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2019. 09. 12  
次の主日も使徒言行録を読みますが、一気に進んで24章になります。

21章で、死ぬことさえ覚悟してエルサレムに向かったパウロがその後どうなったか、簡単に予習をしておきましょう。

21:17~ 無事にエルサレムに到着。

21:27~ 神殿の境内で礼拝をしていると、敵対するユダヤ人の扇動によって、群衆に捕らえられ、リンチを受ける。

21:31~ ローマの守備隊長(千人隊長)により、保護され、事情聴取のため、縛られて兵営に連れて行かれる。

そのとき大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついてきた。イエス様の時のように。

21:37~22:29 パウロは人々の前で、自分に与えられた復活の主イエスとの出会いと、回心についての証しをする。

群衆は、それを聞いてますますわめきたて、「こんな男は、地上から除いてしまえ」と叫ぶ。

22:30~23:11 その翌日、正確な事情の把握のために、千人隊長はユダヤの最高法院を召集する。

パウロは最高法院において、大祭司らを前にして復活の信仰を証しする。これもイエス様と似ている。

23:11~35 その翌日、パウロ暗殺の陰謀があることが発覚したため、千人隊長はパウロをエルサレムから離れさせ、カイサリアにいる総督フェリクスの元に護送する。

そして、24章に入って、その総督フェリクスのもとでのパウロの弁明、となるのです。

これもまた、イエス様が総督ポンテオ・ピラトと対話したのに似ています。

ついでにいえば、その後パウロは26章で、アグリッパ王の前でも弁明することになりますが、これも、イエス様が十字架の前にヘロデ王に尋問されたのに似ています(ルカ23章)。

このようにしてパウロは、十字架の主イエスの足跡をたどるように歩んでいきます。

それこそ、クリスチャンの原型的な生き様なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちはそれぞれに、あなたから与えられる自分の十字架を背負って歩んでいきます。願わくは、それを背負い通す力と、誠実さと、忍耐と希望を、また尽きせぬ慰めと憐れみを与えてください。

2019. 09. 11  
先主日の使徒言行録21:1-16の説教を振り返ります。

どうしてもエルサレムへ向かうとの決心を変えないパウロでした。

引き留めようとしていた者たちも、最後は「主の御心がなりますように」と祈って、口をつぐみます。

イエス様もあのゲツセマネの祈りで、もだえ苦しみ悩みつつ、最後には「主の御心がなりますように」と、お委ねになりました。

この祈りは、どういう心境で祈るものでしょう?

「もうどうしようもない、仕方ない・・」というあきらめや、悲壮感がこもった祈りでしょうか?

そういう面もあるかもしれません。

でも、深いところでは、主なる神への信頼に満たされていてこそ、祈り得る祈りでしょう。

神様の「御心」は、わたしたちの想像をはるかに超えて、時に、考えることもできないストーリーが用意されています。

あのイエス様の十字架の死の向こうに、復活の命の朝が明け染めるというストーリーも、私たちには考えることのできないものでした。

でも、確かにそういうことが起こった。これこそが、キリスト者の希望の源です。

十字架の苦難の道は、復活の命の希望に必ず通じていく。

どんなに苦しみの道を通っても、いや、自分の十字架を背負うような苦しみの道を通ってこそ、その向こうに、復活の命の世界が開かれる。

私たちクリスチャンは、そういう希望に生きる人種です。

二つの道のどっちを行けばいいのか・・「主の御心」がはっきりと示されることなんて、無いと思います。

だから、パウロもまた悩みました。でも、彼は希望を持っていた。

エルサレムへの苦難の道の向こうにこそ、主が開いてくださる栄光の将来がある、という希望です。

私たちも、いつだってそういう希望を信じて生きるのです。

「主の御心がなりますように」と祈る時、私たちの心にあるべきは、この希望なのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちにはあなたの御心のすべては分かりません。分かるはずもありません。でも、あなたが与えてくださった確かな希望があります。十字架の死は、復活の命に通じていくという希望があります。それで十分です。今日、何があっても、この希望から離れないようにしてください。
2019. 09. 10  
先の主日は使徒言行録21:1-16の記事を分かち合いました。

