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2019. 12. 31  
2019年も最後の一日となりました。この配信も、なんとか最後まで継続することができました。

楽しみに待っていてくださる方々の存在が励みになりました。いっしょに祈ってくださって、本当にありがとうございました。

今週はお休みをいただいて、来週1月7日(火)から再開したいと思っています。

先の主日は、今年最後の礼拝ということで、「御心がなりますように」という祈りを思い巡らしました。

神は偉大なお方です。神の御心は、あまりに深く広く、私たちにはとらえられない。

でも、信じる者たちの救いのために必ず万事を益としてくださいます。私たちは、いつでもそのように信じているのです、

その最後に引用したのは、詩編37篇の御言葉でした。

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる(詩編37:23-24)」。

今年、自分は「倒れた」と自覚しておられる方もいらっしゃると思います。

文字通りに転倒なさって、ケガを負われた方々のことを心配することもありました。

元気を奪われてしまった方のことを、静かに祈りに覚えることもありました。

思うように事が進まず、暗い気持ちになったこともありました。

でも、主がその手をとらえていてくださる。だから、どんなことがあっても大丈夫。

この素朴な信仰に生かされてきた2019年でした。

私たちのために、その独り子さえ惜しまず死に渡された方が、その他のすべてのことを備えてくださらないわけがない。


共に祈りましょう。

主よ、この一年の間、不信仰な私たちに、信仰と希望と愛を与えてくださって、豊かな歩みをなさせてくださったことを本当に感謝します。新しい年にも、あなたの恵みの導きを信じています。すべてのことを通して、ただあなたの御栄光が表されますように。
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2019. 12. 27  
「御心」をキーワードに聖書をめくると、いろんな御言葉が思い出されます。

ヤコブ4:14には、こんな印象的な教えがあります。

「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。

むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」

一秒先に何が待っているのか・・・。

自動車で事故をしてしまった時や、転んでケガをしてしまった時などに思います。一秒先のことも、私たちには分からないと。

先日、「将来の計画は立てますか?」という質問をいただいたのですが、悩んでしまいました。

もちろん、このようにしていきたいというヴィジョンはあります。

でも人生を振り返ってみると、まったく自分でも思いもよらなかった道を次々に示されて、今に至ります。

熊本で奉仕をすることも、千葉に移ることも、そもそも牧師になるなどという計画は、若き日の私にはありえなかった。

願っていたけど閉ざされた道もたくさんありました。

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる(箴言16:9、他に19:21,20:24も参照)」とある通りです。

あるいは、このようにも言われます。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。

天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:8-9)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまことに小さく、何も分からぬ者です。あなたにすべてをおゆだねします。今日も、いと高き、正しき、あなたの御心がなりますように。
2019. 12. 26  
今朝は大変寝坊をしてしまいまして、申し訳ありません。

次の主日は、今年最後の礼拝です。いろいろと祈って思い巡らした結果、「御心がなりますように」という祈りを分かち合いたいと思いました。

私たちが生涯で何千回と繰り返し祈ってきた「主の祈り」にも、この祈りがあります。

この祈りこそ、主の祈りの頂点であると言う人さえいます。

今日は、ハイデルベルク信仰問答の主の祈りの解説を確認しましょう。

問124 第三の願いは何ですか。答 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。

すなわち、わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください、
  
そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。
 
これが伝統的な解釈です。今この私たちの心が作り変えられ、御心に従って生きることができるように・・という理解です。

「自分自身の思いを捨て去り」とあるのが特徴的です。「我意を捨てる」との翻訳もあります。

この言葉を覚えたいと思いました。唯一正しい神の御心の前で、私たち人間の思いは、間違いだらけです。


共に祈りましょう。

主よ、自分自身の思いを捨て去り・・・そんなことができるのでしょうか。私にはできません。あなたの恵みによって、そのような私であらせてください。今日の日を、そのように生きさせてください。
2019. 12. 25  
クリスマスは、「神の言」が肉をまとって、人間としてわたしたちのところに来てくださった時なのだと、ヨハネ福音書は示します。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)」

