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2019. 09. 28  
今日から四国に出張で、来週水曜日まで配信はお休みします。

明日は徳島教会で説教奉仕、月・火と高知の宿毛に移動し、四国中会教師会の講師として、説教についての講演をさせていただきます。

勝田台教会では歓迎礼拝で、「私たちのメタモルフォーゼ」という説教がなされます。

私は徳島で、マタイ25章のタラントンのたとえから、「『よくやった』と言って下さる神様」と題して説き明かしをします。

人にはそれぞれ賜物の違いがあって、多く与えられている人も、少なく与えられている人もいます。

それは、神様の決めることで、人と比べてひがんでも仕方ないし、天狗になるのもおかしなことです。

それぞれのタラントンには違いがある。それは厳然とした事実です。

でも、どちらにしたって、それらは神様の目には「少しのもの」に過ぎません。

一番多い5タラントンをあずけられた僕にも、「お前は少しのものに忠実だった(21節)」と言われています。

みんな一緒です。神の目には、5だろうが1だろうが関係ない、みんな「少しのもの」です。

大切なのは、それに忠実であるかどうかです。

与えられたものを最大限に生かそうと、精一杯努めた者には「よくやった!!」と、くしゃくしゃにほめてくださって、永遠の御国における「多くの」財産をも、喜んでおゆだねになってくださいます。

私もまた、与えられた働きに忠実に、少ないタラントンをフル稼働して働いてきたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、明日の勝田台教会の歓迎礼拝をゆたかに祝福して下さい。山口陽一先生を通して、あなたの慰めの福音をお語り下さい。礼拝に集いたいと願いながら、体の弱さを覚えている者を、どうか守り支えてください。私たちの家族・友人が、共に集い、イエス・キリストとの出会いの喜びにとらえられますように。わたしたちそれぞれに、「変身」の喜びを与えてくださいますように。
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2019. 09. 27  
次主日の歓迎礼拝に分かち合われる3つの聖書テキスト、その最後はⅡコリント3:18です。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるのです。」

主イエスと同じ姿に「造りかえられていく=姿を変えられていく」、これも私たちの「メタモルフォーゼ」です。


昨日確認した、マルコ9:2のイエス様の変貌の記事がありました。

あの栄光に輝く主イエスのお姿に、私たちも似せられていく。変えられていく、ということです。

東方正教会の流れでは、その救いの神秘を「神化」というまことに大胆不敵な表現で受け止めています。

私たちプロテスタント教会は、地上の人生において「聖化」の道を通らせていただいて、死の時に「完全聖化」され、終わりの時に「栄化」という究極のゴールに至ると考えます。

聖霊が遂行される神の救いとは、そのようにして、愚かで卑しい私という存在を「造りかえて」くださるという、再創造の御業です。


今の自分自身を見ると、嫌になってしまう時があります。かなしくなるほど、惨めになる時もあります。

あるいは、今の自分の周りの人たちを見てもそうです。どうして私たちは、こうも愚かなのだろうと、この関係からもう逃げてしまいたい、人間をやめてしまいたいと思うことさえ、私にはあります。

でも、この私の内にも、確かに聖霊は生きていてくださるのです。

そして、一歩一歩、確実に「聖化」の業を進めてくださり、必ず最後は「栄化」してくださる。

その終わりのゴールの約束を、私は希望とします。

その終わりの時、主イエスの栄光の姿に似せられた私たちが、互いを完全に喜び合い、ほめたたえあい、ひとつになって主を賛美する。

その栄光の礼拝の風景をしっかりと望み見て、今日も、クリスチャンをやめないで生きていきます。


共に祈りましょう。

主よ、栄光に輝くあなたの御姿をあがめます。主よ、私のこの貧しい心と体を、あなたの光でいっぱいに満たしてください。もう、悪いものが何一つ入ってこないまでに。主よ、憐れんでください。
2019. 09. 26  
次主日に分かち合われる2つ目の聖書テキストは、マルコ9:2-3です。

