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2019. 11. 29  
次主日はイザヤ52:1-12より分かち合い、アドベントを迎えたいと思います。

この預言は、メシア預言として取り上げられることは少ないですが、読めば読むほどイエス・キリストが立ち上がってきます。

メシア預言はどれかと数えるより、むしろ、イザヤ書の全体がイエス様を指し示している。

もっと根本的には、旧約聖書の全体がイエス様を指し示しています。

聖書に慣れてくると、どこを読んでいても、ああ、イエス様のことを言っている・・と感じるようになってきます。

イザヤ52章では「神が王となられる」「主がシオンに帰られる」というところが、特にそうです。

全世界に君臨するまことの王として生まれてきてくださったイエスの、エルサレムへの到来。それは、福音書の示すメッセージです。

イザヤ40:10-11にはこうあります。

「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。・・主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

このような王です。よき羊飼いとしての王。イエスです。

他にも、皆さんに確認しておいていただきたい箇所がいくつもあります。

たとえば、イザヤ51:4-5と、ヨハネ福音書のプロローグを比較してみてください。

また、イザヤ51:22にある「憤りの杯」ということを考えながら、ルカ22:39からのゲツセマネの祈りを読んでください。

そして、イザヤ52章の後には、53章の「苦難のしもべの歌」が来るということの意味を、考えておいてください。


共に祈りましょう。

主よ、あわただしく過ぎていく日々の中、今週も早くも金曜日です。それぞれの働き、学び、生活を、キリストの恵みの支配のもとに導いてください。そして御言葉によって、それぞれの魂をキリストへと結びつけてください。

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2019. 11. 28  
次主日よりアドベント(待降節)が始まります。

イザヤ52:1-12を分かち合い、この地に再び来臨し、永遠の平和の支配をもたらしてくださる、王の王なるイエスを待ち望む思いを新たにしたいと願っています。

イザヤ52:6にはこうあります。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる。」

これは、バビロンに捕囚されていたユダヤの民が解放される時に、まさにその時に、「確かに神は生きて、ここにおられる。我らと共におられる」と、民が賛美の声をあげるようになるという約束です。

主なる神はそのようにして、バビロン人などの諸国民の間ですっかり軽んじられてしまった、ご自分の名誉を回復されます。


今、私たちの時代にあっても、大いなる神の御名がすっかり侮られ、神の民が嘆きと苦悩のうちにあるのは同じかもしれません。

ちょうど昨日、詩編74篇を読んでいました。

それは、「神よ、立ち上がって下さい!!」と切実に訴えている叫びの声です。

「どうか・・貧しい人、乏しい人が、御名を賛美することができますように。神よ、立ち上がり、ご自分のために争ってください。神を知らぬ者が、絶えずあなたを嘲っているのを、御心に留めてください。(詩編74:21-22)」

こういう詩編を黙想しながら、まず中国や北朝鮮でのキリスト教会の迫害を思い浮かべました。

それから、香港での混乱をはじめ、世界中で起こっている「底が抜けてしまったような」混沌の現実を思いました。

神よ、我が王よ、立ち上がってください。

あなたの大いなる御腕の力をあらわに示し、地に平和をもたらしてください。

主イエスは、そういう祈りを背負って、かつて来臨してくださり、やがて再び来られるのです。


共に祈りましょう。

主よ、世界を混沌からお救い下さい。すべての者に、新しい心を与えてください。あなたを信じるあなたの民が、どんな時も信仰と希望と愛に生きることができますように。
2019. 11. 27  
次の主日から、いよいよ主を待ち望むアドベントが始まります。

メシアイエスが生まれて来てくださったことの喜びを告げる御言葉、ひとつひとつ丁寧に心に蓄えながら、階段を上っていくような日々です。

かつて地上に生れて来てくださった主が、終わりの時に再び来てくださる時を待ち望む、その希望を新たにする時でもあります。

次主日は、イザヤ52:1-12を分かち合います。

この箇所は、イザヤ書の40-66章全体における素晴らしい二大テーマのクライマックスと言える文章です。

それは、主なる神がシオン(=エルサレム)に帰ってきて「王になられる」こと。

そして、イスラエルがバビロン捕囚の縄目から解放され、約束の地に帰還することです。

この二つの素晴らしい約束を告げる「良い知らせ」、これを「福音」と言います。

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。(イザヤ52:7)」

「福音」とは、元来はここで言われているようなグッドニュース。

まことの王である神御自身が君臨し、約束の地(プロミス・ランド)において私たちを、平和のうちに安らわせてくださる、ということです。

神の民は、その時の到来をずっと待ち望んできたのです。


共に祈りましょう。

主よ、我が王よ、あなたに信頼します。今日も私たちに恵みと平安を与えてください。王の王よ、地上の為政者たちの傲慢をゆるさず、地に平和をもたらしてください。
2019. 11. 26  
勝田台教会では先の主日に会員総会が開かれ、長老・執事の選挙がありました。

