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2019. 05. 31  
次の主日に分かち合うルカ24:36-50の最後は、イエス様の昇天について伝えてくれる貴重な記事です。

「イエスは・・手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」


「手を上げて祝福する」これは、レビ記9:22「アロンは手を上げて民を祝福した」とあるように、旧約の昔に由来します。

今、私たちのささげる礼拝でも、最後に牧師が手を上げて祝福の宣言をいたします。

牧師は、あの祝福の宣言に、アロン以来の神の民の礼拝の歴史を背負っています。

そして、イエス様が地上において最後に残してくださった思い出を、強くイメージしています。

みなさんも、そういう思いで、明後日の礼拝の「祝福の宣言」を受けていただけましたら、恵みはいっそう豊かです。


イエス様は、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というのが、どういう光景だったのか、想像を絶します。

「上げられた」という言葉は、「上に登る」という意味だけでなく、「いけにえをささげる」という時に使われることが多い言葉です。

あるいはここでも、そういう意味が込められているのか?興味深いところです。これから調べます。

いずれにしろ、ただ単に物理的な上昇ということだけではないようです。

そして、なにより大事なのは、「祝福しながら」ということではないかと思います。

イエス様は、地上を呪って去るのではなく、祝福して天へと去っていかれました。今や、地上のすべては、この主の祝福の中にあると言う事さえ、ゆるされるかもしれません。


この祝福を受けて、弟子たちは「大喜び」しました。疑い沈んでいた者が、大喜びに変えられました。

主イエスの祝福には、そういう力があります。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに祝福をいただいて歩みだしたこの一週間も、金曜日まできました。疲れを覚えている者もいるでしょう。主よ、どうぞ、心の曇りを除いてくださって、大喜びを与えてください。
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2019. 05. 30  
今日は聖書とにらめっこしているうちに、配信の時間が近づいてしまいました。

今週は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」の御言葉に励まされて過ごしています。

イエス様がまさしく「世に勝っている」お方であると明らかにされたのが、復活の出来事でした。

世はその悪しき力を総動員して主イエスに襲い掛かりましたが、彼を滅ぼすことはできませんでした。

だから、背く者たちよ、この方のもとで悔い改めよ・・・、これが最初期の教会のメッセージでした。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられ、主とし、メシアとなさった。この方のもとに救いがある。悔い改めて、罪を赦していただきなさい。」

使徒言行録2章に示されているのは、そういうメッセージです。

次の主日に分かち合うルカ24:36-53は、教会がそのように語り出しはじめる前夜を描いた記事ですね。

復活されたイエス様が、いよいよすべての弟子たちの前に登場されるところです。

いろいろと面白いことがあるのですが、特に印象深いのは、弟子たちが最初「恐れおののいて、亡霊を見ているのだと思った(ルカ24:37)」とあるところです。

イエス様の復活に際して、「亡霊」だと思ったとあるのは、ルカだけのおもしろいエピソードです。

いつの時代も、またユダヤ人であっても、おばけはこわいのですね。

「亡霊、死者の霊」というのは、死の世界と通じていると思うからこそ、恐いのでしょう。

しかし、主イエスの復活というのは、死の世界に属している者が、ひょっこりと現世に顔を出したというようなこととは全然違います。

彼は死の世界に属していません。まだ誰も知らなかった、新しい命の世界を開いてくださったのです。

主イエスはまったく光と希望のうちに生きておられます。新しい肉体をもって生きておられます。

でも、それは弟子たちにはまだ新しすぎて、よく呑み込めないがゆえに、恐れおののいてしまった。

復活というのは、そういう驚くべきことなのですね。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまだ、主が復活されたということの希望を十分に知らないのだと思います。どうか、心の目を開いてくださって、今日の日に、賛美と喜びを満たしてください。わたしたちのすべての恐れや不安がなくなるほどに・・。

2019. 05. 29  
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」という御言葉を与えられているこの一週間です。

先週、神戸改革派神学校のリトリートで奉仕をしましたが、その際にうかがった新入生の証しを紹介させていただきます。

彼の家は先祖伝来の仏教徒の家で、おじさんがお寺の住職だそうです。

そういう中で、お母さんが最初の実りとして洗礼に導かれ、続いてお父さんや子どもたちもクリスチャンになりました。

しかし、父方の祖父母がそれをよしとしませんでした。

とりわけ、嫁であるお母さんへの迫害は激しいものでした。この家に悪しきものを持ち込んだ悪魔のような扱いをされたそうです。

お母さんがおばあさんにぶたれながら泣いている姿が、強烈に記憶に残っているそうです。

主日礼拝に出かけようとする時に、毎週ホースで水をかけられたそうです。

それでもお母さんやお父さんの信仰は萎えることなく、むしろ、苦しみを味わうほどにキリストと強く結ばれ、喜びを深めておられたそうです。

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現れる時にも喜びに満ちあふれるためです(Ⅰペトロ4:13)」を思い出します。


