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2020. 03. 27  
昨日の配信に、私の敬愛する兄弟が応答してくださり、安田吉三郎先生のローマ書注解の一文を送ってくださいました。

ローマ8:32にある「ご自分の御子をさえ惜しまず死に渡された」という表現から、安田先生もまた、創世記22章のイサク奉献の物語を指し示しておられました。

そのように、「御子を十字架の死にまで引き渡されたということは、いっさいが私たちのために与えられたことを意味している」と、安田先生は言われます。確かにそうです。

神は今や、ご自身を「私たちのために」完全に明け渡してくださっている。

そうだとすれば、これはなんということでしょう・・・。なんと畏れ多いことでしょう・・・。

神は、万物の創造者、支配者です。すべてのことを「ご自身の栄光のために」要求することができる方。

すべての栄光を帰すべき方。この方のために、私たちのすべてをささげるべき方。

その方が、今や、ご自身のいっさいを、そのご存在そのものさえも、「私たちのために」差し出してくださっている。ささげてくださっている。

それが、イエス・キリストの十字架の死において示された、恐るべき真理としての、神の愛です。

そうであるからこそ、この地上のあらゆる力をもってしても、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:39)」

8年間、いつも同じことだけを繰り返し申し上げてきました。

この、私たちに対する神の愛に満ちた献身と、この神の愛に対する私たちの献身。


共に祈りましょう。

主よ、何度でも、何度でも、ここから出発させていただきます。今日も、あなたの愛を確認させていただきました。今日、どんな一日が待っているか分かりませんが、どんなに心がこわばってしまった時にも、具体的な助けを与えてくださって、魂を励ましてください。あらゆる事柄の中に、あなたの愛のしるしを見出すことのできる、開かれた目をください。
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2020. 03. 26  
皆様、おはようございます。今週月曜日に、茅ヶ崎市に引っ越しをして、昨日まで荷ほどきに奮闘しておりました。

ようやく一区切りつき、ネット環境も整って、メールもできるようになりました。

次の主日は勝田台での最後の礼拝奉仕になりますので、祈りをもって備えたいと思います。

この三年ほど、改革派教会の教案誌のカリキュラムに従って、礼拝説教テキストを選んできました。

そういう中で、この最後の一か月がアブラハムの物語が示されたことに、いわく言い難い、不思議な導きを覚えてきました。

最後は創世記22章のイサク奉献の記事です。

「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。(創世記22:8)」

私たちのために、小羊イエス・キリストを備えてくださった神が、きっとすべてを備えてくださる。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」

今度の説教は、この御言葉を中心に、思い巡らすことになるのだと思います。

共に祈りましょう。


愛する主よ、依然としてウィルスの脅威は消えず、むしろいよいよ高まってきているような今週の日々でもあります。激しい嵐の中でもまれるような思いで、日々を過ごしています。主よ、あなたが私たちの助けです。十字架において示されたあなたの愛を、疑うことはありません。主よ、今日も私に、そして愛するひとりひとりに、必要なすべてを備えてください。
2020. 03. 20  
今週は、私自身が日ごとに与えられ続けている御言葉の励ましを、お裾分けさせていただいてきました。

昨日、神戸改革派神学校の吉田隆校長から、文書が届きました。

現在の状況下において、各個教会が事柄を神学的視座をもって考察することができるように、それに資するための文書を書いてくださいと、大会常任書記長として神学校校長にお願いしていたのです。

それが、届いたのです。すばらしい文書でした。心を深く燃やされました。

皆さんには、一足早く、そのさわりのところだけお伝えします。

主なる神は、愛する者たちを「暗黒の中を行く疫病」や「真昼に襲う病魔」からもお守りくださる御方です(詩編91章)。しかし、たといそうでなかったとしても、病に侵された者を深く憐れんで触れてくださるのが、私たちの主イエス・キリストです(マルコ1:41)。

・聖書の神は、疫病をもたらすことも止めることもできる全能の神です。しかし、それ以上に、病に倒れようが人々から遠ざけられようが、ただ一人どこまでも関わってくださる愛の神です。病を支配する方であると同時に、病の如何にかかわらず、私たち人間を愛してくださる御方なのです。