考えてみれば、神が人間の言葉を語って、ご自分のことを知らせて下さるというのは、大変なへりくだりです。

小学生にでも分かる言葉で、自分の研究の要点を話してみなさい・・・こう言われると、ほとんどの学者は困ってしまうでしょう。

神の言葉は、本来、神様にしか分からない、聖なる、超越した言葉です。

でも神は、アダムの時より、私たち人間に深く関わり続けることを望んでくださって、人間に分かる言葉で語りかけてきてくださいました。これがすでに、大いなる恵みです。

そうして、モーセや預言者らを通して、神はメッセージを送り続けてくださったのです。

それらは、いと高きところにおられる神からの愛の伝言でした。

でもそれは、不完全で過ち多い人間の器を用いてのものでしたから、十分ではありませんでした。

だから三位一体の神は、ついに自ら人間となって、私たちのところに来てくださいました。

メールやラインが発達した今でも、コミュニケーションは難しいです。会って話すことに優るものはない。

いや、話さずとも、その人がそこにいるだけで安心する・・・、そういう時があることを私たちは知っています。

イエス・キリストは、まさにそのように、そこにいるだけで、神の思いのすべてを伝えてくださった方でした。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)」

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1)」


クリスマスの時、イエス様のご生涯そのものを通して伝えられる、神の救いのメッセージを、しっかりと聴き取りたいと願います。

共に祈りましょう。

主よ、あなたはそこまでして、私を救おうとしてくださるのですか。わたしに語りかけようとしてくださるのですか。主よ、私たちのかたくなさを砕いてくださって、あなたの言がよく聞こえるようにしてください。
2019. 12. 24  
今日は12月24日ということで、世間ではクリスマスイブとして盛り上がることでしょう。

勝田台教会では行いませんが、イブ礼拝ということで、今晩に集会をされる教会も多いことでしょう。

それぞれに、救い主イエスのご降誕を記念して、喜びの礼拝をささげていただければと願います。

いつも申し上げますが、12月24日あるいは25日という日付は、聖書のどこにも書いてありません。

それは三世紀か四世紀かから始まった慣習で、正確な誕生日ではありません。

こんな寒い時に野宿をしていたら、羊飼いたちは凍え死んでしまいます。

古代のクレメンスという教父は、5月20日と推定したそうです。

あるいは、東方正教会の伝統では、今でもクリスマスは1月7日にお祝いします。

だから、何か12月24日という日が特別な聖なる日として、神様に取り分けられているわけではないのです。

むしろ私たちの弱さのために、こういう一日を設定するのを大らかに許容してくださって、信仰奮起の機会として用いてくださっていると、私は考えます。

現に、せめてクリスマスだけはと教会に集われる方も多い。

大事なのは、私たちの側の信仰のアクションです。この日を覚えて、私たちひとりひとりの心に、正しく救い主イエスをお迎えすることです。

あの日、主がお生まれになった日、「宿屋には彼らの泊る場所がなかった(ルカ2:7)」と言われていました。

彼らのいる場所がなかった、という翻訳もあります。

イエス様に宿っていただくための「場所」は、私たちの中にあるでしょうか?


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、私たちの信仰を燃やしてくださって、イエス・キリストの命をしっかりと受け取ることができるように導いて下さい。
2019. 12. 20  
クリスマスに分かち合うマタイ1:21において、生まれてくる子は「自分の民を罪から救う」救い主になるとの約束があります。

