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2020. 04. 30  
「与える=愛する」という人生へと立ち上がったザアカイの姿を想い起しながら、今日の歩みへと送り出されているこの一週間です。

説教の中で私は、「主に用いられる喜び」について分かち合いました。

主によって、神の目に映る自分の値打ちに気付かされたザアカイです。「あなたは価高く、尊い」です。

でもそれで終わりじゃない。そこで止まっている人が多い。大事なのは、それからです。自分の値打ちに気づいたなら、それをイエス様に有効に用いていただくことが大切です。

なけなしの1万円札をぐちゃぐちゃにして、例えてお話ししましたが、ザアカイはまさにそういう存在でした。ゴミ屑のようになってしまっていた、でも、本当はゴミじゃない。値打ちある存在。

イエス様に出会って、1万円札としての本来の自分の値打ちを思い出させていただいたのがザアカイでした。

でも、1万円札は1万円札として飾っていても美しくありません。用いられてこそ、その本質が存分に輝きだすのです。

ザアカイは知りました。これから自分は、貧しい人を助けるために、神に用いていただけるのだ。

そのために自分のこれまでの人生があったのだ。今まで蓄えてきた財産にも意味があったのだ。ここに自分の役割があったのだ。

そこに気づいた時の喜び。命の充実。それは、他の何にも代えられない、創造に由来する人間本来の喜びなのです。神に「用いられる」ことこそ、魂にとって最高の喜びなのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日、あなたに与えられる新しい出会いの中で、あるいはいつもと変わらぬ日常にあって、私を豊かに用いてくださって、あなたの御心をこの地上になしてください。私の時間を用いてください。誰かを笑顔にするために。私の労働を用いてください。家族を養い、社会に貢献し、あなたの慈しみを広げていくために。医療に従事している方も、食事の給仕をする方も、レジに立つ方も、ご飯を作る母親たちも、おうちで勉強する子どもたちも、主よ、すべての者を豊かに用いてくださって、あなたのご栄光が表されますように。



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2020. 04. 29  
ザアカイの物語を振り返っていますが、先の主日には、聖書には書かれていない「その後のザアカイ」まで想像しました。

「自分のためではなく、他者のために与える」=「愛する」という新しい生き方へと、向きを変えられたザアカイです。

それは感動的な回心の物語でした。でも、きっとそこから先はイバラの道だったことでしょう。

あなたを助けたいと申し出たそのお宅で、「急に善人ぶりやがって。お前のせいで父ちゃんは死んだ。どうしてくれる!」と責められたこともあったかもしれない。

あるいは、善意を利用され、だまされ、裏切られて、悔しくて泣いたこともたくさんあったかもしれない。

愛したいと願っても、人はこちらが思う様には愛させてはくれません。

愛がうまく届かない苦悩・・。それが、私たちの現実です。

「受けるより、与えるほうが幸いである(使徒言行録20:35)」とのイエス様の教えを、今の私たちの状況の中でどう受け止めるか・・・、それぞれの今日の物語があると思います。

感染防止のための連帯としての自粛のはずが、今や、オープンしているお店に「自粛しろ」との張り紙がされるような、恐るべき監視社会になってきています。かつての戦争の時と同じです。

色んな分析ができましょうが、根本のところで、キリストの愛の教えを全然知らない世界なのです。

そういう現実に生きる私たちは、「その後のザアカイ」と同じく、愛することの挫折を、今日味わうかもしれない。

でも同時に、これまで知らなかったような、愛することの喜びを、与えられるかもしれません。


共に祈りましょう。

主よ、愛の主よ、私たちのうちには欠けて歪んでしまった愛しかありません。みんな自分のことで精いっぱいで、互いに「自分のことしか考えていない!」と責め合っています。主よ、あなたはどんな思いで、見ておられるのでしょう・・。今日、わたしのうちに、自分を見つめ直す冷たさと、他者を見つめるあたたかさを、与えてください。

