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2020. 02. 28  
今日は娘の用事で朝から出かけますので、短くメールいたします。

新型コロナウィルスの騒動が続きますが、落ち着いて、手洗いうがいに努め、主にあってそれぞれのなすべきことに忠実でありたいと願います。

次の主日は、創世記12章のアブラハムの旅立ちです。

ローマ4:16-18にも、「信仰の父アブラハム」の信仰が示されています。

「彼はわたしたちすべての父です。・・・死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」

なおも望みを抱いて、信じるという信仰。

主よ、私たちにも、この信仰を与えてくださいと、共に祈りましょう。みなさんの今日一日が、主の憐れみによって、平安でありますように。
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2020. 02. 27  
新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐための動きが、にわかに大きくなってきました。私も様々な責任に追われ、あたふたする日々です。

教会関係では、カトリック教会の東京・千葉地区は公開のミサを中止したようです。

韓国では、集会を回避し、ネット配信を用いて各自自宅で礼拝をささげるようにした教会もあります。

勝田台教会のみなさんも、ご自分の健康への配慮と、感染拡大を防ぐための細心の注意をもって、それぞれに最善の判断をなさってください。

先のメールで、「なんとしても礼拝を守っていきたい」と書きましたのは、教会全体の営みとして、主日礼拝を絶やさないことの願いです。

皆さんに会堂に集うことを強要するものではありませんから、どうぞ無理をなさらずに。


本当に騒がしくなり、不安を覚える日々ですが、その反面、生けるまことの神への信頼が日ごとに増し加えられているこの頃です。

昨日、信仰の友と、この騒動を巡ってメールを交わし合いました。

彼は小さな会社を経営しているため、海外との取引などに深刻な影響が出ていることを心配して、連絡をしたのです。

しかし、彼はこのように返信してくれました。

「ただ一言もて ガリラヤの あらぶる波風 たちまちに 鎮めし主イエスの みちからは ときわに絶えせず 変わりなし

天地(あめつち)跡なく 崩るとも、 主イエスぞときわに 変わりなし・・・」

先主日に、この讃美歌497番をもって主を賛美したそうです。

そして、「コロナの脅威と不安を前に、しかし、永遠に変わることない主の憐れみを祈り、今日も託された務めをなしましょう!」との言葉に、私は大いに励まされたのです。

「・・・・弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上って、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪(なぎ)になった。イエスは『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。・・・(ルカ8:24-25)」


共に祈りましょう。

主よ、憐れんでください。国と力と栄えとは、かぎりなく汝のものなればなり。そうです主よ、すべてはあなたの手の中にあります。私たちは、あなたに信頼します。嵐の中でも、どうか平安を与えてください。様々な困難の中にある者に、必要なすべてを備えてください。

2020. 02. 26  
先主日には創世記11章の「バベルの塔」の物語を分かち合いました。

エジプトのピラミッドなどもそうですが、古代文明の高層建築の遺跡が残っています。

バベル、すなわちバビロン(イラクのバグダッドから南に85キロ)にも、そんな遺跡がたくさん現存しています。

東の方から移動してきた人々がシンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いたとありますが(2節)、これはチグリス・ユーフラテス川の流域平野のことで、ここに始まったのが古代メソポタミア文明です。それが紀元前4000年といわれます。

その後、シュメール人やアッカド人の王国が栄え、1800年頃から、バビロンを中心としたバビロニア王国も起こります。有名なハムラピ法典などはその時代のものです。

そんな具合に、この地には高度な文明が発達しまして、レンガと天然のアスファルトを用いた大きな建造物がいくつも建てられました。

そして神殿や、ジックラトゥと呼ばれる塔が建てられました。

ジックラトゥはらせん階段状にレンガの山を積み上げた塔(というより山?)で、巨大なものは百平方メートルの土台に50メートルほどの高さがあるそうです。そういう遺跡が残っています。

