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2019. 07. 16  
先の主日には使徒言行録10章のコルネリウスの回心について分かち合いました。

ユダヤ社会にあって「汚れた外国人」として遠ざけられながらも、聖書の神に焦がれ、熱心に求めたコルネリウスです。

そのような、創造主への熱心が自分の内に沸き起こるのは、少しも不思議なことではありませんと、説教でも申し上げました。

人間はみな神のかたちとして創造され、本来、神に近く、神と共に生きることを喜びとする者として生まれてきました。

今は、罪への堕落ゆえに、人はみな神からはぐれてしまいました。

勘当当然で家出したまま、帰るに帰れなくなってしまった放蕩息子・娘です。

でも、誰もが生まれ故郷に対して何かしらの感情をもつように、魂の故郷である神への思いが、どんな人にもあるのです。

だからこそ、「あなたがずっと求めていたのは、この神様のもとに帰ることだよ」と、聖書から教えられた時に、深く安心するのです。

ただ、残念ながら私たちの心はねじけてしまっていて、コルネリウスのように素直に熱心を表すことができないことしばしばです。

特に現代日本人は、何重にもねじれてこんがらがってしまって、神への偏見、宗教への偏見に満ちています。

心に何層ものバリヤーがかかっています。

この国にいると、そうなってしまうのでしょう。現に、外国で生活されると素直になって、その地の日本人教会で信仰を持たれる方は大変に多いです。

本当に特殊な国だと思います。神様は、日本人に対して偏見がないのに、日本人のほうが偏見ばかりなのですね。

「ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。』(使徒言行録10:34-35)」


共に祈りましょう。

主よ、この国にいながら、あなたとの出会いを与えられて、イエス・キリストとの命の交わりへと導かれたこの身の幸いを、心から感謝します。あなたのもとに帰ることができて、私は本当にうれしいのです。主よ、まだはぐれたままの子どもたちを思って、あなたが胸を痛めておられることを思います。今日も、帰ってくる者が起こされますように。
2019. 07. 13  
土曜日は、「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介しています。

スミュルナのポリュカルポスの殉教にまつわる記録の続きを分かち合います。

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・・・彼は天を仰ぎ見て言いました。

「全能の神である主よ。あなたが愛し祝福された御子イエス・キリストの父よ、御子によってわたしたちはあなたを知ることができました。

この日この時に、わたしが殉教者の数に加わり、キリストの杯にあずかるにふさわしい者としてくださたことのゆえに、あなたをほめたたえます。

聖霊の朽ちることのない命のなかで、わたしの魂と体が永遠の命へと復活するのです。

これらすべてのことのゆえに、永遠なる天の大祭司、あなたの最愛の御子イエス・キリストによって、わたしはあなたを賛美し、ほめたたえ、あがめます。

キリストによって、御子と聖霊とともに、栄光があなたに今も世々にあるように。アーメン」。

彼がこのように「アーメン」と声を上げ、祈りを終えたので、係の者たちは火をつけました。
2019. 07. 12  
次の主日の使徒言行録10章、特に34-35節に目を留めましょう。

「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と、ペトロが悟ったと書かれています。

「分け隔て」とは、差別待遇、かたより見る、えこひいき・・などとも訳せます。

「顔(外面、うわべ)」という語に、「取る」という語が組み合わさった言葉です。

「顔を取る=かたより見る」というヘブライ的表現なのです。

しかし、神はそういうことをなさらない。

この使徒言行録の文脈では、人種の違いなど関係ないということです。

ユダヤ社会には悪しき純血主義がはこっていましたが、それは神の御心とは違うのです。

他にもこの考えは、「奴隷であろうが主人であろうが違いはない(エフェソ6:9参照)」という時や、「教会の中で金持ちだけを特別扱いしてはならない(ヤコブ2:1-13参照)」という時にも用いられています。


余談ですが、ジャニーズ事務所の創始者であるジャニー喜多川さんの訃報に触れましたが、彼は人の素養を見抜く天才で、外見的なかっこよさではないところでタレントを選んでいたそうです。

