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2019. 10. 26  
昨日は思いがけない大雨でした。皆さまの御自宅周辺は大丈夫でしたでしょうか。

先の台風で被災された方々に、追い打ちをかけるような状況でもあり、主の憐れみを願います。

このようなことをとおして、主は私たちに何を語りかけようとしておられるのか。人間の現実と向き合い、自らと向き合い、聖書を通して、御言葉にしっかり耳を傾けたいと思います。

なお、来週は改革派教会の大会会議がありますので、配信はお休みいたします。


明日は詩編46篇、11節の御言葉も有名です。

「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」

「力を捨てよ」は、「静まれ、落ち着け」と訳されることもあります。

出エジプト14:13で、海を渡る直前にモーセが人々に語ったこの言葉、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」、この「落ち着いて」と同じ言葉です。

それは、興奮を静めるというようなことではなく、何かを捨てる・放棄するという意味だとされます。

「神認識には放棄が要求される」と、左近淑という旧約学者が解説しています。

あなたの無力を認め、すべてを神様に明け渡しなさいというのです。

そのときはじめて、神がほんとうに神であることを知る、ということも起こります。

神に存分に働いていただくには、いろんなものを捨てて、スペースを空けないといけないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが本当に力ある神であることを、私たちがよくよく知ることができますように。思いを超えて、あなたの恵みの御業を今日も行ってください。
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2019. 10. 25  
次主日は詩編46篇を分かち合いますが、この詩編を読むと思い出すのが、東日本大震災の時のことです。

当時の大会議長の吉田隆牧師が、大きな痛みを味わっている仙台の地から、全教会に向けて、搾り出すようにして言葉を送ってくださいました。

その中で詩篇46篇を引きながら、このように言っておられました。
  
「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩編46:3-4)という出来事が、比喩ではなく事実として立ちはだかった時、さらには詩人には思いも及ばなかった放射能の拡散という異常事態に直面している時に、

依然として「神はわたしたちの避けどころ…わたしたちは決して恐れない」(同46:2-3)と告白できるか。

私たちはその信仰の試練に立たされています。」


・・・詩篇46篇は、そういう歌です。

世界そのものが根底からひっくりかえったような、激しい信仰の試練を味わいながら、なおそこで神への信頼に生きる。

いやむしろ、すべての人間的な力が失われてしまったがゆえに、無力を思い知らされたがゆえに、はじめてそこから、神へのまことの信頼に生き始めた。

そういう人が、「わたしたちは、もう恐れない」と信仰告白しているのです。

そしてこのように続きます。

「 大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」

夜明けとともに神は助けをお与えになる。

この神の約束を信じなさい。神が開いてくださる希望の夜明けを信じなさいと、いつでも私たちは招かれています。


共に祈りましょう。

主よ、今日も暗い気持ちで朝を迎えた人がいるかもしれません。そのような者を憐れんでくださり、魂の夜明けへと導いて下さい。私たちはまことに揺らぐ者です。無力な者です。だからこそ主よ、あなただけが頼りです。主よ、今日も共にいてください。
2019. 10. 24  
次主日は、宗教改革記念日礼拝ということで、詩編46篇を分かち合います。

マルチン・ルターの讃美歌「神はわがやぐら(284番)」の基となっている、有名な信頼の歌です。

2節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」

「苦難のとき、必ずそこにいてくださる・・・」私たちは、このように信じています。

詩編145:18-19にはこうあります。

「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます。」

詩編34:18-19にはこうあります。

「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。

主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることがない。」

そして、新約聖書のフィリピ4:4-7にこうあります。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」


このようにして、「神はすぐ近くにいてくださる。苦難のとき、必ずそこにいてくださる」と、神の民は信じて、勇気と平安をもって生きて来たのです。

共に祈りましょう。

主よ、あなたが共にいて下さる、それが私たちのすべてです。主よ、今日がどんな一日なのか、あなたが知っていてくださいますから、あなたに道案内をおゆだねします。死の陰の谷を行く時も、共にいてくださって、助けてください。
2019. 10. 23  
昨日は教師会の一泊研修会に出かけていて、配信をお休みしました。