「六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

このイエス様の「変貌=メタモルフォーゼ」。

これは聖書の歴史において、特別な転換期にいつも与えられる超自然的な幻の、ひとつのあらわれです。

神様が三人の弟子たちに特別に見させてくださった光景です。

ペトロが書いたとされるⅡペトロ1:16から、こういう御言葉があります。

「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。

わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。

わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」

この出来事こそが、まさに今日の記事に記されていることです。

これは、イエスという方がまさに神が遣わされたメシアであって、力と権威に満ちた方であるということを明らかにしてくださった、特別な神からの啓示でした。

この救い主の命に結ばれた者は、やがて終わりの時に、彼と同じように「白い衣」を着せていただき(黙示録3:5、4:4、6:11、7:9など)、

「お前はわたしの愛する子。わたしの心にかなう、お気に入りの者。お前はわたしの宝!!」という、大いなる父の声を聞くのです。


共に祈りましょう。

栄光に輝く主イエスよ。あなたが今日も天にあって生きておられ、聖霊において私たちと共に歩んでくださる。そのことが、私の慰め、希望、勇気です。主よ、白い衣を着させていただくその日まで、この罪深い者を導き、きよめてください。
2019. 09. 25  
昨日は休暇でしたので、配信をお休みしました。すみません。

次主日は、山口陽一先生をお迎えしての歓迎礼拝です。「私たちのメタモルフォーゼ」という興味深いタイトル。

三か所の聖書テキストが指定されていますが、その一つがローマ12:1-2です。

特に2節が大事でしょう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

新改訳2017ではこうです。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

私たちにとって「メタモルフォーゼ=変化、変身」とは、このように、神の御心にぴったりくる者として、自分が変えられていくことです。

私も日々、変化と成長を求め、「あなたの御心が、わたしの心となりますように」と祈ってます。

今日のローマ12:2でおもしろいのは、「自分を変えていただく」と、受身形になっていることです。

聖霊によって「変えていただく」のです。自力ではできません。

でも同時に、「心を新たにすることで」とあるように、私たちのほうでも、心の向きを変えて、新しくされることを望むことも必要です。

聖霊が働かれる時というのは、そういう私たちの熱心を必ず起こされるのです。

ボーっとしている間に、変身させられているということはありえません。

だから、恵みの導き100%であるのと同時に、私たちの熱心も100%、その両方が与えられて、私たちは「自分を変えていただく」ことができるのです。


共に祈りましょう。

主よ、歓迎礼拝を楽しみにしています。私たち自身を、あなたの御言葉によって変えてください。また、私たちの家族や友人、来会されるすべての人に、恵みの変身が与えられますように。
2019. 09. 20  
次主日は使徒言行録26:19-32を分かち合いますが、その直前の12-18節に、パウロの回心の証しがあります。

彼は天からの光を見たといいます。それは真昼の太陽よりも明るく輝く、根源的な光であったと証言しています(13節)。

それが、復活の主イエスの栄光でした。パウロたちは、この光に圧倒されて地面に打ち倒れました。

そのとき声が聞こえた「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか。」

そして面白い言葉が続いていますね「とげの付いた棒をけると、ひどい目にあう。」(14節)

これはこの当時の格言でして、自分よりも大きな力に逆らうのは無益だという意味です。要するに、私にこれ以上歯向かうな!!

こういうイエス・キリストの圧倒的な権威と栄光によって、打ちのめされ、イエス様に降参した。私はイエスに支配された。それがパウロの証しなんですね。


これは非常に興味深いことです。

教会では様々な機会に、「証し(入信記)」を聞かせていただくことがありますが、なかなかこのように、「自分はイエスに負けた」という証しをなさる方はいない。

でも、私たちが信仰を持つときというのは、誰でもこのような敗北を経験するものです。

私たちというのは傲慢ですから、神様、イエス様を、「自分」の枠の中に取り込もうとしてしまうものです。

聖書の教えを読んでも、自分の考えに合うことだけを受け入れて、他は耳に入らない。

「難しいことは知らない。私にとっての神様はこういう方なの。それで十分だ」と、自分本位な、自分なりの信仰の教祖となってしまう。

でも本当の神体験というのは、そういう意固地で自分勝手な私たちの枠組みそのものを、外側からぶちこわしてしまうものです。

今まで正しいと信じ込んでいたことが、間違っていたと知る、今までとまったく違うものの見方が示される。

それが本当の神体験、イエスとの出会いです。


共に祈りましょう。

主よ、どこまでも自分本位な私を砕いてください。そして、今まで味わったことのないような信仰の喜びの世界を開いてください。
2019. 09. 19  
次の主日は、使徒言行録26章を分かち合いますが、これは先主日の24章の記事から2年後のことです。