そして、偏見や差別にとらわれることなく人材を発掘し、大切に育てたようです。

実際、ジャニーズ事務所の有名タレントで、大変過酷な境遇でお育ちになった方も数人いらっしゃいます。

ましてや神様の目は、いっそう確かです。

私たちの神は、うわべではなく人の心を見られる神様です。

私たちは、「それは困る!!」と思ってしまう。見られては困ってしまう、貧しく汚れた心です。

でもそこに、神への畏れと、イエス・キリストへの信仰さえあれば、主は誰でも受け入れてくださるというのです。


共に祈りましょう。

主よ、うわべも、内面も、あなたの前では何一つお見せすることができないような私たちです。この信仰さえも、あなたが与えてくださったもので、誇るものは何もありません。主よ、ただあなたの憐れみによって、あなたの子として受け入れてください。
2019. 07. 11  
次の主日は使徒言行録10章の、ローマ軍人コルネリウスの回心の物語を分かち合います。

これは実は、10章1節から11章18節まで続きます。大変多くの分量をかけて、丁寧に描いています。

なぜかといえば、この記事がとても大切だからです。

ユダヤ人が持っていた選民意識が粉々に砕かれて、外国人は汚れているとの考えが取り除かれた、記念すべき出来事だったからです。

予習として、最初期の教会というものがどういう実態だったのかを簡単につかんでおきましょう。

そもそもキリスト教会のメンバーは、最初ユダヤ人だけでした。

イエス様もユダヤ人でした。使徒言行録において活躍する使徒たちもみんなユダヤ人。

彼らは、最初は「キリスト教・クリスチャン」とは呼ばれませんし、名乗りません。

ユダヤの伝統的な教えの、ひとつの流れとして、ナザレ派と呼ばれました。(敵対者たちからは異端扱いです)

自分たちのほうでもまた、別のものを信じているという意識はないのです。

預言者によって約束されていた救い主がすでに来てくださった、イエス・キリストこそがその方だと信じて伝えようとしているだけで、ユダヤの伝統的な聖書宗教と別のものじゃない。

むしろ自分たちこそ、それを正しく受け継ぐものだという意識です。

そういう意味で、彼らはどっぷりとユダヤ社会に漬かってますから、ユダヤ人が持っていた選民思想も引き継いでいます。

聖書を与えられた神の民であり、世界中で自分たちだけが選ばれた聖なる種族であり、外国人はみんな汚れていると。

もちろん、イエス様の教えはそういう壁を乗り越えるものであったのですが、でもその教えを受けた弟子たちがただちに変わるかというとそうではない。

この偏見が深く染み着いていて、外国人と交わりをもつことを避けてしまっていたのです。

そういう意識は、わたしたち現代日本のクリスチャンにも、多かれ少なかれあるのではないでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは世界中の人々を慈しみ、救いの御手を広げ、招いておられることを思います。あなたの大きな御心に感謝します。
2019. 07. 10  
今朝は新しい発見をしました。ここのところ、毎朝、詩編の言葉を味読するようにしているのですが、今日は詩編130篇を読んでいました。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聴き取ってください・・」と始まる、有名な詩編です。

大きなテーマとなっているのは、罪と赦しです。

人間の罪ゆえに繰り広げられる現実世界の悲惨のどろ沼にのまれて、溺れて、滅びに向かっている人の悲痛な叫びがあげられます。

あるいは彼は、自分の人生の決定的な間違いに気づかされ、深い海の底に沈みこんでいるのかもしれない。

問題となっているのは、そういう「罪と死の深淵」です。

聖なる神が、もしも私たちの罪をすべて心に留められるなら、わたしたちは滅ぶよりありません。

救いがあるとしたら、神がそれを赦してくださるということだけです。

こちらからは、それを求めることはできません。

わたしという存在の間違いに、もしも赦しがあるとすれば、「お前をよしとする」と受け入れられるとすれば、それは恵みでしかありません。

この詩編130篇では、「わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」と祈ります。

町を守る門衛が、朝の到来を待ちわびて、夜の深い闇の中を過ごすように、主の赦しの光を待ち望んで、暗闇の中で身をかがめて悔い改めている、そういう砕かれた人の姿が目に浮かんできました。

そこで、私は気付きました。これは、サウロだと。

先の主日に分かち合った、サウロの回心の時に与えられた、三日間の暗黒と、赦しの光の中への再生。

それは、詩編130篇の世界であったのです。これが今日の新しい発見です。


共に祈りましょう。

主よ、我らもまたサウロのように、あなたの赦しを必要としています。この深い罪を贖って下さったイエス・キリストの十字架の救いに、心から感謝します。
2019. 07. 09  
先の主日は、使徒言行録9章のサウロの回心の物語を分かち合いました。

