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2020. 05. 30  
土曜日は「あさのことば」の原稿書きにお付き合いください。

詩編に導かれて祈る。今日は詩編36篇です。

「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。(詩編36:8-10)」

では、ご一緒にお祈りしましょう。

神様、私たちのこの地上世界は、まことに悪に満ちているということを感じさせられています。

私たち一人一人の心の奥にささやきかけてくる、恐るべき悪の声にコントロールされて、悪魔のようになってしまっている人がたくさんいます。

ひどい言葉で誹謗中傷して、誰かを傷つけることを喜びとしている人がいます。

為政者たちは平気で嘘をつき、真実から目を遠ざけて、くだらないプライドを守ろうとします。

みんな、自分が正しいと思っているのでしょうか。そこには、あなたへの恐れなど少しも感じられません。

それぞれが、自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできないのです。

神様、そんな人間の世界に生きていると、心がよどんでしまいそうです。

私もまた悪のささやきに負けそうな罪人です。主よ、あなたを見上げます。

この心の苛立ちを、魂の渇きを、あなたのもとで癒してください。命の泉はあなたにあります。

主よ、あなたのもとに光があります。

この世界には闇しかありませんが、あなたの光に、私たちは光を見るのです。
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2020. 05. 29  
次の主日は、ペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステは、教会の世界宣教のスタート地点とも言えます。

ちょうどローマ1:14-15が、それにふさわしい御言葉ですので、「すべての人に福音を」との題で分かち合います。

並行して読む旧約聖書のヨナ書4章の御言葉については、まったく触れることができませんので、ここで少しだけ。

ヨナという預言者はアッシリア帝国の首都ニネベに行って、人々に悔い改めを迫れと神様から命令を受けるのですが、嫌だと言って逃げようとするのですね。

それは、ニネベの都が悔い改めて滅びを免れるようになるのを、彼が望まないからです。そうなってほしくないのです。

アッシリアというのは残虐な帝国で、イスラエルも苦しめられてきました。そんな悪い連中が、悔い改めることで神の裁きを免れるなんて赦せない。

だから嫌だ、やりたくないと逃げる。でも結局ニネベに行かされて、町中を歩き回って悔い改めを迫ると、みんな掌返して悔い改めると言い出しまして、滅びを免れる。

それでヨナはむくれてしまう。だから嫌だって言ったじゃないですか。神様はそうやって赦してしまうって分かっていたんだと文句を言う。

でも神は、「まあそう言うな」と、お前にとってトウゴマの木が惜しいように、私にとってニネベの都が惜しいのだと、ヨナを諭されます。それが4章です。

現代のニネベ、それは東京であり北京でありニューヨークかもしれません。そこには、「右も左もわきまえない」何千万もの罪深い魂がうごめいている。

でも、みんな救われるべき人です。神はその独り子をお与えになるほどに、罪深いニネベを愛されました。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。

そのために、独り子を与えてくださった。送ってくださった。それが、神ご自身の「世界宣教」の熱情の根源です。

キリストの教会は、その熱情に押し出されて、世界のすみずみにまで福音を伝えるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今、ウィルス感染の問題ゆえに、人との出会いが制限されてしまったこの時代、福音の宣教の難しさを覚えています。でも、この時代ゆえに、人々は自分たちが抱えていた根源的なあやまちに気づき始めていることも感じています。あなたが定めておられる、悔い改めの時であるのかもしれません。どうぞ主よ、貧しい器を用いてくださって、あなたの世界宣教を進めてください。
2020. 05. 28  
先の主日には、ローマ1:8-12を分かち合い、信仰者相互の交流による励まし・慰めということを特に考えさせられました。