2020. 04. 28  
今週もまた重苦しい空気の中、生きていかねばならない私たちです。世間がどうにもギスギスしはじめてきました。

でも、深い呼吸と共に祈る時間を大切に、この体全体に聖霊の息吹を取り込ませていただいて、ほがらかに、信仰と希望と愛の道を踏み外さずに歩みたいなあと切に願います。

先の主日、ザアカイの物語の後半を分かち合いました。彼が生き方の根本的な方向転換を与えられ、まさしく信仰と希望と愛の道を歩み始めたことが証しされていました。

面白いのは、その時イエス様は、ザアカイに何も言っていないということです。

しばしば説教の最後で、「私たちは・・するべきです、・・せねばなりません」という風に、倫理的な適用がなされます。

私は絶対的にそれを避けています。これから坂井孝宏という牧師の説教を、注意深く聞いていてください。そういう言葉遣いはほぼしていないはずです。

とはいえ、説教において新しい生き方への促しがなされていないわけではありません。

むしろ、他の牧師以上に明確に、そういう方向性をもって、自分自身が聖書を受け取り、取り次いでいます。

ある「圧力」を感じることがあるかもしれません。

だれより説教者である私自身が、毎週、御言葉から「圧力」を感じながら、時には本当にはげしく悔い改めを覚えて、おそれをもって取り次いでいます。

それは、「愛と恵みの圧力」だと私は思います。

私たちの人生に決して無関心ではいられない三位一体の神の愛と恵みが、「新しい心と新しい霊をもって生きてほしいのだ(エゼキエル18:31)」と、私に圧倒的に迫ってくるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あの日ザアカイが自ら立ち上がらずにはおれなかった、あなたの愛と恵みに対する圧倒的な感動を想い起しています。今日も私たち一人一人に、生きておられる主イエスとの命の交流が豊かに与えられ、その体全体に、血管をいき巡るようにして、みずみずしい霊の命が、新しい命が、指先まで届きますように。

2020. 04. 24  
昨日は一日中、オンラインでの大会常任書記団会議でくたびれました。ウィルス禍の様々な困難への非常的対応のために、時間を要しています。

明日もまた同様の大きな会議がありますから、お祈りいただけましたらありがたいです。特に、次主日の礼拝説教準備が祝福されますようにと、牧師を祈りで支えてください。

すでに原稿は準備できていますが、次主日もまたルカ19章のザアカイの物語を分かち合います。

特に後半、悔い改めて立ち上がったザアカイが、他者に施す=与えるという新しい生き方を始めた、その後の歩みを覚えたいと思います。

これまで他者から奪ってきた人が、与える人になった。これは、愛の革命とさえ言える方向転換です。

イエス様は、このザアカイの変化をご覧になって「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃいました。

それは、彼が自らの悔い改めによって「救い」に到達したということではありません。

反対です。神からの「救い」が訪れたことによって、彼のうちに悔い改めが生じたのです。

むしろ覚えるべきは、「救われる」ということには、こういう生き方の根本的変化を与えられるということが含まれる、そこまで主は必ず導かれる、ということです。

イエス・キリストは、そういう「救い」を携えて、私たちの家に訪れてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに「救い」の喜びをいよいよ豊かに与えてください。この状況にあって、自分の内に閉じこもってしまいがちな私たちですが、あなたが教えてくれた「他者を愛する喜び」を、忘れないようにしていてください。恐れと不安の中で、余裕を失い、人間の距離感がギスギスしていくかもしれません。でも、私たちの心に、さわやかな聖霊の風を吹かせてくださって、キリストの愛の香りをまとわせてください。
2020. 04. 23  
イエス様を見たいと捜したザアカイの必死さを確認しました。でもそれ以上に必死だったのは、イエス様です。

