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2020. 01. 31  
神の言いつけを破ることで、「自分で判断する=善悪を知る」ということを始めた人間です。

その結果はどうなったでしょうか。神が心配していたとおり、人間は非常に危うい存在になり、破滅の道を歩み始めました。

互いに殺し合い、おとしめあう罪人の歩みがここから始まったのです。そして次の主日に分かち合う4章で、最初の兄弟ゲンカにして、最初の殺人事件が起こります。

その危うさは、幼子が、ひとりで車の運転を始めたような感じです。

運転技術なんてものは、わりとすぐに身に着きます。だから子どもでも運転はできる。でも、交通法規も知らない。マナーも知らない。赤信号で止まることさえ、まだ知らない・・。

人間は、そういう状態で親のもとから飛び出して、自力運転を始めてしまった幼子のような存在なのです。悪しき幼児性です。

そういう私たちに、もう一度、親のもとに帰ってきなさいと呼びかけてくださったのが、主イエスです。

そして「神の愛の下で完全に信頼する」という、「幼子のような信仰」の模範を示してくださいました。

人間とは、本来そのように生きるものとして創造されたのです。そのように生きる時に、幸いがあるのです。

「貧しい者は、幸いである。天の国は、そのような者のものである」という言葉も、改めて考えてみてください。

そういう幸いに呼び戻すために、迷子を「探して救うために」来てくださったのが主イエスです(ルカ19:10)。

そして、そのような恵みの追跡は、すでに堕落の直後から始まっていたのです。

それが、「どこにいるのか」との神の呼びかけだったのでした(創世記3:9)。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはあなたから離れるべきではなかったのです。あなたの愛に信頼して、あなたの言葉のとおりに生きていきたい。主イエスのように、主イエスの後ろに続いて、あなたの道をひたむきに歩むことができますように。

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2020. 01. 30  
「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と、蛇は女をそそのかしました(創世記3:5)。

「善悪を知る」それは、ものの良し悪し、美醜、うまいまずい、あるいは自分にとって何がが幸いで何が不幸なのかといった、価値判断を行うということです。

そういうことを自分のものさしで判断する自律を得るということです。

その反対は、価値判断を全部神様にお任せして、神が良しとするものを良しとし、幸いとして与えてくださるものを幸いだとするという「全き信頼」です。

園の中央の木の実を食べることで、人間はそういう神への「信頼」状態から抜け出して、自分で自分を律する独立を得る。

それは、木の実そのものにそういう特別な力があったということではないと、私は解釈します。

そうじゃなくて、神様が食べないようにと言っておられたのに、その言葉に「信頼」しないで、自分で判断して食べてしまったということそのものが、人間にとって神からの独立だったのです。

今まで神に全面的にお任せしてきたことを、自分でするようになった、それが「善悪を知るようになった」ということです。

言い換えれば自分を自分の神として、神様よりも上に置いて、自分の考え・判断を絶対と信じて行動するようになるということです。

まさに蛇が言ったように「神のように」なったのです。

「神になった」というわけじゃありません。創造主と同じものには決してなれない。でも、「まるで神のように」ふるまい始めたのです。

その時確かに蛇が言った通り、目が開かれたことでしょう。

今までの自分たちの純朴な信仰の世界とは全然違う、理性的な新しい世界が広がったように見えたでしょう。

しかしそれは、人間にとって決して幸せな道ではなかったのです。

神から独立して自力運転を始めたことで、危うい、幼い、貧弱な存在である私たち人間が、ますます危ういバランスの取れない存在となって、互いに疑い合い、殺し合うという破滅の道に進んでいくのです。


共に祈りましょう。

主よ、幼子を抱く母親のごとく、あなたが注いでくださる慈しみの眼差し、その親心・・。しかし私たちは、あなたの愛を信頼しきれず、あなたの御心から離れてしまいます。主よ、素直にあなたに従うことができますように。