イエス・キリストは、人間を罪から救う救い主です。

罪とは何でしょうか。それは、神との交わりの断絶と言われます。

また私がよく使うのは、神を正しくあがめず、従わず、自分自身を神とすることであるという言い方です。

あるいは、罪とは的外れな生き方ということもしばしば言われます。あるべきところから外れること。

あるいは、ウェストミンスター小教理問答では、もっとシンプルに、「罪とは、神の律法に背くこと」と教えます。

つまり、「神様の教えの通りに生きられない」ことです。

先日、水曜の祈祷会で、それぞれに御言葉から黙想をして、自分の罪とその救いについて思い巡らしたことを書き留めました。

私も、自分自身を省みました。

自分が抱えている残虐性や、他者に対する心の冷たさ、嘘をついてしまうこと、不真面目さ、成功者へのねたみ、女性をみだらな思いで見てしまうこと・・・そういうことが、次々と心に浮かびます。

それらは、イエス様に出会う前には、克服したいとさえ思っていなかったことです。

それが私を滅びに導く罪だと、思っていませんでした。

今は違います。依然として、まだ私の中には、それらの罪が残っている。本当にくやしいけど、どうにも残っている。三つ子の魂百までです。性質の卑しさがずっと残っているのです。

でも、私は今、この罪と戦いたいと願っています。そういう心をいただきました。

聖霊が起こしてくださった、新しい心です。これはまぎれもなく、私の中で始まった新しいことです。

次の日曜日、洗礼・信仰告白をする3人の若者がいます。

彼らは、聖霊をいただくのです。そして、新しい心を起こされ、新しい道に生き始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、我らを罪から救ってください。罪に縛られ、濁った目をしていた私を、あなたは光の道に導いてくださいました。主よ、感謝します。この道を進ませてください。そして、今からスタートを切る者たちに、限りない祝福があらんことを!!

2019. 12. 19  
クリスマス礼拝にはマタイ1:18-25を分かち合いますが、短縮しますので、残念ながら23節の「インマヌエル」は解き明かしません。

今日は、以前にここの解き明かしをした際の説教を、転載します。


インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味のヘブライ語です。イエス・キリストは、神はあなたがたと共におられるのだと、私たちに教えてくださる方です。

神はもはやあなたがたから遠くない、神とあなたたちとのあいだの決定的な断絶は埋められた。だから、神はあなたを愛しておられる。

あなたには神が見えなくても、神はあなたを見ておられて、あなたと確かに共におられる。

それは本当なのだと伝えるために、イエス様は自ら人間となってこの地上に降りてきてくださったのです。

イエス様は、私たちには決して届かない高みにおられた、聖なる神の独り子である方です。その方が、ヨセフとマリアの子として、苦悩の泥沼のような現実世界に降りて来てくださったのです。

ヨセフとマリアは、この後、おそらくは(ヨセフの子ではないらしいという噂で)晒し者となって苦しんだことでしょう。

そして彼らとともに、幼子イエスも晒し者になったことは容易に想像されます。

でも主はそのような現実に降りてきてくださって、ヨセフやマリアと共に生きることを選んでくださったのです。

このイエス様において、神様は私たちと共に罪人の現実を生きることを始めてくださったのです。

ですから、今や私たちは、どれだけ苦悩が深まろうとも、神などどこにおられるのだとは、もう問いません。問わなくてもいいのです。

神は、どこまでも私たちと共におられると、イエスの存在が証明しているからです。

皆さんの中には、苦しくて溺れそうになっておられる方もきっといらっしゃるでしょう。でも、神はそのあなたと間違いなく共におられるのです。そのことを疑う必要はありません。

神は私たちと共におられます。私たちが苦悩する時、そこに神が共におられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、体調をくずしている者も多くいますが、癒しの手を差し伸べてくださって、クリスマスを共に喜び祝わせてください。今日も、どんな時も、あなたが共にいて下さることに感謝します。
2019. 12. 18  
マタイ1:18-25を予習しています。この場面は、イエス様の養父となるヨセフへの告知ですが、ヨセフは「ダビデの子」と呼ばれています(20節)」。