なぜそんなものを作ったかといえば、元来はバビロニアの神々を礼拝するためで、天と地を結ぶ架け橋として作られたのだと言われます。

同時にこれらの巨大な塔が、権力者の絶大な支配力の象徴であり、メソポタミア文明の技術と力を誇示するシンボルタワーであったことも確かです。

そのようにして建てられた建造物を目の当たりにすると、圧倒されると共に、なぜでしょう、慰めを得るような思いもします。

それが偽りの慰めだと、知ってはいても・・。

私たちは、塵にすぎない自分の本質から目を背けたいからこそ、人間の叡智と技術の結集を見て、慰めを得たいのかもしれません。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちに与えてくださった文明に感謝をします。しかし、その文明におごり高ぶり、あなたを軽んじてしまう私たちの愚かさを思います。どうかお赦しください。そして、人間の傲慢を砕いてください。私のうちにある傲慢を砕いてください。何も持たずともあなたに満たされていた、主イエスの足跡をたどりたいのです。
2020. 02. 25  
この数日、新型コロナウィルス感染拡大のニュースが駆け巡っています。

教会関係でも、様々な行事が開催中止になっていますが、この2,3週間は、感染拡大防止のためにできるだけ移動と集会を避けることが、社会的責任でもあると思います。

そういう中で、主の憐れみを乞い求めて、主日礼拝はなんとしてもささげ続けたいと願います。

ウィルスの目に見えない脅威に、人間の無力さということを改めて感じさせられています。

キリスト教会の一部の方には、これは中国や日本に対する神の裁きだと主張しておられる方もいるようです。

私は、そういう声には賛同しかねます。神の裁きということは、私たちが軽々しく口にしていいことではない。

ただ、このことも主の手の中にあることは事実で、そして、私たちに何かを考えさせ、立ち止まらせるために、この騒動もまた備えられたのだと信じています。

17年前、神学生時代に、安田吉三郎先生の説教を聞き、ウィルスの存在に目を開かれました。

「人間は科学を得て、自然を制圧したかのようにおごっている。でも、ビールス(※先生の独特の発音)の脅威を少しも克服できていない」と、語ってくださいました。預言者的な言葉です。

ちょうど先主日に、バベルの塔を建てようとした人間の過信と傲慢を見ましたが、そういうものが打ち砕かれていくようです。

見えないウィルスの力にさえ抗えない私たちが、見えない神の霊の力に、何の力も持っていないことは明白です。


ヨブ記の最後、42章のところで、ヨブはすべてを悟って、神の前でひざまずいて言いました。今日はその言葉を、私たちの祈りとしましょう。

「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』、そのとおりです。

わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。

『聞け、わたしが話す。お前にたずねる、わたしに答えてみよ。』

あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」


2020. 02. 21  
ノアの箱舟の物語を分かち合っています。洪水の後で、神は言われました「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、このたびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。(創世記8:21)」

「人が心に思うことは、幼い時から悪い」

純粋無垢であるかのような「幼い」児童たちであっても、心の腐敗を見抜かれています。

ノアたちも同様です。ノアもまた原罪を背負う者です。聖なる神の前では、誰もごまかしようがなく「悪い」のです。

だからこそ、もう今回のように怒りを発して、軽はずみな裁きはしないと、神は言っておられるのです。

なぜなら人間は、そのような呪いと裁きによっては、何も変わることができないからです。

洪水によって、これまでの悪を流すことはできました。でも、また悪くなります。

このあとの展開を見れば、ノアの子孫たちが増え広がると、またも地上には高慢が満ちて、バベルの塔が建てられていきます。

しかし神は、どんなに人間の悪が増し加わろうとも、その私たちを見放すことなく、あきらめることなく粘り強く付き合い続ける道を選んでくださったのです。

そして十字架の愛をもって、辛抱強く忍耐をもって人間を赦し、きよめていく、そういう愛の道を選ばれたのです。

急いで裁くのではなく、忍耐をもって私たちが立ち帰るのを待つ、そういう愛の道を選んでくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたをがっかりさせ続けている私たちでありましょう。自分の周囲に、社会に、なにより自分自身のうちに、愚かさ、悪さが見出されて、私たちもまたがっかりしてしまう日々です。主よ、わたしたちを見ていてくださる、あなたのまなざしの深さ・・・。
2020. 02. 20  
ノアの箱舟の物語を分かち合っています。8章に入り、ようやく水は減り始めましたが、ノアはなかなか外に出ようとしません。