説教を聞きながら、ご自分にとってのなつかしい方々の姿が、次から次へと思い出されて涙がこみあげてきましたと、お伝えくださった方もいました。

私たちそれぞれに、信仰の道をいっしょに歩んでくれた、友がいて、恩師がいて、家族がいるのだと思います。

わたしたちの信仰は、尊敬すべき他の信仰者との出会いを通して始まりを与えられ、またその人格的感化によって成長します。

内に聖霊を宿すわたしたちそれぞれの人格が、神によって用いられて、だれかの救いのための導きの光となるのです。

キリスト教信仰とは、そういう人格的な信仰です。それは人間的というのではなく、人格的なのです。

人となって私たちのところに来てくださった神の子との「人格的出会い」によって生まれたキリストの教会は、こういうことをもっと大切にしないといけないのです。

聖書をひとりで読んで、信仰に導かれ、孤独な信仰生活を送っておられるという方もいるかもしれません。

でも、そういう方に聖書を作って届けたのはまぎれもなく、これを手に取る人の救いを真剣に祈り求めた具体的な信仰者たちなのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの大いなる救いの歴史の中で、いったいどれほどの信仰者たちが生きて、そして死んでいったことか。その先人たちの受け継いできてくれた命のバトンが、今日、私の手の中にあります。これを手渡すべき人との出会いを、今日、与えてください。主よ、キリストにつながるすべての兄弟姉妹に祝福がありますように。彼らを通して、救いの喜びが広がりますように。
2020. 05. 27  
先の主日はローマ1:8-12を分かち合いました。

礼拝説教の録画は、こちらから確認することができます。2020年5月24日湘南恩寵教会主日礼拝「励まし合おうよ」ローマ1:8-15①


特に興味深かったのは、11-12節の言葉の流れです。

「あなたがたに、私の霊の賜物を分け与えて(=福音の説教をして差し上げて)、あなたがたを力づけたいのだ」と、ちょっと力んでパウロが言います。

でも、そのすぐ後で、「いや、そうじゃないな・・、むしろ」と言い直します。

「むしろ、あなたがたと互いに励まし合いたいのだ」と。

あなたがたに会いたいのは、「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。(ローマ1:12)」

パウロという人は、その伝道者としての生涯において、常に苦難にさらされ、恐れと不安、そして孤独な日々でした。

そういう彼にとって、同じ信仰を持っている仲間と、語り合い、肩を抱き合い、ひざ突き合わせて祈り合う・・そういう具体的な時間が、何よりのいやしと励ましだったのでしょう。

私たちはそれぞれ、日本という極めて特殊な霊的状況にある国で、不思議な仕方でキリスト信仰をいただいた、奇跡のような存在です。

そういう者たち同士、それぞれの持っている信仰によって、互いに励まし合って、今日も歩みたいですね。

自分という存在が、自分のこのちっぽけな信仰が、そのようにして、誰かの励ましのために用いていただけるのだということも意識して。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが与えてくださった信仰の仲間たちに感謝します。遠く離れていても、同じ空の下で、主を見上げて歩む私たちです。それぞれの道は違いますが、不安なことはたくさんありますが、祈って、励まし合って、主よ、あなたについていきたいと願います。主よ、あなたがその私たちと、共にいてくださることを、今日も強く確信しています。愛する兄弟姉妹をお守りください。そして、この祈りの交わりへと、まだ見ぬ神の民をお招きください。
2020. 05. 26  
先の主日はローマ1:8-15から分かち合いました。

礼拝説教の録画は、こちらから確認することができます。2020年5月24日湘南恩寵教会主日礼拝「励まし合おうよ」ローマ1:8-15①

「あなたがたのところにぜひ行きたい」と強く願いながらも、「しかし、今は行けない」という事情の中で、「いつかは、なんとしても、どうにかして・・」と言葉を重ねるパウロの様子が印象的でした。

どうして「今は行けない」のか。それは、エルサレムへの旅の必要があったからです。

このローマ書という手紙が生まれた当時のパウロの状況は、ローマ15:22-33に詳しいので、確認してみてください。

帝国の首都ローマを宣教の拠点として、そこからさらに西方イスパニアにまで行こうとする、パウロの大きなヴィジョンも語られています。

しかしその前に、貧しい人々を援助するために、ギリシャの教会からの募金をエルサレムの教会に届けに行かねばならないと書かれています。

その旅は、決して簡単なものではありませんでした。パウロは、死さえも覚悟していました(使徒言行録21:13)。

裏切り者である自分が、ユダヤの人々から命を狙われていると、パウロはよく知っていました。

だから、「わたしのために祈ってください」と呼びかけています。

「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・・・(ローマ15:31)。

昔、熊本にいた頃、いろんなことで行き詰っていた私に、先輩牧師が教えてくれました。

「パウロだって、自分のために祈ってくださいとお願いしている。教会の皆さんに、そうやってお願いしてごらん。教会というのは、そういうところから始まっていくんだよ。」

今日も、わたしのために祈ってください。わたしと共に祈ってください。


愛する主よ、互いに祈り合うことができる兄弟姉妹を与えてくださって、本当にありがとうございます。この地上にある限り、私たちには試練があり、霊の戦いがありますから、どうか愛する兄弟姉妹のおひとりおひとりを、あなたにある恵みと平和で満たしてください。これまでに出会ったすべての祈りの友のために祈ります。牧師を持たない群れもいます。どうか主よ、平和の源であるあなたが、おひとりおひとりと共にいてくださいますように。