「ダビデの子」とは、偉大な王ダビデの末裔ということです。

もっとも、ダビデ王朝は新バビロニア帝国によって滅亡しましたので、今は力も権威もない大工の家でした。

でも、「ダビデの子孫から救い主を与える」という神の約束がありました(使徒言行録13:23参照)。

人間の目には消えて無くなったようなダビデの血統でしたが、神は少しもお忘れにはなっておられませんでした。

救いの線は、いつでもとても、か細いものです。

あまりに細くて、頼りなくて、私たちはもうあきらめてしまう。見失ってしまう。

でも、そういうところに、大いなる神の救いは始まります。


ダビデに与えられた最初の約束=「ダビデ契約」は、サムエル記下7:12-14にあります。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を立て、わたしは彼の王座をとこしえに堅くすえる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

こういう約束を受けて神の民イスラエルは、王国の繁栄を確信しました。

しかし、神の計画しておられたことはそんな小さなことではなかったのです。

神が計画しておられたのは、やがてこのダビデの系図に連なる者の中から、この罪深い世界全体に再び正しい秩序をもたらして、神の祝福を明らかにする永遠の王を与えるということでした。

関心のある方は、イザヤ11:1-5も読んでおいてください。「エッサイの株」というのがダビデの血統ということです(エッサイはダビデの父)。


共に祈りましょう。

主よ、今クリスマスを前に、私たちの信仰のスケールをはるかに大きくしてください。ちまちまと、自分の事しか見えないようなスケールの小さい信仰を、破壊してください。


2019. 12. 17  
先の主日に試問が終了し、クリスマスには三人の若者が洗礼・信仰告白をすることになりました。

そのため、当日の礼拝説教は短縮しますので、色々と予習をしておきましょう。

クリスマスにはマタイ1:18-25を分かち合います。

主の天使がヨセフに現れ、イエス・キリストのご降誕の意味を伝える場面です。

「その子をイエスと名付けなさい」と言われます。イエスとは、ヘブライ語にするならヨシュア。「主は救い」という意味です。

このお名前は、イスラエル民族を約束の地へと導いたリーダーであるヨシュアの名前を、思い出させます。

また、エレミヤ書23:5-6(33:14-16もほぼ同じ)を確認しておいてください。

「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。

王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。

彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる。」

ここの場合、新共同訳では「主は我らの救い」となっていますが、「主は我らの義(正義)」としたほうがいいかもしれません。

いずれにしろ、こういう預言の言葉が、イエス様のご降誕を指し示しているのは確かです。


共に祈りましょう。

主よ、御子がお生まれになったクリスマスに、私たちの教会は、三人の新しい人が誕生する喜びをいただけますことを、心から感謝します。どうぞ、良き備えがありますように。我らの救いである主イエスの恵みと平和によって、私たちの歩みを導いて下さい。
2019. 12. 13  
今週はアドベントの時、マラキ書3章を分かち合ってきました。

今日はマラキ3:19-24.旧約聖書の最後の預言です。


万軍の主は言われます。「さあ、見よ。審判の日が来る。燃え盛るかまどのような日が。

おごり高ぶる者、悪を行う者は、わらのように燃え尽き、根も枝もすべて焼き払われる。

しかし、我が名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。

その翼にはいやす力がある。あなたたちは自由にされ、牧場に放たれた子牛のように喜んで飛び跳ねる。

わたしが備えているその日が来た時、あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる。」


万軍の主は言われます。「わが僕モーセの教えを思い出せ。

わたしは彼に、あらゆる時代の神の民のために、ホレブの山で、掟と定めを与え、歩むべき道を示しておいた。

見よ。わたしは、大いなる恐るべき審判の日が来る前に、エリヤのような預言者を遣わす。

彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。

わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」


共に祈りましょう。

主よ、大いなる義の太陽が昇る時、その光のもとに喜び集う私たちでありたいと願います。今、悔い改めのとき、あなたの示してくださった命の道を選び取り、しっかりと、イエスに従い歩むことができるように導いてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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