最終的に彼らが箱舟を出るのは、神がはっきりとゴーサインを出された後です(8:16)。

それまでは、やすやすと自分の判断で動こうとせず、どこまでも粘り強く神を信頼して待ちました。

ただぼーっと待っていたわけではありません。

まずは偵察隊として、たくましいカラスを放ちます。しかしまだ地は乾かず、遠くにはいけない。

7日待って、今度はハトを放ちます。ハトは清潔な乾いた平地にしか住みませんが、まだ、ハトが足の裏を休める場所がない。

さらに7日待って、再度挑戦です。

今度はハトは夕刻に帰還します。ずいぶん遠くまで行ってきたのでしょう。オリーブの若葉をくわえて帰ってきました。これは、洪水の後に芽生えた新しい命の象徴です。

さらに7日待って、もう一度ハトを放ちます。今度はとうとう、もう帰ってきませんでした。地は乾いたのです。

これらの鳥を用いての調査は、神様の御心を問うための祈りでもあったと思います。

面白いことに7日ごと、つまり一週間ごとに、わたしたちが主日礼拝で御言葉を求めるのと同じように、神のご意志を確かめ、自分たちがいかに行動すべきかを祈り求めたのです。

そうして、確かにこの洪水の試練は終わって、希望の朝が始まったのだとの確信を深めていきました。

今、皆さんの中にも、箱舟の中でじっと忍耐して待っているような、人生の試練を覚えている方もいるかもしれません。

人生というのはそれ自体が一つの大きな試練。わたしたちの魂に課せられた、厳しい、忍耐を要する旅路です。

でも、与えられた試練は、自分で終わらせることはできません。神がもう終わりだと言ってくださる時まで・・・。

その時まで、一週間ごとに御心を問いながら、今の試練の向こうに、神が必ずもたらしてくださる希望の朝を待つのです。


共に祈りましょう。

主よ、命を与え奪い給う、大いなるあなたの御名をおそれます。試練を与え、また取り去り給う、あなたの大いなる御手に、わたしたちの人生をおゆだねします。主よ、願わくは、我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。どうかあなたの恵みと憐れみによって、試練の中で苦悩する者をお救いください。
2020. 02. 19  
ノアの箱舟の物語を分かち合っています。雨が40日40夜続いたとありました。

罪に歪んだ世界が浄化されるために必要な40日でした。その後も150日、深淵の水は勢いを失うことがなく、地を覆いました。

しかし、神が箱舟の中のノアたちを「御心にとめ」られ、地の上に「風=霊(聖霊)」を吹かせられることで、ようやく水は減り始めます。

「心に留める」、これはザーカルという言葉で、「思い起こす、覚える」とも訳される。聖書において重要な言葉づかいです。

神が小さな祈りやうめきを御心にとめてくださることから、大いなる救いのストーリーが始まります。

例えば、サムエル記上1:19です。子が与えられるのを求めて必死で祈るハンナのことを、「主は御心に留められ」ます。

その結果として、預言者サムエルが登場し、イスラエルを導きます。そしてそのサムエルが、ダビデ王を見出します。

新約聖書においても、同じ言葉遣いがあります。

ルカ23:42を見てください。あの十字架の場面。主イエスとともに十字架にかけられた犯罪人の一人が言いました。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

この「思い出す」という言葉づかいが、聖書のすべてのストーリーを背負っているのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの目に取るに足らない僕です。どうか、この貧しい祈りに心をとめてください。私に与えられた責任を、今日も背負い通すことができますように。私の愛するひとりひとりに、今日も救いの喜びがありますように。今日も地上のキリストの教会が、その名にふさわしい奉仕をすることができますように。主よ、権力者たちの傲慢をくだき、弱き者、無力な者たちの尊厳をお守りください。主よ、どうか今日も、この罪に歪んでしまった地上世界ですが、あなたの憐れみをもって、御心に覚えてくださり、恐るべき混沌からお守りください。主よ、どうかこの小さな祈りを思い出してください。私たちを助けてください。

2020. 02. 18  
ノアの箱舟の物語を続けて分かち合っています。

いよいよ洪水がはじまりました。「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた(創世記7:10)」とあります。

「深淵」とは、あの最初の天地創造の時、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあった、あの「深淵」です。

それは、荒れ狂う原始の大海です。永遠の暗闇の中で、海がほえくるっていたのです。

その「深淵」を叱りつけられ、抑えつけ、神が「地」を据えて、人間が生きることのできる世界を整えてくださったと、創造物語は教えています。

詩編104:5-9にこうあります。

「主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い/水は山々の上にとどまっていたがあなたが叱咤されると散って行き/とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り/あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ/再び地を覆うことを禁じられた。」