この話には続きがあります。

そのようにして激しい迫害を続けた父方の祖父母ですが、まずおじいさんが最晩年に至って、自分からお父さんに求めはじめ、亡くなる前にキリストを受け入れるに至ったそうです。

そしておばあさんは、お母さんが介護をしながら、示されたところあって福音を伝えると、これまでとは全然違うよい反応が与えられたとのことでした。

それがつい先々週のことだと、伺いました。

主イエスはすでに世に勝っておられます。このキリストにしっかり結ばれて、勇気をいただきたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、今日も世の中で生きていきます。必要な力と知恵を、勇気を、希望を与えてください。粘り強く、あなたの勝利を信じる信仰をください。

昨日は川崎市で大変悲しい事件がありました。神様、あなたが誰よりも一番悲しんでおられるでしょう・・。今、不安にかき乱されている者がいましたら、どうか主イエスにあって平安がありますように。主よ、どうかこの罪の世界からあらゆる悲惨をぬぐってください。
2019. 05. 28  
先の主日は、ヨハネ16:29-33より、特に33節のこの御言葉にみなで聴き入りました。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

この言葉は、14章からはじまるイエス様の「告別説教」と言われる長い長い教えの、しめくくりに与えられたものです。

まもなく十字架と復活を経て天へと上っていかれる。弟子たちとは、地上の別れとなります。

しかし、イエス様と彼に選び分かたれた者たちとは、深く結ばれてどこまでも一体であるということを、主は繰り返し教えてくださいます。


私の最愛の讃美歌のひとつ、358番の4節はこういう歌詞です。

「世のちからせまれども、 死に勝ちし主によれば、 やすらけきよろこびは  わがむねにみちあふる。」

これはヨハネ16:33をそのまま歌にしたものでしょう。

私たちは、イエスに深く結ばれているがゆえに、イエスと同じように世に憎まれ、さまざまな苦難にさらされます。

だれもが、自分の十字架を負わねばならない。

しかし私たちは、イエスに深く結ばれているゆえに、その復活の勝利と栄光にも結ばれて、決して世に負けることがありません。


イエス様は、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」に、このことを伝えるのだと言われました。

「わたしによって」=「わたしにしっかり結びついて」ということです。

「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」という、素朴な讃美歌もあります。

主は言われました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。(ヨハネ15:4)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私のそばで、勇気を出しなさいと励まし続けてください。わたしの内にあなたが生きてくださり、あなたの内にわたしを生かし守って下さい。今、暗いトンネルを行くような思いでいる方も、主に結ばれて平安であることができますように。
2019. 05. 21  
今日から神戸に向かい、神学校のリトリートで奉仕をさせていただきます。

「説教と牧会 ~説教使信の具体性を求めて~」という講演をさせていただきます。

そういうわけで、今週は配信はお休みになりますが、それぞれに聖霊と聖書とのゆたかな交わりがありますように。

先の主日にはヘブライ12:1-3より、「自分に定められている道を忍耐強く走り抜こうではありませんか」という御言葉に聴き入りました。

信仰の歩みは長いマラソンのようなもので、苦しい坂道やでこぼこ道が、それぞれに用意されています。

でもどんな時も、永遠の命の希望を見上げて、地上のあれやこれやに揺さぶられないで、最後まで走り抜きたいと、切実に願います。


「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」ともいわれました。

私は、「信仰の道の先駆者(あるいは開拓者)であり、またその道を走り抜いた完走者であるイエス様から目を離さないで」と解釈しました。

イエス様は神でありますが、わたしたちと同じ弱さを抱える人間として、生きてくださいました。

そして、わたしたちに先立って、ひとりの信仰者として、信仰の道を走り抜き、神のもとにある永遠の命への道を切り開いてくださいました。

その道には、たくさんの試練がありました。しかし、十字架という最大の試練さえも忍耐され、復活の命の栄光へと到達されました。

わたしたちは、このイエス様の後に続いていくのです。

わたしたちが通る苦しみの道は、すでにイエス様が通られた道です。

讃美歌532番の2節の歌詞を思い出します。

主の受けぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつしよにあらじかし、いずこにもみあと見ゆ

(主イエスのお受けにならなかった苦しみも、主のご存じない悲しみも、この世にはありません。どこにいっても、その足跡を見るのです。)