・このような神の愛を信じ、この神の愛によって救われたキリスト者もまた、この世の病を恐怖の的のように見る必要はありません。剣であろうと飢えであろうと、キリストの愛から引き離すことができるものなどないからです(ローマ8:35)。


共に祈りましょう。

主よ、愛の主よ、あなたの愛を私は疑いません。あなたは私の人生に、なにひとつ悪いことをなさいませんでした。これからもそうなのでしょう。主よ、私が愛されているのと同じように、今、病に苦しみ、不安の中におののくすべての人のことをも、あなたは愛しておられることをも知っております。主よ、あなたの御心がなりますように。
2020. 03. 19  
昨日に続いて、神様からいただいている御言葉のプレゼントの数々を、お裾分けいたします。

この数週間、ハードワークを心配してくださって、たくさんの方が祈りで支えてくださっていることを感謝しています。

ひとりの先輩牧師が、毎日、詩編の言葉をメールで送ってくださいます。

これは恐らく、その先生がご自分で訳されたものと思いますが、こういう御言葉を贈ってくださいました。

「詩編9:正義と公平の主は、虐げられた人の砦、苦難の時の砦。御名を知る者は、あなたに寄り頼む。あなたは、尋ね求める者をお見捨てにならない。」

昨日は、10篇でした。

「詩編10:主よ、立ち上がってください。神よ、御手を伸ばしてください。苦しみ悩んでいる人々を顧みてください。幸せを失った我らはあなたに身を委ねます。」


また、愛する勝田台教会のひとりの長老が、詩編130篇の御言葉を分かち合ってくださいました。

私の昨日の配信への応答として、自分の中で、詩編130篇の御言葉が立ち上がってきて、何度も読み返しましたとお伝えくださいました。

神が与えてくださる聖徒の交わりは、なんと幸いなことでしょう。

こういう祈りと御言葉のプレゼントによって、小さな魂は、何度でも息を吹き返すのです。復活の主の勝利を信じて。


今日は、詩編130篇の御言葉すべてを書き留めますので、これをもって、共に祈りましょう。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みを置き、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。

神の民よ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主は、私たちを、すべての罪からあがなってくださる。」
2020. 03. 18  
このところ連日、聖書を通して、神様から特別な語りかけをいただいています。

昨日は、疲れて一休みで、なにげなく手にした聖書のページが、詩編145編でした。

「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。(詩編145:8-9)」

しばらく、魅入られたように、御言葉にとどまったものでした。

今朝は、歴代誌下20章を読んでいました。新しい聖書協会共同訳で読んでいます。

以前にも紹介したでしょうか。このヨシャファト王の祈りに、改めて自分の心を合わせることができました。

「私たちの神よ、どうか彼らを裁いてください。私たちに向かってくるこの大軍を前にして、私たちには力がなく、何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。(歴代誌下20:17)」

新共同訳では最後のところが、「ただあなたを仰ぐことしかできません」でした。

本当に、今の私の思いがそのまま映し出されていました。

この祈りに対し、主の霊が臨んだヤハジエルが答えます。

「・・・耳を傾けよ。あなたがたに対し、主はこう言われる。この大軍を前にしても恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。

・・・戦う必要はない。しっかり立って、主があなたがたを救うのを見なさい。(20:14-17)」


共に祈りましょう。

主よ、無力を思わされる日々です。なすべきことがたくさんありすぎて、途方にくれるような気持ちでいました。でも、心の曇りが少し晴れた思いです。自分にできることを、ひとつひとつ、焦らずなしていきます。すべてを支え導いてください。主よ、あなたが私たちを救ってくださるのを、しっかりと目撃させていただきます。
2020. 03. 17  
先主日は創世記18:16-33に記された、悪しきソドムの町を赦してくださいと願う、アブラハムの執り成しの祈りを見ました。