ギリシアの教会からの献金をエルサレムへと届けに行こうとするパウロと、それを引き止めようとする人々のせめぎあいが記されてました。

いつの時代でも、誰かが困難なミッションに進もうとする時に、こういう問題は起こります。

行けば必ず、投獄と苦難の将来が待っている、それが聖霊のお告げでした。

だから、周囲の者たちは引き止めます。どうか、無理をしないでくれ、と。

しかしパウロは、「主イエスの名のためならば、死ぬ覚悟もできている」と、決して譲りません。

苦難が待ち受けていようとも、いやむしろ、苦難の道であるからこそ、それを選ぼうとしているようです。

それはきっと、かつてイエス様がそうされたからだと思います。

誰も味わったことのない絶望と苦しみがあると分かっていながら、それを引き受けて、十字架の苦難の道に進まれました。

イエス様が、私の救いのために十字架を背負われたから、私も、私の十字架を背負う・・。

クリスチャンというのは、そういう行動原理に生きる、不思議な人種です。


死ぬことさえ覚悟して、無謀なミッションに取り組む。そのこと自体が尊いとは、私は思いません。

地上の生命もまた大切です。かつての日本の特攻隊のような精神論を、決して教会に持ち込んではなりません。

でも、感情的でもなく、盲目的でもなく、非常に冷めた心で、祈りに祈って、考え詰めて、それでもやっぱり、突き動かされるように、苦難の道に進んでいくということがあるのだと思います。

それは、私たちがクリスチャンだからです。

キリストの十字架の愛によって、生かされている者たちだからです。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主イエスこそ、我が主、我が救い。死の陰の谷を行く時も、主が共にいてくださる。だから、私も主と共に歩んでいきたいと願います。主よ、今日も進むべき道を示してください。

2019. 09. 06  
次の主日は、使徒言行録21:1-16を分かち合います。

ここには、「主イエスの名のためならば、私は死んでもかまわない」というパウロの決意が示されています(13節)。

思えばパウロという人は、「まだ神を知らない世界中の人々に、主イエスの名を伝えるために、イエス様によって選ばれた器」でありました(使徒9:15)。

そしてイエス様は、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」を彼に示そうとおっしゃいました(同16節)。

そうして始められたパウロの新しい人生は、本当に迫害や拒絶に苦しみつづけ、いつでも「死にさらされている」ような日々でした。

しかし、そんなに苦しいのに、彼は決して「主イエスの名」を否もうとは思わなかったのですね。

それは、精神力の強さうんぬんの問題ではなくて、主イエスと出会ったことが、ただただありがたく、他にはもう何もいらないほど満たされていたということでしょう。


「主イエスの名のために」

この「~のために、~を守るために」という言葉は、ヒペルという前置詞です。

「主イエスの名のために」という用例はほとんどありません。多いのは「主イエスが、私たちのために・・・」という用例です。

「キリストがわたしたちのために御自身をささげられた(テトス2:14)」

「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である(ルカ22:19)」

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11)」

「キリストは、わたしたちのために(身代わりに)呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました(ガラテヤ3:13)」


イエス様は、「わたしの名のために死ね」と命じられる方ではありません。

むしろ「私たちのために」命を捨てて下さった方なのです。


共に祈りましょう。

主よ、パウロの心が救いの喜びで満たされていたように、私たちの心も満たしてください。そうして、地上のなにものにも縛られない、真の自由へと導いてください。
2019. 09. 05  
次の主日は、使徒言行録21:1-16を分かち合います。

この記事のポイントは、エルサレムに行こうとするパウロと、それを引き止めようとする周囲の人たちのせめぎあいです。

そもそも、なぜパウロはエルサレムに行こうとしているのかを、今日は確認しておきましょう。


使徒言行録19:21に、エルサレムに行って、その後ローマに行くという決心が示されてます。

ローマ15:22-28を御覧いただくと、そのパウロの決意がくわしく分かります。

そして、エルサレムに行くのは、「エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助するため」にギリシャの教会の人々が集めた募金を届けるためだと、教えてくれています。

勝田台教会でも、わずかではありますが、カンボジアのホザナスクールのための献金を続けています。

物質的に豊かな教会が、貧しい教会を支えるのは、キリストのからだとして当然の愛の業です。


Ⅱコリント8,9章を読みますと、このエルサレムへの献金をした当時の教会の様子が浮かび上がってきます。

ここに書かれているマケドニア州の教会の代表は、テサロニケの教会です。

テサロニケ教会は、アカイア州のコリント教会などとは違って、パウロを励ましてくれる大変に模範的な教会でした。

彼らは決して裕福ではなく、むしろ「苦しみによる激しい試練」を受け、「極度の貧しさ」にあったようです。

でも、人に惜しまず施す霊的な豊かさに満ちていて、この募金にぜひ参加させてほしいと願い出たということです。

「フィリピンの兄弟たちは、貧しいのに、本当に惜しむことなく献金するんだ。あれは見習わないといけない・・」と以前に教えていただいたことがあります。

私たちは、たくさんのものを与えていただいているのに、それゆえに、それを自分のために保持したいというケチな思いに囚われてしまうのかもしれません。

パウロは言いました。

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(Ⅱコリント8:9)」


共に祈りましょう。

主よ、物質的な豊かさに満たされていることは、あなたの祝福なのでしょうか。あるいはこれはサタンの惑わしなのでしょうか・・。主よ、真に豊かな人間にならせてください。
2019. 09. 04  
昨日の信仰告白の学び会の中で、おもしろいたとえが浮かびましたので、忘れないうちにメモしておきます。