昼となく、夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき、まじわりよ・・・


共に祈りましょう。

主よ、今週もあなたが通られた信仰の道を歩んでいきたいと願います。どうか、今日用意されている道を、走り抜かせてください。私の生涯に、揺るがぬ信仰の軸を通してくださって、いつも、どんな時も賛美と喜びに満たしてください。
2019. 05. 17  
ヘブライ12:1を思い巡らし、次主日の説教に備えましょう。今日は「忍耐」ということを覚えます。

「自分に定められている競走を『忍耐』強く走り抜こうではありませんか」と、熱く励まされています。

これは、10:36に対応しています。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、『忍耐』が必要なのです。」

そして、後の12:2,3を見ますと、イエス様もまた「忍耐」されたと書かれています。

「十字架の死を耐え忍び」「罪人たちの反抗を忍耐された」とあるのがそうです。

この主のお姿にならい、あなたたちも忍耐しなさいというのが、12:1-3の教えの主旨です。

「忍耐する(ヒポメノー)」それは、「~の下に(ヒポ)」と「とどまる(メノー)」という組み合わせによる言葉です。

どこに踏みとどまるのでしょう?

それは、永遠の命の希望の下にでしょう。天の都に導くという神の約束の下にでしょう。そして、神は必ずすべてをよく備えて下さるという信頼の下にでしょう。

聖書の言葉遣いにおいて「忍耐」とはそのように、まだ見ぬ希望の未来を「信じる」ことと、神への人格的「信頼」と表裏一体です。

だからヘブライ11章では、そういう「信仰」に生きた偉大な先人たちの歴史を振り返るのです。

それは、彼らの信仰を守りつづけ、希望に踏みとどまらせてくださった、神の恵みによる導きの歴史でもあります。

私たちは、彼らのような激しい信仰の生涯ではないかもしれない。でも負い目を覚えなくていい。私たちには、「私たちに定められた競走」があります。

それを、最後まで走り抜くこと。どんなに時間がかかってもいい。休憩したっていい。途中で倒れたり、道を外れることがあるかもしれない。

でも最後まで、みんなで最後まで、走り抜きたい。今は見えないけど、ゴールには果てしない喜びがあるからです。

神は必ず、そこまで「忍耐」させてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もでこぼこ道を走っていきます。どうか、くじけてしまわないように、どんな時も、希望に踏みとどまる力をください。主よどうか、信仰を失ってしまうほどの試練にあわせず、むしろ、苦悩の中で、あなたを近くに覚えることができますように。


2019. 05. 16  
次の主日にはヘブライ12:1-3を分かち合いますが、特に1節を中心に解き明かします。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」


「おびただしい証人の群れ」とは、「雲のような証人たち」という言葉です。「証人」とは「殉教者」でもあります。

もくもくとどこまでも広がっていく入道雲のような、圧倒的に多数の証し人たちの歴史の積み重ねが、教会にはあります。

そのような証しの雲に「囲まれている、取り巻かれている」というのは、どういうことでしょう。

プレッシャーを覚えますね。でも、先人たちのたくさんの祈りと励ましによって守られていると受け取ることもできるはずです。

「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜く」ということが言われています。

いつも言いますが、信仰の歩みというのはマラソンに似ています。最後まで「走り抜く」ことが大切です。

先人たちは、先人たちに与えられたコースを走り抜きました。

私たちには、私たちに与えられている「競争・戦い」があります。

21世紀の日本社会という、ふまじめで不敬虔で混沌とした時代にあって、キリスト者として歩むことへと召された私たちです。

途中で嫌になって、信仰を投げ出してしまいたくなる時もあるでしょう。

でも、たくさんの信仰の先輩たちが、まるで伴走するようにして、ランナーを励ましていてくれるのです。

今こそ、踏ん張り時なのだよ、と。


共に祈りましょう。

主よ、幼子から高齢者まで、今日もそれぞれの戦いがあることでしょう。私たちのそれぞれのマラソンを、励まし、走り抜かせてください。先人たちが、走り抜かせていただいたように。
2019. 05. 15  
先の主日に分かち合った御言葉の最後は、「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい(Ⅱテモテ1:13)」でした。

