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2019. 06. 29  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介していました。

久しぶりですが、今日はスミュルナのポリュカルポスの殉教にまつわる記録を分かち合います。

ポリュカルポスは70~80年に生れ、使徒ヨハネに教えられ、若くしてスミュルナの司教となり、160年ごろ殉教しました。

**************
総督は司教ポリュカルポスにしつこく言いました。

「誓え、そうすれば釈放してやろう。キリストを呪ってみよ」。

ポリュカルポスは答えました。

「わたしは86年間あの方に仕えてきましたが、あの方がわたしを苦しめたことなど一度もありません。それなのにどうして、わたしを救ってくださったわたしの王を冒涜することなどできましょう。」

総督はさらに執拗に迫りました。

「カエサルの勝利の女神にかけて誓え」。

ポリュカルポスは答えました。

「もしあなたが、今おっしゃったようにわたしがカエサルの女神にかけて誓うだろうとお考えなら、またもしこのわたしが誰であるか知らないふりをなさるのなら、お聞きください。

はっきり申し上げます。わたしはキリスト者です。」
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2019. 06. 28  
次主日に分かち合う使徒言行録8:26-40を思い巡らしています。

熱心に神を求めるエチオピア人の高官が、預言者イザヤの書を読んでいました。

しかし、「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」と言って、フィリポに教えを乞います(8:31)。

「手引きする」とは「道案内をする、導く」という言葉です。

すでにこの道を歩き始めている人が、後から来る人たちに道案内をする。それが伝道=福音宣教ということです。

そういう道案内がなければ、聖書という巨大な森の中で、しばしば人は迷い悩んでしまいます。

あるいは、古典としての聖書についての知識は豊富でも、一番大事なところを無視したままの方も多くいらっしゃる。

余計な脇道にそれてしまうことなく、まっすぐにイエス・キリストにたどりつけるように道案内する。

そういう案内者が必要とされています。

ローマ10:14にもこうあります。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」

今日、わたしたちの福音宣教を必要としている人との出会いが、備えられているかもしれません。

その準備をもって、一日に向かいましょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たち自身が誰よりも道案内を必要とするものですが、真理の霊である聖霊が、真理へと道案内してくださることを信じます(ヨハネ16:13)。主よ、私たちが案内者として十分に働くことができますように、信仰と知識を備えてください。

2019. 06. 27  
次の主日は使徒言行録8:26-40の、フィリポとエチオピアの高官の出会いの物語を分かち合います。

フィリポは、ステファノらと共に選ばれた7人のひとりで、教会員の配慮をしました。

8章では、そのフィリポが福音伝道に大活躍します。

ステファノの殉教の後、エルサレムの街では、教会に対する大迫害が起こり、信者たちが地方に散っていったとあります(使徒8:1)。

しかし、転んでもただでは起きないのが、クリスチャンのど根性といいますか、聖霊の導きのすごいところです。

そうやって散らされた人たちが、その行く先々で「福音を告げ知らせながら巡り歩いた(8:4)」。

フィリポもまた、北のサマリアへと散らされつつ、あのいわくつきの土地にキリストの福音を広げていく働きをすることになりました。

そこからさらに転じて、今度は南のガザへと向かい、エチオピア人の高官に出会います。

そこは「寂しい道(8:26)」とありますが、人通りの少ない荒れ野です。

そんなところに、たくさんの人との出会いを期待するのは難しい。

たったひとりでも、そのひとりの人の救いのために、聖霊は伝道者を遣わされます。

このエチオピア人の高官は、伝説によれば、今のエチオピア正教(キリスト教の流れのひとつ)のはじまりになったとされています。

福音伝道を導かれる神様の御計画は、まったく思いを超えています。

ひとりの人の回心から、大きな御業が始まることがあるのです。

だから、たったひとりでも、今日、その人を救いに導く証しの備えをして、一日に臨みたいと願います。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのこの地上の生涯で、たとえたったひとりであっても、キリストの福音へと導くことができますように。
2019. 06. 26  
月曜日の深夜に、陸前高田から無事に千葉に帰りました。昨日の朝は、配信をお休みしましてすみません。