総督フェリクスのもとで2年間も放置されるようにして、パウロは監禁されていました。

新しく交代した総督フェストゥスのもとで、また事態が動き出します(25章)。

再びユダヤの祭司長たちが罪状を訴えますが、やはり立証することはできません。しかし、ユダヤ人の機嫌をとりたい新総督は、パウロをエルサレムに引き渡そうとします。

そこでパウロは、皇帝に上訴するという行動に出ました。

それゆえに、護送されてローマに向かうことになります。こういう形で、ローマへの道が開かれたのです。神の摂理の不思議です。


さて26章は、アグリッパ王の前でのパウロの弁明を記します。

この人は「ヘロデ・アグリッパ2世」です。ガリラヤ・ペレア地方の王という称号をローマからゆるされていました。

ヘロデ王家の最後の王でもあるのですが、ヘロデ王家といえば、キリスト教とは切っても切れない因縁のあいだがらです。

①クリスマスの物語に登場します、あの残虐な「ヘロデ大王」は、この人のひいおじいさんになります。

②その次に出てくるヘロデは、イエス様の裁判の時に出てきて、主をなぶりものにしたあのヘロデです。あのヘロデは、「ヘロデ・アンティパス」。

今話をしているアグリッパ2世にとって、大叔父にあたります。

③そして、もう一人いました、使徒言行録12章にもヘロデ王が出てきます。

この人は、使徒ヤコブの首を切ったり、ペトロを逮捕したり、最終的には演説の最中に天使に打たれて絶命して、うじに食い荒らされて息絶えたとありました。

あのヘロデ王は、「ヘロデ・アグリッパ1世」、アグリッパ2世のお父さんです。


そんな具合に、いずれも残虐非道なキリストの敵として、世の闇を象徴するような存在として登場した三人のヘロデ王。

彼らに続く四代目の前にパウロは立ち、堂々と福音を宣べ伝えます。

悪しき力はどれほどに強大でも、やがては自滅します。不滅の福音の光のみが、最後まで輝くのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのまことの王よ、今日もあなたの守りの中に置いてください。体を弱めている者、台風の被害の大きい者、思いがけない出来事に不安や動揺の大きい者に、イエス・キリストにある信仰と希望と愛を満たし、平安を与えてください。



2019. 09. 18  
先の主日は、使徒言行録24章を分かち合いました。

総督フェリクスの前での裁判において、パウロが無実を弁明しているところでした。

特に注目したのは24節以下のところ。

話を聞きに来たフェリクス夫妻に対して、パウロが「正義と節制と来たるべき裁き」について話したというところ。

その結果どうなったかというと、悪名高いこの夫妻は後ろめたさを覚えて、「恐ろしく」なったとあります。


ここで面白いのは、地上の現実における裁判と、「来たるべき裁き」すなわち、最後の審判の対比です。

パウロは今、現実の法廷において生々しく争っている。

しかし、彼の意識はそこにではなく、最後の審判のほうにあります。

フェリクスは暗に賄賂を求めていましたから、パウロとしては彼に取り入って、裁判を有利に進めることもできました。

でも、いつも最後の審判を意識しているパウロには、そんな選択肢はありえなかった。

完全無欠にはなれないけど、すべてを見ておられる神の御前で、良心の責められるところのないように、最善を尽くして生きていきたい。


神は、パウロの無実を知っていてくださいます。

そしてキリストという弁護者が、最後の審判における彼の「無罪」を勝ち取ってくださいました。

だから、その神の御前で、この地上において最善を尽くす。その結果、たとえ地上の裁判で敗訴してもかまわない。

そういう生き方があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私の道筋をまっすぐにしてください。悪しき力に囲まれても、動揺せず、ただキリストに信頼し、自分の歩んできた道を曲げてしまうことのないように。
2019. 09. 17  
先主日に分かち合った使徒言行録24:16の、パウロの言葉を振り返っています。