「ゆだねられている良いもの」とは、不滅の命の福音か、健全なキリスト教教理か、はたまたテモテの純真な信仰のことか・・それら全部と言っていいでしょう。

それを保存し、受け継ぎ、伝え広めていくために、主がパウロにゆだね、パウロがテモテにゆだねた大切なもの。

それを守りなさい。たとえ伝道が行き詰り、世界が混乱しても、主イエスの守りの中で、守っていきなさいと言われました。


次の主日に分かち合うヘブライ12:1-3も、根底にあるのは同じメッセージです。

初期教会の時代は、教会の存在は風前の灯火のようで、貧しく小さく。

しかし、その希望の灯火を決して消してはならないという、純真な信仰者たちの確信と決意に満ちていました。

私たち日本の教会はどうでしょう。私たちは今こそ、初期教会の姿にならうべきだとしばしば言われます。


説教テキストにしたのは12:1-3だけですが、ヘブライ書10:19からの一連の流れの中で読まねばなりません。

パウロがテモテを励ましたように、迫害に苦しむ教会に向けて、希望の言葉を送って励まします。

「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(10:23)」

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(10:35-36)」

「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。(10:39)」


共に祈りましょう。

主よ、世が混乱し、人々があなたをますます見失っていく中で、私たちが与えられた確信を手放してしまうことがないように、どうか主の力でお守りください。今、信仰萎えてしまった者たちのことを思い、切実に祈ります。彼らを滅びに引き渡さず、命を確保できるように再び導いて下さい。

2019. 05. 14  
先の主日にはⅡテモテ1:3-14の御言葉を分かち合いました。

特に印象的だったのは、5節にある「純真な信仰」という言葉です。「純真な」とは「演技することのない、偽りのない」という言葉です。

パウロは、愛弟子テモテのことを「純真な信仰を抱いている」と称し、そういう彼だからこそ、会いたいと願いました。

純真な信仰の持ち主との出会いは、私たちの魂をすがすがしくさせてくれます。

そういう出会いは、神が与えてくださるすばらしい宝です。

パウロにとってテモテとの出会いは、そういう得難い宝でした。それはテモテにとっても同様です。彼は、パウロ先生との出会わせていただいたことを、生涯主に感謝したことでしょう。

パウロもまた、純真な信仰を抱いている人として、私たちと出会ってくれて、心を高く引き上げてくれます。


信仰というのはそのようにして、宝のような出会いを通して、悟らされ、高められ、受け継がれ、ということがあります。

そういう出会いが与えられた人は幸いです。その出会いを大事になさってください。

ただし、言うまでもありませんが、その人との関係性を、自分の救いのよりどころとすることは出来ません。

私たちは、キリストのもとに行かなければ、本当の平安にはたどりつけません。

誰でも最初は、出会うことのゆるされた具体的な先輩信仰者に近づいていくことで、信仰の道をはじめていくものかもしれません。

でも、そういう風に近づいていけばいくほど分かってくるのは、そういう先輩たちが「キリストを見なさい」と指さしておられるということです。

パウロもまた、「いっしょに主を見上げよう」とテモテを励ましました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたはが与えてくださった大切な出会いの数々に感謝します。あの人と出会えたから、わたしはあなたを見上げることができました。今日わたしも、願わくは純真な信仰者として、誰かに出会うことができますように。
2019. 05. 10  
次の主日に分かち合うⅡテモテ1:3-14の言葉を、共に思い巡らしてきました。

この手紙は、獄中の使徒パウロから、愛弟子テモテに宛てられた、個人的な性格をも持つものです。

パウロはまもなく殉教の最後を迎えようとしている。テモテは、エフェソ教会の混乱に行き詰まりを覚えている。

そういう意味では、暗く重々しい手紙のようにも思いますが、そういう闇の深淵においてこそ輝きだす、不滅の福音の光に照らされているようにも思います。

読んでいると、元気になってくる手紙です。

13節で「わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」とありますが、「健全な」とは「健やかな、元気な」という言葉です。

神からの福音を伝える言葉は、人を健やかに、元気にしてくれるものです。

それは、うわべのことではありません。

現実的には、病気のときもあれば、行き詰る時もある。教会の未来はこの先どうなっていくのかと途方にくれる時もある。

パウロもテモテも、今、まさにそういう状態です。

でも、この手紙に書かれている言葉は、なぜだか元気です。健やかです。それが福音の力です。

わたしたちの救い主イエス・キリストが出現なさって、明らかにしてくださった、不滅の命の希望です。

この福音は滅びません。たとえ私たちが滅びようとも、福音は滅びません。「神の言葉はつながれない(Ⅱテモテ2:9)。」

この福音の健全な教えこそ、パウロやテモテに「ゆだねられたもの」でしょう。

それは、彼らだけの特殊な、特別なものでしょうか。

私たちにも、ゆだねられているのではないでしょうか。

「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちに内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(Ⅱテモテ1:14)」


共に祈りましょう。

主よ、今それぞれに、途方に暮れるような行き詰まりの状況があるかもしれません。ならば主よ、今こそ、わたしたちにゆだねられた福音の光によって、まずわたしたち自身を健やかにしてください。どうか、愛するお一人お一人が、今日の日を、主にあって元気に過ごすことができますように。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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