「失われたものを捜して救うため」に来られたというイエス様です。

まるで、捨てられてしまった宝物を捜すように、ゴミ箱をひっくりかえして生ごみや汚物をかきわけながら、形相を変えている人を想像します。

周囲の人たちは、「何をやっているんだ、あの人は?」といぶかり、疑い、幻滅したことでしょう。

ゴミのような人間と付き合って何をやっているんだ。立派な人だと思っていたのに・・・、それが周囲の反応でした。

でもイエス様は、全然違うことを考えておられたのです。違う、ゴミではない。彼は断じてゴミではない。

そうして必死で捜して、ようやく見つけた宝物。それがザアカイでした。だから、見つけた瞬間に!!、「ザアカイ、そこにいたのか」と呼び掛けます。

「急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

ぜひあなたの家に泊まりたい・・・、これは、あなたの家に泊まることに決めている、そのために私は来たんだという言葉です。

あなたの家に泊まる。あなたの心にとどまり、救いをもたらす。そのために、はるかな道を旅してこられたのです。

天におられた永遠の神の子が、地上に来てくださり、地べたを這いまわるようにして、捜して捜して捜して・・・。

私たちは誰もがそのようにして、イエス様に必死で捜していただいて、救っていただくのです。


共に祈りましょう。

主よ、もしもあなたが見つけてくださらなければ、私はどんな人間になっていたでしょうか。罪に支配されている自分に無自覚なまま、嘘と濁りにまみれて、つかの間の快楽だけを楽しみにして生きていたのかもしれません。あなたが捜してくださったから、私は、自分の存在の目的を知りました。今この時にも、信仰と希望と愛をもって生きることを知りました。主よ、ありがとうございます。あなたにいただいた今日の命を、喜び生きられますように。
2020. 04. 22  
先の主日に分かち合ったザアカイの回心の物語(ルカ19:1-10)。私たちは「必死さ」ということをキーワードにして読み解こうとしました。

イエス様を見たいと望んだザアカイの「必死さ」。そして、ザアカイを救おうとしたイエス様の「必死さ」です。

鍵になる語は「捜す(ゼーテオー)」です。

最後の言葉でイエス様が言われます。10節「人の子は、失われたものを“捜して”救うために来たのである。」

これと同じ言葉が、ザアカイの行動にも用いられます。3節「イエスがどんな人か見ようとしたが・・・」

隠れているので分かりにくいですが、実はこれは、「見ようと“捜した”が・・・」という言葉です。

ザアカイはイエス様を“捜した”のです。そして、通り過ぎようとするイエス様を何としても見たいと、いちじく桑の大木(※イチジクではない)に、短い手足で必死によじのぼったのです。

この必死さというのは、彼が何か満ち足りない思いをもっていたことの裏返しです。

私の人生は、このままでいいとは思えない、私はこのような私になりたかったわけではないという思いです。

何かが足りない。

でも、その何かが分からない。それでも、その何かを求めずにはいられない・・・。今、まさにその渦中にある方も、いらっしゃるかもしれません。

そんなわけで、ザアカイは必死になってイエス様を見たいと捜したのでした。でも、それ以上に必死だったのが、イエス様なのです。


共に祈りましょう。

十字架で死んでくださったほどの、主イエス・キリストの必死の愛を覚えています。その愛に追いかけられて、今日も生きる私たちは幸いです。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う・・・(詩編23:6)」。主よ、迷い、惑い、移ろいやすい私たちの魂を、どうかいつも捜して、あなたのもとにつなぎとめていてください。私と、私の愛する方々の今日一日を、どうぞ大きな腕で抱きとめてください。