アブラハムは、神様からまるで友のように扱われ、ご計画を打ち明けられたということも見ました。

確かに、聖書においては、神がアブラハムのことを「我が友」と呼んでおられるところがあります。

歴代誌下の20:7や、イザヤ41:8をご覧ください。

イザヤ書のほうは、バビロン捕囚の苦しみのあえぐイスラエルの人々に、間もなく解放を与えるとの神の約束に伴って、こう言われます。

「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。

わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。(イザヤ41:8-10)」

私たちもまた、アブラハムを信仰の父とする子孫たちであり、神から「わたしの愛する友」と言っていただくのです。

今日はこの御言葉をもって、一日に向かいたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ、わが救いの神よ。あなたが私と共にいてくださる。今日もこの希望が、わたしの行く道を照らしてくれます。依然としてウィルスの影響大きく、衛生的にも経済的にも、一層大きな混乱が予想される今、わたしたちそれぞれの心に不安があります。主よ、あなたの救いの右の手で、このか細い魂を支えてください。今、困難の中にあるすべての方に、あなたの癒しと励ましがありますように。
2020. 03. 13  
次の主日のために、早めに説教原稿を準備しましたので、原稿をお送りすることができます。

後ほどメールや郵送でお送りしようと思っていますが、ご希望の方はお伝えください。

今この時、大事をとって、集いたくても礼拝に集えない方々がいることを、痛切に覚えています。私もまた、皆さんで共に礼拝したいですが、今は耐える時です。

カトリック東京教区では3月8日まで公開ミサを中止され、大司教より「礼拝の義務を免除する」という声明も出されました。

そのことを先の礼拝後に皆さんにお伝えしたら、笑い声が起きました。

確かにプロテスタント教会では、びっくりしてしまうようなことですね。

首をかしげておられる方もいました。それは、私が思うに、「義務で礼拝に来ているわけではない」という思いがあったのではないかと勝手に想像しました。

わたしたちは、礼拝がしたいのです。礼拝がしたくて礼拝をしているのだということが、今、とてもよく分かるようになりました。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ8:10)」

本当にそうだと思います。主を礼拝することが、私たちの命です。

たとえ共に集えなくても、ひとつの御言葉に共にあずかり、主を見上げて命を得たいと思います。

繰り返しますが、原稿送付をご希望の方は、ぜひお伝えください。


共に祈りましょう。

主よ、今の不自由な日々から解放してくださって、私たちが共にあなたの御前に相集う喜びを回復してください。今日もおひとりおひとりの心身の健康を守ってくださり、経済的な混乱からも守ってくださいますように。
2020. 03. 12  
創世記17章は、老齢の妻サラから子が産まれるという約束が、はじめて与えられるところです。

この約束に触れて、「アブラハムは笑ってしまった」とあるのを見逃せません。

17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『100歳の男に子が生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか。』」

この「笑い」は、やはり悪い意味での失笑でしょう。18:12では、サラもまた同じように、ひそかに笑ってしまう。

このようにして神の言葉に対して失笑してしまう、これほどにひどいことがあろうか、これは絶望的だと痛烈に断じる神学者の声も紹介しました。

確かにそうかもしれません。絶望的かもしれません。そうだとしたら、私たちは誰も、同じように絶望的ではないでしょうか。

アブラハムは神と共に生きる者です。神にひれ伏し、神に従う者です。でも、ひれ伏しつつも、とてもそこまでは信じきれないと失笑してしまう・・、そういう弱さを、誰もが抱えているのではないでしょうか。

私は、この記事を読みながら、マルコ9:14からの、我が子の癒し救いを切実にイエス様に求める父親の姿を思い出しました。

彼は、「おできになるなら救ってください」と言います。それを聞いてイエス様は、「『できれば』などと言うのか。信じる者には何でもできる」と、圧倒的な言葉で答えられます。

私は、こんなことを言われたら、とてもつらいです。

初めて聖書を読んだときに、失笑ばかりしていた自分を思い出します。とても信じられない。そういう思いでした。

でも、この父親が主イエスに申し上げた叫びの言葉が、若き日の私の心にも深く迫ってきたのを思い出しています。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」マルコ9:24