仙台栄光教会の「チーム陸前高田」のみなさんに同行させていただきました。

被災者の方々が住む公営住宅の集会室で、韓国料理食事会が行われました。37人の集いになりました。

チームの方々の活動は、今回で実に103回目です。

イグンベ宣教師御夫妻は40代ですが、その他の主要メンバーは、70~80代の長老ご夫妻が3組です。

月に一回のペースで、仙台から4時間弱かけて、陸前高田に足を運ぶのです。

8年に渡って、小さな活動を継続され、地域の皆さんと深い信頼関係を築いてこられました。心から敬意を覚えます。


私は5回目のお手伝いです。一年に一度はおたずねし、「皆さんのことを忘れていない」と伝えたいと願ってきました。

今回、はじめてお会いしたご婦人と、食事をしながら話し込みました。

ご主人が海に流されたことを教えてくださいました。とてもやさしい方だったそうです。

ようやくこういうことが話せるようになりましたと、涙ながらに教えてくださいました。

苦しみは、その本人にしか分からないものです。同じ被災者ではあっても、それぞれ味わった苦しみが違う。とても孤独な思いでしたと、教えてくださいました。

「皆さんを励ましたいなどと、本当に傲慢な思いですね、すみません」と申し上げました。

「いいえ、遠い所からわざわざ来てくださって、思いは伝わります。ありがとう」と、言って下さいました。励まされたのは、私のほうでした。


「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(ヨハネ1:14)」の御言葉が心に響いています。

イエス・キリストは、人間となって地上に降りて来てくださり、私たちの心を訪ねてくださいました。

私たちには、苦しむ人の苦しみを共有することは、残念ながらできません。

でも、イエス様は、すべての苦しみを知っていてくださいます。

人として、悲しみ多い地上の現実を生き、十字架の苦しみまで背負ってくださった方は、すべての苦しみを共有されます。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブライ2:18)」


共に祈りましょう。

愛する主イエスよ、今日も悲しみの中にあるひとりひとりを助けてください。私たちは、あなたにはなれません。それぞれがあなたに助けていただくよりない、小さな者でもあります。でも、小さな者同士、互いを思い合うことができるように、あなたの愛を満たしてください。
2019. 06. 22  
ここのところ土曜日の配信をお休みするが多くてすみませんでした。今日は大丈夫です。

今週は詩編の祈りに心を合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげてきました。今日は詩編23篇です。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。(詩編23:2-3)」

神様、今日どんな道が用意されているのか、私たちには一秒先も分かりませんが、あなたが共にいてくださいますから、わたしは災いを恐れません。

暗い暗い、光が見えない谷底を歩むような思いで、日々を過ごしている方々のことを憐れんでください。

生涯の終わりが近づいていることを強く意識しながら歩んでいる方々を憐れんでください。

そのひとりひとりの迷える羊を、憩いの水のほとりに伴って、その魂を癒してください。

願わくは、明日、みなを礼拝に集めてくださり、御言葉によって、私たちに命の水を注いでください。

疲れて死んだようになっている者も、息を吹き返しますように。

神様、私たちはそれぞれにあなたに背き、自分勝手な道を歩んでいたような人生でした。

でも、あなたが追いかけ探してくださって、悔い改めを与えてくださったことを感謝します。

あなたと共に歩むこの生涯を、私は喜び感謝します。

やがて、あなたのもとで永遠に安らぐその時まで、あなたが示してくださる道を、大切に歩んでいきます。

主よ、わが羊飼いよ、いつまでも、わたしと共にいてください。
2019. 06. 21  
今週は詩編の祈りに心を合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげたいと願っています。

今日は詩編22篇です。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、うめきも言葉も聞いてくださらないのか。(詩編22:2)」

神よ、わたしの神よ、わたしが生まれる前から、わたしを見守り続けて下さったあなたの愛を覚えています。

わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。

私が母の胎にある時から、あなたはわたしの神。

わたしはあなたに信頼します。

しかし神様、今は、あなたをとても遠くに感じてしまうのです。

この神を見失った世界にあって、渇いた言葉に囲まれて、私の魂はひからびてしまいました。

今はとても疲れています。

なんだか自分が惨めに思えてなりません。

わたしは虫けらだと思います。

あなたに見捨てられたとしても仕方ない人間のクズです。

しかし主よ、わたしの神よ、どうか見捨てないでください。

あなただけは、遠く離れないでください。

私に代わってあなたに見捨てられたイエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私を赦し、この苦しみから助け出してください。

主よ、あなたを信じます。

助けを求める叫びを、あなたは聞いていてくださると信じます。
2019. 06. 20  
今週は詩編の祈りに心を合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげたいと願っています。

今日は詩編18篇です。

「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げて下さる。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。・・・主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。(詩編18:17-20)」

主よ、あなたはわたしの力、わたしの砦、わたしはあなたをお慕いします。

主よ、私たちは誰も、悩みを抱えています。

押し寄せる激流に呑み込まれるように、私たちの毎日は過ぎていきます。

時に、深い深い海の底にひきずりこまれていくような、不安を覚えます。孤独を覚えます。

生きることは、どうしてこんなに苦しいのでしょうか。

周りにいる人がみんな敵に見えている人もいるかもしれません。

押し寄せる仕事の量の多さに、おぼれそうになっている人もいるかもしれません。

主よ、憐れんでください。私たちを憐れんでください。

この声が、あなたに届きますように。

主よ、あなたの手を差し伸べてくださって、深い海の底から私の魂を救いあげてください。

この心を、広いところへと導きだしてください。
2019. 06. 19  
今週は詩編の祈りに合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげたいと願っています。