2020. 05. 23  
土曜日は「あさのことば」の原稿書きにお付き合いいただいてます。

詩編に導かれて祈る。今日は詩編35篇です。

「主よ、あなたはご覧になっています。沈黙なさらないでください。わたしの主よ、遠く離れないでください。わたしの神、わたしの主よ、目を覚まし、起き上がり、わたしのために裁きに臨み、わたしに代わって争ってください。(詩編35:22-23)」

この詩編は、無実の罪に苦しむ人の嘆きです。とても特殊な状況ですが、それぞれに心重なることもあるかもしれません。

では、ご一緒にお祈りしましょう。

主よ、私は疲れてしまいました。人間が信じられなくなりました。

私には何の理由も見当たらないのに、憎まれ、あざけられ、無実の罪を訴えられて、私は追い詰められています。

偽りの証人が次々とあらわれて、私の知らないことばかりを問いつめてきます。

彼らは、私の善意に悪意をもってこたえて、私の魂を孤独にします。

彼らの病の時には、私は必死でとりなしの祈りをしたのに。彼らの友として、兄弟として、ずっと気にかけていたのに。我がことのように苦しんで、ふさぎ込んでうなだれたのに・・・。

主よ、「善をもって悪に打ち勝て」とあなたは教えてくださいました。その言葉に、なおもとどまりたいのです。

だから主よ、どうか立ち上がって助けてください。私と戦う者と戦ってください。

どうか、私の魂に言ってください、「お前を救おう」と。

どうかあなたの正しさを、私ではなく、主よ、あなたの正しさを、私たちにお示しください。

2020. 05. 22  
次主日は、ローマ1:8-15に進みます。挨拶が終わって、手紙の本題に入っていくところです。

説教では触れませんが、ギリシア語原文の順番ですと、その最初は「わたしの神に感謝します」と始まります。

言葉をつむごうとする時に、いつでも、まず何よりも、神への感謝から始まる。そんな信仰者にあこがれます。

パウロは、「イエス・キリストを通して」感謝します、と言います。

イエス・キリストを通して示された神は、もはや恐るべき怒りの神ではなく、独り子を与えてくださった無限の愛の神です。

キリストを通してこそ、祈りは聞かれ、感謝も神へと届きます。わたしたちのささげる貧しい感謝を、主イエスが運び届けてくださるのです。

イエス・キリストのあがないを通して、私たちは図々しいほどに親しく、神様に近づくこともゆるされます。

パウロのように、「わたしの神」と呼ぶこともできます。

しばしば申し上げますが、わたしたちは誰も、「自分が一番神に愛されている」と考えることさえ許されています。

大いなる創造者、全人類の導き手である方を、「わたしの神」と呼びまつる・・・、この大胆さ。そこには、神の愛への深くパーソナルな信頼があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もイエス・キリストを通して、あなたを恋い慕い、あなたに感謝をささげます。今日も、あなたと共に生きる信仰を与えてくださってありがとうございます。私たちに与えられた信仰を、大切にします。いよいよ豊かに信仰の成長を与えてください。そして、このまずしい心に、いつも感謝の思いを与えてくださって、広くほがらかに導いてください。
2020. 05. 21  
夢中で説教準備をしていましたら、時間が経ってしまっていました。今週もすばらしい御言葉体験ができました。皆さんのお祈りに感謝します。

今日は短く分かち合いましょう。

「信仰、神様を信じる」とは、「従順、神様に従う」ということと切り離せないと、今週確認してきました。

逆に言うと、「従う」ことができるのは、信じているからです。

主は決して悪いようにはなさらない。主が示される道を進めば、必ずそこに私の命が輝きだすと、信じている。

どんな道であっても、たとえ死の陰の谷を行く時も、主が共に歩んでいてくださる。

だから、私もこの方と一緒に行きたい。生きたい。・・・「従う」って、そういうことに他なりません。

いつも覚えていたいのは、ヨハネ3:16や、ローマ8:32です。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」