「子どもと親のカテキズム」の問18を学びました。

問;神さまのかたちに似せて造られた人間は、どのように歩むのですか。

答:神さまを礼拝し、神さまを喜び、家族や友だちを愛し、神さまがお造りになったものを大切にして、神さまに仕えて歩みます。


人間は、「神のかたちに似せて」創造された特別な被造物であります。

神と心を通わせることができて、神がうれしいと思われることを実現する、そういう期待を背負って創造されました。

そして、その神の期待に応える時にこそ、人間という存在は最高に輝くのです。

カテキズム問18に示されているのは、その神の期待です。

このように歩む者として期待され、このように歩む時にこそ命が輝きだす、そういう本来の姿が書かれています。

人間の「取扱い説明書」、あるいは「操縦マニュアル」と言ってもいいと思います。

例えば飛行機なら、この飛行機にはどんな機能があるのか、どんなことができるのか、最高のパフォーマンスを発揮するためにはどういう風に動かすべきなのか・・そういう基本を教えてくれる道しるべです。

ところが、残念ながら人間は罪人に堕落してしまって、この問18に示されているような生き方から遠く離れてしまいました。

操縦マニュアルをすっかり失ってしまって、みんなで好き勝手に運転しています。

それどころか、飛行機なのに、飛ぶことを忘れてしまって、いや、自分が空を飛べるのだということを知らないで、車輪を引っ込めることもなく、ひたすらに地上を走り続けているようなものです。

飛行機なのに、自分は自動車だと思いこんでいたら、おかしいですね。

何のために羽がついてるのか知らずに、「飾りだよ、かっこいいだろ」なんて、ジェットエンジンをまったく生かしきれないで、ひたすら低速でノロノロ運転。

そんなので一般車道を走るのですから、周りの車からは「なんだよ、無駄にでっかいなあ」と邪魔者扱い・・。

いや、そうやって車道を走ってる飛行機ばっかりなのですから、お互い羽がよくぶつかって、いつも接触事故が絶えずにケンカばかり・・。

「神のかたち」としての本来の姿を見失ってしまった人間とは、そういうものかもしれません。

イエス様は、そうやって「失われた者」を、「探して救う」ために来てくださいました(ルカ19:10)。

それは、その人間本来の輝きを回復させるため、ということなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も一人一人の歩みを祝福して下さって、あなたの喜びを自分の喜びとすることができますように導いて下さい。
2019. 09. 03  
配信を再開させていただきます。待っていてくださる方がいらっしゃるのは本当にうれしいことです。

先の主日は、使徒言行録20:7-12より、エウティコ青年の生き返りの奇跡についての記事を分かち合いました。

居眠りして3階から落ちて死んでしまったというのが、なんとも印象的に記憶に残る記事です。

でも大事なのは、彼が生き返ったということです。それも、主日の礼拝の最中に生き返ったということが大事ですと、申し上げました。

ここにあるのは2000年前の原始教会の、主日礼拝の集会の様子です。

私たちと同じように、パンを裂いて分ち合い、説教者の熱い語りに耳を傾けて、罪の赦しと永遠の命の福音を味わっていたのです。

死人が生き返る。聖書の中には、何度もそういう奇跡が記されますが、それはいずれも終わりの日の復活と永遠の命の喜びの「お味見」のようなものです。

今、私たちの教会の主日礼拝では、死人が生き返ることは無いかもしれない。

でも、永遠の命の「お味見」をさせていただいているのは、同じです。

主日の礼拝がなされるところ、そこには必ず復活の主イエスが臨在なさって、わたしたちに命を注いでくださる、そのように私たちは信じます。

その主の手に触れていただいて、霊的に死んでいた者たちが息を吹き返す。

これもまた、今も変わらず、毎週起こっていることであります。


共に祈りましょう。

主よ、死んでいる者ではなく、永遠の命の喜びに生きる者として歩みたいと願います。この9月から始まる、それぞれの新しい歩みに、信仰と希望と愛を満たしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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