神の栄光のために、自らの正義をまるで疑うことなくキリスト者を迫害し、その手で殺してさえいたサウロです(使徒22:4)。

しかし、彼は復活の主イエスの栄光に触れて、人生をひっくり返されました。

自分の信じてきたことがまったく間違いであり、取り返しのつかない過ちを犯してしまったと気付きました。

それで、目の見えない暗黒の中で、何も手につかないで、飲まず食わずの三日間を過ごしたのでした。

これは彼にとって、古い自分の死でありました。

イエス様が十字架で死んで三日間墓におられたように、三日の暗黒を過ごす中で、これまでの彼は死んだのです。

そしてその後、アナニアに手を置かれることで、彼は光の中へとよみがえります。

これまでのすべてを主に赦され、新しい命へと呼び覚まされたのです。


やがて伝道者パウロとして、ローマの信徒への手紙6:6-11において、彼はこう伝えます。新改訳2017がいいです。

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

・・・私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

・・・同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」


私たちもそれぞれに、これまでの自分が決定的に間違いであったと、認めることへと導かれます。

しかし、そうして自分の罪を知った者に対し、主イエスはかぎりなくやさしく、赦しの愛を注がれます。

その赦しにあずかった者には、すべてが新しく見えはじめます。

「キリスト・イエスにおいて現わされた神の愛から、私たちは引き離すことは決してできない」との、パウロの確信を共有することでしょう。

その神の愛の光の中で、感謝と喜びに生きる。新しい人が生まれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのかたくなな心を砕き、この目からうろこを落としてください。私たちが、新しく生きることができますように・・・。

2019. 07. 05  
次の主日は、使徒言行録9章のパウロの回心の物語を分かち合いますが、丁寧に話し出したら何時間も必要な豊かなテキストです。

説教では中核だけをお話しますので、取り上げられないところも多いです。9:16もそうです。


使徒言行録9:16「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に示そう。」

これは、イエス様が幻の中でアナニアに示された、パウロのこれからの生涯に関する預言です。

本当にこの言葉の通り、パウロは苦しみ多い伝道者の生涯に召されました。

迫害する者から、迫害される側へと変わったゆえの苦しみです。

そればかりではなく、苦しみとは、彼の内面におけるものでもありました。

それは、愛をもって人に仕えようとするがゆえの苦しみです。

かつての彼は、相手に苦しみを与えることもへっちゃらで、何としても力でねじ伏せようとする迫害者でした。

しかしこの回心の時以来、むしろ自らが苦しんで、傷ついても、和解のために行動するという愛の人に変わったのです。

もちろん、教会の秩序のために厳しい態度で臨む時もあります。

でも、支配者ではなくて仕える者として、愛の人として、へりくだった仕方で教会を導こうとしていたのは確かです。

彼は何とかして一人でもキリストに導くために、すべての人の奴隷になったと言っています。

そんな風にして彼は、プライドもなにもかも全部捨てて、「愚かだ、威厳が無い」と軽んじられようともまったくかまわない。

キリストの福音のためなら屈辱をもいとわない、そんな「苦しむ者」になったのです。

パウロが言っています。「あなたがたにはキリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられる。(フィリピ1:29)」


共に祈りましょう。

主よ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほどに喜びなさいとの言葉が、胸に響いています。わたしの十字架を負わせてください。自分では負うことができませんから、あなたの恵みによって負わせてください。
2019. 07. 04  
次の主日は、使徒言行録9章のサウロの回心の物語を分かち合います。楽しみにしておられる方も多いでしょう。

説教では、時間の都合で多くのことを語れませんから、いくらか予習をしておきましょう。

サウロ、後にはパウロという名で呼ばれるようになります。

サウロからパウロに改名したというよりは、おそらく生まれた時から2つの呼び名があったようです。

パウロというのはローマ式の名前で、サウロ、あるいはサウルというのがユダヤ式の名前。

というのは、彼はタルソスというローマ帝国内の大都市で生まれ育った、いわば帰国子女的な存在だったからです。

そして彼は、非常に高い教育を受けた、ユダヤ社会のエリートでした。

ラバン・ガマリエルという当時の最高峰の先生の弟子として学び、ユダヤの伝統に関しては非の打ち所がないほど精通していたと誇れるほどだと、後から述懐しています(フィリピ3:6など)。