折しも、新天皇の即位の日ということで、厳戒態勢が敷かれたり、巷では異様なムードだったようですね。

神道儀式の一番ディープなところは一般公開されないので分かりにくいですが、天皇という存在が極めて宗教的な存在だということが明らかになったと思います。

そのようなものを「国家統合の象徴」として持つという点が、日本という国の際立った特殊性です。

先日、サウジアラビアに駐在された方から、かの国におけるイスラム原理主義による国家統治の徹底という特殊性を教えていただきましたが、日本という国もまた特殊な宗教国家なのです。

今日の日本で、そういうことを意識しているのは、国家神道体制の復興を願う人たちくらいかもしれませんが、その怨念にも似た願望が、今また、この国のかたちを歪めつつあります。

それは、まさしく、この国に働いている悪霊の力です。

私たちはキリスト者として、日本という国の特殊性をよく認識し、天皇という存在の偶像性を見抜き、まことの崇拝の対象である主イエス・キリストをまっすぐに見上げたいと思います。

エフェソ書2:1-6を分ち合って、共に祈りましょう。

ここにあるように、私たちはかつてはこの国にあって、無自覚のうちにも悪霊的な支配の中にいて「死んでいた」のですが、今は、キリストと共に生きる者とされたのです。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。

しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」


神よ、あなたに背き続けてきたこの異教の国を憐れみ、悔い改めへと導いて下さい。このあまりに特殊な国に、あなたを知る知識が満ち、キリストと共に生きる喜びをみなが知り、信仰と希望と愛に生きる人が増し加えられますように。
2019. 10. 18  
次主日はローマ2:1-16を分かち合いますが、ここのポイントとなるのは「裁く」ということです。

裁く、ジャッジする。私たちは、他者の振る舞いを見て、「よい、よくない」とふるいわけることしばしばです。

しかし、そうやって他者をジャッジしているあなた自身が、神によってジャッジされていると、パウロは教えてくれます。

神様からすれば、「何様のつもりだ」ということでしょう。

あなたも同じことをしているではないか・・・、そう問われているのです。


私たちは同じことをしているのでしょうか?

クリスチャンの方は自分が罪人だと言っているけど、この乱れ切った社会にあって、品行方正ないい人たちばかりではないですか。それなのに、毎週毎週、罪の告白をして・・。自分にはまだそれが受け入れられないと、伝えて下さった方がいました。

そう感じるのももっともでしょう。そういう方にとっては、「自分も同じことをしている」とは、まだとても思えないのだと思います。

でも不思議なことに、信仰の理解が増して、人格的にも成熟し、倫理的・道徳的にも高められていくほどに、罪の自覚が深まって、「同じことをしている」と思わざるを得なくなっていく。

それが、キリスト者としての成熟というものであるようです。

それは、誰であれ、真実を見通される永遠の神の裁きの前では、みんな「同じ」ということを悟るからでもあります。

みんな同じです。だれも、その裁きには耐えられない。

しかし、その私たちのために、イエス・キリストという救い主が与えられました。

キリストを信じるなら、ただそれだけで、義とされる。このことも、みんな同じです。そこには何の差別もありません。

これが、福音というものです。


共に祈りましょう。

主よ、どんぐりの背比べのような私たちです。だれかを見下すことで、自分の正しさを確かめようとするような、愚かな心から、私を解放してください。私たちが、みんなで同じ罪を犯してしまうのではなく、成熟の道をいっしょに歩んでいくことができますように。



2019. 10. 17  
次の主日はローマ2:1-16を分かち合います。

その初めはこうです。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」

「弁解の余地はない」、すなわち、言い訳は立たない。

この言葉は珍しくて、こことローマ1:20の二回しか用いられていません。

1:20は、「・・神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」とあります。

これは、神に背くような乱れ切った異邦人社会を糾弾する言葉です。

ギリシア人であれ、日本人であれ、聖書の神を知らずに生きている異邦人ですが、たとえ聖書を読まずとも、神についてある程度知り得るほどのことが、この被造世界には示されています。