2020. 01. 29  
勝田台教会では、礼拝説教で創世記を分かち合っていますが、礼拝後に、このように伝えてくださる方がいました。

「善悪の知識の木の実のことが、ずっと私のつまずきでした。どうして神が、罠を仕掛けるようなことをなさったのか、と。しかし、それは違うとはっきり示されました」と。

善悪の知識を得るということはどういうことか、明日改めて分かち合います。

今日は、神は罠を仕掛けるような方ではないということを確認しましょう。

新約聖書ヤコブの手紙1章13-15節に、こうあります。

「誘惑に遭う時、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」

神は、私たちを悪に誘うようなことは決してありません。

「善悪の知識の木の実」と蛇が呼んだところの、園の中央の木の実には、特別な魔力があったわけではありません。

その悪魔的な魅力は、蛇の「賢さ」に心惹かれた女が、自らの欲望によってふくらませてしまった幻想に過ぎません。

誰にも欲望はあります。欲望がなければ、愛も育まれず、文化の発展もありません。それは、創造のはじめから備わったもので、よく用いるなら善いものです。

問題は、その欲望の暴走を抑えられない、人間の愚かさです。幼さです。危うさです。

それなら、そんな欲望はいらなかった。そんなものを神が与えたから、人間は堕落に向かったのだと、理屈を言われる方もいるかもしれない。

でも、それだったら人間は奴隷と同じではないですか。操り人形に過ぎないではないですか。

人間は、決してそういうものじゃない。神と向き合う人格的・責任的存在として創造されたのです。


共に祈りましょう。

主よ、それぞれに抱えている、欲望の問題があると思います。金銭欲、名誉欲、性欲・・・それぞれの罪深さを赦し、聖霊によってきよめ、抱えるトラウマを癒してください。そして、その欲望の暴走から、解放してください。主よ、我らを破滅から救ってください。
2020. 01. 28  
先の主日には、創世記3章のアダムとエバの堕落の記録を分かち合いました。

堕落の前の彼らはどういう様子であったか、一言でいえば、神の祝福に満ち足りていました。

何不自由なく、神からすべてを用意され、母の腕の中の幼子のように心を注がれ、安らぎを覚えていました。

はじめの人間は、とても素直に、純朴に、幼子のような信頼をもって、神とお付き合いをしていました。

そういう姿を、皮肉をもって見つめていたのが蛇です。

蛇は「賢い」とされます。それは、幼子のような純朴さの反対です。

世慣れて、心がすれて、ひねてしまって、斜に構えてしまった人の用意周到さとか、腹黒い感じ・・それが、ここでの「賢い」ということです。

そういう人は、純朴な信仰者を見るとイライラするのですね。

「信じていれば大丈夫だなんて・・、よくもそこまで愚かでいられるものだ・・」

「教会の人間は常識がない。甘い。そんなのでは世間で通用しない。現実はもっとシビアだ・・」

そういう風に、大人の、賢い意見が、教会の中でも交わされます。

そういう賢さが、必要な時もたくさんあります。

イエス様も、迫害を予告しながら、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい(マタイ10:16)」と言われました。

今は、エデンの園とは違う、生き馬の目を抜くような厳しい罪の現実を生きねばなりませんので、「蛇のような賢さ」も必要です。

でも同時に、「鳩のような素直さ」や、「幼子のような純朴さ」も、薦められていることを覚えたいものです。


共に祈りましょう。(詩編131篇に基づいて)

主よ、わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。主よ、あなたを待ち望みます。今日も必要なすべてを備えてくださり、私に平安を与えてください。
2020. 01. 24  
創世記3:14ー16は、「原福音」と呼ばれる重要な箇所です。