そういうパウロことサウロが、非常に猛々しい迫害者として、キリストの弟子たちを追い回し殺そうとしていたのです。

また、この当時のパウロのことを考えますと、とても若いのですね。

彼は多分イエス・キリストより10歳ほど若かったと言われていますから、キリストがその生涯を終えたのが30-35歳ぐらいだとしても、この時のパウロは20代前半から半ばにかけてぐらいだと思われます。

将来を嘱望される熱心なユダヤエリートとして、ナザレのイエスを信じる狂気の輩たちをはげしく憎悪していた、それがサウロです。

でもその人が、キリストと出会い回心し、広く世界に福音を伝える大伝道者になっていくのですから、主の御業は偉大です。


共に祈りましょう。

主よ、敵をも愛し、作り変えてしまわれる、あなたの恵みの御業にただただ驚くばかりです。このサウロの回心の物語を通して、わたしたちに新しい心を与えてください。
2019. 07. 03  
先の主日に与えられた使徒言行録8章の、フィリポとエチオピアの高官の出会いの物語を思い返しています。

フィリポは彼を導くために、いっしょに馬車に乗ってそばに座り、ひざつきあわせて語り合いました。

おそらくは、自動車に乗る時と同じように、隣りの席に座ったのだと思います。

同じ方向を向いて、いっしょに進んでいったのです。

お互いを見つめ合うのではなく、同じ方向を向いて、イエス・キリストが与えてくださった永遠の希望に向かって、いっしょに進んでいく。

これこそ、信仰者の交流なのだと思います。

そして、その交わりの中心には、神の言葉がありました。

ふたりで預言者イザヤの書を中心にして、救いの理解を深め合い、互いの信仰が励まされ、どんどん盛り上がっていく。

信仰の交わりとは、そういうものでしょう。世の交わりと違うのはこういうところです。

とはいえ、いつでも聖書をいっしょに読まねばならない、キリストの話をしなければならないということではありません。

そうではなく、いつでも信仰と希望と愛をもって、あるいは感謝と喜びをもって、語り合うということだと思います。

具体的には、「主が●●してくださった」と、神様を主語にして語るということを実践なさるといいと思います。

例えば天気の話でも、「今日は、主がくもり空を与えてくださいましたね」「そうですね、嫌だなと思うけど、これも大事なことなんでしょうね」「きっとそうですよ、感謝しないとね」・・

そんな具合に、神様を主語として語り合う練習をすると、魂のかまえが変わってきます。

ぜひ実践してみてください。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちが、希望に向かってみんなで進み、互いに励まし合い、救いの確信を深め合うことができますように。信仰の交わりの喜びを与えてください。
2019. 07. 02  
先の主日は、使徒言行録8:26-40のフィリポとエチオピアの高官の出会いの物語を分かち合いました。

それは、「寂しい道(8:26)」を行く寂しい罪人に与えられた、信仰の友との出会いでありました。

フィリポのように、聖書の理解をたすけてイエス・キリストのもとへと導いてくれる友が、私にもおりました。

皆さんにもそれぞれ、信仰の歩みのはじめに、あるいはその後も、伴走してくれる信仰の友との出会いがあったことと思います。

人間はみんな、神からはぐれ、人からはぐれた罪人だから、本質的に寂しさを抱えている存在なのだと思います。

みんな、よく分かっているのです。人はそれぞれ、自分のことで忙しいと。

自分のことしか考えられない。それこそ、罪の本質でもありますから。

夫婦であっても他人です。親子であっても、血がつながっているだけで、本質的には「他者」です。

「他者」と完全には分かりあうことはできません。そして誰もが、「他者」よりも自分が大切です。

みんな分かっている。そういう人間の本質を分かっている。

でも、だからこそ、友がほしい。

そのように切実に祈り求めるのもまた、人間です。


だから神は、イエス・キリストという、まことの友を与えてくださいました。

このキリストのもとで、キリストを見上げる者たちが、信仰の友情を育み合うことを、主は願っておられます。

そのような友情を、祝福として与えてくださいます。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ15:12-15)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちの信仰の生涯に与えてくださる、数々の信仰の友との出会いを、心から、心から感謝します。我らともに主を見上げ、愛し合い、励まし合い、キリストの愛を証しするこの一日でありますように。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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