯していないイエス様を、圧倒的な群衆の声に押し切られて十字架につけたピラト。

そして、そのようにして「十字架につけろ」と狂ったように求めた「人々」の罪深さが描かれました。

それは私たちにとって他人事ではなく、彼らの卑しさや軽率さ、おぞましい悪魔性は、すべて私たちの内にもある、私たち自身の罪の問題なのでした。


使徒言行録3:13-19を分かち合いましょう。「イエスを十字架につけたのは自分だ」という意識において、読んでみてください。

「・・・わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。・・・・・・・・

ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。

だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、私たちの内にある弱さ、卑怯さ、身勝手さ、残酷さ・・、すべてあなたがご存知です。あなたを十字架につけたのは、確かにこのわたしです。どうかお赦しください。そして、この罪深い存在を洗い清めてくださって、雪より白くしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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