「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」

「責められることのない良心を絶えず保つ」、言い換えれば、後ろめたさのない歩みをする。

これがパウロの人生の指針であったことでしょう。

とはいえ、それが不可能だということも、一番知っていたのはパウロだったはずです。

良心、これはやっかいなものです。

自分には責められることはない、自分の主張は絶対に正しいと確信するなら、その瞬間から何かがわたしたちのうちで壊れ始めます。

自分が正しいと思いこんでいる人ほど、恐ろしいものはありません。


でも、多くの場合、そういう状態になっている人は、自覚がありません。

今もこれを読んでいたとしても、「そう、あの人のこと!!」とは思っても、自分のことだとは思わないことでしょう。

かくいう私自身が、他者から見れば、自分の主張を押し通そうとする恐るべき者に映っているかもしれません。

みんなが、みんなが、主の御前で、そのことに気付けたら・・・。


共に祈りましょう。

主よ、願わくは、私たちが気づかずに犯している罪から離れさせてください。盲目な私の願いではなく、あなたの御心がなりますように。そして、私たちに愛をください。
2019. 09. 14  
今週は、いろんなことがありました。

台風による停電などのダメージを強く受けておられる方がいます。

親類の葬儀で、心身共に疲れている方もおられます。

体の弱さを嘆きながら、明日の礼拝に集いたいと切実に願っている方もおられます。

そういう皆さんとともに、今週発見した祈りの言葉を分かち合いたいと思います。

歴代誌下20:12の、ヨシャファト王の祈りです。

モアブとアンモンの大軍が攻めて来るのを前にして、おのれの無力を嘆き、王は祈ります。

「わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか。わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」


「何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません。」

あまりにも弱々しい祈りです。でも、これが私たちの真実の姿なのだと思います。

この祈りに対し、主の霊を受けた者が言いました。

「よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。(15節)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちは自分自身の弱さを痛感させられています。しかし、この体も魂も、あなたのもの。私たち以上に、私たちを大切なものとして扱っていてくださるあなたに、すべてをおゆだねいたします。私たちには、ただ、あなたを仰ぐことしかできません。
2019. 09. 13  
次主日は、使徒言行録の24章全体から分かち合うと予告しています。

その中でも、特に注目したいのは24節以降です。1-23節については、できるだけ簡略にお伝えしたいと思います。

ですから、前もってよく理解しておいていただければ幸いです。


ここは、総督フェリクスの前での裁判の記録です。訴えられているのはパウロです。

訴えの内容は、3つです。

●第1に、この男は世界中至る所で騒ぎを起こす危険人物で、疫病のような男だ。

●第2に、ナザレ人の分派の首領だ。つまり、ナザレのイエスを信奉する過激な異端グループのリーダーだ。

●第3に、神殿さえも汚そうとする冒涜者である、ということです。


それに対するパウロの弁明も、3つです。

●第1に、世界中を乱す者などというのは嘘八百であって、誰かと論争したり、群集を扇動したりなどしたことはない。

エルサレムに来たのも、あくまで礼拝のため、また同胞に救援金を渡すため(17節)であって、ローマの平和を乱すためでは断じてない。

●第2に、確かに自分はイエス・キリストの弟子であるが、それは決して異端的な教えではない。

むしろ我々こそが、聖書に忠実に生き、死者の復活を信じ、ユダヤ教の本当の精神を実現するものである。

●第3に、神殿を汚そうとしたどころか、自分は供え物をささげて清めの式にあずかるために神殿に行ったのである(17節)。


以上のように整理をして読んでいただくと、読みやすいかと思います。ぜひ、前もって読んでおいてください。

イエス様と同じように、パウロも無実の罪で訴えられているのです。

無実であるのに、不当な追及を受けて苦しむダビデの、その悲しみを歌う嘆きの詩が、詩編35編にあります。

その嘆きの日々を支えているのは、主はすべてを見ておられ、私の正しさを知っておられるという確信です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの前で決して正しくはありえない私たちですが、しかし願わくは、だれも見ていないところでも、あなたの前で、恥じない生活を送ることができますように。主よ、そのように歩む力を与えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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