2020. 04. 21  
早いもので、茅ケ崎に引っ越して一か月になろうとしています。

ご存じの通りのウィルス禍の状況で、思いもよらないスロースタートとなりました。

皆さんと集まって礼拝することもできず、祈祷会や読書会などもまだ開かれていません。

でも、その分だけ、祈りに集中する時間がゆっくり確保できています。

会堂のひとつひとつの椅子に手を置きながら、会員お一人お一人や子どもたち、その未信のご家族などを思い、みながここに集まる日を願いつつ、一日の平安を祈ります。

一度お見掛けしただけの方や、まだお会いしたことのない方もいますが、お一人お一人の名を想い起して祈ります。

会堂の座席は64席ありますが、そうやって一人一人の名を覚えていくと、ちょうど会堂一杯くらいになります。

名を覚え、名を愛する。それは、その人の存在そのものを、人生のすべてを慈しむことです。

先の主日、「あなたの名を呼ぶイエス」との視点から、ルカ19章のザアカイの物語を学びました。

イエス様は、「正しい人」という意味を持つ、ザアカイの名前を覚え、名を愛し、名を呼んでくださいました。

ここにお前の本当の姿がある。お前は神からあふれる期待を受けて生まれてきた、神の民、神の家族の一員なのだ。

私はお前を知っている。お前の名の輝きを知っている・・・そんなイエス様の思いが込められているようです。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1)」

神は、この世界が創造される前から、わたしを知り、わたしに名を与え、命を育み、この人生を愛してくださっているのです。


共に祈りましょう。

主よ、私だけに与えられたたった一つの名前・・、私だけに与えられたたった一つの人生・・。主よ、昨日までの道を共に歩んでくださってありがとうございます。今日も、あなたが共にいてくださる。だから、火の中も恐れずに歩みます。今は、だれもが命の危険にさらされている時です。いつもと同じように明日が来るのは、特別な恵みであったと知りました。主よ、私のこの今日の日をあなたにおゆだねします。私の人生を、私以上に愛してくださる、あなたに・・。
2020. 04. 17  
「日々の祈り」を共に積み重ねてきたこの一週間です。

この祈りの日々が、御言葉の恵みをあますところなく受け取るための、私たちの霊的感受性を高めてくれます。

次の主日のための備えをしましょう。ルカ19:1-10のザアカイの物語を分かち合います。

皆様ご存じのように、ザアカイは背が低かったと言われます。

しかし考えてみると、聖書においては登場人物の身体的特徴が言われることは稀です。(サウロが背が高かった、とか)

「背が低かった」とわざわざ書かれるのは、よっぽどのことです。

もしかしたら、小人症のようなハンディを抱え、幼い日から劣等感をもって生きてきた人かもしれない・・・そういう解釈に出会って、私はハッとさせられました。

その劣等感のゆえに、成り上りたい、力を握りたいという思いが、人一倍強かった人かもしれない。

劣等感は、生きるエネルギーになりえます。ただ、そのエネルギーが、よい形で使われればいいのですが・・・。私たち自身はどうでしょうか?

そういう小さなザアカイが、町を訪れたイエス様に会ってみたいと、必死に木に登ったというのです。

この物語を読み解く鍵は、「必死さ」です。

ハンディを抱えていたかもしれないザアカイが、大木にしがみつく、その光景の必死さを想像してみてください。

・・・どうして、彼はそんなに必死だったのでしょうね?

日曜日までゆっくり考えてみてください。私たち自身の心が、響き合い始めるまで。


共に祈りましょう。

主よ、ザアカイは何を求めていたのでしょうか。生活は裕福であったはずなのに、でも彼は、何を求めたのでしょうか。私たちは、何を求めているのでしょうか。今日の日をはじめるにあたり、私は何を求めればいいのでしょうか・・・。それさえも分からないような、霊的な貧しさを覚えています。主よ、憐れんでください。聖霊の導きを与えてください。今日も、恐れと不安にのみこまれてしまわないように。