それはまず、女をあざむいた蛇=サタンへの呪いから始まります。

「お前は生涯這いまわり、塵を食らう」。これは、最も恥辱に満ちた、おとしめられた状態に定められたということです。

純朴な人を、あざわらうように揺さぶり、転ばせ、つまずかせる者を、神は呪われます。

そして、「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」とあります。

「お前(蛇)の子孫」とは、サタンに牛耳られた悪の勢力であり、「女の子孫」とは信仰に生きる神の子らです。

その両者の間に、神が「敵意」を置いてくださいました。

これは、実に大きな恵みです。

「敵意」を抱くことがなければ、またひょいひょいとついていき、簡単に取り込まれてしまいます。

幼子が、「これは悪いこと、憎むべきこと」と、親の教育によって少しずつ倫理観を覚えることにも似ています。

神は、罪の味をしってしまった人類が、そのまま滅びの道に進むことを望まれず、「敵意」を教えられました。

ここから、信仰の「戦い」は始まったのです。

キリストに従おうとする者が、悪の力に敵意を覚え、戦いたいと願うのは、神が恵みによって備えてくださった心です。

この戦いは、必ず最後は、キリストとキリストの教会の完全な勝利に終わります。

「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」

神の子らは、「かかと」をくだかれるような深い傷を負いますが、頭を砕かれ、決定的な致命傷を負うのは悪魔のほうです。

やがて我らの主キリストは再び来られ、「すべての支配、権威、勢力」を滅ぼし、「すべての敵をご自分の足の下」に置かれ、神の国を完成されます。

共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしのうちに、罪を憎み、悪と戦いたいという心が与えられていること、これはあなたが与えてくださった心なのですね。主よ、何が正義なのかもわからないような罪人ですが、どうかキリストのもとできよめてください。
2020. 01. 22  
次主日には創世記3章の、失楽園の記事を分かち合いますが、すべてを丁寧に読むには時間が足りません。

14節以降は、残念ながら断念します。

今日は3:17-19を確認しましょう。ここには、堕落した人間への罰として、労働の苦悩が与えられたことが教えられています。

人間の罪ゆえに、土は呪われたものとなり、人間と自然との関係はいびつになりました。

その結果、茨とあざみの妨害に苦しんで、「生涯、食べ物を得ようと苦しむ(17節)」ことになりました。


昨日、信仰告白した兄弟との学びの中で、「神の国には労働はあるのだろうか?」と語り合いました。

彼は、「神の国はすべてが喜びなのだから、もう仕事もしなくていいんだね」と言いました。

しかし私は、「いや、先生にもわからないけど、何かのお仕事は与えられるかもしれないよ。だって、エデンの園でも「耕す」というお仕事が与えられたから。

お仕事というのは、本来は苦しいものではなかったはずなんだね。神様とともに、園を耕し、社会を作り、文化を作り上げていくことは、本来は、喜びでしかなかったはずなんだ。

残念ながら、今の私たちは罪によって病んでいる。だから、お仕事を苦しいと感じてしまう時もあるんだ。」

そんな話をしたのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの体に巣食っている罪の根は、深く、広く、わたしたちの生活のすべてを蝕んでいることを覚えます。今日も、一日の働きに向かう前に、ため息をついている者がいましたら、主よ、どうか憐れんでください。そしてわたしたちを、すべての罪から解放し、ほがらかな喜びの世界を開いてください。
2020. 01. 21  
先の主日には創世記1:26-28より、神が特別な思いを込めてくださった人間の創造について学びました。

私はしばしば「人間の尊厳」という言葉を用います。

それは、神を知らぬ人々にも通じる言葉であり、訴えかける力をもつ言葉だからです。

しかし、悩ましいことであるのですが、近代の啓蒙主義において表明された「人間の尊厳」という概念と、同一視されてしまう危険があります。

後者の場合、それは手放しの人間礼賛であり、人間は神よりも上位に立つのだとする傲慢な考えが潜んでいます。

聖書が教える「人間の尊厳」とは、もちろんそういうものではありません。

ですから、むしろ「神の子の尊厳」と言ったほうがいいのではと、お伝えくださる方がいらっしゃいました。

神にかたどって、「造ろう!!」との特別な決意と愛情をもって創造された、神の最愛の作品、「神の子」としての人間の尊厳。

それは、どこまでも神に従属的で、神のご意志の下にある時にのみ、はじめて真実に安らうことができる。そういう存在。

まさにその通りだと思います。

これからも「人間の尊厳」という言葉を使うとは思いますが、私の意図していることは、「神の子の尊厳」であるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの愛の下で生み出された私たちは、あなたから離れて生きることはできません。主よ、今日も共にいてください。そして私たちを、あなたと共にあらせてください。
2020. 01. 17  
今週は創世記2:7の人間創造についての御言葉を、思い巡らしてきました。