新しく長老・執事候補者として選出された兄弟と姉妹のために、祈りをあつくしたいと願います。

小会からの推薦を廃止しましたために、選挙は緊張感を増し、大変に長引きました。

古い会員の方には、「疲れた、前に戻したい」という声もあるかもしれません。特に、ご高齢になると、長時間の会議には耐えられないという思いにもなられることでしょう。

しかし、小会に任せっきりではなく、教会員一人一人が真剣な祈りと責任をもって、自らの教会役員を選び出すということは、教会にとって本当に意義深いことなのです。

それは、使徒言行録に示されている原始教会のありようと同じものです。


使徒言行録6章に、ステファノやフィリポら7人の人が選出されて、役員に任じられた記録があります。

そのとき、教会を代表する12使徒たちは、自分たちでその人選を行い、推薦するということはしませんでした。

「兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい」と、教会員にゆだねました。

そうしてこの7人の選出を、教会は聖霊の導きと信じて、使徒たちは祈って按手をしました。


「評判の良い人」とは、「間違いないと立証されている、定評がある」ということで「証し、証言」という言葉とルーツを同じくします。

彼ら7人は、兄弟たちによる、主の御前での「証言」に基いて選び出された人たちです。

「証言」は、証言する者たちがいい加減なら、無意味です。選ばれた者にも当然責任はありますが、「証言」した者に一層重い責任があります。

だからこそ、選ばれた長老・執事にふさわしい尊敬をもって接し、祈りをもって彼らを支えることが求められるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのなした選挙が、御心にかなうものでありますように。何人もの候補者の名が挙がり、その中から吟味を重ねて、選び出すことがゆるされました。主よ願わくは、選ばれた方々を喜んでくださって、あなたの御用のために聖別してください。
2019. 11. 22  
次主日に分かち合うⅠコリント13章の「愛の賛歌」を思い巡らしています。

全体として、異言や預言という賜物を追い求める霊的エリートたちに対して、「それよりももっと大切なものがある。追い求めるべきは愛である。愛がなければ、それらの賜物は無意味であり、教会にとって益とならない」と伝えたい。

それが、この箇所の本来の文脈です。

4-7節の言葉も、暴走するコリント教会の人たちを立ち止まらせようとする言葉です。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

これとはまったく反対の状態にあったのが、コリント教会の人たちだったからです。

私たちはどうでしょう。


おもしろいことですが、この言葉では、主語は「愛」です。まるで人格をもっているようです。

愛するとは〇〇なことです・・と、道徳的に教えられてはいない。

詩的な表現だと言ってしまえばそれまでですが、考え出すとなんだかおもしろい。

試しに、「愛」の代わりに、自分の名前を入れてみてください。

つらくなりませんか・・。

求めるべきは、私「坂井孝宏」という存在が、まるごと「愛」になることです。ここで言われているのは、それほど本質的なことでしょう。

そのためには、「愛」そのものである存在と、深く結びつくしかないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは愛です。あなたの心と、私の心が一つになりますように。
2019. 11. 21  
次主日はⅠコリント13章に共に聴きます。愛の賛歌と言われる大変有名な箇所です。

多くの人に感動を与えてきたテキストです。

しかしこの手紙の送り手である使徒パウロは、ここで愛一般について、なにか高尚な哲学的思索をしているわけではありません。

それぞれが自己主張強く神に仕えている、極めて具体的で生々しいコリント教会の混乱という現実があって、それを具体的に解決するためには、愛がなきゃだめなのだと訴えているのです。


先の主日に、子どもたちへのメッセージで、「聖書に書かれていることを漢字一文字で表すなら、愛だよ」と申し上げました。

キリスト教とは愛の宗教だとしばしば言われますが、本当にその通りです。

イエスに愛された者たちが、互いに愛し合う。要するにこれが、イエス様の教えです(ヨハネ15:12)。

神様を愛してはいるけど、隣人は無視するというのは、本来ありえません。

祈りや礼拝に集中するのはいいことです。でも、もしもその結果として、礼拝中に隣の人が困っているのに気づかないようなら、何かがおかしい。

それでは結局、神の教え、イエス様の教えを無視していることになる。

パウロは、隣人への愛こそ、聖書のすべてだと言い切りました。

ローマ13:8-10「・・どんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。・・愛は律法を全うするのです。」

神様を愛しなさいという教えを無視しているわけではありません。

そんなのは大前提です。神を愛するのは、クリスチャンなら当たり前です。

でも、互いに愛し合おうとしないなら、神を愛していることにはならないのです。


共に祈りましょう。

主よ、愛を与えてください。まず教会が、真実に互いに愛し合うことができますように。互いに相手をすぐれた者として尊敬し、兄弟愛をもって愛し合うことができますように。
2019. 11. 20  
次の主日は、Ⅰコリント13章の「愛の賛歌」と呼ばれる有名な箇所から共に聴きます。

改めて前後の大きな文脈を見ますと、これは12-14章全体の教えの一部であることが分かります。

全体として何が言われているかといえば、「異言ではなく預言の賜物を求めなさい」ということです。

「異言」とは?