先の主日の説教で、この叫びを口に出したら、涙が込み上げてきました。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは、あなたに対して絶望的な態度をとり続けているかもしれません。どうか、主イエスの十字架のゆえにお赦しください。あなたを信じる信仰の確かさも、あなたから与えていただかねば、決して持つことはできません。主よ、今、世界が騒いでいるとき、経済的な大混乱の控えているとき、病に苦しんでいる方、生活に困窮している方のことを思います。主よ、私たちをお助けください。信仰のない私たちをお助けください。
2020. 03. 11  
アブラハムは「信仰の父」として理想化されてきた面がありますが、聖書に示されているその姿はもっと人間臭いものです。

私たちの誰もが抱える「不信仰」の姿をも映し出すような、「不信仰の父」でもあると私は思っています。

創世記17章は、90歳の妻サラが子を産むことになるという、あきれるほどの驚きの約束が初めて与えられるところです(17:15)。

最初の出発の時から、「あなたを大いなる国民の父とする」との神の約束がありました。

でも、その時点でアブラハムには子がありません。しかも、すでに75歳です。

しかし約束を信じて旅立った。そこが「信仰の父」たるゆえんです。でも、そのあとの15章が興味深い。

「恐れるなアブラムよ、あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけられる主なる神に対し、ブツブツ文句を言っているアブラハムがいます。

「・・主よ、報いが大きいって言いますけど、何をくださるっていうのですか?あなたは結局、私に子どもを与えてくださらないじゃないですか。だから家の僕のエリエゼルに跡は継がせますよ・・」と、つぶやくのです(15:2,3)。

そして17章でも、驚きの約束に面食らってしまって、思わず笑ってしまうというアブラハムの姿が描かれています(17:17)。

「100歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラに子どもが産めるだろうか。そんなバカな話・・・」とつぶやいて、

「いや、神様、そんなことはもう望まないので、今与えられているイシュマエルを健やかに成長させてください。イシュマエルが与えられたことで、もう充分ですから。そんなバカな話は、もうやめにしましょう・・」と、まるで神様を諭すかのように言うのです(17:18)。

これが、私たちの「不信仰の父」であるアブラハムの等身大の姿です。

でも、そうやってあきれるアブラハムに、主はあきれられることなく、ご自身の偉大な力を少しずつ体験させながら、「信仰の父」として恵みによって育てていかれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちもまたあなたを小さくしてしまうものです。そんな無茶な・・とつぶやきながら、現実的であれと互いに求めあい、あなたと共に夢を見る力さえ失っていきそうな、不信仰の子孫です。主よ、信じます。信仰のない私たちを助けてください。今日もそれぞれの現実の中で、あなたの大いなる救いの力を体験させてくださって、私たちの貧しい心を開いてください。
2020. 03. 10  
先の主日には創世記17章から、アブラハムの旅の続きを分かち合いました。

この時、アブラハムは99歳。あの75歳での旅立ちから、すでに24年が経っていました。

12章の旅立ちの場面で与えられた、「あなたは大いなる国民の父となる」という約束が、17章でも繰り返されます。

しかし、「もうついていけない・・」と思っても仕方ないような時間が流れていました。24年というのは、そういう時間です。

神の約束を信じて、祝福を信じて、私たちは歩みます。

でも、私たちが願っているようには、その祝福は与えられないということがあります。そのほうが多い。

そこで求められるのは、信仰の忍耐です。

萎えてしまいそうな心を自覚しつつも、そのうめき声を受け止めてくださる内なる聖霊の慰めをいただいて、最後まで、自分に与えられている確信を見失わないでいることです。

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。(ヘブライ10:35-36)」


共に祈りましょう。

主よ、新型コロナウィルスの脅威が続いていく中で、私たちは今、忍耐の時を過ごしているのだと思います。願っていたように集会を持つことができず、礼拝に集うこともできません。仕事の予定も大幅に狂ってしまいました。それぞれに、心が弱くなってしまうかもしれません。集まることができないことは、つらいことだと知りました。でも主よ、むしろ今この時に、私たちの信仰をねりきよめてくださって、ひとりひとりを強くあらしめてくださって、やがて与えられる解放の時に備えさせてください。その時まで、体は離れていても、互いに励まし合い、忍耐できるようにさせてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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