2020. 04. 16  
この配信を新しく受け取るようになられた方が伝えてくださいました。

「主日の礼拝説教を喜んで聞いても、二日もすれば忘れてしまいます。だから、こうして確認・復習ができてありがたいです。」

私自身も、自分で語っていながらすぐに忘れてしまうものです。本当に、忘れてしまうのは悩ましいことですね。

でも、主日の御言葉は、今週の私たちのために神がオーダーメードしてくださった、特別な命です。

だから、魂に刻み込むようにして、生活の中で日々思い出し、味わい尽くしたい。そのための、この配信です。

私の研究課題でもあるのですが、礼拝説教の良し悪しというのは、9割がたは聞き手次第です。

皆さんには、御言葉の命をあますところなく受け取ることができる、プロの聴き手になっていただきたいと願っています。

私は、あますところなく伝えることができる、プロの語り手であるべく努力と修練を重ねます。

だから、説教者のためにいつも祈ってください。

皆さんの祈りを、私は必要としています。準備を祈りで支えてください。私も、皆さんのために祈り続けています。


改めて、今週の私たちに与えられた御言葉を、みんなで短く確認しましょう。

ヨハネ20:23「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

この御言葉は、こういう風に読みましょうとお伝えしました。「この世は罪の世だ、ダメな世界だ、絶望しかないと決め込むなら、あきらめるなら、この世は罪にとどまったままになってしまう。」

今、終末的な絶望感さえ漂う私たちの世界です。罪人の積み重ねてきた歴史の挫折といっていいでしょう。

でも、この試練が、世界や教会を悔い改めさせ、新しくするのかもしれません。

だから私たちは、復活の主イエスを信じ、すべてを刷新してくださる聖霊の風が、それぞれの大切な人たちがいる場所に吹き渡るのを祈り求めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も聖霊の導きによって、私たちが御言葉の命にとどまることができますように。いや、私たちの生活の中で、いよいよ豊かに御言葉が思い出され、励ましと慰めをいただいて、霊の喜びが増し加えられますように。今日私たちが遣わされていく、すべての場所に、聖霊の風を吹き渡らせてください。そして、私と私の周りの人たちに、今まで知らなかったような喜びの世界を見させてください。


2020. 04. 15  
あの日、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちと同じように、それぞれの自宅に閉じこもって礼拝を守った私たちでした。

今、恐れと不安がまったくないという人はいないと思います。

どうしても沸き起こってくるものを、無理に抑え込む必要はありません。素直に「怖いです、不安です」と言えばいい。

でも、私たちはクリスチャンです。復活の主を信じる、希望の人です。

怖くて不安でも、私たちは、生きておられる主に希望を置きます。

たとえこの命が失われようとも、地上の命よりもはるかに大きな永遠の命の喜びが、いつも私たちの歩みを照らしてくれます。

あの日、主は弟子たちを訪れてくださったように、私たち一人一人の自宅を訪れて、「シャローム、平安あれ」と、命を吹き込んでくださいました。

礼拝の最後に、私は皆さんのために祈りをもって、このように祝福を宣言しました。

「安心して行きなさい。強く雄々しくありなさい。恐れることはない。私たちの神である主が、いつも共におられます。」

私の口を通して、主イエスが「シャローム、安心して行きなさい」と言ってくださった・・・。私は強くそう感じました。

祝福の宣言は、派遣の宣言でもあります。

主は、私たちそれぞれの自宅に訪れてくださって、その場において、私たちを派遣してくださったのです。

「聖霊を受けなさい。わたしはあなたがたを遣わす。今、あなたの家族や友人たちの間にあって、あなたの職場にあって、地域社会にあって、イエス・キリストの命に結ばれた希望の人として、愛の人として、いつでも光を見失わないで歩みなさい」と、派遣してくださいました。


共に祈りましょう。

主よ、今、私たちの周囲にも、感染に苦しむ方、その対応のために疲れ果てている方、生活に困窮を覚えている方がいるかもしれません。感染のリスクを負いながら、今日も店頭に立ってレジを打つ方や、電車に乗って通勤する方々のことも憐れんでください。学校が始まらない子どもたちの心に、ほがらかさを与えてください。主よ、私たちは弱いです。でも、あなたを信じることができる、それが私の喜びです。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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