定かではありませんが、そのままでは人には意味の分からないような、ある種の霊的恍惚状態に陥って、不思議な言葉で神様と語らうということがなされたのでしょう。

では「預言」とは?

これもまた霊的現象で、特別な示しを受けて語り出すことですが、「異言」が自分と神のあいだでだけ成立するのに対して、「預言」は他者に向かって語り、「人を造り上げ、慰め、励ます(14:3)」ものです。

だから、「異言」よりも、「預言」の賜物をこそ求めなさいと、教えられます。


昔、神学校時代に、コミュニケーションの難しい方がいらっしゃって、結局去ることになりました。

彼について、このように言う人がいました。「あの人は、神様と親密だと思うけど、自分だけの神様なんだよね・・」

「異言」は、自分と神様だけの親密さを追い求めるために必要かもしれませんが、それでは他者との交わりから遠くなります。

すなわち、愛するということと反対の方に向かいます。

「預言」は他者へと向かう、愛の言葉です。

いや、もっと本質的には、愛がなければ、「預言」は成り立たない。どれだけ雄弁であっても、愛がなければ、空しく過ぎゆく声に過ぎません。

だから、「預言」を求め、愛を求めなさいと教えられているのです。


共に祈りましょう。

主よ、説教者のために祈ります。彼がまことの愛をいただいて、人を造り上げ、慰め、励ます、愛の言葉を取り次ぐことができますように。また、今日もひとりひとりが、出会う方々に、愛の言葉を語ることができますように。
2019. 11. 19  
先の主日は、ローマ12:9-21の愛の教えに聞きました。

「愛には偽りがあってはならない」と言われました。

「偽り=偽善」という言葉。すなわち、自分可愛さのゆえに、人の評価を得るためになすような偽善ではいけない。

しかし私たちは、そういう「偽り」から完全に自由になることはできません。

いっそ、「情けは人のためならず。全部、自分のためだ。自分のために、人を大切にするんだ」と、いっそ開き直ってしまったほうが、愛の業が進展するのかもしれない。

でも、私たちクリスチャンは、十字架の主イエスの「偽りのない愛」を知っていますから、それを追い求めていきたいですねと、お伝えしました。

ただ私たちのために、すべてをささげてくださった十字架の主を想い起し、その主と共に、自分が死ぬことが必要です。

十字架の主と共に、死なせていただく。

自分可愛さに満ちた、自分のことばかり考えている自分が死ぬ。死なせてくださるのが、主の救いです。

徹底して死に切る時に、徹底して愛が動き出します。

私たちの課題は、新しい家を建て上げていく前に、まず、古い家をきれいに壊していくことなのだと、岡田稔先生も言っていました。

主よ、自分を死なせてください・・・こんな祈りが私たちから出てくる。これがもうすでに、聖霊の恵みの御業の始まりなのです。


共に祈りましょう。

主よ、自分を死なせてください。イエス・キリストの心が私の心になりますように。
2019. 11. 16  

土曜日には「来てください、沈むことのない光」という本より、初期教会のキリスト者たちの言葉を紹介してきました。

今日はオリゲネスの言葉を紹介します。185~253年頃まで活躍し、エジプトのアレクサンドリアで偉大な業績を収めた教父です。

**************
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)

いつの日か罪が取り除かれるけれども、まだ取り除かれずにいるというのではありません。

また、かつて罪が取り除かれたけれども、もうそれ以上取り除かれないというのでもありません。

その方は、今このとき、この世に生きる一人一人の罪を取り除いておられるのです。

世の罪がすべて取り除かれるその日まで。

そうして、世の罪がすべて取り除かれるとき、救い主はご自分の父に御国を手渡されるでしょう。

御父は、そこからいかなる小さな罪も見えなくなるまでは、御国をお受け取りにはならないからです。
2019. 11. 14  
詩編の祈りに心を合わせて、皆さんといっしょにお祈りをささげています。今日は詩編31篇です。

「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。わたしは空しい偶像に頼る者を憎み、主に信頼します。(詩編31:6-7)」

主よ、憐れんでください。苦しむ者を憐れんでください。

魂が疲れ果て、体を動かすことの出来ない者もいます。

目は弱り、骨が衰え、年老いた自分を嘆く者もいます。

人間関係の難しさに苦悩している者もいます。悪意の込められたささやき声に、心が壊れそうになります。

しかし神様、私はあなたに信頼します。

神様、わたしの神様、慈しみ深く私をお救い下さい。

あなたが私の苦しみを見ていてくださるから、わたしの魂の悩みを知っていてくださるから、あなたにすべてをおゆだねします。

生まれる前から私を導いてくださった神様、あなたの手の中に、私のすべての時間はあります。

私に起こることはすべてあなたにかかっているのです。

あなたの慈しみ深い御旨に、すべてをおゆだねします。

何があろうとも、私はそれをそのまま受け入れることを望みます。

主よ、この心が強く雄々しくあれますように、あなたの慈しみによって支えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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