大自然に圧倒されることで、なんとなく「神々しさ」を覚えて祈ったりするのです。

だから、「神様がいるなんて知らなかったから・・」などとの言い訳は立たない、というのです。

ひるがえって2:1からは、「人を裁く者」たちへの呼びかけです。

それは、神の民と自認しておごっているユダヤ人のことを指すと言われます。

1:20では異邦人たちに言われたように、今度はユダヤ人に対しても「言い訳はできない」と言うのです。

自分のことは棚に上げて、神から遠く離れた愚かな世界よ、滅びてしまえなどと言ってる場合じゃない。

あなた自身が問われているのですよ。

「いや、わたしはずっと神様のことを知っているのだから・・」との言い訳は立たない。

大事なのは、あなたが神の御心に生きるかどうかだと、この後迫られていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちそれぞれに、他人を裁きながら、自分を棚に上げているような愚かな者です。主よ、言い訳さえもできないものです。キリストのゆえに、あなたの恵みによって今日もきよめてください。
2019. 10. 16  
次の主日はローマ2:1-16を分かち合います。その前の段落である1:18-32には、人類の罪に対する神様の「怒り」について記されています。

「怒り」というのは、愛情の裏返しであります。

自分にまったく興味のない芸能界のスキャンダルには、あきれはしても、怒りは感じません。

神は、私たちの間違った振る舞いに怒りを覚えられます。それは、関係者だからです。責任があるのです。


私たち人類の罪は、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」と、1:21にあります。

教会に来たことがなくても、神様のことをまったく知らない人などいないのです。

でも、うすうす知っていながらも、ちゃんと神様と向き合うことから逃げ回っていたり、神様をふさわしくお取り扱いせず、勝手な神々を自分勝手にこしらえて、宗教的欲求を手軽に満たしているのです。

そこでは、神様の下に自分を置くのではなく、自分の下に神を置くという、根源的な倒錯状態があります。

そこがサカサマだから、生き方もサカサマになります。

そうして、24-32節では、サカサマな人間たちの、倫理も道徳もひっくりかえってしまった社会の問題が描かれます。

これは、古代のローマ社会を糾弾する言葉ですが、現代にもそのまま通用します。

そういう社会を見つめながら、「神は、お怒りになってしまわれて、ほったらかしにされているのだと・・」とパウロは悟っていたのです。

24節、26節、28節に、「神が彼らを罪深い思いに、引き渡された」という表現が繰り返されます。

くだらない心のままに、落ちるところまで落ちていけと、ほったらかしておられるということです。

そうして落ちていく人間に、静かな怒りを覚えながら、神はじっと忍耐し、見守っておられます。

それは、放蕩息子の悔い改めをじっと待っている、父親の愛情と、表裏一体です。

落ちるところまで落ちねば、人は、悔い改めることができないからです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの怒りに気付きもせず、あるいはそれを知らないふりをしながら、過ちを重ね続ける私たちの時代を赦してください。まずは、私が、あなたとのサカサマな関係をただすことができますように、聖霊の助けをください。
2019. 10. 15  
昨日は、私の友人である石川ヨナさんのライブで、ぜいたくな一時間を過ごしました。

台風19号の大きな被害に苦しむ人たちがいる中で、今自分たちに与えられた命の意味を問い、神からの「生きろ」との声を明確に覚えた時間でした。

ヨナさんは、クリスチャンロックミュージシャンとして、改革派信仰に基づく独特の言語世界をもって、この萎えた時代にどこまでも希望のメッセージを発し続けようと、戦っている人です。

命の水の水源は、もうすぐそこにあるから、だから信じて井戸を掘れ!!、などと歌うのです。

それは、歌という仕方での説教であり、叫びという仕方での祈りであり、私は彼女と共にまぎれもなく礼拝体験をしたと感じています。


「流れ星ひとつ願うなら、御心がなるようにと祈れますように。弱き私のそばにいて、思いと言葉とすべてを支えておくれ。

こぼれ落ちそうな想いを御手にゆだねて、星空にこの祈りよ、届けーーー!!・・・・」

細身の体をしぼりあげるようにして叫ぶ彼女の祈りと共に、私の魂は天の高みへと引き上げられました。

そのとき、祈りを聞いて下さる主イエスが、確かに私たちのそばにいてくださいました。

イエス・キリストとの神秘的結合。

私の言葉が貧しすぎて、言葉にするたびに、あの喜びがひとつひとつこぼれていくのが残念でなりません。

永遠に触れたとしか言いようがない。いや、触れられたのです。

渇いた魂に命の水が注がれて、それでも私は牧師をしたいと、もう一度、自分の声を聞きました。


「声」というものの大切さということも、改めて考えさせられました。

声は空気をふるわせながら、発する者の命を届けます。

命を削るようにして届けられた声と響き合って、私の体の中の水がゆらめき、よどみが流され、忘れかけていた情熱が沸騰します。

神は、土くれから創造なさった人間に、命の息を吹き入れて、「生きる者」としてくださいました。

今も、歌をとおし、礼拝説教を通し、神は小さな存在の「声」を用いながら、命を吹き入れてくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたの御心がなりますように。今、憔悴しきっている方を慰めてください。それができるのはあなただけです。主よ、助けてください。自分の無力を知った人間を救ってください。


