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2019. 05. 09  
今週は、フィリピ2:1-11の御言葉をいただいて、一週間へと送り出されたのでした。

とりわけ、5節の御言葉、文語訳では「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」。

自分を無にして十字架にまでかかってくださったキリストの「へりくだり」の姿にならって生きるのだと、示されました。


それを覚えつつ、今日も昨日と同様に、次主日の説教箇所であるⅡテモテ1:3-14をいっしょに思い巡らしていきましょう。

私は、信仰の道を歩み始めた頃は、このテモテへの手紙が、あまり好きではありませんでした。

どうにも内容が重たく、難しい宿題が押しつけられているようで、できれば避けて通りたいと思っていた手紙でした。

きっとテモテにとっても、偉大な先輩パウロからの言葉がプレッシャーだったのだと思うのです。

6節を見ますと「“再び”燃えたたせるように」とあります。

「再び」と言われるのですから、今は、きっと沈んでしまっているのでしょう。

まだちゃんと調べてませんが、どうもテモテがいろいろと行き詰って、自信喪失で「おくびょう(7節)」になっているようです。

もしかするとノイローゼ状態だったのではとも言われます。

そういう人に対して、パウロの叱咤激励は逆効果では???現代的なセンスだと、そういう批判もあるかもしれません。

ただ私自身は、伝道者になって14年、テモテと同じような行き詰まりを経験しながら歩んでくる中で、どんどんどんどんとこの手紙が好きになっています。

この手紙が、励ましになり、奉仕の支えになっています。

おそらくそれは、この手紙が単なる先輩からの叱咤激励ではなく、キリスト・イエスを見上げることへと導いてくれるからです。

特に、2:8-13の御言葉には、何度も励まされています。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」と言われます。

フィリピ書でも、テモテ書でも、パウロ先輩がおっしゃるのは、いつも同じことなのです。キリストだけなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちが、キリスト・イエスの心をわが心として歩むことができますように。どうか、キリストを見上げて歩ませてください。
2019. 05. 08  
次の主日に分かち合う、テモテへの手紙第2の1章について、いっしょに思い巡らしていきましょう。

この手紙は、ローマでの殉教を間近に控えたパウロの、遺言のような趣があります。

長い信仰の戦いの生涯を走り抜き、いよいよ「世を去る時が近づきました(4:6)」と覚悟しています。

パウロ自身はローマで入獄中です。そこから、今のトルコにあるエフェソの教会にいる愛弟子テモテに、もう一度会いたいと伝言しているのです。

おそらくは、それはかなわぬと知りながら・・。

「昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし(3節)」とあるほどの深い師弟関係です。

きっと別れ際に、テモテが男泣きに泣いたのでしょう。

「あなたの涙を忘れることができない(4節)」と言っています。そんな思い出は私にもあります。

2節には「愛する子テモテへ」とあります。

この師弟の年齢差がどれほどだったかは分かりませんが、伝道者・牧師にとって、自分が労苦して関わり育てた者が、「わが子」に等しい愛しい存在であることは分かります。

以前にカトリックの神父の方が、当然独身であるのですが、「わたしにも子がいるのです」と、お弟子さんを紹介していたのが印象的でした。

おびえた子犬のように教会に転がり込んできた若者が、すばらしい説教をする立派な神父になったのだと。

私にも、もしかすると「愛する子よ」と呼んでくださるかもしれない、大切な先生たちがいます。祈り続けて下さる信仰の父や母、兄たち、姉たちがいます。

そして、「愛する子よ」と呼びたい、大切な信仰の弟たち、妹たちがいます。

そんなこんなを思いながら読んでいたら、挨拶の言葉だけで、涙が出てきます。

私たちは、主イエス・キリストにあって、この世では得ることができない、永遠のきずなに結ばれた、神の家族ですから幸いです。


共に祈りましょう。

主よ、私の愛する家族を、今日もあなたの手の中でお守りください。今、孤独を覚える者がいましたら、わたしたちの誰かが助けとなることができますように用いてください。




2019. 05. 07  
勝田台教会の皆さんには大変心配をおかけしてしまいましたが、ゆっくり休んで体調は回復しました。

お祈りに心から感謝します。今日はもう少しだけ、牧師館で過ごさせていただきます。

床に伏せながら、「へりくだり」ということを、改めて考えさせられていました。

先の主日礼拝の御言葉にありました。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え・・(フィリピ2:3)」

私は、この「へりくだり」というのは、美徳としての謙遜にとどまらず、神の御前で自分自身に対してまったく絶望するということと、深くつながっていると言いました。

自分の無力、弱さ、貧しさ、そういうことを思い知らされ、「どうしようもなくダメだ・・」と自覚した人は、救いに対して開かれた人です。

その粉々になった体に、命の水がしみていきます。そこでこそ、はじめて神の恵みが分かる。

そして、そういう人は、他者のことを「自分より優れた者」として尊敬せざるを得ない。

自分一人では、何も出来ないのだから。

そういう御言葉を、取り次いでいる者自身が、一番よく分かっていないのでしょう。

少しでも分かることができるように、このような時が与えられたように思えてなりません。


共に祈りましょう。

主よ、おのれの肉体について過信していた者でした、どうか赦してくださり、憐れんでください。願わくは、あなたとあなたの民のために、健康を与えてくださり、働かせてください。用いてください。

世にあって大型連休が明け、仕事や学びを再開する者たちを憐れんでください。それぞれに健やかな心と体を備えてくださり、魂を支え励ましてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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