ローマ書の連続講解も、いつもこの御言葉をベースにしながら進めていきたいと意識しています。

この神への信頼。神の愛への信頼。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたを信じます。あなたの愛を信じ、あなたが示してくださる道を行きたいと願います。私たちと共に歩んでください。あなたと共に歩ませてください。今日もあなたを愛し、自分を大切に、隣人を大切にすることができますように。様々に判断に迷う時には、御言葉と聖霊の導きによって、あなたが喜んでくださる選択をすることができるように導いてください。
2020. 05. 20  
先の主日の説教はこちらです。 
湘南恩寵教会2020年5月17日主日礼拝説教「信仰、すなわち従順」



「信仰」と「従順(神様に従う)」というのは一体的なものだと、確認しました。

こんな声をいただきました。「神様を信じる信仰によって生きる者として頂きましたが、神様に従って歩むとはどういうことか、本当に良くわかりません。」

本当にそうですね。私も同じです。分かったなどと傲慢なことは決して言えない。

でも、旅人がどんな時も北極星を見て方向を確認できるように、大体の方向だけはいつも示されています。

従うべき道、神の御心は、聖書に求めるよりありません。でも、聖書には難解な預言などもあり、これはどう解釈するのかとあれこれ気になってしまって、肝心のところがつかめないままということもありますね。

大事なのは、できるだけシンプルに考えることだと思います。

たとえばウエストミンスター信条では、私たちの「服従の基準」として、「十戒」を大事にしなさいと言われます。

そして、その「十戒」をさらに煮詰めると、あのイエス様の教えにもあったように、「神を愛することと、隣人を自分のように愛すること」のふたつに絞られます(マタイ22:34-40)。

このシンプルな教えこそがいつでも神の御心なんだと確認できたら、今度は、聖書というものを読む時に、どこを読む時にも、つまるところはこのふたつの「愛」が教えられているんだという思いをもって、読んでみてください。

聖書は、そういう風に読まれたがっているのです。

もちろん、私たちが愛する前に、神が私たちを愛してくださった・・・そのことも、聖書を読む時の大前提です。どこを読んでも、そのことを思い出して、そこから離れないでいてください。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを愛し、隣人を自分のように愛すること・・、そうは聞いても、ではそれはどういうことかと、また悩んでしまうような私たちですけど、どうか憐れんでくださって、だんだんとあなたの御心を分からせてください。今日の日に、私が何をなすべきなのか、いつも聖書と聖霊の導きによって教えてください。私の心が、あなたの御心に沿って変えられていきますように。


2020. 05. 19  
先の主日は、ローマ1:5から特に「信仰による従順」ということに注目して分かち合いました。

説教録画はこちらです。 湘南恩寵教会2020年5月17日主日礼拝説教「信仰、すなわち従順」

異邦人を「信仰による従順」へと導くのが、パウロに与えられた務め・役割であると、パウロは言います。

単に「信仰に導く」というのではなく、「信仰による従順に導く」と言われているのがミソですね。

説教では触れませんでしたが、実はこれはローマ書の最後16:26にも出てくる、ローマ書のキーワードのひとつです。

「秘められた救いの計画は、今や福音によって明らかにされて、永遠の神の命令のままに、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。(16:26)」とあります。

「信仰」と「従順(従う)」ということはセットであって、切り離せない、ほとんどイコールと言えるということも分かち合いました。

そのことも、ローマ書全体の大きな枠組みになっています。

最初の挨拶の1:8に、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」と言います。

それと対応するように、最後の挨拶の16:19では、「あなたがたの従順は皆に知られています」と言います。

「信仰」と「従順」が、ほぼ同じ意味で使われていることは明らかでしょう。

ローマのクリスチャンたちは、「信仰」すなわち「従順」において、世界中に知られている存在だったのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを信じて生きるというのは、どういうことであるのか、今日の日に、また新しく教えてください。あなたに従うとはどういうことか・・・。従っているつもりでいながら、あなたの教えに聞こうともしていない私に気づかされます。聖書を開こうともしていませんでした。聞き流すことばかりを覚えてしまいました。主よ、あなたを信じて生きるということの、本当のすごみを教えてください。


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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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