2019. 10. 11  
昨日から「神の義」について考えています。ヒントとなるのは、旧約聖書イザヤ51:4-5です。

「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。

教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に、わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。

わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。

島々はわたしに望みをおき、わたしの腕を待ち望む。」


ここで「“わたしの正義”は近く」とあるのが、ローマ1:17の「神の義」というのと同じ言葉遣いです。

ここでは「救い」という言葉や、神がさしのべられる救いの「腕」という言葉と、並行的・同義的に使われています。

「裁き」という言葉もありますが、これは「支配、秩序、取り仕切り」というニュアンスが強いので、イエス様が「神の国が近づいた!!」と言われたのと同じことが言われていると、わたしは考えます。

それらのことを考えあわせますと、このイザヤ書の言葉は、イエス・キリストの到来の預言に他なりません。

「“教え”はわたしのもとから出る」と言われます。

この「教え」は、トーラーという語であり、神の民にとって命よりも大切な「神の御言葉」のことです。

その神の言葉が、人間となってきてくださった方が、イエス・キリストでした(ヨハネ1:1)。

神のもとから出て、私たち罪人に神の御心のすべてを明らかにしてくださった、神の「教え」そのものである方、イエス様。

その方が到来するその時、それが「神の義」が現われ、「救い」が現われ、全世界に神の救いの「腕」が差し伸べられる・・・。

そういう預言なのです。そういう預言が成就したと、新約聖書は伝えているのです。


共に祈りましょう。

主よ、大変に大きな台風が近づいています。しかしこのような災害を、あなたの怒りと呪いとして考える必要のないことを、今や私たちは知っていますから感謝します。あなたはイエス・キリストを与えてくださり、大いなる慈しみを明らかにしてくださいました。ですから、どんな時も、私たちを愛によって導いてくださるあなたの御腕に信頼します。しかし主よ、わたしたちは本当に無力な者です。どうか憐れみ助けてください。
2019. 10. 10  
次主日はローマ1:16-17を分かち合いますが、鍵になるのは「神の義」という言葉です。

「福音には神の義が啓示されている」と言われています。

これはとても意味領域の広い語で、どうにも翻訳しきれないので、あいまいなまま「義」という言葉で残してあるのだと思います。

聖書に独特の言葉遣いで、だれもが分かっているようで本当はよく分かっていない・・、そういう言葉かもしれません。

パウロはユダヤ人なので、彼の根本的な思想は、旧約聖書の教えに基いています。

旧約聖書の言葉遣いによれば、この「義(=ヘブライ語でツェデク、ツェダカー)」というのは、「救い、慈しみ、まこと」などという言葉と、並行的・同義的に用いられたりします。

例えば、詩編98:2-3「主は“救い”を示し、“恵みの御業”を諸国の民の目に現わし、イスラエルの家に対する“慈しみ”と“まこと”を御心に留められた。」

ここで、「恵みの御業」と訳されているのが「義:ツェダカー」です。

新共同訳では、旧約聖書のほとんど(確か、詩編では全部)で、「恵みの御業」と訳されています。

そういうことから考えて、ローマ1:17の「神の義」とは、ほとんど「神の救い」と言ってもよいと考える人もいます。

「神の慈悲、慈愛」と訳すことを提案する人もいます。

以前に私が試訳したときに、この「神の義」とは「罪に歪んでしまった世界をまっすぐに回復しようとなさる神の責任感」と、試みに定義してみましたのは、そういう理解に基づくものです。


共に祈りましょう。

主よ、福音に啓示されているあなたの義を知ることに比べたら、誰がどうしたこうしたとか、私たちがこの愚かな現実においてこだわっている一切は、実にくだらん、どうでもいいと思えてきました。主よ、あなたのツェダカーを、もっと広く深く教えてください。この魂を、永遠の高みに引き上げてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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