今日は詩編16篇の祈りに心を沿わせます。

「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。(詩編16:7-9)」

神様、私をお守りください。私はあなたのもとに逃れます。

神様、あなたが私の主でいてくださるから、私は安心しています。

あなたに信頼することを知った、私の人生は幸いです。

あなたが与えてくださった励ましのひとつひとつによって、私は生かされてきました。

私の魂の一番深い深いところに、あなたの言葉が息づいています。

あなたが私のすぐそばにいてくださいますから、わたしは揺らぐことがありません。

この体も魂も、わたしのすべてはあなたのものです。あなたにすべてをおゆだねします。

もし今日、地上の命が尽きるとしても、安心して、あなたのみもとに向かうことができますように導いて下さい。

そして、あなたの御顔を仰いで満ち足りて、永遠の喜びをいただくことができますように。


2019. 06. 18  
先週は改革派教会の大会役員修養会のために神戸に出張していましたので、配信をお休みしておりました。ご容赦ください。

今週は、ふくいんのなみの「あさのことば」の原稿を兼ねて、詩編の祈りに合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげたいと願っています。

今日は詩編8篇の祈りに心を沿わせます。

「主よ、わたしたちの主よ、・・・あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(詩編8:4-5)」

神様、都会の空は濁っていて、満天の星空を見る事ができないのが残念です。

でも、それでも私たちには、星の数は多すぎて、とても数えきることはできません。

果てない宇宙に思いを馳せます。

そのすべてを知ることは私たちにはできない、でもあなたは、小さな星のひとつひとつまで見守っておられる。

神様、あなたは大きい。あまりにも大きい方です。

天地万物の創造者であり、支配者であるあなたをほめたたえます。

その大いなるあなたの目に、この卑しく小さな私という存在が覚えられているとは、信じられないほどにありがたいことです。

あなたが御心に留めていてくださるから、今日も勇気をもって歩んでいきます。

主よ、過ちだらけのこの小さな生涯を、どうかキリストの十字架のゆえに赦してくださり、恵みをもってかえりみてください。
2019. 06. 07  
ペンテコステの出来事(聖霊降臨)は、「五旬祭」という祝祭の日に起こりました。

この五旬祭というのは元々ユダヤの三大祝祭のひとつ(他に過越祭、仮庵祭)で、刈り入れの祭りとも呼ばれてます。

収穫を感謝して、とれた作物の初穂をささげるお祭りとしてにぎわっていたのです。

そしてこの日のために、世界中に散らばっているユダヤ人がエルサレム神殿に巡礼するために集まってきていました。

「世界中に散らばっている」というのが良く分からないかもしれませんが、これは今も変わらないユダヤ人の特色です。

バビロン捕囚以来、一度国を失ったユダヤ人は、そのままバビロンに住み着いたものや、エジプトに渡ったものなどがそのままそこで文化を形成して、離れて散らばってしまいました。

そのような「離散のユダヤ人」、それをディアスポラといいます。

今もユダヤ人は世界中に散らばっていて活躍しています。スピルバーグもユダヤ人ですし、アインシュタインもそうでした。

イスラエルに留学していた先生に聞くと、黒人から白人まで、色々なユダヤ人がいるそうです。

そんなに違っているのに、どうしてみんな同じユダヤ人なのかというと、宗教が同じだからです。

同じユダヤ教徒だからユダヤ人なんです。その意味では、日本人でもユダヤ教を信じればユダヤ人になるんです。

ユダヤ人というのは、そういうとても面白い民族なんです。


使徒言行録2章に描かれているのは、そういう世界中に散らばったユダヤ人が祝祭のために巡礼の旅をして、エルサレムに集まっているという様子です。

そしてその世界中から集まった人々が、聖霊を受けた使徒たちによって、「自分の故郷の言葉」が話されるのを聞いた、ここに驚きがあるのです(使徒2:5-11)。

ガリラヤの田舎者であるはずのイエスの弟子たち、聴いたことも無いはずの外国の言葉を話している。

私がフランス語とかドイツ語をぺらぺらしゃべり出すようなものです。

しかも何を語っているのかというと、神の偉大な業を語っているのです。

これは、エルサレムから始まって全世界へと広がっていく、福音宣教の時代の象徴的な幕開けでした。


共に祈りましょう。

主よ、あの日、キリストの教会が力強く世界に向かって語り出して以来、世界中に福音が広がり、この日本にまで届けられたことを思い、心から感謝します。今改めて、全世界の教会に聖霊の命を満たしてくださって、宣教の勇気と力を与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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