神によって命の息を吹き入れられて、「人は生きる者となった」とありました。

これは、肉体的生命という意味も、またもっと深く霊的な意味も、両方のことが言われていると思います。

聖書の教える人間理解によれば、人は、体は生きていても、魂が死んでいるということがあります。

「体は殺せしても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ10:28)」とイエス様も言われました。

あるいは、「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか。(ヨハネ11:25)」とも言われました。

主イエスが私たちに注いでくださる霊的命は、疲れた体をも癒し、試練の時にも強く雄々しくあらせてくださいます。

ひとつ皆さんにもおすすめします。

深い呼吸をともなう祈りのかたちです。まず、息を吐ききってください。もう何も出てこないというところまで、すべてを吐き切ってください。

そうして自分に死なせていただくのです。

そして、息を吸います。その時に、「主よ、命の息を吹き入れてください」と願いながら、思い切り吸い、みずみずしい神の命をいただくのです。


共に祈りましょう。

主よ、この渇いた土くれに、命の息を吹き入れてください。今日の日が輝きだしますように。
2020. 01. 16  
昨日の祈祷会では、ルカ福音書のクリスマス物語の中にある、母マリアの信仰の姿勢に目を留めました。

あのイエス様がお生まれになった夜、天使のお告げを聞いた羊飼いたちが駆け付け、証しをします。

「おれたちのための救い主がお生まれになったと聞いたんだ!」と、高揚して伝えたことでしょう。

それを聞いた周囲の人々は、みんな、羊飼いたちの話を不思議に思ったといいます。

しかし、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」というのです(ルカ2:19)。

特に、「心に納めて」という言葉に注目します。

これは、いろいろな影響から守るために、不用意に外に出して発散してしまわないで、じっくりと心の中にとどめることだと、書かれていました。

同じようなマリアの姿勢は、2:51にもあります。

この時は、少年イエスが神殿にあって「ここが自分の父の家だ」とおっしゃる言葉に面食らい、「イエスの言葉の意味が分からなかった」といいます。

その前には、もう数年前の記録として、老シメオンの預言としてイエス様の十字架の死も予告されます(ルカ2:25-35)。

一連の出来事は、驚くべきことばかりで、当惑するよりなかったと思います。

でも、「母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた」とあるのです。


自分にはまだ受け止めきれないようなこと、今は意味が分からないこと・・・でもそれを安易に意味づけて受容しようとしないで、ただ「心に納めて」、神様の導きをしずかに待った・・・。そういうことではないでしょうか。

そうして心に納められたことを、ゆっくり思い巡らす中で、やがて、すべての意味が明らかにされる時がくるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今倒れている方、臥せっている方、弱っている方、慌てふためている方、納得できなくて苦しんでいる方・・・いろんな思いを、どうか受け止めてくださって、その魂に平安をお与えください。やがてすべての出来事の意味が、恵みの中で明らかにされますように。
2020. 01. 15  
創世記2:7には、塵から造られた人間創造の奇跡が記されています。

「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

命の息を吹き入れられた・・・。これはまるで口づけをするかのような親密さを表していると、解説している人がいました。

そして、まるでご自身の命を分け与えるかのようだと、言います。

そして、ここには、あのヨハネ福音書3:16の御言葉が響いているとまで言うのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

この御言葉に示される、全人類に対する神の愛の熱情は、すでに人間創造のはじめより明らかに示されていたのです。

神ははじめから変わることなく、私たちが真実に「生きる」ことを望んでくださって、そのためにすべてを与えようとしていてくださいます。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたが望んでくださって与えてくださった今日の一日を大事に生きさせてください。あなたにすべてを信頼し、それゆえにどこまでも自由に、ほがらかに・・。たとえ体は弱く衰えても、この魂を「生きる」喜びに満たしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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