「水に越えることを禁じ」とあります。同じことがヨブ38:10-11に、こういわれています。

「・・わたしは海に限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け、「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。」

このようにして、神が「深淵」を抑えてくださっているから、「地」の秩序はかろうじて安定している、これが古代イスラエル人の世界観でした。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたは大いなる大いなる御手をもって、大地の秩序をもたらし、わたしたちの生活の安定を保持してくださっていることを覚えて、心から感謝します。あなたにかえりみていただく私たちは何者でしょう。大いなるあなたに信頼します。そして、あなたに従い歩むことができますように。

2020. 02. 14  
先主日と次主日つづけて、ノアの箱舟の物語を分かち合います。

あの大洪水は、罪の極まった世界をもういちど作り直す。創造のやりなおしとも言える出来事でした。

それは、残された者をとおしての新たな天地創造への序章であり、再び初めを与えるための「大手術」だと言う人もいます。

その中で「無垢な人」として「神と共に歩む」ノアの存在は、信仰の理想です。

それは、神の言葉そのままに生きる人のイメージです。

創世記1章に記される最初の創造の時には、「主が言われた、そしてそのとおりになった」と、神の言葉によってすべてが作り上げられていく様子が描かれました。

それに対して、洪水を通しての再創造においては、「主が言われた、ノアは命じられたとおりにした(創世記6:22、7:5、7:18)」とあって、ノアの行為を通して、神の言葉が実現していきます。

ノアはほとんどしゃべりません。神の言葉がそのままノアという管の中をスムーズに流れて、ノアの「命じられたとおり」にするという行動において、そのまま神の業となっていくのです。

これが信仰者の理想像でしょう。

神の言葉をそのままに聴き、そのままに実行することができたら、どんなに私たちは自由なことでしょう・・・。

神の言葉が、私たちの内なる貧しさ、かたくなさに邪魔されることなく、そのままに働くのを見たい。

ノアは、そんな私たちの願いを、実現している理想像です。

このような人が破滅を免れ、新しい世界の住人として、新たな歴史をはじめるのです。


共に祈りましょう。

主よ、通りよき管として、この私を用いてください。あなたの御言葉を濁すことなく、損なうことなく、歪めることなく、そのままに聴き、従い、そして、伝えることができますように。

2020. 02. 13  
創世記に記された原初史と呼ばれる1-12章。いうなれば歴史以前の歴史というような、太古の記憶がつづられています。

このはじまりの物語の中に、今日に至るまでの人間の根源的な問題がすべて表れてきます。

そして同時にここには、その人間に関わり続ける神の思いのすべても表れてきます。

ノアの箱舟の物語は、厳しい、恐るべき裁きの物語です。

しかし、説教を聞いた方の多くが、神の深遠な愛に改めて気づいたと伝えてくださったのが印象的でした。

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とありました(創世記6:5)

この「痛む(アーザブ)」は、しばしば「苦しむ」と訳される語です。

創世記には、同じ言葉が大事なところで繰り返されます。特に大事なのは、3章16,17です。

人間に与えられた定めとしての、産みの苦しみ。労働の苦しみ。総じて、生きることの苦しみといっていいでしょう。

それは、人間が自らの責任によって引き寄せた、罪の悲惨です。

その罪の悲惨の苦しみは、人間の悪が増せば増すほどに、いよいよ大きく広がりました。それが私たちの世界です。

親と子が上手に愛し合えない家庭崩壊の「苦しみ」・・、資源を求めて奪いあいの戦争の「苦しみ」・・。

しかしここでは、その「苦しむ」と同じ言葉で、神が「心痛められた」と書いてあるのです。

人間の苦しみをご覧になって、神が苦しんでおられるのです。身をよじるほどに、苦しんでおられる。

人間の歴史が始まって以来、ずっと・・。すでにここには、十字架が立っています。

共に祈りましょう。

主よ、あなたの心を苦しめている、私たちを赦してください。あなたの思いも知らずに、自らの苦しみを嘆いてばかりしてきた私たちです。主よ、あなたはずっと、私以上に私のことを、苦しみ悩んできてくださったのですね・・。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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